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悲しみが教室を覆っていた。
涙のにおいは嫌いだった。苦いような香りがするのに、その実どこか、生臭いと感じるから。きっと、僕の抱く死のイメージに生臭さが付きまとっているのだろう。
重力が二倍になったような教室の中で、南野の友人たちは目を腫らしながら互いを慰めあっていた。……その会話の中に「おまじない」という言葉が入っていたことを、僕は聞き逃さなかった。
南野の友人には、ちゃんと言い聞かせておかないといけないだろうな……。
生臭さとともに思い出される、記憶に染み付いた、あのマンションの事件。それをこれから話さなければならない。そう思うだけで、生臭さがのどに絡みつき、飲み込む唾は鉛の味がした。
南野の自殺のことをクラス全体に知らせた後、南野と特に親しかったもので、おまじないを知っているだろう生徒四人を職員室に呼び出した。
「あのマンションとおまじないのこと、調べるのはやめろ」
僕の言葉に彼女たちは息をのんだような反応を見せた。おまじないのこと、自分たちがそれについて調べようとしていること、それが僕に筒抜けになっていることに気づいていなかったのだろう。
「狭山っ!?」
四人のうちの一人が鋭い視線を狭山に向ける。この剣幕、友人同士の秘密を狭山が僕に漏らしたと思っているのか。誰かを疑うのは分かるが、どうして狭山だけを……?
「勘違いしているようだが、あのマンションとおまじないのことは誰かから聞いたわけじゃない」
嘘だ。おまじないの確信を得たのは狭山から話を聞きだしたからだ。もっとも、どうしておまじないの存在に気づくことができたのか、それを説明するには過去の事件について話すことにつながる。
「でも先生! 絵里は好きな人に告白して、付き合い始めたばっかりだったんです! それなのに……。何か理由があるはずなんです」
「どうして調べちゃいけないんですか。友達のことちゃんと知りたいって思うのはいけないことなんですか!?」
友人の死を、好奇心と正義感でごまかそうとしている彼女たちは、どこか、過去の自分と重なるようで見ていられなかった。やはり彼女たちを止めるには話すしかないようだ。僕が知る、あのおまじないの真実を。
「もう十年も前になるが、僕が知る限りで六人、あのマンションで人が死んだ」
その言葉に、彼女たちは表情を凍らせた。
「一人目は、僕の友人の姉。僕もよく、遊んでもらった。失恋を理由にした飛び降り自殺で、遺体の損傷がひどく、ほとんど原形をとどめていなかった」
飛び降りという言葉に、狭山が顔を歪めた。南野のことを考えたのだろう。狭山はもしかしたら、一番南野の死にショックを受けているのかもしれない。狭山は南野に、ある意味で依存していたから。
四人のショックが収まるのを待って話を続ける。
「二人目は、失恋相手の男だ。彼は自殺ではなく、マンションの目の前で交通事故に巻き込まれた。跳ね飛ばされた遺体はちょうど飛び降りの跡と重なって、まるで手をつないでいるようだとその当時言われていた」
そのまま三人目、四人目と話していく。その二人も恋人同士だったようで、次第にそのマンションは失恋の苦しみで自殺した女の霊が呪いをかける、そんな場所としてうわさが広がっていった。
「そして五人目……」
「もういいですっ!」
僕の言葉を遮ったのは、狭山だった。彼女が大きな声を出すことは珍しく、話をすることに集中していた僕は思わず口を止めてしまった。
「もう、わかりました……。おまじないにはもう関わりません。だから、もうその話はやめてください……」
ほのかに目を潤ませている狭山を見て、後悔を覚えた。ぼくは、友人を失ったばかりの少女に何を話しているのだろう。
思い出したくない過去を話しているうちに、周りが見えなくなっていた。過去の記憶に飲み込まれて、彼女たちをおまじないに関わらせたくないという、本来の目的を忘れていた。正気に戻ると同時に、喉の奥に絡まっていた鉛の味と血なまぐささが消えていく。
「すまない……。とにかく、もうあのマンションに近づかないでほしい。今はただ、南野を悼むことだけを考えてくれ」
それだけ言い、四人には帰ってもらった。狭山は帰り際、職員室のドアで何か言いたげにこちらを振り返ったが、結局何も言わずに、再び背中を向けた。
放課後、生徒たちを帰して二時間ほどで仕事が終わり、帰路に着く。
もう外は暗く、少し肌寒い。校庭の土や植物の匂いが強く感じられ、一日が終わるのだと認識させられる。今日という一日を長く感じたのか短く感じたのか、振り返ってみてもわからなかった。
「先生」
ふいに呼び止められ、驚いて声の方向を見る、と、そこには校門に背中を預けた狭山が立っていた。
「狭山? 帰ったんじゃ……もしかして待っていたのか?」
帰り際に何か言いたそうにしていたことを思い出す。もしかして、二時間もここで待っていたのか? 思わず手を取る。夏だというのに、彼女の手は驚くほどに冷え切っていた。
どうして、と聞く前に狭山が口を開く
「先生、どうしてもだめですか?」
何のことを言っているかすぐに理解できず、首を傾げた。
「おまじない」
ぽつりとつぶやかれたその単語に、背筋が冷える。
「だから話しただろう! あそこは……」
「それでもです!」
狭山の剣幕に押され、黙る。今日の狭山はどこか雰囲気が違うなと、場違いだとは思いながらもそんな考えが頭に浮かんだ。
「絵里ちゃんは私の一番の友達でした。絵里ちゃんにとって私はたくさんいる友達の一人でしかなかったのかもしれないけど、私にとっては一番の友達です。お互いの秘密を守って、お互いの恋も応援してました」
狭山は、堰を切ったように南野との思い出を語りだす。それまでクラスメイトには言えなかった、秘密にしていただろうことまで、全て。
自分がいかに南野を慕っていたか、南野のどこに惹かれていたのか、どんな関わり方でも、南野と一緒にいられるだけでうれしかったのだと。
その言葉は中学生らしい、幼稚で、拙く、月並みな言葉の羅列だった。でも、南野の死を一番悲しんでいるのは狭山だという、僕の勘を裏付けるものとしては十分すぎた。
同時に、彼女の言葉は僕の決意を揺るがすに十分すぎるものとなった。なってしまった。