一人の子供に巣食う町
風の吹く方向に三日進み、さらに、犬の鳴いた方へと一日歩く。すると、濃霧に包まれた住宅街につく。そこを羽花町と呼ぶ。いつどこで振り向いても、誰かがいる町。
今日は背の高い、長髪の女性だった。垂れた髪の間から、真っ黒な空洞が二つ、私を見下ろしている。
私は、ポーチからペットボトルを取り出すと、中身の塩水を口に含み、女性と目を合わせた。霧のせいで、姿が少し霞んで見える。ここからは、しばらく睨めっこだ。
塩水にはいい加減慣れた。だが、不気味なものと目を合わせ続けるのは、何度やっても慣れない。少しでも精神的苦痛を和らげようと、現状と違うことを思い浮かべる。
今は霧に包まれて消えてしまったが、かつて羽花駅という学生の憩いの場があった。周囲には、カレー屋やファストフード店などの飲食店が並び、小さな本屋もあった。休日になると、近くの学生たちが駅周りに集まり、軽く食事を済ませて、隣町の映画館やスポーツセンターに遊びに行く様子が見れたものだ。平日であっても、彼らは放課後に飲食店で談笑したり、本屋でたむろしたりしていた。
私があの少年と出会ったのも、羽花駅前の飲食店だった。当時私は、五年勤めた会社を辞め、チェーンのうどん屋で働き、細々と暮らしていた。営業職に就いていたため、立ち仕事にはある程度慣れていたが、手先が器用でなかった私は、料理に何度も失敗し、結局ウエイターの仕事をしていた。
その日、私は運んでいたうどんを、つまずいた拍子に派手にこぼしてしまった。しかも注文した客の服に、つゆがかかってしまったのだ。家に帰ったら死のう、という考えが頭をよぎった一瞬で、店長が飛んできた。ともに謝罪し、クリーニング代を店側で支払うことを伝えた。だが、その客は
「そんな、気にしないでください。これくらいの染み、洗えばすぐに落ちますから……」
と言って、作り直したうどんを食べると、弁償のお金を受け取らずに、帰ってしまった。
その客は男子学生で、この辺りでは見かけない制服を着ていた。紺色のブレザーに、赤のネクタイ。中に青のシャツを着ていた。近隣にある学校の男子生徒の制服は、揃って学ランだった。隣町の生徒かと思ったが、彼は翌日も、その翌日も店に来た。そのうち、制服はよく見る学ランへと変わっていた。後で聞いた話だが、彼は転校してきたばかりで、私がうどんをこぼした日は、新しい学校に挨拶に来ていたらしい。
それ以降、店の中で彼と何か進展があったわけではない。服を汚してしまった相手なので、来店の度に気になってはいたが、注文以外で声をかけたこともなかった。
本来なら、あれ以上に関わることなんてなかっただろう。霧が町を覆い、得体の知れないものが徘徊し出さなければ。妙な噂が、日本中で信じられていなければ。
何なのだろうか、これは。
目の前に立つ、背の高い女性。さっきよりも、私との距離が近くなっている。本能的に後ずさりそうになるが、ぐっとこらえる。目をそらしてはいけない。女性の顔は、近くで見ると、目以外にも空洞になっていた。鼻のあった場所には、丸い穴が。口のあった場所には、紙を破いた裂け目のような空洞が。
明らかに人ではない。だが、幽霊とも思えない。実体がある。こいつらに連れていかれる人々を、何人も見てきた。噂を信じなかったやつ。信じたうえで、こいつらを前にして、実行できなかったやつ。
噂……塩水を口に含み、奴らが消えるまで、目をそらさないということを。
女性の体が、すっと後ろに下がる。そして、その姿は霧の中へと消えていった。
塩水を吐き出す。
本来は、この町にいる限り、何があろうと振り返るべきではないのだろう。振り向いたら最後、あの睨めっこが始まるのだから。だが、霧に覆われたこの羽花町は異空間だ。建物の配置や道が常時組み替えられてしまう、動く迷路になっている。行く手が突然壁にふさがれたりする。歩いてきた道が、川や急な坂に変わっているなんてこともざらにある。振り向くのが嫌だからと、後ろを確認せずに戻れば、大怪我をしかねない。
どうしようもないように見えるが、この迷路にも法則性はある。私は胸のポケットから、小さなコンパスを取り出した。なぜか、行きたい場所はいつも北に位置している。つまり、とにかく北に進み続けること。そうすれば、羽花町内にある場所であれば、どこにでも行くことができる。羽花駅のように、消滅さえしていなければ。
北の方角を確認し、来た道を戻る。
駅に加え、隣町に続く道がことごとく消えていた。三日に分けて丹念に調べたから、間違いない。この町から出る方法を探し始めてから、約一か月が経った。
脱出する術を考えていた仲間たちは、皆連絡がつかなくなった。今や生存を確認できているのは、私とあの少年のみ。
このまま一生町から出られないのだろうか。仲間たちのように、消えてしまうのだろうか。
そうこうしている内に、私は目的の場所に着いた。
うどん屋の暖簾をくぐり、中へと入る。
「ただいま」
椅子と机の並ぶ、薄暗い店内。その隅に、パソコンをいじる一つの影がある。
「有一くん」
声を掛けると、有一はパソコンから顔を上げた。
「あ、漂さん。おかえり」
私は有一の後ろに回り込み、パソコンを覗き込んだ。
平茅町……死者の蘇る町。一人蘇るごとに、一人死ぬ。一度生き返った人間は、輪廻の輪から外れ、新たな命として生まれることがなくなる。
星満市……時空の歪んだ町。過去と今と未来が入り乱れる。タイムパラドックスを最小限にとどめるために、他人と口をきいてはいけない。
羽花町……霧に覆われており、振り返ると、誰かがいる町。振り返るときは、それと目を合わし、塩水を口に含まなければならない。
北野良市……山から、午前二時に鬼火がやってくる。
日本中の町、地域に関する都市伝説が、無数に書き込まれている。……いや。実際の所、どれも単なる伝説ではないだろうが。
「このブログ、今日も更新がなかったです。ライターの人、やられちゃったんですかね」
「そうじゃないことを祈るよ。これしか町の外の情報源ないんだから」
有一は席を立つと、厨房へと歩いて行った。本当に、あの時うどんのつゆをかけた相手と、こうして関わることになるとは思わなかった。
羽花町が霧に覆われるとともに、他の町でも怪現象が起きるようになった。どれも町の機能破壊するものばかりで、一時期テレビのニュースはその話題で持ちきりだった。政府の偉い人が避難勧告を出したりもしたが、どれも数日で見なくなった。今テレビをつけても、なにも放送していない。テレビ局の人も、その町の「都市伝説」にやられたのだろう。
有一の見ていたブログを見るに、羽花町はまだマシな状況なのが分かる。中には、謎の生物に支配され、人間が家畜のごとく扱われているところもあるという。
テレビの機能しなくなった後、人々はインターネットで情報交換を始めた。このブログのように、町を点々としながら、記録を残し、安住の地を探す人や、水、食事をどうするか意見を交わす人など。楽に死ねる方法を探す人もいた。
異変が起きた時、私はこのうどん屋で働いていた。飲食店だったため、食料には最初こそ困らなかった。だが、従業員や客も一緒だったため、日にちを追うごとに、どんどん食料はなくなっていった。北に目的地があることに気付くまで、外に食料を探しに行った人たちは、皆消えてしまった。残った何人の中には、私と有一がいた。その後は、かなりひどい争いになって……思い出したくない。
とにかく、生き残った私と有一は、北の法則のもと、スーパーや住宅から食料を盗み、何ンとか食いつないでいた。
それも、もう限界かもしれないが。
厨房の扉の隣にある階段をのぼり、屋上に上がる。ひんやりとした霧の中に、ぼんやりと建物の影が浮かび、人の形をした何かの影がうごめいている。町の中の食料にも限りがある。いずれは外に出ていかなくてはならない。だが、町を出るための道が、次々に消滅している。このままでは、閉じ込められて飢え死にしてしまう。
「なにしてるんですか」
有一が私の隣に立った。
「やっぱり、町の外への道が消えていってる。脱出する方法を探さないと」
「……もしかして、大梨市に続く道、なかったんですか」
「うん。いくら北に向かっても、町の外に出られなかった」
「僕が探しに行ったときは、平茅市に続く道も消えていた。となると、町から出た後にいけるところは」
有一が、すこし肩を震わせているのが見えた。
「あと、北野良に向かう道だけですか」
私は、ゆっくりと頷いた。
「……あのブログ、北野良で終わってましたよね。つまり、あの市は、それだけ危ない所だっ
てこと……」
「でも、行くしかないでしょ。このままだと……死んじゃうんだし」
目を合わせる。塩水を口に含む。これさえ守れば、奴らは私たちに手出しができない。翌日
になると、私と有一はあるだけの食料と水を鞄に詰め込み、北野良に向かっていた。これでも
し、この道も消えていたら、いよいよ死を覚悟しなければいけないだろう。
「漂さん」
「何?」
振り向かずに、返答する。今日はいつも以上に霧が濃い。本当にあの羽花町なのか、疑いた
くなるほどに、何も見えない。
「この霧……なんだと思いますか」
「さあ……自然現象ではないだろうし……あの世とつながっちゃったとか」
「そうですよね……怪現象としか思えませんよね」
突然、小さい影が目の前に現れた。後ろから短い悲鳴がした。たまに、こういうイレギュラ
ーなことも起こる。塩水を口に含み、影の目を探す。白い目。そして、口がない子供のよう
に見える。私の横に、有一が立った。目を離せないため分からないが、私と同じことをして
いるのだろう。
少しすると、その影はあの女性と同じように、霧の中に消えていった。
塩水を吐き出す。有一のすすり泣く声が聞こえる。立ち止まっている暇はない。この間にも
町から出る道が消えるかもしれない。有一に軽く声をかけ、歩き始める。
そして、少し歩いたところで、有一がぽつりと言った。
「……典型的な都市伝説だな」
「え?」
「いや、こうしてあいつらと相まみえてみると、本当によくある都市伝説だなって思って」
無言のまま、さきを促す。
「意味は分かりませんけど、明確な奴らの出現方法があって……さっきみたいなのもありますけど。そして、同じく明確な対処法があって。地震とかの自然災害でも、どうすれば絶対に助かる、みたいなものはないのに」
「何言ってるの?」
「……誰かが考えたものみたいだなって思っただけです」
「……大人のほうが、現実見たがらないことあるじゃん」
私は、なんとなく口にした。
「これが、だれかの……現実につかれた大人の考えた、壮大な現実逃避だったりしてね……」
お読みいただき、ありがとうございました。