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見習い薬草師に就職しました!  作者: 日下真佑
6/42

6タジの真面目な悩み

いつもありがとうございます。

今回は、タジさんがハマド様の次男坊村ムラト様に顔が怖いと言われて試行錯誤する物語です。

どうぞお付き合いください!

 真夏の太陽が、ギラギラと砂漠を照らすとても暑い季節。

砂漠と太陽の国では、毎年この時期になると、ある病が流行します。

それは砂漠特有の熱病。老若男女問わず、誰でもかかり、そして場合によっては命を落とすこともある厄介なものです。そのため、王侯貴族や金持ちの商人は、熱病にかからないよう、薬草師に免疫力を高める薬湯を作らせることが多く、王都の王族や貴族達は、こぞって各家のお抱え薬草師に、とびきり効果がありそうな薬湯を、それぞれ薬草師の自慢のレシピで毎日作ってもらい、飲んでいました。

モハド家のお屋敷も、例外ではありません。

心優しい主人、ハマド様の命令で、お屋敷内で生活する全ての人が飲めるよう、今日から薬湯作りがタジとアルの仕事です。

作り方はいつもより少し早く起きて、一晩水に浸けておいた薬草の入った鍋を火にかけます。一時間ほど煮出したら出来上がりですが、焦がさないように混ぜ続けなければならないので、早起きの得意なタジが最初の三十分を、朝の弱いアルが後半の三十分を、交代で混ぜます。

「この薬草の香り、本当に吐きそうなんだけど、お前、何を入れたんだ?」

アルは大鍋にどっさり入れられた薬草を混ぜながら、朝からげんなりした様子です。

「最高に免疫力が高まる薬草を色々だよ。あと十五分経ったら出来上がりだから、もう少し頑張れ」

タジが時計を見ながら言うと、アルは美しい眉間にしわを寄せて、口を尖らせました。

「分かってるよ、ああ臭え!よくもまあ、こんなのを毎日飲む気になるよな?」

「ああ、ハマド様のご命令だからな。俺達も飲むんだぞ」

タジが嬉しそうに言うと、アルはますます顔をしかめました。

「嘘だろ?こんなの飲めるわけないよ。俺はいらねえ」

「だめだ。みんな飲まなくちゃならない決まりだ。それにこれは実のところ、結構クセになる味なんだ」

「マジかよ。あーあ、せっかくの美味い朝飯が、この薬湯のせいで台無しだ」

アルがぶつぶつ文句を言いながら鍋を混ぜている間に、十五分経ち薬湯は無事完成しました。

鍋に蓋をすると、よいしょ、とタジがこぼさないように慎重に抱えます。

「さあ、朝食へ行くぞ。今日も仕事開始だな」

「ああ、みんなちゃんと飲んでくれればいいけどな・・・」

アルはタジの横を歩きながら、時折鍋からふわっと香る、何とも言えない臭いに、何度もこっそり鼻を摘みました。


「おはようございます、見習い薬草師殿。今年もまたこれの季節ですか……」

食堂へ行くと、さっそく執事のファイサルが、顔をしかめて寄ってきました。春までお屋敷にいた前の薬草師も、相当なものを作っていたようです。

「薬草師ごとに味が違うっていうから、今年はちょっとは美味しいといいのですがね。どれ、どんなものか見せてはもらえませんか?」

しかし、ファイサルはそうっと鍋の蓋を開けると、その臭いに一瞬うっ、と固まり、慌てて蓋を閉めました。

「これ、飲めるんですか?私達だけじゃなく、奥様やお子様達も飲むのですよ?」

「大丈夫です。最高に免疫力が高まる、どこのお屋敷にも負けない薬湯です。きっと飲んでくださいます!」

タジは自信満々に言うと、ファイサルににっこり微笑みました。ファイサルは信じられない!とでも言いたげな顔で、アルに同意を求めます。しかしアルが無言で切れ長の目を潤ませながら「もう誰にもこいつ(タジ)を止められない」と伝えると、全てを察したファイサルは、深い深いため息を漏らしました。

「……やれやれ、今日からしばらく、朝食は我慢大会のようですね」

わざとタジに聞こえるように言うも、タジは全く意に介さない様子です。

 やがて、薬湯は鍋から女中の手によって、それぞれのカップに少しずつ注がれました。ハマド様一家の皆様の前にも、強烈な臭いを放つ薬湯が並べられます。こっそり顔をしかめる第一夫人、「くさい」と口々に文句を言うお子様達、大人ならたった二口の量なのに、屈強な兵士長までもが涙目です。

「今年も熱病の季節が来た。皆で元気に乗り切るために、今日からひと月の間、毎朝、薬湯を頂くことにしよう。どんな味でも残さず飲むのだぞ。では、最初の一杯に乾杯!」

ハマド様が合図すると、それぞれ大人たちは渋々カップを持ち上げました。目を瞑って一気に飲み干す者、少しずつ舐めるように飲んで顔をしかめる夫人たち、それぞれ僅か二口の薬湯に、苦悶の表情で耐えています。「これは昨年までのより、はるかに強力だ」と言いながら、ファイサルも頑張って、飲み終えます。

ところが、ハマド様のお子様達八人は、誰も口をつけようとしません。

アルが気づき、何とかなだめて飲まそうとした時、二番目に年長の九歳のムラトが、泣きそうな顔で立ち上がりました。

「アル、僕はいらない。絶対飲まないから!」

ぷい、と横を向くムラトに、アルは近寄ります。

「ムラト様、そんなこと言わないで、ちょっとだけ飲んでくれませんか?何なら、蜂蜜を少し入れて飲みやすくしてあげますよ?」

しかしアルの必死のご機嫌取りも、今のムラトには通用しません。

「いやだ!蜂蜜入れても絶対飲まない!飲みたくないのは、味のせいじゃないもん!」

ムラトは、泣きそうなのを堪えながら、必死でアルに主張します。

「じゃあ、何でですか?アルには教えてくださいよ」

いつもの人懐っこい笑顔でアルが聞くと、その幼い口から衝撃の答えが返ってきました。

「だって……タジが怖いから。タジの顔が怖いから飲みたくないんだもん!!」

「そんな!」

思わず口にして、タジは固まりました。

ムラト様どころか、どのお子様にも叱ったことも、声を荒げたことすらなくて、いつも優しく接しているつもりなのに、俺の顔が怖いから薬湯が飲めないって……どうしたらいいのだろう?

真面目なタジの、真剣な悩みの日々が始まりました。


 俺の顔は、そんなに怖いのか?

朝食の一件が気になり、何となく眠れない夜を過ごしたタジは、夜明けとともに起きて、こっそり鏡を覗き込みます。

 結局あの後、八人のお子様たちは、誰も薬湯を飲んでくれず、「こわい」だの、「くさい」だのと大騒ぎになってしまいました。何とかハマド様の鶴の一声で、無事朝食は始まったものの、食後、執事のファイサルに呼び出されたのは、言うまでもありません。

「いいですか?お子様達が喜んで召し上がられるよう、至急何とかしてください。五日のうちに何とかできなければ、薬草師の本採用への道は、諦めてもらうことになるかもしれませんね」

強烈な臭いの薬湯を飲まされた腹いせか、いつになく厳しい口調のファイサルに、二人は黙って頷くしかありませんでした。

「どう見ても、キツイ顔立ちじゃないんだけどなぁ」

鏡に映った自分の顔を見て、タジはため息を漏らします。

面長の顔、眉は太く目は大きく丸く、鼻筋も真っ直ぐ通っていて、決して恐ろしい造作をしているわけではありません。それどころか最近では、女中や侍女たちから、「優しそう」だの「真面目で知的」だの、色々言われて、ちょっぴりモテていることも知っています。まあ、それはタジにとってどちらでもいいことですが、客観的に見ても、やっぱり怖い顔ではないと、改めて鏡を見て確信せざるを得ません。

「じゃあ、いったいどうしたらいいんだ?このままでは本当に、まずいことになるぞ」

鏡の前でこっそり一人で悶絶していると、すっかり夜も明けて、今日も薬湯を作る時間になりました。薬草と水の入った鍋に火を入れて、焦げつかないようにかき混ぜてしばらくすると、昨日と同じ強烈な臭いが、薬草師部屋に立ち込めます。

「おはよう、タジ」

薬湯を混ぜ始めて十分くらい経った頃、珍しくアルが自力で目を覚ましました。

「おはようアル。今日はどうしようか、お子様達の薬湯」

タジが浮かない顔で言うと、アルはそんなタジをからかうように、ふふっと微笑みました。

「顔が怖いって言われたこと、まだ気にしてんのか?」

「ああ、だって五日のうちに何とかしないと、俺達クビになるんだぞ」

タジがあまりに深刻そうに言うので、アルは可笑しくて堪らなくなって、大笑いしました。

「お前、そんなの冗談に決まってんだろ?みんな薬湯の臭いが強烈すぎて、機嫌悪かっただけだよ」

「そうかなぁ、俺にはそうは思えないんだけどなぁ」

まだ心配をするタジのを肩を、アルはぽんと叩きます。

「しっかりしろよ。お子様達の薬湯には、蜂蜜とミルクを加えれば、何とかなるって。これ臭いは強烈だけど、苦みはそれほどじゃないんだし・・・」

「そうだといいんだけどな」

何を言ってもタジは聞きません。アルはやれやれとため息をつくと、そんな煮え切らないタジの顔を覗き込み、いきなり両手で頬を挟みました。

「おい?!」

「いいから黙って仕事してろ。本当に怖い顔か、俺が今から品定めしてやるよ」

アルは言うと、タジの顔をまじまじと至近距離で、観察しました。

「うーん。どっからどう見ても、優しそうないい男なんだけどなぁ。強いて言うなら、一個だけ足りないものがあるのかもな?」

「何だよそれ?教えてくれよ!」

タジが鍋を混ぜながら身を乗り出すと、アルは意地悪っぽくじらします。

「どうしようかな……じゃあ、薬湯ができるまでは自分で考えて、それでも分らなかったら教えてやるよ。ほら、俺の番だから交代だ」

身仕度を済ませたアルにへらを渡すと、タジは再び鏡の前で頭を抱えました。

一個だけ足りないものって、何だろう?やっぱり顔立ちなのか?それとも体がデカイから顔も怖いのか?……それとも他に何かあるのか?

真剣に悩み続けるタジを見て、アルはもう一度ため息をつきました。

このままじゃ朝の仕事に支障が出そうだな。仕方ない、これ以上は可哀そうだから、答えを教えてやるか。

「お前の一個だけ足りないところはな、笑顔だ」

思わぬアルの答えに、タジは驚いて目を見開きます。

「俺の前では昔からいつも笑顔だけど、お屋敷の人の前では笑顔少ないよな?それだと思うけど?」

そうか!笑顔か!!と、タジは目からウロコが落ちる思いでした。そういえば、ハマド様一家の前では緊張して、知らず知らず固い表情だったかもしれません。

「ありがとう、アル!俺、今日から仕事中も笑顔でいるよう頑張るよ」

「ああ、無理だけはすんなよ」

「大丈夫だ!」


 それから、薬湯が出来上がると、タジはいつになく唇の端を上げて、食堂へと向かいました。

笑顔、笑顔。笑顔さえあれば、きっとお子様達も薬湯を飲んでくださるに違いない!もう顔が怖いなんて言わせないぞ。タジは必死の覚悟を決めました。

「おはようございます!」

薬湯の鍋を抱えたまま、不自然に微笑むタジを見て、先に座っていたファイサルが、ふふと苦笑いしています。

 やがて、ハマド様や夫人達、八人のお子様達が席につくと、タジは自らミルクと蜂蜜を入れた薬湯のカップを、お子様たちに運びました。

「今日は美味しくなるように、皆さんのお好きなミルクと蜂蜜を入れました。どうか残さず召し上がってくださいね」

精一杯の笑顔を作って、タジは言います。しかし夫人たちもお子様たちも、そんなタジを怪訝そうにちらちら見ています。

どうしたのだろう?まだ笑顔が足りないのか?とさらにタジが口の端を上げた時、堪りかねたムラトが、席から立ち上がりました。

「タジの顔、昨日より怖いよ!すげー怖い!こんな怖い顔のタジが持ってきた薬湯なんて、僕、絶対飲みたくない!!」

「これ、失礼なことを言うものではありませんよ」

母親である第一夫人が、半ば笑うのを堪えながら、必死でムラトを窘めます。しかしムラトは聞く耳を持たず、さらに大声を出して暴れ始めました。

「嫌なもんは嫌だ!タジの顔が怖くなくなるまで、薬湯なんて絶対飲まないからな!!」

はあ、今日も失敗か……。タジはがっくり項垂れて、自分の席に戻るのでした。


「あーおかしい!お前のさっきの顔、最高なんだけど!」

朝食を終えて薬草師部屋へ戻ると、アルはお腹を抱えてケラケラと大笑いしました。

「笑うなよ、真剣だったんだぞ」

決死の笑顔が失敗に終わったタジは、しょんぼりしています。

「ごめん、ごめん。でもさ、笑顔って言っても、あれはないよな」

アルは笑いすぎて、涙を浮かべています。堪えても堪えても、タジのあの顔を思い出すだけで、何度でも笑いが込み上げてくるのです。タジはすっかり自信を失ったのか、眉間にしわを寄せて、難しい顔をしています。せっかく一生懸命笑顔を作り続けたのに、完全に逆効果になってしまいました。

「あと三日しかないのに、本当にどうしたらいいんだ。絶対何か方法を考えなくちゃ!」

ぶつぶつ独り言のように呟きながら、いつも通りハマド様の腰痛の治療の準備を始めます。どんな時でも仕事は仕事です。たとえ泣きそうに情けない気分でも、やるべきことはやらなければなりません。

煎じた薬草を入れた木の箱を持って、タジは重い腰を上げました。

「ハマド様のところへ、行ってくる」

いつもは溌剌としている大きな目が、まるで死にかけの魚のようです。そんなタジを見て、アルはまたまたため息を漏らしました。

「お前さあ、ここのお屋敷の皆さんを、どう思っているわけ?」

部屋を出ようとしたタジに言うと、タジは面倒臭そうに後ろを振り返りました。

「そりゃあ、いい人達だと思っているよ。皆さん優しいし」

「だよな?だったらさ、作り笑顔じゃなくて、素直な気持ちでお前らしく微笑めばいいんじゃねえの?感謝の気持ちを込めれば、自然といい顔になるもんだろ?」

「そうかもな。とにかく行ってくる」

アルの渾身のアドバイスを分かったのか、分からないのか、タジは重苦しい雰囲気のまま、ハマド様の部屋へと歩いていきました。


 昼になると、薬草師部屋にも美味しそうな昼食が、運ばれます。

運んで来るのは、一番年の若い女中で、最近入ったばかりの娘です。タジとアル二人の姿を見る度に、頬を赤らめて恥ずかしそうにしています。

「さあ、飯も来たし、食って午後は仕切り直しだな」

アルは二人分のスープとパンをテーブルに並べると、タジに言いました。タジはまだ眉間にしわを寄せたまま、考えごとをしています。

午前の仕事は何とか無事、終えることができましたが、午後はどうしよう?今日は薬草の発注や受け取りもないし、急患も怪我人いなかったら、薬草師部屋で自然な笑顔の猛特訓でもするしかないかな・・・と、真剣に考えているようです。

ところがテーブルにつき、食事を食べようとしたその時、薬草師部屋の扉が激しく叩かれました。入り口側に座っていたタジが扉を開けると、さっきの女中が真っ青な顔で、息を切らしています。

「薬草師様、大変でございます。すぐ来てください!」

「どうしたの?」

アルがパンを持つ手を止めて、テーブルから声をかけると、女中は泣きそうな声で言いました。

「ハキーム様が、広間の刀で額に大怪我をなさいました!」

「えっ?!」

タジは息が止まりそうなほど、驚きました。ハキーム様とは、ハマド様の十ニ歳になる長男です。とても穏やかで賢くて、真面目で大柄なタジにも怖がることなく、いつも笑顔で声をかけてくれます。しかも今日は八人のお子様達の中でただ一人、自ら朝の薬湯を飲んでくれただけでなく、無理やり笑顔を作るタジを気の毒に思い、年下の弟妹たちに「今日のは飲みやすいから、飲んでごらん?」と勧めてくれた、心優しい少年です。

タジは迷いを吹っ切るように、両頬を大きな手のひらでバチンと思い切りはたきました。そしてすっかり我に返ると、急いで針と糸、いくつかの薬草を、手際よく準備します。

「悪いけど消毒用のお湯、すぐ沸かしてくれよ」

アルが言うと、女中は頷き、広間へ走って行きました。

麻酔用の薬草や、傷口を癒やすための香炉を用意しながら、アルはタジを見ます。さっきまで、虚ろだった目が、いつものきりっとした生気のある目に戻っていました。

「やっぱりお前はそうじゃなくちゃ」

「ああ、俺は俺だ。できることを全力でやるよ」

タジはそう言うと、治療道具を手にします。

「行けるか?アル」

「ああ、ばっちりだ!」

二人は薬草師部屋を後にすると、広間へと急ぎました。タジの大きな背中には、もう迷いはありませんでした。


広間に駆けつけると、たくさんの女中や従者たちがざわめいていました。

「ちょっと、どいてください」

そう言いながらタジとアルが人混みをかき分けて真ん中行くと、頭を血まみれにしたハキームを、ファイサルが上半身を起こした姿勢で、抱き留めています。ハキームは意識はありましたが、額から流れる大量の血に怯えているらしく、微かに手足を震わせていました。

「後は頼みます!」

ファイサルはタジとアルを見ると、ゆっくりハキームの体を、床の敷物の上に横たえました。タジは額の血を、薬湯をつけた布で優しく拭き取り、傷の状態を確認します。額の左側に大人の人差し指くらいの大きさの傷があり、とても深くぱっくり割れていました。

「アル、催眠術を頼む」

「分かった」

アルは香炉に薬草を詰めると、火をつけてハキームの枕元に置きました。そしてハキームの胸に手を乗せると、ゆっくり穏やかな口調で囁きます。

「すぐ、楽になります。ゆっくり意識を薬草の香りに委ねてください」

ハキームは頷くと、そっと目を閉じました。タジとアルが来たからか、ちょっと安心した様子です。

十分くらいすると、アルの術が効いてきたハキームは、完全に深い眠りに落ちました。

タジは丁寧に手を洗うとさらに薬湯で手を清め、熱湯で消毒した針に糸を通します。養成所では市場で買ってきた肉を使って練習したことはありましたが、実際人の体を縫うのは初めてでした。しかしタジはハキームを助けたい一心で、全ての神経を指先に集中させて、慎重に縫合を始めました。

 十五分後、ファイサルを始め、たくさんの女中や従者が見守る中、タジは見事傷口を縫い合わせると、塗り薬をたっぷり塗り、大きな布でハキームの頭をぐるぐる巻きにしました。

「これで大丈夫です。多分、たくさん出血したから驚かれたのでしょう。あとはハキーム様が目を覚ますのを待つだけです」

タジの言葉に、ファイサルはほっと胸をなで下ろします。

「催眠術が解けたら傷が痛むだろうから、今のうちにベッドに運んでおいた方がいいかもな」

アルが言うと、ファイサルは従者にハキームを寝室まで運ぶよう、指示しました。周囲を取り囲んでいた人達も、よかった、よかったと口々に言いながら、それぞれの仕事の持ち場へと戻っていきます。

「さて、次はあいつの番かな?」

仕事道具を片付けながら、アルは広間の隅にちらっと目をやります。

広間の窓際のカーテンの下に、半べそをかきながらムラトがしゃがみこんでいます。足下には立派な刀が一振り、鞘から抜かれたまま転がっていました。これはハマド様が広間の椅子の横に飾っている、王宮から頂いた、とても大切なものです。

ファイサルはムラト近づくと、立ったまま厳しい視線を向けました。ムラトはそんなファイサルに一瞬怯えたような顔をすると、ぐずぐずと泣き始めます。

「泣かないでください!どうしてこうなったのか、ちゃんとご説明ください」

ファイサルは言葉こそ丁寧ですが、そこにはお前が悪いだろう、とムラトを責める意思がはっきりありました。しかし、ファイサルに問い詰められたムラトは、ただ泣きじゃくるばかりです。

「もう少しでお兄様は大変なことになるところだったのですよ?泣いていないできちんとご自分のやったことを説明したらどうですか!」

ファイサルが声を荒げると、ムラトも声を上げてわんわん泣きはじめました。ファイサルはそんなムラトに小さく舌打ちすると、その細い腕を乱暴に掴みました。

「ハマド様がお帰りになるまで、お部屋でお待ちになっていてください。一歩も外に出てはいけませんよ。お帰りになったら、今日のことをきちんとご報告して、叱って頂きますからね」

「いやだ!」

ファイサルに無理やり部屋に連れて行かれそうになったムラトは、しゃがみこんで抵抗します。

しかし石のように動かないムラトに痺れを切らしたファイサルは、ムラトに近寄るとその体を軽々と抱き上げました。

「言うことを聞いていただけないなら、私がお部屋までお連れするまでです」

「いやだ、離せ!ファイサル離してよ!!」

手足をばたつかせて暴れても、大人のファイサルには敵いません。その時、「待ってください!」と、タジが言いました。

ファイサルはムラトを抱き抱えたまま、目の前に立ちはだかったタジを見て、困ったようにため息をつきます。

「あなたの仕事は終わりました。邪魔しないで、早くハキーム様のところへ治療に行きなさい」

「いえ、そうはいきません」

タジはまっすぐ、ファイサルの目を見ました。

「私は薬草師として、どのような状況でハキーム様が傷を負われたのか、知らなければなりません。ムラト様にお話を伺うまでは、ここを動くわけにはいきません!」


「何ですか?見習い薬草師の分際で、執事の私に逆らうつもりですか?」

泣きじゃくるムラトを一旦床に下ろすと、いつになく高圧的な態度で、ファイサルは言いました。しかしタジはそんなファイサルから、一瞬たりとも目を逸らすことはありませんでした。

「いえ、逆らうつもりはありません。薬草師として、私はムラト様のお話が聞きたいだけです。ファイサルさんはムラト様と同じ目線で話しをしていません。子どもは大人が同じ目線にならなければ、本当のことなどとても言えないものです」

タジは必死で思いを口にしました。手のひらや脇から、緊張で汗が流れ出ます。しかしファイサルはそんなタジをふん、と鼻で笑いました。

「では、あなたは今のムラト様のお心を開けるのですか?顔が怖いと言われ、薬湯一つ飲ませることができないあなたに、できるわけないでしょう?」

「いえ」

タジは真っ直ぐ、ファイサルを見ました。

「それはやってみなければ、分かりません」

毅然とした態度で言うと、ムラトの前に行き、膝を折って同じ目線になりました。

ムラトは目の前に来た大きなタジの顔を見て一瞬ぎょっとしたものの、強がってプイと横を向いています。

「ハキーム様はもう大丈夫です。ムラト様にもきっと何かご事情がおありだったのでしょう?どうしてこうなったのか、訳をお聞かせいただけませんか?」

必死のタジのお願いにも関わらず、ムラトは横を向いてふくれっ面をしています。しかし、タジはそんなムラトの様子に臆することなく、続けました。

「実は私も昔、家の大事な道具で遊んで、兄弟に大怪我をさせたことがあるんです。両親には頭ごなしにひどく叱られましたが、本当は理由を聞いて欲しかったんです。どうしてこうなったのか、わざとやったのじゃないって理由をね」

え?と、ムラトの表情が変わりました。

「で、どうなったの?」

初めて会話を返してきたムラトに、タジは優しい目をしました。

「兄弟は助かりましたが、うちの親は忙しくて、結局理由は聞いてもらえませんでした。でもハマド様は立派なお方です。必ずムラト様の言い分を、聞いて下さるはずです。そのときは私が、味方をいたしましょう」

「……本当?」

「はい、本当です。私は必ず約束は守ります。だから、何があったのか、話してはもらえませんか?」

「……あのね」

ムラトはようやく、重い口を開きはじめました。九歳になったばかりのムラトの話は、こうでした。

ムラトは兄のハキームと広間で遊んでいると、ハキームの腰に短刀があることに気がつきました。ハキームは十三歳を前に大人になる儀式を終えて、ハマド様から一人前の証として、短刀をもらったばかりでした。ムラトはそんな兄の短刀が羨ましくて、ちょっとだけ貸して欲しいと頼みました。しかしハキームは、まだ子どものムラトには刀は危ないと、何度も断りました。

すると、どうしても刀を腰に差してみたかったムラトは、ハマド様が大切に広間に飾っている、大きな刀を手に取り、ハキームの真似をして腰に差そうとしました。当然ハキームに咎められ、刀の奪い合いになり、うっかり鞘が抜けて、刃の先がハキームの額に当たってしまったとのことです。

「何と!!それでは運が悪ければ、ハキーム様は本当に大変なことになっていたのではありませんか!!」

少し離れた場所で話を聞いていたファイサルが、思わず大声を出すと、ムラトは身を竦めて目を瞑りました。しかしタジは、そんなムラトに優しく微笑むと、そっと頭を撫でました。

「ムラト様は偉いですね。ちゃんとご自分で説明ができました。流石です」

「……タジ?」

涙を浮かべているムラトの小さな体を、タジはぎゅっと抱きしめました。

「次に何をしたらいいのか、賢いムラト様ならご存じのはずです。さあ、私と一緒にハキーム様のお部屋へ行きましょう」

「…うん」

ムラトは頷くと、タジの大きな胸に顔を埋めました。

「タジ、絶対僕の味方でいてくれる?お父様の前でも、絶対?」

「はい、絶対です。約束致しましょう」

タジがそう言うと、ムラトはにっこり微笑み、小さな声で「ありがとう」と言いました。


翌朝、タジはいつも通り薬草の大鍋を持って、アルと二人食堂へ入りました。

「おはようございます!」と大きな声で挨拶をするも、ファイサルは何となく不機嫌そうです。

昨日、あれからタジと一緒に、ハキームの部屋を訪れたムラトは、目を覚ましたハキームと、仕事から帰って部屋に駆けつけたハマド様に、きちんと謝りました。

ハマド様が「二度と同じことをしないこと」を強く伝えムラトを許すと、ムラトは安心したのか、ハマド様にしがみついて、大きな声で泣きました。

「見習い薬草師殿、あと三日ですね。さて、今日はどうなることか……もう騒動は懲り懲りですよ」

ファイサルがタジの方を見てわざと眉をしかめましたが、今日のタジは動じません。女中が薬湯をそれぞれのカップに注ぎ入れると、ハマド様の合図で食事が始まります。

が、今日一番に薬湯を飲み終えたのは、ムラトでした。

「タジ、飲んだよ!結構美味しかった」

ムラトは自慢げに空になったカップを持ち上げて皆に見せると、他の弟妹たちにも、薬湯を勧めます。ムラトに強引に勧められて、他のお子様たちも、勇気を出して次々と薬湯に口をつけました。

「本当だ、結構美味しい!」

「私も甘くて好き。明日も絶対飲む!」

ミルクと蜂蜜の入った薬湯を、お子様たちは次々に飲み干していきました。

ハマド様や夫人たちも、そんなお子様たちの様子に、とても嬉しそうです。

「よかったな、タジ」

アルが嬉しそうにタジを見ると、タジは胸がいっぱいらしく、涙をこらえながら何度も頷きました。


 食後、二人はファイサルの部屋に呼ばれました。

ファイサルは二人を見ると、黙って頭を下げました。

「色々言い過ぎました。私は屋敷の全てを取り仕切るお役目を頂いている以上、ああするしかないのです」

「分かっています」

タジは微笑みます。アルもしょうがねえなぁ、と苦笑いしています。そして、ファイサルは咳払いを一つすると、いつもの執事の顔に戻りました。

「お二人のハキーム様の手当、お見事でした。ハマド様からこれからもよろしく頼むとの伝言です。それと、一つ私から個人的なお願いがあるのですが……」

ファイサルは言いにくいそうに、しばらく目を泳がせると、意を決したらしく二人に手招きしました。

こんな息がかかるほど近くに呼んで、いったい何のお願いだろう?と二人が顔を見合わせていると、ファイサルは小さな声で言いました。

「私の薬湯にも、お子様のと同じ、ミルクと蜂蜜を入れてもらえませんか?やっぱりどうも、あの味は苦手で……皆様には内緒でお願いしますよ」

はい、分りました。と素直に承知したタジの隣で、アルがニヤニヤしています。

「どうしようかな?ファイサルさんが薬湯飲めないなんて、お子様たちにバレたら、もう誰も言うことを聞かないだろうな……」

「アル殿、頼みます!くれぐれもこのことは内緒で!」

必死の形相のファイサルを見て、アルはいたずらっぽく微笑みました。。

「冗談ですよ。誰にも言わないでおいてあげますよ」

アルが言うと、ファイサルはほっとした顔で苦笑しました。

「これからも皆様を頼みましたよ。見習い薬草師殿」

「はい」

タジとアルは、久しぶりに心から晴やかな気持ちになりました。

さあ、今日も仕事です。二人はファイサルの部屋を後にすると、薬草師部屋へと急ぎました。



いつもありがとうございます。

これからもよろしくお願い致します!

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