柳小僧を捕まえろその6
明六つ(約7時)、佳乃は寝起き早々に結われた髪で、稲は自分であげたお髪で町へ出た。
この場合町というのは屋敷を出て橋を渡った向こう側、町民達の活気づく『まち』である、近所の話を聞いて回るのではないところを見るとよっぽど空気が合わないのだろうなと稲は言われるがままに後をついてゆく。静かな屋敷が並んだ通りをすぎ川を渡ると、既に辺りの人々は慌ただしく、一日が始まろうとしているところであった。
秋房のごますりを嫌がっていた佳乃が、これ以上堀田家の手助けをすることはないと思っていたが、意外にもその足は真っすぐ城へ向いていないところを見ると佳乃は秋房の頼み通り、小僧から宝を取り戻す気でいるらしい。
橋を渡り終える前で、豆腐売りが桶を担いで目の前を横切ったのを眺めながら歩いていると、佳乃が横目にふっとため息をみせた。
「も、申し訳ございません」
稲は恥ずかしそうにくわえていた指を離す、今のため息は明らかに小僧を追っている最中だというのに豆腐なんぞに目移りをして、事の重大さを分っていないなどと呆れているものに思えて、稲は首を竦めた。確かに豆腐は味噌汁がいい、いや冷奴も、いや冬に食べる湯豆腐も……などと考えてはいたが口には出していなかったはずだ。それまでも見透かされていたのだろうかと佳乃の顔をもう一度見上げると、佳乃の視線はそんな稲からすでに離れて前を向いていた。前、というよりは町の活気づいた様子を見ていたのかもしれない。
朝早くから町をまわる歩き売りの者が見える一方で、裏長屋から出て来た童たちが走り回っては母親にさっさと朝の膳を食べるように叱られていたり、表店では早いところでもう店の準備が始まっている。腕を組みながらその光景をじっと見ている佳乃の横顔は、どこか憂い気な面立ちをしていて稲はなんと声を掛ければ良いかわからなくなっていた。しかし
「……まったく蓮成の爺さえいなければ、こんなことには……」
と呟いたのを聞くと、何か決意を示されたわけではないようだ。
稲は自分の行為を叱咤されたわけではない、それは良いとしても佳乃は自分がお付きとしている事を気にも留めていないようなので少し肩を落とす。そうして稲は困りながら、佳乃が『爺』と称する蓮成の顔を思い浮かべてみた。地位をかさに着てふんぞり返ることもなく気づかいは細やかで、自分のようなお目見え以下にもあれ優しげに声をかけてくださった。実際のところは分からぬにしろ見目は若く、たとえ離れた城下にいたとしても爺と呼べるような代物ではない。
師の言葉だからなのか単に敵わぬ相手だからなのか、昨日の秋房の言葉に出た時も同じく普段のしかめっ面に加えて苦い表情をしていたということは、それほど蓮成が苦手なのだろう。
豆腐売りの次は納豆売りが目の前を横切り、稲はパンッと両の手を打って音を鳴らした。
「一刻も早く小僧を捕らえなさって、蓮成様へ報告致しましょう。さすれば佳乃様のご自由な時間もこれからたっぷり頂けます!しかし、とはいえ行先となる場所がありません。如何いたしましょう」
突然、稲はその朝日さながらの明るい振る舞いとは裏腹に行くアテがないと喋りだした。佳乃はその大きな声になんだと顔をまたしかめたが、確かにそれの言う通り、宛もなく悪戯に歩き回るだけでは時間の無駄となるだけである。
「でしたら御一つ案がございまして。宜しいでしょうか」
「何だ」
「お奉行様の所へ参られてはいかがでしょう」
『奉行所』または詰所とも言う。罪人が責問されたり裁きを受けたりする場所だが、稲の言うように中にはお奉行すなわちこの場合は町奉行がおり、与力や同心といった者たちがいくつかいるだろう。稲の提案はその幾数人かに、小僧の情報を聞き出せないかというものであった。この町の奉行所はここからそう遠くはない、というのも昨夜のうちに稲が堀田家の女中から聞いていたのだ。
「なんでも、お奉行様方も小僧には手をこまねいているとか。詰所へ参り、私共めらが城からの使いで参ったと事情を話せば、多少なりとも何か救いになる手立てを打ち出してくれるのではないかと……」
これが手っ取り早く、今一番早くに情報を手に入れることができる良い方法であるのは間違いない。だがそれを聞く佳乃の首は縦には振られなかった、それどころか「お前は奉行所へ行って、聞き出せることは聞き出して来ればいい」というのだ。稲は自分一人で行ったところで詰所の人間が信用してくれるとは思えない、それに何よりお目付役として側にいるのだから、稲が佳乃と離れてしまっては意味がないではないか。
「目付役云々はお前が蓮成に話さえしなければ誰も分かりはしない。今は……五つ前か、なら朝四つにあそこに見える茶屋で落ち合えばいい」
「で、ですが」
「わかったほら、爺からの公文書だ。この文書を持つ者の頼み事を断るなとそんなことが書かれておるはずだ、持っていけ」
「……佳乃様はそれまでの間何をされておいでですか」
まさかずっと茶屋で寝転がっているわけではあるまい、そんな羨ましいことが、と稲が首を傾げると佳乃の顔が納豆売りの行く先をくいと顎でしゃくってみせた。
「もう一度、あの浪人とやらに話を聞きに行く」
なんだろうと稲がその先を覗けばそこには、見知った男が一人、ちょうど納豆を買おうとしているようで、佳乃はそれを顎をさすって眺めた。
裏長屋から顔を出し、いつもより早い納豆売りを引っかけて二人分の納豆を手に入れると澤村は鼻歌まじりで長屋へ戻った。住んでいる裏長屋はこの町へ来てすぐに転がり込んだ町の端にある裏長屋とは違い、九尺二間、そこに四畳ほどの座敷と竈に流しがついているものだから使い勝手がいい。とはいえその四畳に大の男が二人寝るものだし、昼間はもう一人が書き物をするためにあちこちへ紙や筆を散らすものだから、狭くて苦しいったらありゃしない。それでも澤村はこの裏長屋が気に入っていた、理由は簡単。
「あらトシさん、今日は早いじゃないか。お役御免されてんだから、もっと寝てりゃあいいのに」
「今日はちょっとな。仕事の話はよせよ、そのうちまたどっかで雇われてやらぁ」
「うちの息子もあんたぐらいあっけらかんに育ってほしいね、そういえば納豆売りはもう行ったのかね」
「それなら今さっき別に行っちまったよ、なんなら一つ分けようか」
「いいのかい?なら干乾し大根と交換でどうだい」
この世崎へ来てからというもの、住むにも生きるにも苦労はしてきたが、ここ以上に良い裏長屋はない。澤村は物々交換した品を両手に井戸へと寄った。
他所から来て、そのうえ浪人風情の自分たちとこうして惣菜の分け合いなんぞしてくれるのだから。住まい云々ではなく、この長屋以上に居心地の良い場所はない。片手に納豆一つと豆腐半丁それに交換した干乾し大根、長屋共同の井戸で水を汲んで、澤村はほくほくとした顔で自分の住まいに戻った。この大根は早速朝に水に戻して使うかそれとも夜にしようか、なんて考えながら引き戸を開ける
――するとそこにはこの場所に似つかわしくない、お綺麗な匂いのする人影が畳に腰かけていた。
「……おい、なんだって朝からあんたの顔を見なきゃならねぇんだ?」
一瞬にしてどすのきいた、低い唸るような声で澤村はその人物を睨みつけた。畳にはもう一人、ここの家主の一人である古賀がすまし顔でさらさらと何か書いている、古賀は何も驚くことなくまた澤村を宥める風でもなく淡々と言ってのける。
「柳の小僧について話があるとか、ないとか」
「あるから来たのだ」
そう答えたのはその佳乃、本人であった。畳に腰を掛け、いかにも客ですといわんばかりの顔で堂々と土間に足を下ろしている様が澤村は一層気に食わないようで、口を閉じながら干乾し大根を水屋の中へしまい込んだ。
二つくどと呼ばれる竈の二か所あるうちの一つには既に鍋が置いてあり、熱気はあるが火はついていない。米が炊ける甘い匂いは、お櫃に入った先ほど炊きあがったばかりの匂いだろう。澤村は水を下ろすなり持っていた食べ物を棚の上にあげて置き、まるで佳乃の事を無視するかのように味噌汁を作るのに取り掛かった。
鍋を開けると良い香りがした、香りの正体である昆布を湯からあげいったん笊にあける。その湯の中へ角切りにした豆腐半丁を投入、くつくつと中が煮立ってきたところで畳に座ったままの佳乃が口を開いた。
「一昨日は何処で仕事をしていた」
「一昨日の晩、ですか。別の屋敷で寝ずの番をしておりました。澤村も同じ番をしておりました」
「相違ないな」
「嘘ついてどうすんだよ」
さらさらと筆を動かす古賀が答え、澤村は苛立ちながらも追い出すことはしなかった、それが澤村の最低限の礼儀なのだろう。澤村はしゃがみこむと火の加減を調節しながら、くあっと大口の欠伸をする。
「あんなことがあっちゃ、堀田の旦那さまももう雇ってくれねぇからな。まったく、火の番までは俺たちの仕事じゃねえってのによ。どこかの誰かさんが余計なことをしてくれるもんで」
そんな相方を窘めるでもなく古賀は素知らぬフリで紙を四つ折にして畳むと、それを適当にそこらへ放り投げた。筆を置き、机を動かし始める。
普通ならば城仕えの人間に対し町民は丁寧な物言いをしなくてはならない、定めであり礼儀でもある、事実、澤村は雇い主であった堀田に対し無礼な態度はとらなかった。つまりこれらの受け答える佳乃へのあからさまな嫌悪である、だがしかし佳之にその口調を気にしたそぶりはなく「そうか」と顔をしかめたまま返答するだけだった。他の武家の方や城の人間相手ならば澤村はこの場で切って捨てられたかもしれないというのに。佳乃は再び質問を重ねた。
「ここいらの浪人で手を組んで仕事を引き受ける輩はいるか」
「そんなのいねぇよ。誰が好き好んで、金を分ける仕事をするか。それにお上のあんたたちが思うほど此処には浪人を欲しがる武家も少ねぇ、奉行所ってもんを作っちまったんで仕事がないんでね。皆別の働き口を探すか、別の都へ向かうのさ」
佳乃はまたもや「そうか」と言って再び黙り込んでしまった。それから佳乃が口を開く様子がないことを察すると、澤村は竈の火を消して湯気のたった鍋の中で味噌を溶く作業にかかる。煙のように、じんわりじんわりと味噌が溶けては広がってゆく。
「一昨日の晩というと、堀田家にまたもや小僧が出入りしたという、あれですか」
馬鹿、余計に話を広げるんじゃねぇよ。澤村がそう思うも遅く、佳乃は体をひねるようにして後ろにいる古賀へ進んで問い詰める。
「知っているのか」
「……知ってるもなにも、その瓦版を書いたのはそいつでさぁ。今書いてたもんも、なんかの走り書きだろ」
「はい、澤村の言うように一昨日の小僧についての瓦版を書いたのは自分です。堀田の子息に頼まれたものをそのまま書きました」
古賀が言うには手先が器用なところを活かし、浪人としてだけでは食ってもいけないだろうということで時折頼まれた書き物を瓦版にするのだとか。偶々持ち合わせていた、その一昨日の瓦版とやらを拝借すると、確かにその紙にはでかでかとしだれ柳に武家屋敷、これは堀田の家を表しているのだろう、そして月夜を背に颯爽と逃げてゆく男の影、柳の小僧がさらりとした筆書きで描かれており、その横には当時の様子も文字で事細かに書かれていた。
「上手いだろう、こいつぁ戯作者目指してんだ、そんじょそこらの瓦版よかよっぽど値打ちがあるぜ。城じゃこんな良い瓦版、見たくったって見れねぇだろう。気に入ったってんなら一枚買ってきな」
「要らん」
皮肉半分だったとはいえこうあっさりと切り捨てられると腹立たしい。しかし佳乃がその瓦版を見る目は訝し気で、澤村はその瓦版に何があるのかと首を傾げたが自分が見た分には、どこも変わったところは見られなかった。白い月に雲がかかり、小僧の姿がはっきりとしていない様は見事だが、その小僧が逃げている後ろに佇む屋敷もまた、堀田の屋敷だとわかる特徴のある塀の染みや瓦の欠けた部分と細かに手が込んでいる。瓦版というからには、これらは全て木版画なのだろうがそれにしても美しい。確かにこれを瓦版として売って捨てるには勿体ない気もした、稲がいたならば一枚おいくらでしょうかと聞かねないだろう。
しかし佳乃はそんな木版画の美しさについてはうんともすんとも言わず、眉根を寄せながら古賀へ問う。
「もう一度尋ねる、堀田の子息に頼まれたのだな?」
「はい」
「頼まれた内容と嘘はないか」
「はい」
その声は抑揚がない、嘘か真か、簡単に問いただせられるような男ではないのがわかる。それでも嘘ではないというのならば可笑しな点が浮かび上がってきた。
「もう話は終わっただろ、そら、味噌汁もできた、これから遅い朝の膳だ。あんたの分はねぇよ」
「ところで今日の仕事は決まったか」
「……だから、さっきも言ったように……」
「ありません」
と答えたのは古賀だった。さっさと出て行ってほしい澤村はため息をつきながら、古賀の言う通り何もないことを認めた。佳乃は狭い土間に立ち上がると、出来立ての豆腐の味噌汁と米の匂いがたつ狭い長屋の中で堂々と言い放った。
「今日一日、お前たちを雇う。だが安心しろ、雇うのは私ではない、お上だ」
はぁ?と声を上げたのは澤村だった。
「さて。お上の出す給金でどれぐらいの米が買えるものか」
その後、佳乃は奉行所に行くといっていた稲との待ち合わせ場所の茶屋で腰をかけ、半刻もしないうちに来た稲の報告を聞いた。詰所にいる同心や与力達も柳の小僧には困っている、手がかりを残さない、二度も盗みに入るのは武家をおちょくっているからとしか思えない、だがその身のこなし様は一介の民であるとは到底思えない為にお上から暇を告げられた手練れの忍者か、もしくは本当に幽霊か……などという噂まで広まっているのだとか。
忍者でも幽霊でもない、佳乃はそういった役目の人間はいても城から暇を告げられる事がないという事実を知っているので断言できる。そして幽霊ではないと言い切れるのは、勘にも等しいが、今のところは自分の疑っている事実は奉行所の者も知らないものだと確認ができた。
稲は隣で昼食の握り飯を頬張り、佳乃はそこら辺の屋台で売っていた焼き魚に塩をふったものにかぶりついた。
それぞれ得た情報の整理が終わると、稲は黙り込んで黙々と米を食らっている、佳乃もさしてお喋りではないので静かになる。やれあそこのあれが高いだのあの髪結いが流行りだの賑やかな店の中、二人で黙々と飯を食らう様は少し異様でもある。普段……とはいえたった数日付き添っていた相手だが、病なのではと思うほど稲は恐ろしく静かだった。
それでも一向に両者の口は、飯を食らう以外に開かれることはなかった。
昼九つ半(約午後一時)、二人は動いても申し分ない程度に昼食後の休みを取り、稲はこれ以上店にいると寝てしまいそうだということで茶屋を後にした。
そうして二人が向かった先は、ここらで有名なとある薬種問屋。瓦屋根に掲げられた看板には『薬 堀田家』の大きな筆書きが。
盗みに入られた武家とはいえ、店としての繁盛は変わっておらず今も年老いた女性が風呂敷を大事そうに持って店を出て行った。白い文字で薬とかかれた赤い暖簾は膝丈ほどまである、店の板は年季が入った焦げ茶色、客が出払うのを見計らって稲と佳乃はその暖簾をくぐった。中では帳場格子の中で帳簿を確認している堀田秋房と、その息子が薬戸棚を探っているところであった。ぱちぱちと弾く算盤の音が止まり、秋房が客人の顔にはっとした様子で格子の中からわざわざ顔を出してくる。
「これはこれは、佳乃様。今朝は朝早くに出て行かれたと聞きまして、お見送りすることもままならなく相済みません。これ、茶を」
息子はその二人の姿に気づくなり、会釈をすると父の言われるがままさっさと奥へ引っ込んでいく。その青白い顔はいっそう白くなっているように見えたのは気のせいだろうか。佳乃が腰かけ、稲は土間に立ちながら店の中を見回した。壁に隙間なく作られた戸棚はひとつひとつが小さいものの、取っ手の黒い鉛部分は内側が剥げかけ、使い古した様子が見て取れる、流石は老舗といったところだ。
茶を出した息子の手の白いことといったら、まるで病人のようだが真っ青な顔はただ真っ青なだけではない、理由があるのだろう。では、と言い残し再び奥へと戻ろうとする息子を阻んだのは佳乃であった。背丈は両者さほど変わらないというのにその威圧感、息子はたじろいで腰を下げた。
「……息子に何か御用で?」
「これは昨日、お前の息子がとある人間に頼み作らせた瓦版だ。柳の小僧のことがようく書かれておる、だがここに書かれているものが可笑しいと思うのは私だけか」
「はあ……?」
懐から取り出したのは先ほど古賀が書いたと言ったあの瓦版。秋房は息子の横に立ち、それに顔を近づけては「よく存じております、確かに細かに書かれておりますこれを書いた者の腕が良いのは確かでしょう。ですが何も可笑しなことは」
「本当に小僧を捕まえる気があるのならば、何故小僧の特徴や薬棚の事を載せぬ」
あっ、と秋房は不意を食らった顔で驚いた。
「本当に捕らえたいのならば、絵描きには見たまま頼むものだ、人相書きと同じくな。衣装に動きに顔……少なくとも奴は草履の裏か、裾に白粉をつけていたはず。蔵の中に撒かれていた白粉が何よりの証拠。それが何故、わざわざ小僧の人相を隠すようなものを頼んだのか……」
瓦版の小僧の姿は影一体となり、まるでどのような姿か、ましてや白粉のことなど一切書かれていなかった。
「息子が盗人と申しますか! 佳乃様、表店でこのような騒ぎ、如何に蓮成様の差し向けられた御庭番とはいえ、家の名に泥を塗るような真似は当主である私が……!」
恐らくこの後に続く言葉は「許しませぬ」だったのだろう、だが秋房は怒りに任せていた口を閉じた、その理由は目の前にある。盗人だと疑われ、庇おうとした息子本人がその場に正座し頭を下げたのだ。
「逃げようとは……思うまいな、裏勝手口にはあの浪人二人を置いてあるが」
この息子には逃げて隠し通すことなどできもしなかっただろう、わざわざ二人分の雇い賃を無駄にしてしまったかもしれないが、自分の懐から出るわけでもない。まあいいか、佳乃はとりあえず頭を下げては上げようとしない息子を軽く叩き、一から説明するように告げた。
「申し訳ございません」
子息の謝る頭にものともせず佳乃のため息がふっとかかった。父親である秋房は未だに隣で呆然としている、それもそのはずまさか自分の息子が自分の屋敷で盗みを犯したなどとは思うまい。
「あの薬倉庫を荒し、高麗人参を別の場所へ隠したのはわたくしでございます」
床についたままの青白い手は震えていた、息子は事細かに盗みを働いた時の状況を説明し始める。施錠の開け閉めはもちろん教わらずとも知っていた、幼い頃父がそれほどまで隠すお宝とは何だろうと子供心に好奇心に駆られ、一度隠れて中を見たことがあり、当時はなんだ薬棚かと思ったと。だがこの歳にもなるとあの棚にある薬たちがどれほど高価で値打ちのあるものか分かってくる。
「で……ですが、これまでの小僧の所業は私の行いではございません、だ、断じて、お上に誓います」
「しかしなぜお家のお宝を御盗みになられたのです?」
「そ、それは……それは……」
息子は魚のようにぱくぱくと口を動かした後、俯いて、こう言った。「隠さなければ盗まれると思ったのです」
堀田の息子曰く、話は随分と昔にさかのぼる。彼の細く頼りない見た目は母親に似て、頭の良さは父親にだとか、それはいいとしてその青っ白い体は寺子屋時代からのもので、同輩達にはよくからかわれ苛められたらしい。それでもなんとか名のある家のためと耐え抜き、さして騒ぎも起こさず、家業の薬種問屋を手伝い始めるとその同輩たちも各々の家業があり、嫌でもその手伝いをさせられるため顔を合わせることがなくなり、やがて彼らは近寄らなくなっていった。しかし数年が経ち、秋房が息子に家業を継がせようという話が持ち上がったところで、なんとも運が悪いことに再び同輩らがすり寄って来た。彼らの仕事は上手く軌道に乗っていないようで、老舗の薬種問屋の息子に媚びを売ることでなんとか金にありつこうと考えたのだ、だがしかし息子もそう馬鹿ではない、自分の働きの金ばかりでなく店のものに手をつけるなど、父より昔の代から守ってきた家の名に恥ずべき行為。胡麻すりも泣き落としも全て断った、が、それが良くなかった。言葉が駄目ならば力づくで、なんと大胆なことに同輩らは昨今の『小僧』の名に乗っ取り、堀田の屋敷へ侵入し蔵へ盗みに入ったのだという。放火と蔵の盗みは彼らの仕業である。
「白粉だ」
ぽつりと呟いたのは佳乃だった。稲が聞き返すまでもなく、三度目の被害にあった物置きの中で佳乃が手にした白い粉のことを思い返した。
「一度道端で偶然会った時に風呂敷を抱えていた、それはその白粉なのだろう。おぬしは奴らを罠にはめようと試みたわけだ」
「はい……この白い粉は水で洗おうとしたところで簡単に落ちぬ品物です……なので、それを証拠にと、同輩とはいえ、彼らをお奉行様の元へ引いてゆかなくては、そう思いまして……。ですがまさか……私自身もその罠にはまってしまうとは……」
面目ないとでも言いたげだが、そうでもない。だからこそここまでたどり着けたのだ。だが話はここで終わらなかった、それまで俯いて情けないと話していた秋房がいきなり息子へ詰め寄り、がくがくと肩を揺さぶり始めたのだ。稲は慌てて二人の間に入ろうとするも、どうにもならない。
「して、その盗んだ人参はどう致したのだ!」
「お、落ち着きください堀田様、ご子息はなんとか家を守ろうとしていただけで……」
「だが盗みの手助けをしていたのもまた事実、さあ、あの高麗人参はどこだ!」
『高麗人参』清から渡って来た漢方薬の元となる人参である。まことに高価なもので、医師や歩いて薬を売る人間たちの手元にはない。それどころか最近では偽物が出回っているとの噂までもあるため、政府から直々に令を頂いた薬屋でのみ扱える品物となっている。成る程、宝とはそのことだったのか。
さすがにこの光景に驚いたのか、佳乃も眉を上げてしばらく眺めていたが次の瞬間、
「逃げたぞぉ!」
聞こえたのは裏のほう、と突如大声が聞こえたのは裏口にいる澤村の声、今ここには秋房も息子も全てを自供して居る。となれば残る『逃げた』のは勿論……佳乃は無いに等しい頭を振り絞って最後のひとつを突き止めた。裏口から草鞋のまま上がってきた澤村に続いて、表口からは古賀が現れた。
「佳乃様ぁ! あいつらは追っかけてとっつかまえても駄賃になりますかね?!」
「一人は背丈がでかく、後は同じぐらいで皆どれも武家のご子息様かと思われます。丁度、堀田様のご子息ぐらいの御歳かと」
澤村はあっと気付き簡単に草履をその場で脱いだが今この場で気にする者は誰もいないだろう。
その場にいたものが呆然として、一体どうすればいいのかわからないと状況が把握できていなかっただろう。ただ一人堀田の息子だけが、いつの間にか佳乃の裾をひっしと掴みながら「あやつらです、頼みます佳乃様、頼みます、もうわたくしには他に縋る道が無かったのです」とすすり泣いていた。
本来ならば佳乃はなんと言っただろう、男がめそめそと泣くなと叱りつけただろうか、それとも面倒だと縋る哀れな男を一蹴しただろうか。隣にいた秋房は息子の様子にどっと涙を流すと、息子の頭を床へ押し付け自分の額も同じようにこすりつけながら頼み込んだ。お願いします、どうか盗人をお捕まえ頂きたく、お願いします、出来損ないの息子ですが家のためとこれなりに家を守ろうとしたのです。
稲は心痛みその場でぐっと涙を堪えたが、佳乃は違った。秋房の髷を掴んで顔を引っ張りあげると、ごづっという音が鳴り、秋房は頭突きを食らった。
「息子、名を何という」
突然頭突きを食らい額を抑えている父を心配する息子が、戸惑いながら佳乃におずおずと答えた。
「て、照吉と……申します…」
「照吉、実の親に不出来な息子と思わせるな。お前は同輩に知恵で勝ったのだ、堂々と胸を張らんか、馬鹿者」
それだけを言い残し、飲みかけの茶とお連れの稲を置き去りに、佳乃は脱兎の如く暖簾をかいくぐって裏手へと走っていった。
裏から回って来た澤村は片手にしていた草履を土間に投げ捨てるようにして足へつっかけた。急いでいる分履きづらいことは子の上ないのだが、おっとっとと言いながらも澤村は出て行こうとした。後ろから稲の声がかかる。
「佳乃様は……お二方は一体どうなさるおつもりですか?!」
古賀と澤村はお互い顔を見合わせ、「なぁにちょいと悪ガキ退治ってとこさ」とだけ言って二人もまた、赤い暖簾をさっとくぐっていった。砂の地を蹴って走り遠ざかる音が聞こえると、店に残された三人は呆然とその場に座りつくすのであった。
何処へ逃げ込むのか、すぐに分かった。この先は武家屋敷に通じる橋、そこを渡ってしまえば自分たちの屋敷がある、そこへ逃げれば安全だと思っているのだろう。小癪な、と佳乃は久々に口の端を上げていた。
男四人は佳乃の読み通り、大きな道を誰彼構わずぶつかりながら橋へ橋へと逃げていた。だが皆が同じ道を使ったのが行けなかった、突然横道から現れたあの髪の長い役人(お上の命で小僧退治に仕ったと聞く)が、四人の中で一番足が速い男を掴み上げなんと手近にある八百屋の中へ放り込んだのだ。勿論、店に出ている野菜共はぶっちらかり、籠も野菜もあちこちに飛び散るが、ひとたまりもないのは奥へ放り込まれたヤツのほうだろう、出て来ないところを見ると中で失神しているようだ。
それでも、見殺しにしてでも逃げなくては、慌てて男三人は店の間の隙間を縫うようにして、大通りの右手左手、そしてヤケになったのかとりあえずと道を引き戻るヤツと三方に分かれた。
佳乃が顎でしゃくり、戻った馬鹿と右手に逃げたのを追いかけろと澤村古賀両者に命じた。二人は文句なく与えられた通りにそれぞれを捕まえにすっ飛んでいく。残された左手の道へ逃げたのは、一番大きな大物、佳乃は髪を結うというのもこういう時には役に立つものだと頭を揺らして肩をならした。
長屋の間を縫うようにして走った、相手の荒い息遣いからして普段いかに怠けた体かわかる。小僧は違った、自分が対したあの小僧の動きは軽やかで素早く鮮やか、佳乃に芸術品とやらの凄さはわからないが、本物の柳の小僧はまさにそれであった。
飛び出た先のもう一つ手前の道から、大きな体躯の男は現れた。すでにひいはあと肩で息をしている。すかさず佳乃が前へ出た、膝に手をついてふうと一息ついていた相手の目の前でぱちぃんと弾けるような音がした。佳乃が両手を叩いて音でびびらせた瞬間、男のふらついたところへ足をつっかけ相手に背を向け、体躯をこちらに傾けながらぐるりと回して、地面に叩きつけた。それは先月、佳乃が世崎へ戻ってきたばかりの日に織りなした背負い投げと同じものであった。
だが相手もそうひと縄では行かぬ、ぶあつい脂肪が攻撃をやわらげたようで、転がりながら相手は立ち上がった。その転がった拍子についた泥や砂のおかげで相手は泥まみれ。
「まるで豚のようだな」
北で見た、そんな感じの大きな豚がいたのを思い出してつい口にもらしてしまう。真顔で笑いもせず淡々と言いきるものだから相手は余計に憤慨し、唸るような大声を上げて突進のように突っ込んでくる。佳乃はもちろんそれをひらりと交わした、が、突進すると同時に横へと広げていた相手の拳が、偶然にも佳乃の頬を殴ったのだ。
手をひっこめ、佳乃と間合いを取りながら様子を見ている男は息を上がらせながら、殴られてもなおその場から倒れない佳乃の様子を伺っていた。
偶然とはいえ、迂闊にも、一発食らってしまった。これは鼻の血管が切れたな、喉からすすりだしたものをべっと吐き出すと、赤い鮮血が地面へ散る。右手の甲で鼻を拭うと、血の跡が擦れるように鼻の下から頬へ伸びた。久々の戦いだ、走っていた時から感じていた血の流れ、そして今ふつふつと湧き上がってくる喜びに、楽しみ。
男はぞっとした。笑っ優勢に立つのはこちらであるはずなのに、佳乃の瞳はその奥でぎらぎらとこちらに狙いを定めている、今にも首へ飛びかかってくるのではないかと、恐ろしくなるほどに。
「……小童がぁ」
それはもはや唸り声にも似ていた。男達は自分の体の中で、ぞぉっと血の気が引いていく音が聞こえる。
散々追っ手を撒いてきた足だが、その恐怖の念が遅れをとらせた。先を動いた佳之は体勢を低くし踏み込む、ただし正面からではなく男の斜めから。咄嗟に胸をかばった男が後悔するが遅く、下から振り上げられた拳が鋭くその右横っ腹を打ち抜いた。その痛みは殴るというには鋭く突きのようで、鉄製の大槌で叩いたように重い。
その倍はある岩のようなごつごつとした拳を振り回した。竿竹、干し物のかかる紐、桶や籠、がらんがらんと音を立てては散らばっていく。竹は真っ二つに割れ桶は底が抜けたが、佳乃へ当たる拳はひとつもない。
がらんがらんと物音がし、他を片付けた古賀と澤村両方が現場へと駆けつけた。長屋の住人らに避難するよう澤村が辺りの人間を仕切り、古賀は男と佳乃の一戦をじっと観察していた。いつものような喧嘩に野次を売るような者はだれ一人としていない、皆固唾を飲んで見守っているかのように。
男はまず手元に転がる武器をつかみ、佳乃へ襲いかかった。澤村と古賀の両者が騒ぎをききつけその場へ到着したのは同時であった。
二人がすかさず入る余地もなく、佳乃の頭上に垂直に振り下ろされる棍棒。右足を後退させ体をひねるように、すれすれに避ける。勢いをつけた棍棒は、そのまま地面を叩く。力を込めすぎたためにしっかりと棍棒を握りこんだ男の手は佳之の動きに反応しきれず、その隙を突かれることとなった。
佳之は男の右手首を掴むやいなや、腕を捻り上げた。痛みに悲鳴をあげていると、あっという間に懐へ入り込み手首を掴み逃がさんとしたまま、右拳が鼻を撃った。叩いたともとれる乾いた音と痛みにその巨体がよろめく。くそぉ! 男の悲鳴が路地の奥へと響いたが、男の振るう拳は無様にも空振りに終わる。
腹ががら空きだ、というのはまさにこのこと。顔を両手で覆う男の防御は無きに等しい。
砂利が鳴り、草鞋が地面を踏みしめる。左手が拳をつくる、左肩から手の先にまで力が入り込む、腰を入れ左半身で拳を叩きつける。腹の底に響くような鈍い音。拳はちょうど肝臓のあたりを撃ち抜いて、男はつぶれた蛙にも似た珍妙な悲鳴をあげて地面へ膝をつけた。
「おうっげぇぇっげぇっ」
足元に吐瀉物をぶちまけると胃酸の匂いがツンとした、だがそれももうこれっぽっちも気にしていられない、逃げなくては。男の頭にはもはやそれだけしかなかった、体格の差はあれどこんなものとまともに対峙していられない。
脱兎の如く、大男は地面を蹴り情けなくも敵に背中を見せた。だがこれしかなかったのだ、逃げなくては逃げなくては、その一心でなんとか長屋の隙間をかいくぐり通り道へ出て来た。
ほっとしたのも束の間、無情にも相手は目の前にいた。いつどこから現れたのかはわからない、反対の道へ行こうと振り返れば見覚えのある男二人が立っている。あれは確か堀田の屋敷で雇われていた浪人。
男が迷いを抱いているうちに駆け寄ってきた佳乃の軽い面打ちで、男は不意を食らった、ぱんと弾き倒されるような音がする。その一瞬の隙がいけなかったのだ。逃げ道などなく、気がついた時には前門の虎、後門は塞がり。男は知っている、心底恐ろしいとはこのことだ。
たった数秒が何分何十分にも感ぜられ手足はその恐れを察知したようにぶるりと震えた。腰が抜けて立つことも出来ない男は、這いつくばるようにして長屋のほうへ逃げた、が、その瞬間。板の割れ弾ける音、みしみしばきばきと、耳元から崩れていく。自分の骨が砕ける音のようだった。
二人は、澤村と古賀は、目の前の光景にただただ息を飲んでいた。采配を分けたのはそれは鮮やかな一撃だったと、後にその光景を瓦版へしたためた古賀は綴る。さながら弁慶のような気迫、どこにも逃げ道は無いと全身で語るほどの威圧感、あれを見て闘志がわくような人間はこの世のどこにもいないだろう。と、書かれる一戦であったのだ。
男を見下ろす佳乃の佇まいは勝者というよりも、差がありすぎて話にならない、巨体を見下ろす瞳はそう物語っているようだ。
男はそのまま横の壁へ、どんと体を寄せた。もはや逃げることは敵わないと分かっていても、この相手の目から逃げたくてたまらない思いで壁伝いに背中で這っていく。しかし佳乃はそうはさせない。
「もう仕舞いか」
「ひぃ、ひっ、ひっ」
「つまらん」
つまりそれはまだまだ足りないという意味を表しているのでは――、男は白目を剥きその場にがくりと項垂れた。さすがにこれ以上の追撃は困るだろうと言わんばかりに、それまで見ていた古賀と澤村がすかさず二人の間に飛び出し、その場を収めることとなった。
一瞬にして負けを認め、ふぅと意識を手放した男が次に目を覚ました時には既に仲間が幾人も後ろ手に縄をかけられ、周りを岡っ引きが囲んでいるところで、観念したように首をもたげるしかなかった。後の話によると同心たちは心配した稲が呼んだ者らしい、おかげで犯人を取り押さえるという大仕事は同心達に取ってやられた。
稲と、なぜか藤までもが城下に下りて佳乃の姿を見つけたのは暮れ六つ(約5時)のことで、辺りは日が暮れはじめてきており、ぼんやりとした夕焼けが空に広がっていた。稲は佳乃の手当もされていない血まみれの姿に卒倒しかけ、藤はそれはそれは深く長い溜息をついて袖で目元を拭う真似をしてみせた。
「か、か、か、佳乃様、お顔に、血が、」
「おお、佳乃様。出戻り早々このような……藤めは……藤めは情けのうございます!」
悲鳴をあげるお稲と藤、それらをうるさいと一蹴する佳之。板割をやってのけた左拳はわずかなかすり傷となりぷらぷらと手を振りながら、幾寸か離れたところで奉行所へ連れてゆかれる男共を一瞥してから、佳之は大きな欠伸をこぼした。今日は疲れた、と零したのを稲は呆れ果てた藤の横で聞き逃さなかった。
「一先ずは一件落着と致しましょう」
連成の佳乃へ対する柔らかく静かな声色は、逆に怒りを暗示しているのだとお稲はここ数日で理解した。
此処は城の表、刻はすでに暮れ六つ(夕方五時)、怪我を負った佳乃を稲が大急ぎで籠に乗せて戻ってきたところである。城下で起こった一連の流れと小僧の正体、堀田家での騒動を説明する稲の目の前には浅くため息をつく蓮成が姿勢を正し座っていた。
「堀田家の隠していた高麗人参は『本物』であり、そのため息子……照吉は同輩らからゆすりをかけられていた。しかしいくら何でも店の物にまで手を出すだなんて真似はできぬ……そういった所が罪びとになるか否かの線引きなのでしょう。そうして三度目の盗みは狂言であったものの、それまでの小僧騒動で盗まれた金品巻物反物は全て元の持ち主に返されるでしょう」
春とは言え夜風はさすがにすぅっと足元を撫でる。身震いしながらも稲は恐る恐る問いかけた。
「……ぬ、盗みを犯した者らはどうなるのでしょう」
「そこは私の見解では、堀田照吉はまず処されることはありません。残る同輩とやらは恐らく市中引廻しの刑になるかと。佳乃、堀田の皆様方はお前へ泣く泣く礼を告げていたそうですよ」
自ら傷の手入れをしている佳乃はそれを聞くと、ふん、と拗ねたように顔をそむけてしまった。
「ですが何事も力技で通してはいけません」
「解決したってんならそれで良いでしょうよ」
「喧嘩でなくとも、お前は頭に血が上るとすぐ周りが見えなくなるというのに……。今回は良かったものの、顔に傷を作るものではありませんよ、仮にもそなたは女子なのですからね」
しん、とまるで雪が積もった朝の白い庭のような。秋の散る紅葉を眺めている雰囲気のような。夏の暑さにうだりながらもすることが無いとなげくような、そんなすべての季節に感じる静けさが一瞬にして全てこの間に訪れた。そう感じたのは、彼女だけだったのかもしれない。
くるりとしたまあるい目をぱちぱちと瞬かせて、女中のお稲はぽかんと口を開けた。
「お、……おなご?」
他の者、蓮成に藤、佳乃はなにも驚くこともなくさっさと部屋の片づけや次の仕事への準備に取り掛かりはじめた。
「あの、佳乃さまが、おなご? いいえ、ですが、袴姿ではありませんか」
「番をするのに着物でどうする」
答えたのは本人である、ということは確かに間違いないのだ。一人硬直状態であの、ええとを繰り返す絡繰り人形と化したお稲に優しく告げるのは蓮成だけである。
「この子の本来の名は『佳乃子』正真正銘、真に女子ですよ」
「でも、ですが、あんな体躯の大きな男に……あっさりと……」
「あれは弱かった」
ぶっきらぼうに答える佳乃とそれを証言する連成。佳乃……もとい佳乃子は呆けているお稲をよそに、薬の塗られた拳にさっさと包帯を巻く作業へと進んでいた、手慣れたものである。
しかし女だと言われてみれば納得する点ばかりである。肩や顔は曲線を帯びており女特有の丸さが伺えたし、声も同い年の男と比べれば女の艶がある、ような気もする、やや掠れ気味なので分かりづらいが。しかしまあ、片膝を立て、布を口にくわえながら己の処置を行う姿はまるきり女には見えないのだが。
「お前とて人には見えんぞ、狸」
じろじろと姿を眺めるお稲の視線を感じてか、怪訝に眉をひそめて皮肉る佳乃の頭へ蓮成の手刀が振り下ろされた。
一先ず柳の小僧の件はこれにて落着