第1章 4 「疾風迅雷のミツヤ」
体長は二メートル未満、だがその威圧感は数では測れない。
全身が煤けたような黒い色。額は異様に突き出し、口は左右に裂けるように開いていた。目や四肢の形は個体ごとに微妙に違い、その不気味さが一層際立つ。
「ガキの頃に見たやつだ」
その多くが背に蝙蝠のような飛膜の翼を持ち、その羽音が煩く音を立てて空を埋め尽くしていた。
「昼間だってのに、もう暗い……クソッ。あいつら、数も多い上に異様に硬いんだよな。先月はこいつら相手に腕が攣ったし……」
普段なら一、二体程度の異形獣なら、鋤一本で十分だった。
しかし今日は違う。数が多すぎた。
「急いでんだ。後で付き合ってやるから、ちょっと待ってな!」
彼らに言葉が通じるわけではなかったが、自分にも言い聞かせるように言うと全速力で家に向かった。
家に近づくと、妙な胸騒ぎがした。
――まさかとは思うが、俺が護衛隊に追われてるからって、じっちゃんまで巻き込まれてねぇよな。
ヒースとじっちゃんが二人で暮らす家は王都オルレオンから少し南へ下ったブルージュの街外れにある、年季の入った木造平屋のシンプルな家だ。
こじんまりと米作りができるほどの田畑もある。
家が見えてくると、心臓が激しく鼓動し、口から飛び出す勢いだ。
「じっちゃん!」
大丈夫だ、畑は荒らされてない、護衛隊に見つかってはなさそうだ。
が、庭の物干し竿の洗濯物がまだ取り込まれていない事に気付く。
じっちゃんは毎日ルーティーンをきちんと守るタイプだ、いつもなら夕方までには取り込まれている。
はやる気持ちを抑え、ドアに手を掛ける。
「ただいま、じっちゃんいる?」
引き戸を開けた。
「ごめん俺、試験……」
言いながら一瞬目を疑った。
じっちゃんは台所でうつ伏せになり、右手を前方へ伸ばした状態で血だまりの中に倒れていたのだ……!
「じっちゃん! しっかりしてくれ、何があったんだ、誰にやられたんだ!?」
背に太刀傷が見えた。
(後ろから斬られてる……!?)
無我夢中で仰向けにすると、その傷は深く、下に切り裂かれて僅かに腸も見える。
(こ、これは……、なんて惨い……! 一体だれがじっちゃんを……)
だくだく出てくる血を止めようと無我夢中で腹に手を当てた。
「頼むよ、じっちゃん、しっかりしてくれ」
両手はすでに血まみれだ。その指の隙間からもどんどん血が溢れ出てくる。
(どういうことだ、じっちゃんが後ろからやられるなんて、あり得ない!)
そう考え、ふと周囲に目をやると、近くには湯呑とヤカンが転がっている。
テーブルにはヒースの好物のお好み焼きがまだ、湯気をたてていた。
(この状況、まるで誰か信用している人間に騙されたみたいじゃないか……!)
わずかに息があるじっちゃんが、少し口を開いた。
「……ヒース……話が……あるんじゃ……大事な話が三つ……。」
「よかった、目を開けてくれた! 今から医者を」
「……よく聞け……、あの箪笥の上の……刀……盗られ……」
「じっちゃん大事にしてた赤い刀か!? けど今はそれより医者……!」
「ち、違うんじゃ、あれはただの刀じゃ……お前の刀の……ふぐうっ!」
しわしわの、だが筋骨隆々の手がヒースの腕を弱々しく掴んだ。苦痛が伝わってくる。
「じっちゃん!」
「……お前のそれ……腕輪……外し……」
「腕輪? ちっちゃい頃じっちゃんがくれてから絶対外すなって言われてちゃんと着けてるぜ? それより誰にやられたんだよ」
「いいか、お前は……ひとりじゃない……必ず仲間が出来る……」
「仲間?」
「仲間は何があっても大切に……しなさい……生き……るんじゃ……」
「ダメだ、じっちゃん!!」
胸が苦しくなり、目の奥に鈍痛を感じてきた。
「お前との、毎日は……ほんと……に……楽しか……ったなぁ……」
じっちゃんの手がヒースの腕から離れ、床にそっと垂れ下がった。
何かがこみ上げてきたが、暫く声も出なかった。
じっちゃんがもう冷たくなった後も、ただ呆然とその場にへたり込んで動けなかった。
――――それから、どれくらい時間が経っただろうか。
涙が一度こぼれ落ちると、もう止まらなくなった。
こんなに声をあげて泣いたのは初めてだった。
悲しみに暮れ、何も出来ない時間がただ過ぎていった――――。
◇ ◇ ◇
翌朝、目を腫らせたヒースは、冷めてしまった最後の手料理のお好み焼きを半ば無理矢理腹に押し込むと、一人でじっちゃんを庭のシンボルツリーの下に埋葬した。
石を置いただけの墓標が寂しさをいっそう際立たせる。
このシンボルツリーは秋には葉が黄色く色付き、地面には見事な黄色い絨毯を見せてくれる思い出の木だ。幼いころ、日差しの暑い日は木陰で涼み、特訓の時はじっちゃんと練習してるうちに白熱して農具が木に刺さることもあった。今でも幹のあちこちに傷が残っている。
「じっちゃん、また会いに来るよ」
両手を握りしめて墓を見つめるヒースの目に、もう涙はない。決着をつけるまでこの家には戻らないつもりだ。
ヒースは自宅のめぼしい物の中から必要最低限の物だけを残し、あとは処分した。刀を取り返し、仇をとると決意して――。
「とはいえなぁ、いったいどこをどう探せばいいか」
独り言を言いながら街の方へ情報を探しに歩き始めたヒースは、取り敢えず今分かっている事を整理することにした。
(赤い刀が俺の刀の何とか? ってい言ってたな。それが無くなった以外家が荒らされてなかった。……犯人は初めからそれが目的だった? 後はじっちゃんの草鞋以外の足跡があったかもしれないが、大人数ではないな。いや待てよ、家から少し離れた池のそばに馬の足跡があった……! 馬で来たのか? だとしたら、ある程度の身分という可能性もあるな)
色々思考を巡らせ歩くうち、気付けば昨日試験会場から帰る際に通ったベルニーの森にさしかかっていた。
(うっ、血の匂いが充満してる?)
少し奥に進むと、人の腕が転がっているのが見えた。手に剣を握ったままだ。
「これは……!」
木の枝には肉片や臓物やらが引っ掛かっており、地面は足の踏み場もない程無数に散乱していた。紛れもなく喰い荒らされた後だ。しかもそれは中心部に進むにつれ、匂いも咽かえる程強烈になってくる。
(なんて酷い……うう……気持ち悪くなってきやがった)
人の頭部の数から20人以上が犠牲になっているようだ。破られた衣服が皆同じコスチュームであることから近隣の街の自警団である事が推測出来た。
(くそっ……昨日のヤツらか! ちゃんと片付けてれば……!)
後悔に浸る暇もなく、森の奥からそれは襲ってきた。
「っ……来やがったか!」
慌てず少し前屈みに腰を低くし、鋤の柄を短めに握り気配を感じ取る。
頬近くを尖った爪がかすめる直前、頭を後ろに引き、Uターンしてきた異形獣の片翼を鋤で一刀両断した!
「これだけやってまだ喰おうってのか!」
断末魔を上げ緑色の血を撒き散らして地面に落ちると同時に、後ろから悲鳴ともとれる声が耳に飛び込んで来た。
「た、頼む……! 助けてくれ、あんなのだけにはやられたくない……!」
振り返ると紺色のマントを羽織った護衛隊の男が一人、木の陰にへたり込んでいる。
「護衛隊……なのか……!? なんで一人でここに……?」
自分が護衛隊に追われているかもしれないとはいえ非常時だ、ヒースは放っておけないと駆け寄って行った。
「助かったよ君、すごい剣捌き、いや鋤捌きだね」
その隊員は昨日のヒースの一件についてまだ耳に入っていないからか、救われた事で手配について触れない判断をしたのか、名前を聞こうとはしなかった。
「無事でよかった、です。でもまだ群れがいたはず。早く森から出た方がいい」
「……最初に知らせが入った時は、何かがおかしいって思ったんだ。この国で一番古くて最強と言われていた自警団の『ブルタニーの獅子』が手に負えないなんて。彼らは僕ら隊員のランクCと同等レベルだっていうのにだよ?」
ヒースは固唾を飲んで聞いた。
「けど……来てみて分かった。その数の多さに皆足がすくんだよ……地獄のようだった。自警団の人達には悪いとは思ったけど僕らも歯が立たなかったんだ。しかたなく第五隊の他の六人は引き上げたが、僕だけ逃げ遅れてしまって。けど一人で……どうやって、あんな数を相手にしろってんだよ……!」
「……なんだって……?」
ヒースは言葉を失った。
子供の頃から憧れていた護衛隊だ。その隊員が今、目の前で地面に座り込んで膝を抱えて震えながら、自警団を全滅させるまで傍観してしまったことを悔いることしか出来ないでいる。民間人を放って、しかも事もあろうに仲間も置いて立ち去ったというのだ。
当然のように動揺の色が見え始める。
「それであんたはここでずっと見てたのか、助けを呼んだ自警団が目の前でやられるのを、ただ見てたのかよ!?」
護衛隊の隊員はすっかり戦意を喪失していた。これが護衛隊の実態なのかと、衝撃が怒りに変わりつつあった……その時――。
13体の異形獣が、木々の隙間を縫って一斉に飛来する!
昨日遭遇した蝙蝠似のタイプ1だ。
近隣諸国と同盟を結んでから、すでに二百年近い年月が経つ。戦争は今や遠い国々の話となり、このブルタニーでは軍の規模も徐々に縮小。やがて、国を守る役目は王直属の「護衛隊」だけが担う形となった。
異形獣自体は、何百年も前から存在していたものの、かつては森の奥でたまに姿を見る程度。村や町で遭遇することなど、まずなかった。
だが――数年前から、その数が急激に増え始めた。
本来なら対処すべき護衛隊も、諸国との同盟締結後、長い平和の中で実戦経験が乏しくなっていった。今では、群れで出現する異形獣に太刀打ちできるのは、せいぜい一部の隊長か副隊長のみという有様だ。
この森のように、街の外れに現れた異形獣も、中心街でなければ放置されることが多く、そうしたエリアはしばしば無法地帯と化す。
その結果、討伐の依頼は国家や自治体、あるいは富裕層から民間にまで下され、武装を許された一般市民が、自ら命をかけて戦うしかない状況になっていた。
さて、物語は街外れの深い森へと戻る。
そこでは今まさに、ヒースが護衛隊の逃げ遅れた隊員をかばいながら、タイプ1の異形獣と対峙していた。そのわずか数メートル先、一本の木の陰から様子をうかがう黒髪の少年の姿がある。
(オレンジ髪のヤツだ……入隊試験会場にいた。ってことは、あの男の行方をこの辺りで見てるかもな……)
一方、ヒースの体はすでに限界だった。翼の一撃で頭部を負傷、額から顎まで赤い筋が伝う。鋭い爪で背中と肩も抉られ、左手は鋤の柄すらまともに握れていない。
「ちきしょう……」
じりじりと後退するヒースを、黒髪の少年は迷いの表情で見つめていた。
(人助けとか面倒だし、関わり合いになりたくない。悪いが……)
ヒースが少年に気付いた。
「お、お前そんなとこに突っ立ってると喰われるぞ! 危ないからこっちへ来い!」
(は? あいつバカなのか!? 自分の方が重傷のくせに人助けのつもりかよ。熱血漢とかマジだりぃ――)
黒髪の少年が立ち去ろうと踵を返した時だ。
少年の50センチ頭上に異形獣の爪が光る。
「え!?」
だがその時、既にヒースはその場から消えていた。
少年が目を見開いたその刹那、忽然と空中に現れたヒースが渾身の力を込め、鋤をタイプ1の脚部に叩き込む……!
ドガァッ!
負傷しているようには思えないヒースの敏捷な動きに少年の口から驚嘆の声が漏れる。
「お前……!」
異形獣が奇声を上げて少年の目の前に落下し、翼をバタつかせてのたうっている。
「大丈夫か、あんた。ちょっと待っててくれ、後で母ちゃんのとこまで送るよ」
黒髪の少年は童顔だった。
「僕は17だ! あと親はいない!」
少年にとって、どうやら〝子供扱い″は地雷らしい。
「え、マジで? 一個上か……わりぃ」
「あんたさぁ、いい加減にしろよな。この数程度の異形獣を一人で片づけられないくせに、その重傷の体で目に入った者全部助けようとすんのか? 何様のつもりだ、英雄気取りか?」
黒髪の少年は紺のジャケットに膝丈のデニム、スニーカーの装いで、両手をポケット突っ込んだまま始終怪訝そうに話す。歳の割りに童顔で、尚且つ整った顔立ちにはどこか陰りが見えた。
「別に、そんなつもりじゃないが」
言いかけた時、集団で別の群れがこちらに飛来してきた。
「ヤバい、逃げ――!」
と、少年を庇おうとしたヒースは次の瞬間、見たこともない人間の動きを目撃することになるのだ。
バチッバチ――ッ!!
突如、少年の体が黄色く発光したかと思えば、そこから光の軌跡が稲妻のように森を駆け抜けた!
「疾風雷撃――ッ!」
閃光が、まるで意志を持つかのように幾度も軌道を変え、異形獣の群れへと突っ込んでいく。拳が、蹴りが、雷と化して炸裂した。
それは雷のような速さで敵に迫り、疾風のように素早く次々と雷撃の拳や蹴りを繰り出す攻撃だった。
(な、なんだあれ……まさか……稲妻!?)
断続的に響く衝撃音と悲鳴。異形獣は爆風に吹き飛ばされたかのように次々と宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「えええ? な、なんだアイツ……化けモンかよっ!?」
やがて雷光が収まり静寂が戻ると、そこに黒髪の少年がただ一人、平然と立っていた。両手にバチバチッと残光をちらつかせ――。
ヒースは驚きと安堵の表情を交互に繰り返しているような、戸惑い混じりの目をして鋤を下ろす。
「た、助かった……ありがとうな!」
そして両手で拳をつくると、シュシュっとパンチや蹴りのゼスチャーをして精一杯の称賛を送った。
「すっげぇ……あのライジングなんとかってやつ、マジでピカピカってすげぇな、速すぎんだろ!」
「……小学生かよ」
あの硬い表皮の異形獣五体をたった一人で、数十秒でしかも素手で倒した少年だ、敬服しかない。ヒースはキラキラした眼差しで話しかけたが、黒髪の少年は硬い表情を崩さなかった。
「僕はミツヤ。さっきのは雷のチカラだが、僕のグーパンが見えたのか、へぇ〜。僕も観てたよ昨日の試合。農具一本で最終まで残るとは思わなかったよ」
自然界における電荷の量や分布は非常に複雑であり、わずかではあるが大気中には常に微弱な電場が存在している。
ミツヤは周囲の微弱な電荷を集めて雷のエネルギーを発生させ、家電レベルの数十ミリアンペアから雷レベルの数十キロアンペア以上の電流まで自在にコントロールできるのだ。
もっとも本人は理屈までは理解してはいない上に、その未知のチカラがどこまで出せるかもこの時はまだ知らなかったのだが。
「ええ? あ、俺はヒース。よく闘技場に入れたなぁ。どっから観てたんだ?」
だがその質問に、ミツヤの表情が一変する。
「それより――さっきの護衛隊のヤツだ。なんで助けた!? あんなヤツ、見殺しで良かったんだよ!」
「い、いきなり何言ってんだ、お前……」
「お前知らないのか、護衛隊は人殺しの集団だ! あんたも昨日の試合中に見たんじゃないのか、あの隊長のやり口を!」
その言葉でヒースが戸惑っている間に、護衛隊の男はそっと姿を消してしまった。
「いきなり怒り出して感じ悪い野郎だな。人殺しの集団とか穏やかじゃないぜ。だいいち、助け求められて無視できるかよ!」
「ハッ、正義感か? お前はそうやって誰にでも手を差し出すのか!」
ミツヤの目には、ヒースに対する苛立ちの色が次第に濃くなっていき、怒りは加速する。
「……お前、何が言いたい……?」
「さっきあんたが助けた護衛隊は近いうちに俺たち『イントルーダー』を狩る。村ごと潰すかもしれない! お前は――その加担をしも同然だ!」
「……? イントルーダー?」
睨み合う二人――だがこの激突こそが、後にこの世界の「運命」を変える最初の接点となる。
二人はまだ、それを知らない――。
仇打ちを心に誓うヒースの前に現れた、異能を使う謎の少年ミツヤ。彼が言う「イントルーダー」とは?