Chapter 1 - ボンド
閉じたまぶたの奥の世界は、いつもより静まり返っていた。色も音もなく、ただ果てしない海のように広がる広大な虚空があった。地獄と呼ぶには静かすぎるが、故郷と呼ぶには冷たすぎる。これが夢なのか、記憶なのか、それとも現実からの逃避なのか、彼には分からなかった。ただ一つ分かっていたのは、自分が一人ぼっちだということだけ。そして、その瞬間、どういうわけか、それで十分だと感じた。
しかし、静寂は長くは続かなかった。明るく軽やかな声が、長い夜を終えた最初の陽光のように、幾重にも重なる静寂を突き破った。
「ねえ、いつまで目を閉じているの?」
その声はあまりにもリアルで、想像とは思えないほど温かかった。頬を軽くつねった。優しく、それでいて不安を掻き立てるような感触だった。ゆっくりとまぶたが開き、見慣れた世界が再び彼を迎えた。
午後の空は、花畑を優しく覆い尽くす黄金色のオレンジ色に染まっていた。薄緑の草が風にそよそよと揺れ、ガーベラの花びらはまるで生きた絵画のように陽光を反射していた。空気は太陽の光を浴びた葉の甘い香りで満たされ、その美しい景色の中、茂はまるで別世界から戻ってきたかのように木のベンチに腰掛けていた。目の前には、いつも彼の心の曇りを晴らしてくれるような明るい笑顔の少女が立っていた。そのため、茂は思わず「いつから目の色が変わったの?」と呟いた。まだ焦点が定まっていない瞳で。
少女、レヴィアは困惑した表情で首を傾げ、ゆっくりと瞬きをしながら答えた。「私の目?どうしたの?」
茂は小さく息を吸い込み、軽く頭を下げた。おそらく空想に耽りすぎていたのだろう、少し微笑んだ。「ああ、気のせいか…ははは。」
レヴィアは何かを体に隠したまま、少し身を乗り出し、挑発的な口調で言った。「何を持ってきたかな、当ててみてよ?」
茂は眉を上げて真剣に考えるふりをし、からかうような口調で答えた。「何だい…まさかまたカエルを見つけたんじゃないだろうな?」
「あら、違うわ!」レヴィアは笑いながら叫び、手を高く掲げて鮮やかな色の花を見せた。「見て、この花!」
茂は数秒間その花を見つめた後、眉をひそめた。「あれ…ガーベラ?」
「そうね~!」レヴィアは誇らしげな笑みを浮かべ、そのまま茂の手に花を差し出した。「これはあなたへのプレゼントよ。」
茂は両手で花を受け取り、まるで壊れ物を持つかのように指先で茎に触れた。しばらく見つめた後、小さく呟いた。「ありがとう…とても美しい。」
いつの間にか、時間はゆっくりと流れていた。二人は公園のベンチに並んで座り、午後の空気に乗せられ、世間話や軽やかな笑い声が、ゆっくりと移り変わる空へと運ばれていくのを感じていた。重い話も、大きな秘密もなく、ただ二人の若者が、花の影と穏やかな午後の光の中で、自分たちの小さな世界を共有しているだけだった。
数分後、レヴィアは空を見上げた。その目は雲の隙間から何かを探しているようだった。彼女は片手をゆっくりと、しかし自信に満ちた動きで空へと伸ばし、静かに言った。「ねえ、ねえ、いつか守護者になりたいの。恋路の脅威から人々を守ってくれる人」
茂は驚いた表情で振り返った。こんな状況でこんな言葉が出てくるとは思わなかった。冗談めかした、しかし誠実な口調で、彼女は言った。「守護者?それって、世界の奴隷になるってことじゃない?運命に抗えない悲劇の人物みたいに?」
レヴィアは小さく鼻を鳴らし、それからシゲルの額を軽く叩いた。「そんな風にしちゃだめよ、バカ」
彼女は立ち上がり、風になびく長い髪を耳の後ろにかき上げ、今度はずっと真剣な声で続けた。「守るということは、服従することじゃない。すべては私たちの行動次第。決まったことは受け入れなければならないけれど…でも、戦う権利も、変える権利もある」
彼女は少し間を置いて、自分の言葉がシゲルの心に深く刻み込まれているかを確認するかのように、彼を深く見つめた。「そして約束するわ…あなたが、私が最初に守る人よ。どんなことがあっても」
シゲルは答えなかった。彼の目はゆっくりと見開かれた。驚いたからではなく、彼の心の奥底から何かが突然生き返ったように感じたからだった。まるで長い間埋もれていた声が、魂の奥底から静かに呼びかけているような、奇妙な感覚。それが何を意味するのかは分からなかったが、胸が温かくなり、そして一瞬後、冷たくなった。
レヴィアは息を吸い込み、灰色の雲に覆われ始めた空を見上げた。「なんでそんなに静かにしてるの? 帰ろう。空が曇ってきたわ」
滋は気づいたように慌てて立ち上がった。しかし振り返ると、レヴィアが驚いた顔で滋を見ていた。
「え? 泣いてるの…?」
滋は何度か瞬きをした。顔に手を当て、指先の湿り気を感じて、小さく呟くことしかできなかった。
「え? わたし…?」
「あはははは、いや、泣いてないよ」
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枯れ葉が敷き詰められた小道を二人は歩き、時折小石を蹴ったり、靴の先で地面を掘ったりしながら、自然の音を小さな足取りのバックグラウンドに感じていた。左右には、古びた木の柵と、まるで老番兵のようにそびえ立つ小木々が、家路を温かい影で包み込んでいた。レヴィアは茂の半歩先を歩き、時折、隠し切れないほどの笑みを浮かべながら振り返っていた。茂が今しがた泣いたことでまだ恥ずかしいのだと分かっていた彼女は、その恥ずかしさを一瞬一瞬楽しんでいた。
茂は少女をちらりと見た。顔は少し赤くなっていたが、口元はまだ冷たく、疑わしげな表情を浮かべていた。涼しい午後の空気も、彼の恥ずかしさを和らげるには十分ではなかった。
「おい」茂は両手をズボンのポケットに突っ込みながら言った。声は低く、皮肉がはっきりと伝わってきた。「僕が泣いたこと、お母さんに内緒にするよな?」
レヴィアはすぐには答えなかった。後ろ向きに歩きながら振り返った。髪は風になびき、瞳は勝利に輝いていた。唇は、決して合意のないゲームに勝利したと確信した時にだけ見せる、謎めいた笑みを浮かべた。
「えーっと、大丈夫よ」と彼女は言い、頭を横に傾け、そして急いで付け加えた。「レヴィアは何も言わないから…」
茂は、彼女の言い方に何か違和感を感じて目を細めた。しかし、彼が抗議する前に、二人は既に家の前に到着していた。
家はそれほど大きくはなかったが、柔らかな色彩と古い写真が飾られた壁に、温かみを感じた。前庭には小さな花が自生し、隅の小さな池から水が滴る音が、より一層穏やかな雰囲気を醸し出していた。しかし、その静けさは長くは続かなかった。
門が開くと、レヴィアはすぐに茂の前を走り出した。彼女は芝居がかった動きで、家の前の植木に水をやっていた茂の母親のスカートを引っ張った。
「ママぁ~!」と、まるで子供が大きな不満を漏らすような長い声で叫んだ。「さっき、茂がガーベラ畑で泣いてたのよ!」
茂は立ち止まり、体がまるで彫像のように硬直した。わずかに口を開いたが、声は出なかった。恥ずかしさと驚き、そしてこの世から消えてしまいたい衝動が、彼の顔に渦巻いていた。
「うぅ……」と、反論できずに小さく呟いた。
普段は穏やかで温厚な寺内香澄は、慌てたように顔を背けた。
「え!?本当!?茂が泣いてるの!?どうしたの!?」
レヴィアは両手を後ろに組んだまま、爆発しそうな笑いをこらえながら慌てて首を横に振った。 「ああ、何でもないよ、お母さん。もしかしたら…もしかしたら、花に感動しすぎたのかもしれない」
言葉を失った茂は、ただ頭を下げて深呼吸をするしかなかった。この日のことは、きっとずっと心に刻まれるだろう。レヴィアが絶対に忘れさせてくれないのだから。
しかし、まだ手に持っているガーベラの花を見ると、何かが違っていた。いつもは心に漂う静寂を、静かに忍び寄る温かさが押し寄せてきた。そして初めて、この日が繰り返されても構わないと思えた。
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黄泉川の朝はいつも、村の中心にある小さな神社の鐘の音で始まる。その音は柔らかく、鳥のさえずりと山から吹き込む風にかき消されそうになる。茂の家の格子窓から差し込む陽光が、冷たい木の床に温かい線を描いている。
台所では、味噌と温かいお茶の香りが部屋を満たしている。茂の母、かすみは静かに動き、時折、年配の人しか知らない古い歌を口ずさみながら、手際よく朝食の準備をしていた。茂は、まだ乱れた髪と眠そうな顔で食卓に座っている。
「茂」かすみはご飯の入った茶碗を茂に手渡しながら声をかけた。「今日はちょっと市場に行ってくれない?レヴィアが花の種を買うのを手伝ってほしいって言ってたのよ。」
茂はゆっくりと頷いた。 「聞けばよかったのに…」
かすみは微笑みながら彼の向かいに座った。「でも、あなたが断らないって分かってるんだから、わざわざ聞く必要もないでしょ?」
茂はため息をついた。その言葉はあまりにも真実味があり、否定できなかった。
数時間後、彼は村のメインストリートを歩いていた。露草一族の時代から整然と並べられた小石が、今もなお力強く立ち、住民たちの足元を支えていた。周囲の家々は古い木造で、特徴的な曲線の屋根、障子、高く吊るされた提灯が特徴的だった。すべてが、今もなお息づく古代の絵画のようだった。
家々の壁や木の柱には、円が欠けた彫刻や刻印がいくつかあった。これは「魂封じ」と呼ばれる、カガミが活性化したシンボルだった。通り過ぎる人々の中には、カガミの共鳴を均衡させる、レイリツと呼ばれる細長い模様の黒い石でできた腕輪のようなものを身に着けている者もいた。カースト制度について公然と語る者はいなかったが、その象徴は十分に語りかけていた。
茂は黙ってこの全てを見ていた。この制度に自分が属していないと感じることに慣れきっていたが、密かにそれを好んでいた。規則だらけの世界に、彼は端っこにいたいと思うようになった。誰が正しくて誰がそうでないかを決める群衆の中心から離れて。
「おはようございます、茂!」商品を並べていたパン売りの老商人が挨拶した。
「おはようございます、おやじさん」茂は軽く頭を下げて答えた。
「まだ…それを…言ってないのか?」と、まるでタブーな話題を語るかのように、声を半音低くして尋ねた。
茂は薄く微笑んだ。「いつものことだ。」
商人はゆっくりと頷き、パンに戻った。同情の声も、励ましの声もなかった。黄泉がわでは、鏡を持たない人々は悲劇ではなく、事実だった。そして、滋は鏡のない追放者としての暮らしにもすっかり慣れてしまっていた。
交差点近くの掲示板を通り過ぎようとした時、そこに貼られた真新しい紙切れが目に留まった。そこにははっきりとこう書かれていた。
「鏡の欠片変動に注意。西の遺跡に近づくな。」
― 瑞浪村警備委員会
滋はしばらくチラシを見つめた後、深呼吸をして再び歩き出した。薄い霧が降り始め、村は柔らかな銀色に染まっていた。遠くから子供たちの笑い声と古井戸から水を汲む音が聞こえ、空気は湿った土の心地よい香りに包まれていた。
若い母親が赤ん坊を抱いたまま彼に挨拶した。「滋くん、帰り道に寄るのを忘れないでね。レヴィアがクッキーを持ってきてくれたのよ。」
彼は薄く微笑んで答えた。「ええ、お母さん。」
道端で将棋を指していた二人の老人が彼を見て頷いた。一人が叫んだ。「今度こそ俺たちと対戦しろ、坊主!お前はパターンを読むのが得意だって言ってるぞ。」
「明日の朝だ」茂はポケットに両手を突っ込み、何気なく答えた。
この村は…質素だった。だが、誰も彼を拒絶したことはない。追い払ったり、責めたりはしなかった。崇拝されることも、疎外されることもなかった。ただ…あるがままに見てもらえていた。
そして、おそらくそのせいか、そこには静けさがあった。
それでも、神社近くの古い交差点を通り過ぎたとき、彼の体はわずかに震えた。何かが彼の体を貫いたかのようだった…風ではない振動。
彼は急いで振り返った。そこには何もなかった。ただ、古い梅の木と、神社を示す木のしめ縄が一本だけ。
しかし、彼の足取りはゆっくりとした。心臓の鼓動は少し速くなった。何かがあった…胸の空虚に響くもの。音ではない。影でもない。ただかすかな衝動…まるで世界が、見えないところから彼に挨拶しているかのようだった。
茂は色づき始めた空を見上げた。
今夜はいつもと違う気がした。
でも、なぜかはわからなかった。