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和国世崎の生ひ成り帳  作者: 六曲
9/12

花の宴

 先代上様が亡くられた後、早急に代理としてたてられた将軍がその正室、御台所である。何故ならば二人の間に子は無く、また御台は養子を取る気もないというのだ。しかし幕府と朝廷という関係が無くなった今、国の実権を握るのは三都と定められている。そしてその三都のうち、現時点で政権の頂点に立つのは世崎とあかし大郷おおざと、そして中から一つの都とその都を治める者が国を治める者とされている。

 城の大奥に残る豪華絢爛に彩られた着物で身を飾った女子は、先代将軍の側室であるが、奥勤めである若い女子たちは現将軍である御台所の世話役を任されている。その女子たちは五色祭りの準備で忙しい中、自分達も御台の傍に相応しいよう、髪飾りから化粧、着物といっそう新しくして周りよりも一段と目立つようにするので忙しい。

にえのようだ」

 ぼそりと呟く声に振り返れば、なんとも身なりの質素な男姿をした女子――佳乃が、納戸色をした打掛で腕を組みながら、御台のおらぬ朝礼の様子を眺めている。小声で稲は首を傾げた。

「にえとは……?」

「飼い殺しにされた魚のようだと言っている」

「ああ、なるほど! 確かに艶やかなお着物は鯉や金魚のようでございます」

 うっかり大きな声を漏らした稲は周囲の注目を集め、その後きつく叱咤されたが、佳乃はいつの間にやらその場から消えていた。この日だけではない、小僧の騒動から城へ戻り、側用人の任を解かれた稲はほとんどと言って良いほど佳乃と顔を合わせることはなかった。もとより仕える場が違い、表使いでお三の間を務める稲と、中奥で寝食を過ごす佳乃が並んで言葉を交わすなど、通常ならばあってはならぬことであった。


 今一度言うが、柳の小僧騒動の終わりと共に、稲は付き添いの任を解かれた。一時的なものだと知ってはいたが、あれからというもの同じ城内にいるとはいえ、佳乃と稲は顔を合わせたことがない。それは勿論稲が未だに御三の間で雑用をせっせとこなしているのに対し、佳乃はといえば御庭番として御代様にお仕えなさるため国へ戻って来たのだから、中奥で御台様のお帰りをお待たれになされているのだろうと稲は思った。本丸にも入れぬ一端の小娘と合わせる暇などないのだ。

 あのとき、騒ぎの最後に稲が目にしたものは、恐ろしくも相手めがけて豪腕を振るう佳乃の姿が笑っているように見えたのだ。温情のあるお方ではないがそれでも決して悪い方ではない、そう思っていたのだが、それでも噂に聞いた『佳乃様が何故北国へ飛ばされていたか』の話はどうやら噂ではなかったようだ。

 それは小僧騒動が終わり、久しく感じる自分の寝床へ戻ると、唐突に部屋子の皆々から労いの言葉をかけられたことから始まった。やれ恐ろしいことをされなかったかだの、怪我はないかだの、蓮成様にも言えぬようなことはなかったかだのとそれは半分好奇心も混ざっていたのだろうが、本気で心配している声もあった。中には何度も宿下がりが出来てさぞ良い気持ちだろうといった意味の、皮肉も混ざっていたが。


 思い出し、遡るのは柳の小僧の一件で佳乃が長屋を拳で叩き割る半刻ほど前。佳乃と二手に分かれ、奉行所へ足を運んだ先での話である。初老の与力がふうと息をついて話し始めていたこと。

『六年前……不平不満を募らせた奉公人や辺りの村民らが城の門まで詰めかけた、一斉にだ。それもどうしてか警備が手薄な頃を見計らったように、まんまと城に入り込まれた』

『奇襲とはいえ踏み込んだのは侍じゃない、鍬や金物を武器にした農民ばかり、ざっと百はいたんだろうが大抵が城で守りを務める兵にやられた。……その民らに上様への反感を差し向けた者がいる、そして城内部に通じている者がいたのは確かだ。奴らは結局負けちまったが、城に仕えるお侍達の命もだいぶん奪っていった。一民の思いつきだとしてもあまりにも策が出来過ぎている、そうして名前が挙がったのが……』

『……それが佳乃様だと……?』

『あの方は今でこそ城に仕える人間だが、本来そういった身分じゃない。拾われて、御子が為されない上様と御代様のご寵愛を授かっただけだ。だからこそ死罪を受けず、ひとりのうのうと生き延びて、あまつさえ再びこの世崎に帰っているじゃないか』

 稲の頭の中で男の声は遠くなっていたが、内容はしかと近くに覚えている。

『あんたも貧乏くじを引かされたね、まあ、せいぜい警戒するこった』

 警戒。確かに危うさは感じた、だが、もうお近づきになることもないだろう。稲は安堵なのか心配なのか、自分でも分からぬ心持ちのまま、短くため息をついた。



 一方、城下での調べを任されたとはいえ、佳乃の住む場所は城内である。そのうえ御代様がとうとう五色参りを終え、城へ戻ってくるというもので、世崎の城下はもちろんのこと、城内はより慌ただしかった。今朝の朝礼もそうだ。

 将軍の居る城では、毎春、花見と共に大きな宴が開かれる。とはいえ今回は五色参りがあったために早くに準備が行われている、花もまだ満開とまではいかぬ。それでも恒例行事として行われるのが、毎年の決まりなのだ。厨房では食事から菓子までの用意で慌ただしく、将軍に仕える女は皆共に着物や帯に簪と将軍の目につけられるよう、新しいものばかりが揃えられる。だが世崎の現将軍は女子であり、御台様ということもあってか城の中では男子も身なりに気を遣わずには要られなかった。そんな中、お目見以下のお三の間である稲は、それよりも相変わらず、いやそれ以上に仕事で手一杯であった。今日も朝から部屋の隅から隅まで埃叩き、畳掃除、そして現在が廊下の床拭きである。宴の準備に人員も割かれ、その分下へと回ってくる仕事が多いのだ。

「おい」

 と、床掃除の途中で声をかけられ顔を上げる稲は、汗を拭きながらはっとし、急いで姿勢を正した。目の前に立っていたのは、長髪を結った袴姿の女子、佳乃であったからだ。

「こ、これは、佳乃様。お邪魔を致しました」

「堅苦しいのは良い。なんだ、この慌ただしいのは。庭でなんぞあったか」

「あ、いえ、五色参り終わりの宴準備でございます」

「表大奥まで忙しいのか」

 どうでも良さそうに相槌を打って、佳乃は稲の畏まった態度に顔をしかめる。

「そういえばお前は……前に見たな」

「ま、前に……」

 人の顔を覚えるのが苦手だとは言ったが、共に城下へ下りた人間の顔も忘れてしまう程だとは。それも、今朝見かけたばかりだというのに。稲は怒りとも悔しさともわからぬ心情で、こほんと咳払いをした。

「わたくし、以前、佳乃様と共に宿下がりをさせて頂きました。稲、と申します」

「そうか、あの時の女中か」

 冗談でもなく本当に忘れられていたのかと思うと、怒りも呆れに変わってしまった。

「御台様がお戻りになられるのは五日後だと聞いたが」

「ですから、御準備に五日もないので皆忙しいのでございます」

「せわしないものだ」

 まるで他人事のように、欠伸をして佳乃は廊下から見える、着物を選ぶので精一杯な女中らを眺めた。

「町にでも下りるか……」

 と、ぼそり呟いた佳乃の言葉に稲は目頭を上げて、きつく声を上げる。

「なりません! いくら佳乃様とはいえども、将軍様がお見えになられる宴を出るなど、以ての外。藤様からもそうお伝えられております」

「御台様がお戻りになられる前に、戻ればいいのだろう」

 そう言うと、佳乃はどこか楽し気な、悪戯ッ気のある横顔で中庭を見た。その先にある城下町を期待しているのだろう。稲にはその言葉で、佳乃を止めることは出来ないと察していた。

「藤や蓮成の爺には適当な嘘でもでっち上げておけ」

 警戒するんだな、とあの声が再び頭の中で聞こえて来た。稲は咄嗟に声を出していた。

「なりません」

「……なんだと?」

「佳乃様が城下へ下るというのなら、わたくしも付いてまいります」

 それは流石に佳乃の想定外の返答であった。稲といったこの女中、自分の仕事は床掃除で終わりだという。お三の間であるからにはこれからも雑務は増えていくのだろうが、それでも佳乃の付き添いとすれば藤は喜んで付き添いを言い渡すだろう。先日の澤村といい、古賀といい、世崎に戻ってからというもの人間関係が複雑になってやまないなと佳乃はこめかみを抑えた。


 勿論、宴という緻密な仕事がある準備の最中、佳乃に与えられた仕事はなく、以前のように師より仕った『城下の様子を見に』という命を言い訳に城下へ下りていった。稲にも藤、蓮成よりしかと佳乃の傍を離れぬよう命ぜられた。

 しかし城下へ行こうと何処へ行っても人、店、人、店、大通りなどは人でごった返し、売り物を捌く声で稲は耳がつんざきそうだった。佳乃はというと、平気な顔で人の間を縫って歩く。稲は向かってくる人にぶつかりながらも、はぐれないようにとその後ろ姿を追う事に必死である。

「とはいえ……どこもかしこも五色祭り一色だな」

「それは勿論でございます! なんといっても四季折々あるこの国、春一番の催し物でございますもの。皆どこも花見の準備で忙しいものでございます」

 ふと、そこで稲は気付いた。わりかし人気の少ない橋の隅で、足を止めた稲に気付いた佳乃が振り返る。

「佳乃様、おひとつお伺いしても宜しいでしょうか」

「なんだ」

「佳乃様は世崎の出身と伺っております。こういった催しにもお詳しいのではございませんか? それを何故、わざわざ祭りの準備で騒がしい城下へ参られようと思われたのでしょう」

 む、と怒ったわけではないが佳乃の口がいつもよりへの字に曲がった。痛いところを突かれたとでも見せるように。その後、ふうと短くため息をついて、頭をかいて言うのだ。

「城の中よりはマシだろう。あそこは息が詰まる。お前とて、あのつまらん雑用ばかりよか、私の付き添いのほうが楽だと思い志願したのではないのか?」

 最後の言葉こそ皮肉ではあったが、初めの言葉こそ佳乃の本音なのだろう。城に留まり、仕事らしい仕事をしている姿を見たことは無い。書は勿論の事、道場での稽古やお茶事に精を尽くしている姿も一度たりとも見かけた事がなかった。それほど佳乃にとっては、あの城自体が鳥籠のようなものなのかもしれないと、稲は息抜きに城下へ下りようとする佳乃の気持ちがほんの少し分かった気になっていた。

「しかし、これでは暇の潰しようもない」

 佳乃の言うとおり、五色祭りというのは城で祝う行事の事をさすが、それに伴い今回は五色参りに世崎の国主である御台所が参ったものだから、城下では通常よりも人の賑わいは相当なものだ。年末年始の買い付けである大騒ぎが終わったというのに、町では縁起の良い置物や飾り物、子供の玩具や新しい簪に帯など大振る舞いだ。こんなところをうろついたところで暇も潰せない、それどころか人に揉みくちゃにされておしまいだ。さてどうしたものかと二人が考えていると、佳乃はよく見知った顔に、嫌な顔を見せた。

「これは佳乃様。先日振りでございます」

「……こんなにも人がいる中でお前と会うとはな」

「澤村の言葉を借りるのならば、縁というやつですな」

 そう、眼鏡をかけ背丈の高い男。柳小僧の件でも小里会の件でも目にした、そしてつい先日佳乃子の城下での舎弟分という枠に収まった古賀太一である。稲は少し考える素振りを見せたあと、ああと声を上げた。

「あの、以前に堀田様のお屋敷で会われた……」

「古賀だ。藤に話は聞いているだろうが、城下での案内人を務めている。この女中は………、稲だ」

 しばらくの間があったが、稲という名が出たことで本人は納得したように頷いて古賀へ会釈をした。古賀もその顔は覚えていたようで同じように会釈を返す。

「此度も何かお上の別件で?」

「いいや、暇つぶしだ」

「城は五色祭りでお忙しいのでは」

「そうですとも! ですが佳乃様が城下へ行きたいと仰るものですから、私めが付き添いに出たのでございます」

 成る程、ととうに佳乃の性分を理解している古賀はその経緯になんの疑いもなく頷く。佳乃はというと、全く素知らぬフリだ。それよりも、と佳乃が口を開く。

「どこか休まる場所はないか。道も茶屋も、こう人が多いとうっとおしくてたまらん」

「それなら、うってつけの場所があります」


 どうぞこちらへ、と案内されたのは町の中心から少し外れた芝居小屋であった。客はいるが、やはり五色祭りで賑わっているせいか中心から離れたこの場所は空席が見られる。そのうえ、古賀が一度裏へ回ると、正面入り口ではなく裏の役者達が出入りする戸から中へと入れられた。

「どういうことですか?」

「自分は浄瑠璃芝居の作家もやっておりまして。今日はその人形芝居の上演なのです。ですからこうして、無料同然で、人気のない席もとれたというわけで」

 佳乃と稲、そして古賀は一段目にある一番前の席で人形浄瑠璃の芝居を観る事となった。太夫の太く通った声の語りと三味線の鳴らす音で、芝居は始まる。「五色の花」まさに今の季節ぴったりとも言えようその題目に、佳乃はうんざりする。芝居の内容はこうだ。植木職人である主人公の男は城に命ぜられたため、五色祭りにぴったりの五色の花々を、祭り当日までに各地をあちこち走り回って探し回るのだ、その道中で賊に会ったり茶屋の娘に惚れられたりと騒動があるのだが、五色の花を見つけ、やっとの所で戻った主人公だが、城からはもう五色の花を必要とされておらず、骨折り損かと思ったところで、道中で出会った人々をきっかけにその花々を飾りに見立てて売り出したところ、思いの外これが好評で、それもお上から言いつけられた贅沢品であったのだといえば箔がつき、結局主人公は骨折り損にもならず花も売れに売れて大盛況。というオチである。

芝居を観終わった後、意見はそれぞれに分かれた。

「私は、茶屋の娘との恋模様をもう少しみとうございました!」

「ああ、そこは本来書いた部分を削りに削られまして。歌舞伎の生世話物きぜわものを組み込み書いたものです」

「佳乃様はどうでございましたか?」

「さあ、特にこれといってな」

 佳乃の言葉に嘘は見られない。芝居事態に興味がないのか、舎弟とはいえ本当の意味で暇つぶし程度に見ていたに過ぎなかったのかと古賀がその様子を見ていると、だがと佳乃の声がする。

「賊が襲い掛かってくる場面、あそこは見覚えがあるぞ」

「……お分かりになられましたか。あれは貴方様の立ち振る舞いに便乗して書かせて頂いたものです」

 そう、古賀は佳乃との出会い後、戦いの場面は常に佳乃の立ち振る舞いや動作を思い浮かべて意識しながら書いていた。指導もそうした。それに気づいてもらえただけでも上出来か、と古賀は首を捻る佳乃を見て思う。当の本人はつまらぬ顔でもなさげで、かといって満面の笑みというわけでもなかった。



 芝居小屋を出た三人は一息つき、辺りは昼八刻となっていた。それでもまだ人々の活気は息づいている。

 五色祭り、簡単なところ花見ではあるのだが花見といえど城下には桜の木々はそうそう植わっておらず、大きな武家屋敷に一本ずつが見栄となるように植わってるだけ。庶民が花見をする場合、地区ごとに大きな広場(普段は棒手振りや子供の遊び場)で行われるのだ。

 腹が空いたという佳乃の一言と、古賀の提案で三人は店屋へ入る事とした。すると歩いている向かいから来る男が、稲はどこか見覚えのある顔だと思い佳乃に耳打ちをする。

「佳乃様、覚えていらっしゃいますか。堀田様のご子息でございます」

 言われてみれば、なんとなく覚えのあるような無いような、と佳乃は薄っすらとしか覚えていない堀田とその息子を思い浮かべる。古賀のほうはというと気付いていた。此方から声をかけない限りよほどのことは起こらないであろう、横を通りすぎ古賀がそう思ったとき、意外にも声をかけてきたのは相手側のほうであった。

「もし、すみません。佳乃様でございますでしょうか」

 通り際に振り返ると、堀田の息子はやはりといった表情で、垂れた目ながらもやんわりと笑んだ。

「堀田家の長男、照吉でございます。その節はどうも、ご迷惑をおかけいたしまして」

「ああ、問題ない。家は息災か」

「はい、おかげさまで……あの後、父は錠前を新しく致しましたし、母も柳の小僧を討伐していただいた佳乃様には頭が上がらないと仰っておられます」

 本来、捕らえたあれは柳の小僧ではないのだがな、と佳乃は心に思いながら息子の話を聞いていた。

「しかし、五色祭りですが、佳乃様はお城にいられなくとも良いので……?」

 会う者会う者が同じ質問を繰り返してくる。此処まで来ると佳乃も「大丈夫、大丈夫だ」と適当に返事をするばかりだった。

「であれば、中央広場で催しが行われております。下ったついでに見てきては如何でしょう。なんでも面白い芸当が見られるとか評判で……。あ、私は店の準備があるので、これで失礼致します」


 中央にある大広場では、大きな桜の木とその周りにそれより背は低いものの、ずらりと桜の木が並んでいる。城にあるものと中央にある大きな一本の桜の木は同じだが、他は種類が違うのだと古賀が説明をする。とはいえ桜から見える花びらの美しさは変わらず、未だ九分咲きで舞い散っておらぬとはいえ物見遊山で集まる人々の数は多い。これが満開になれば、これより倍にもなるのかと思うと、稲は少しぞっとした。だがすぐに、ぷぅんと漂ってきたみたらし醤油の匂いに、稲の意識はそちらへ向かった。その間に、佳乃は古賀が浪人であることを思い出した。いくら佳乃の城下での側付きと命されても金子が渡されるわけではない、日銭は自分達で稼がなくてはならないのだ。

「しかし祭りともなれば、お前達も忙しいのではないのか」

「ええ、ですので今回は澤村がおりません」

 稲はそういえばもう一人、堀田の武家屋敷で番を務めていた浪人がいたなと思い出す、思い出そうとするも顔にはもやがかかって思い出しきれずにいる。そんな稲をよそに、古賀と佳乃は話を続けた。

「あいつは何を?」

「歩いていればそのうち見つかるでしょう。出店も芸当も、今季では今が稼ぎ時でございますから」

 古賀の言う通り、団子屋だけではなく飴売りに稲荷寿司売り、食べ物だけではないお面売りやしゃぼん売りといった子供達が喜ぶような店が軒を並べている。またあちこちから、いらんかねぇいらんかねぇと何かしらを売って見せる声かけが聞こえてくる。成る程、世崎の花見というのはこういうものなのかと、稲は感嘆の溜息をついて眺めた。

「お稲様は世崎の花見が初めてだとか。恐らく城で行われるものとは違い、また面白いのではありませんか」

「は、はい! お城では私共お三の間の者が祭りを楽しむなど以ての外……上様とお上方が楽しむ食や衣、芸の準備に勤しむだけでございますから……、ああ、これは確かに……町の者が見たがるのも無理はございません……!」

「立ち話もなんでございますし、あの店の前で一息つきましょう」


 自分から店を指示するとは珍しいこともある、と佳乃が先頭を行く古賀の後をついていけば、紅白の幕で桜並木を囲った中にあるうちの、一つの稲荷寿司の店へとやってきた。店の前には木板で出来た長椅子が置いてある。古賀がお座りになられていてください、と言うので稲と佳乃は言われるがまま、その長椅子に隣となって腰を掛けた。目の前を、どこの売りから買ったのか、紙で造られた筒の中から竹ひごで出てくる蝶々の玩具を持って走り回った。向かいでは傀儡師が首から下げた箱の中から、小さな人形を出して歌っている。女子供の声、酒を飲む男の声、朗らかな空気が流れる中で佳乃とこうして肩を並べているのが、稲は不思議にも落ち着いていた。

「佳乃様。如何ですか、お久しぶりの城下町は」

「何だ。今更」

「ほら、先日は柳の小僧を追うので手一杯でしたから。こうして町をゆったりと眺める時間も、お話する時間もとられなかったでしょう?」

「ああ、そうだな」

「それで、どうでございます? やはりほっと致しましたか?」

「……ほっと、ね」

 佳乃はこの数年を、ここ世崎から遠い北へと流罪も同罪に扱われていたのだ。そこからやっと戻って来ることが出来て、それも以前と変わらぬ生活を送れているのだから、さぞ安心したことだろうと稲は思っていた。だが、事はそう単純な話ではなさそうだ、横にいる、桜の木の下ではしゃぐ子供たちを眺める寂しそうな佳乃の瞳がそれを物語っていた。

「花見に思い出など無い、それに、世崎にもな……」

「世崎にも、思いが無いと?」

 さぁっと桜並木の葉をなびく風が吹き、二人の足元をまだ涼しい空気が流れた。からんからんと、太鼓売りの太鼓の音が二人の間に流れた。佳乃からの返答はなく、その瞳はしゃぼんを吹く子供とその母親に向けられていた。

「……であれば、これからお作りになられれば良いではありませんか」

 同じように母と子を見ている稲の顔を、佳乃はふと顔を向けて見た。女中の表情は茶化しているわけではない、その顔は真面目で、優し気な顔でこちらを振り向き、にこりと微笑んだ。


 それから程なくして、ようやく店の前に立っていた古賀が動き始めた。後ろから何かを持った、寿司屋の作業着物と寿司屋の名前が入った前掛けをした男、それには見覚えがある。普段は邪魔になっている前髪を上げて櫛で止めているその男は、そう、言わずもがな。澤村であった。

「佳乃様~! まさかこんな所でお目にかかれるとは~! ささ、どうぞどうぞ召し上がってください!」

 来たぞ、とうんざりした顔つきで横に置かれた笹の上に置かれたものを手に取る。稲はすでに両手で笹の皿を持ち、嬉しそうにその中身を開けていた。笹の葉を解くと、中からはふっくらとした甘みのお揚げに包まれた稲荷寿司が。目の前で見てくる男とそれを見比べると、つまりこの稲荷寿司は。

「オレが作ったんでさぁ! いやね、前々から近くの一膳飯屋の下で使われていたんですが、腕がいいってんで今回は花見の出店を手伝えって言われまして。ささ、どうぞどうぞ、ここはオレの奢りってぇことで!」

 稲荷寿司ひとつで何が奢りなのだか、そう思いながら佳乃がきつね色のお揚げをつまみ、ひとつを一口でぱくりとやってしまうと、横で稲が食べ掛けのものを持ちながらぱっと顔を輝かせていた。

「まあ、まあ! わたくしかような美味な稲荷寿司は初めてでございます。じんわりと甘みが広がって、それでいてお米の中に何かしゃきしゃきとしたものが……!」

「へへ、でしょう。ここのお揚げにはお城ほどじゃねぇが、甘みの入ったみりんがたっぷり含まれてる、その上中のおこわには旬の野菜がみじん切りにされて入ってるって寸法さ」

「ん、確かに美味い」

「か、佳乃様……!」

 自慢げに稲へ説明をしたかと思うと、佳乃の素直な評価に澤村は感激の表情で飛びあがりそうな顔をした。その横で立ったまま、同じようにして稲荷寿司を口に運ぶ古賀は何も言わず、もぐもぐと口を動かしている。手前もこの嬢ちゃんぐらい素直になったらどうだ、と澤村は二つ目の稲荷寿司に手を伸ばしていた稲を差して言ったが、古賀は我関せずといった様子だ。

 店番を頼まれているからには、あまり長居するわけにはいかないと、澤村は名残惜しみながらも三人の元を去って出店へと戻った。さっそく店の前には稲荷寿司の甘い香りにつられて人が来ている。桜を見ながらの食事、佳乃は何年振りなのだろうと稲は包みの中にあった稲荷寿司の最後の一つを食べながら思った。流刑では人のいない山奥へと罪人が運ばれ、本来ならばそこで一生を終えるのが定めだ。佳乃もそのうちの一人だったのだから、そのつもりで一人、掘っ立て小屋にいたに違いない。知り合いも友もいない、聞こえてくるのは山で鳴く生き物達や木々のざわめく音、食事だって大層な物が出るはずもない。そんな中、佳乃はどういう気持ちで数年を過ごしていたのだろうか。そして流刑にされるほどの罪とは一体――。

「なんだ、そんなに食べ足りないのか」

「えっ?」

「やらんぞ」

「ち、違います! そこまで食い意地は張っておりません!」

 まだ稲荷寿司の残りを手に持て余していた佳乃をじっと見つめていたせいか、どうやら佳乃は稲が自分の分まで欲しがっていると勘違いしたらしい。そこまで食いしん坊ではないと慌てて否定する稲だが、どうだか、と佳乃は呆れながら最後の一つを頬張った。酢飯とお揚げの甘みが口に広がる。古賀はとっくに食べ終え、包み紙の笹の葉を折り畳んで桜の木々を眺めている最中だったが、稲と佳乃のやり取りをじっと横目で見ていた。

「澤村は稲荷寿司屋、して、お前は花見の時期は何をしている?」

 と突然佳乃が古賀に質問を投げかけた。

「貸本屋の手伝いをしております」

「貸本屋か。お前にお似合いだ」

「それと、芸当や出店の提案など。あそこに見えます的撃ちは自分の案でございます」

 古賀が指さす場所は二人が座っている場所から斜め右に見えた、子供や大人が混ざって鉄砲に似せた筒から矢を吹き出して、棚に並んだ番号の札を狙っている。普段は瓦版の刷りや戯作者をしている古賀だが、祭りの稼ぎ時には二足の草鞋だけでなく三足、四足と様々な職種を巡りに巡っていた。書き入れ時とはまさにこのことだ、城内は宴の準備で忙しく慌ただしいが、城下は誰もがおかし楽しく行事を祝っている。


 いたのだが、祭りに喧嘩はつきもので、花見の席で楽し気に酔っていた男達がふらふらと三人の元へ近づいてくる。稲は食べ終えた包みを慌ててしまうと、男達を避けるように佳乃の座るほうへと寄った。

「い~い花だ、なあ、姉ちゃん、ひとつ俺らに酌してくれよ」

「どっかのお女中か? いい着物じゃねえか」

「ほら、酒だよ酒、男やもめの俺らに付き合ってくれよう」

 稲は、いえ、あの、としどろもどろになりながら引いている。これが素面の人間ならまだしも、酒のみときたら余計厄介で何をされるか分かったものではないから、稲の心中も察することができた。立っていた古賀が間に入って間を取る。

「酒の相手ならそこらに好きなだけ、芸者がいるだろう」

「分かっちゃいねぇなあ、この姉ちゃんがいいんだよぉ」

「それともなんだ? 俺らが邪魔だってのか?」

 男達は古賀と同じく浪人か、腰に刀らしきものを下げている。

「ああ、なんだぁ。そこにいるのはお城勤めの佳乃様じゃぁねえか? なるほど、それでお女中連れてお楽しみってわけだ」

「俺ぁあんたが気にいらねぇ。あんな事件起こしといて、よくものうのうと戻ってこれたもんだ。どうせ先代将軍さまか御台様さまにでも体を売ったんだろう。小里会だって、柳の小僧だって、あんたが解決したかどうか、疑わしいってもんだ。奉行所に金子でも握らせたか?」

 佳乃はそんな喧嘩腰の男たちの言葉にも、変わらぬ表情で茶を飲んでやり過ごしていた。だが、意外にも黙っていなかったのはこの人物だ。

「そ、それは違います! そんな、佳乃様は、そんないい加減な方ではありません!」

稲がその場を立ち上がり、まるで佳乃を庇うかのように言い放つ。するとぱっと場が白けたように静まり、そのあとにどっと笑いが起きた。

「佳乃様はこんなお女中でも盾にしなきゃ務まんねぇみてぇだ」

「嬢ちゃん、悪いことは言わねぇ、俺たちと一緒に飲んだほうがよっぽど楽しいぜ」

と男達はそれでも口を止めなかった。ふつふつと沸き上がる不思議な怒りについ立ち上がってしまった稲は、伸びてくる男たちの手を払いのける。だがここであまり喧嘩腰になってもこちらとしては不利だろうと、古賀は咄嗟に言葉巧みで淡々と口を回した。

「お三方。ここにおられるお女中は大層な酒好きで、自分が酌をするよりも飲むほうが良いという女子だ。どうだろう、ここらで一つ飲み比べをするというのは」

 なに?と声を上げたのは男達だけではない、稲も口には出さなかったものの、驚いた顔で佳乃と古賀と見比べている。佳乃は勝手にさせてやれとでも言いたげに、古賀の口から出まかせをただ眺めているだけだった。



 広場で飲み比べ対決をすると聞きつけ、広場の中央、大きな桜の木の下にござを敷いた辺りには、いつの間にか人が大勢集まっていた。芸当ではないとはいえ、いい見世物だ。

「では両者、互いに三対三の飲み比べ勝負。三人分の飲んだ酒の量が多かったほうの勝ち。勝てば酒はタダ、負ければその分の酒代はそちらへ。宜しいな?」

 対決を公正に判断し、見守るのは古賀。となるとその分空いた三人目というのは、寿司屋を他の手に任せた澤村が務めた。間接的とはいえ、佳乃様のためならば! といの一番に名乗りを上げた男だ。そして強制的に参加を余儀なくされたのが佳乃である。その場にいた当事者の一人として致し方ないのだが、その顔には眉間に皺が寄ったままだ。対して気が気でないのが稲である、自分の酒の強さなど底が知れているのだから当たり前なのだが、そもそも酒にはめっぽう強いわけでもめっぽう弱いわけでもない。あの場しのぎの口八丁とはいえ、古賀にはしてやられた。

 出店をしていた酒屋からすればどちらが負けても儲かりものだ、歳食った酒屋の旦那と若旦那はほくほくとした顔で酒を運び出してきている。これはもう後には戻れない、と稲は心の中でどうしようと半ば泣いている。

「わ……わたくし、わたくし、もしも負けでもしたら如何いたしましょう」

「だぁいじょうぶだってぇ、俺が佳乃様の顔に泥を塗るような真似はさせねぇから!」

「……私が数に入っている事をもっと慎重に考えろ」

 それぞれ話し合いの結果、一番手に澤村、二番手に佳乃、三番手に稲という順番で決まった。早々に相手を潰せば勝ちに越したことは無い、そうなれば稲まで順番が回ってくることもないだろうというのが澤村の考えである。

「よぉし、さっさと白黒勝負をつけようじゃねぇか!」

 威勢のいい澤村の声に対して、すでに酔っている男のうちの一番手が大笑いして応える。

「いい若造だ、気に入った! よし、酒だ! じゃんじゃん持ってきな!」

 かくして、酒飲み対決は火蓋が切られた。周りからはどんどん野次が飛んでくる、「いいぞぉ」「飲め飲めぇ」「もっと飲めぇ」稲は自分の番が回ってこないようにと両手を握り、一生懸命祈りながら、佳乃の隣で澤村の様子を食い入るように見つめていた。


「一人目が潰れたぞぉ! もっと持ってこい!」

 早々にして潰されたのは、澤村のほうである。目をぐるぐると回して、顔を真っ赤にしたままその場に突っ伏してしまった。眠り上戸なのか、既に寝ている。稲の祈りも虚しく、澤村は自分から言い出したくせに酒が強くないと見えた。寝て酔いつぶれた澤村を古賀がその場から引きずりだし、次に現れたのは佳乃だ。あまり乗り気でないことから、佳乃もまた酒が強くないのであろうを相手は見てとった。

「では、勝負!」

 男が新たな酒を注いだ杯を手に、佳乃もまた一杯目の杯を口にした。


 先に澤村の相手をしていたこともあってか、相手側の一人目は佳乃の三杯目で酔いつぶれ、交代となった。これで互いに二人目だ。二人目の相手は体格も良く、酒豪だろうなと見てとれるほどである、何せこれまで散々飲んでいただろうに全く顔にも出ていないどころか無口で仕草や言動にも出ていないのだ。酒を飲むと人間の本性が出るとはいうが、二人目の男にはそれが一切見られない。

「では、勝負」

 男が言うと、佳乃は四杯目を、男は一杯目の杯を掲げて飲むこととなった。


 周囲の人間はもはや煽り立てる暇もなく、ごくりと唾を飲みながら二人の飲み比べを頑なに見守っていた。中でも一番心の中で応援を送っていたのは、言わずもがな稲であろう。澤村と一人目の相手とは違い、互いの二人目は酒豪同士であるらしい、次から次へと酒が流れるように注がれる杯、空になっていくちろり(酒を入れる器)、酒樽ごと持ってきたほうがいいんじゃないかと周りが思うほどだ。

「こりゃぁ酒の肴がほしいってもんだなぁ」

 と男が呟くと、ほんのり目元が赤らんだ佳乃がふと笑った。

「同感だ」

「田楽、煮っ転がし、湯豆腐……あんた、よく呑むじゃねぇか。佳乃様っていったか、もしまた城下に下りることがあったら、そん時ゃ居酒屋にでも付き合ってくれよ」

「考えておこう」

 ここが賭けの場でなければ酒屋はひっくり返っていたかもしれない、何故なら以前と違い、酒は嗜好品として高く税をとられているため値段もする。こんなに酒が飛び交うと、店も客もたまったものではないのだ。それをこの二人は水のごとく、ごくりごくりと飲み干していく。そのうち、両者の腹はいっぱいになってきた。酒だけなのだからたまって当然なのだが、二人の顔色に酔いは見られない。

「あんたぁ……ザルかい……?」

「……さあな」

「…………参った」

 と言って潰れたのは、男のほうだ。まるでここで終わりかのように周囲の野次馬たちからはぴゅーぴゅーと口笛が鳴る、だがまだ終わっていない。そう、勝負は三人までなのだ。いい加減具合が悪くなりそうな佳乃の前に、三人目の男がどっかと場所をとった。

「ぃよぉし、最後は俺が相手だ。あんたといい次の女中といい、男三人に対して女二人なんて、負けたら恥ってもんだ」

「……。」

 途端、どすんと音がして、数秒後に皆はそれが佳乃の拳が敷かれた茣蓙を叩いた音だと気が付いた。

「敗けた、私はもう飲めん」


 えっと驚いたのは相手のほうで、ごくりと小さく息を呑んだのは稲だ。その顔は素面そのものだが、まだ飲めそうなものを、佳乃は立ち上がるとふらりとした足取りで、眠って潰れている澤村の横へ座り込んだ。そうなると、次に残されたのは稲だ。ささっとした小奇麗な動きで相手の前に座ると、両手をつけ、頭を下げて稲は真剣な顔つきをした。

「では、最後はわたくしめがお相手を。宜しくお願いいたします」

 稲が真剣になるには理由があった。相手の三番手となる男は、勝負前に散々、佳乃を馬鹿にした男である。体格や風貌もまったくこれといって強くは見えないが、口だけは一端に見える。稲を前にしても「女が相手だ! こりゃあ勝ったも同然! おい、後ろで賭けをしてる兄ちゃんら、俺の勝ちに賭けりゃ勝ったぜ!」と大声で笑うのだ。周囲の野次馬は笑う者ばかり、そりゃあそうだと言わんばかりに。それが一層、稲の闘争心を煽るとも知らずに。

 負けてたまるか。たったそれだけの理由だが闘うには十分の理由だった。どうせ花見や五色祭りとはいえ、城で自分達に回ってくる酒などないのだし、ここで飲まなくてはいつ飲むのだと、稲は一杯、二杯、三杯と杯を煽っていく。これには初め笑って囃し立てていた野次馬も、そのうち声を小さくしていき、やがて誰も何も言わなくなった。遠くで子供たちがきゃあきゃあと手に入れた玩具で遊んでいる声と共に、ぐび、ぐび、と両者の喉を酒が流れていく。空になっている酒の量はほぼ同列。

「やるじゃねぇか、なんだぁ、てめぇら陰気臭い顔しやがってえ、俺が負けるって思ってんのか? ええ?」

 男が手を止めて野次馬らに絡んでいるうちにも、稲の杯は空になっていく。もう頭は回っていなかった、返す言葉もなく、ただ稲は注がれる酒を飲み干すだけだ。

「畜生、ちくしょう……ああ……こんな……うっぷ」

 がたーんと音がして、杯や空になった胴壺を倒して男が先にその場へひっくり返った。量は同列、そして、これを飲めば勝ちという一杯を、稲は全て、一滴残さず飲み干してぷはっとその場に杯を置いた。

「これにて決まり!」

 もう男らが立ち上がらないのを見て、古賀がばっと手を挙げた。わあっと野次馬らからは歓声が上がり、稲を称える声があちこち飛び交う。一戦を見ていた佳乃は、それでもぴくりとも動かない稲の様子を窺うように顔を覗き見ると、稲は座ったまま顔を真っ赤に、目を回していた。



 ここはつまみ長屋、暮れ七つ刻、夕焼けが町を照らしていた。そのうちの空いた部屋に、佳乃は担いできた稲を寝かせていた。澤村はというと、隣にある自分たちの部屋で横になり、まだぐーすかといびきをかいて眠っているのだろう。あまり長居するとまたやかましく飛んでくるかもしれない、稲が起きればすぐにでも城へ戻ろうかと佳乃が考えているところだった。隣からやってきて二つの水を持ってきた古賀が座敷に腰をかけて、奥で眠る稲を見たあと胡坐をかいている佳乃へ水を差しだした。

「佳乃様、お酒は如何為されますか」

「先は敗けたというのに勧めるか」

「いいえ、貴女様はまだお飲みになられた。恐らくあの下人を上回れるほど本来ならばお強いでしょう、けれどあえて三番手のお女中に回された。それは何故か聞きたくて参りました」

 なんだばれていたのか、とこめかみを掻いて佳乃は眠っている稲を見ながら告白した。

「先に喧嘩を買ったのはこの女だ。自身で決着をつけずに何が喧嘩だ、それに結果、こやつは勝った。それが全てだ」

 そう、佳乃はあの時参ったと言ったものの、実際まだまだ飲むことはできたのだ。それでも稲の番へと回したのは佳乃ではなく、稲の矜持を保とうとした証である。稲も稲なりにけじめをつけようと奮闘して勝ちを得た、それで良かったではないかと。佳乃にしては正論で真っ当な勝負の取り方を取りに行ったのだな、と古賀は思う。そうして奥にいる稲の姿を見て、立ち上がり去り際に言うのだ。

「しかし、このお女中もさぞ大変でしょうな」

「何故そう思う」

「大奥内で見聞きしたものを広めるのはご法度ですが、このお方は聞けばとある下の下勤め。そんな者が、二度三度と、佳乃様のお付き添いとは言え宿下がりを許されている。やっかむ者がいてもおかしくはありません」

 そういえばと、佳乃は城を出る際に他の女中たちが何やらこちらを見ながら、小声で話していたのを思い出す。あれは稲への妬みだったのか。

「女の嫉妬というものは恐ろしいものにございます。もしも佳乃様がお連れ様を少しでも思う気持ちがおありになるのならば、あまりお連れまわされないほうが賢明かと」

「成る程な。……お前の言う通りだ、考えておこう」

 とりあえずは稲の酔いが冷めるまで、とつまみ長屋の一角を借りて佳乃は側で古賀のいれる茶を飲みながら、長屋のあちこちから聞こえてくる人々の声や音を耳にしていた。子供の声、諫める母親の声、物売りの声、鳥の鳴き声、人の歩く音。少し目を閉じれば昔の事が思い浮かんでくる、すっと目を開いて、そして稲の赤い頬を見て飲みっぷりを思い出し、佳乃は人知れず肩を揺らして笑うのだった。



 その翌日、城でまたお三の間として仕事を務めようとした稲に、朝いちばんに藤から収集がかかった。一対一で用意された部屋は個室だが二人以外の何もなく、もしや先日なにか粗相をしただろうかと稲は緊張で体を固めた。だがそうではなかった。

「その者、今日より、御庭番である本田佳乃子の付き添い人として任を命ずることとする」

 藤の白い顎鬚が淡々とした口調で告げる中、ぽかんと開いた口は塞がらず、あの、ええと、と困惑しながらも稲は頭を回した。

「これは佳乃様からの命令である。であれば蓮城様からのご命令であると捉えよ。異論は無いな」

「佳乃様から……」

本人自ら、自分を側近に置くというのか。確かに何度か一緒に宿下がりはした、だが小姓としても影武者としても何にも役に立った覚えはない、むしろ足を引っ張ってばかりな記憶ばかりが思い浮かんでくる。

「藤、ああ、ここにいたか。蓮杖が呼んでいたぞ」

 すると廊下をどっかどっかと歩く音がし、話の本人である佳乃が障子をがらっと開いて言った。藤は「女子がそのような足音で歩くものではありません!」と小言を言ったがお構いなしだ。

「なんだ、邪魔だったか」

 藤はこほんと一つ咳ばらいをして、声色を正す。稲も同じように背筋をしゃんと伸ばした。

「いいえ。今先ほど、この者に佳乃様にお付きの者として役柄を与えたところです。返事は聞いておりませぬが」

 それはずるい、本人を目の前にして否と答えられるだろうか。しかし思いがけないとはいえ、理由は何にせよお三の間から一気にお小姓とは異例の昇格だ。なんと答えていいかわからず、稲は自分の中にある疑問を、目の前に現れた佳乃へ見上げてぶつけた。

「……その、何故わたくしだったのでしょう」

「こら、なんという口の利き方を……」

「良い。藤、黙っておけ。何故と? 不思議な奴だ、普通ならば昇格昇給に二つ返事で返すものだがな」

「ですが、その……柳小僧の件といい、此度といい……わたくしは佳乃様のお傍にはいたものの、何のお役にも立てませんでしたし」

 口をもごもごとさせて首を捻る稲に対し、佳乃はあっけらかんと言い放った。

「そうだな。言うならば私の気まぐれだ。それと」

「それと……?」

「お前の食いっぷりは見ていて清々しい」

「ま、まあ……!」

 恥ずかしいやら怒りたいやらの気持ちで顔を赤める稲に対して、くくく、と目を細めながら笑った佳乃の顔は、好きな子を苛めるそれのようで、藤はあっけらかんとしながら二人の様子を見守っていた。こうして、二人は自他共に認める主従関係を結ぶ事となったのだ。



「しかし先日に続き、浪人にお三の間であるお女中とは……宜しかったので?」

 そう問うのは白鬚を揺らしながら廊下を歩く藤、対してその前を歩くのは背筋の伸びた、月代も剃っていない美しい男、蓮成その人である。

「ええ、あれで良いのです。でなくては佳乃子も二の舞になる……世崎へ戻した意味が無くなってしまう。しかし三人とは、呼び戻すまでは思いもよらなかったことですが……」

 そう言って微笑む蓮成は、中庭で散る葉をふと見た。もうすぐ五色祭り、御台様は既に世崎の目の前に居られる、準備は整っている、城下町のように飲めや歌えやというわけにはいかないが、それ相応のしきたりを以てして、五色参りをなされた御台様をお迎え差し上げなければ。中庭にも植えられた一本の桜の木を見て、蓮成は前を向き歩き出した。


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