和国世崎の生ひ成り帳
ちょっとした小話です
「お母さん」
泣きじゃくりながら子供は呼んだ。
「お母さん」
また次の日は縋るように子供は呼んだ。
「お母さん」
またまた次の日は消え入るように子供は呼んだ。
「 」
子供はとうとう呼ばなくなった。
とある仏堂のような場所に、二つの影はいた。その影は頼定と佳乃子である。本丸から離れた小さな小さなお堂、それも岩場の足元から少しずつ苔が浸食しつつあるように見える。茶色と黒緑の色をした苔を無視するかのように、佳乃はそれを一度見やって、そしてふいと背を向けた。それに手を合わせるのは頼定である、何か唱えながら目を閉じ、頭を下げている。それにも、何も言わず佳乃が付き合っているのは長年の仲であるからだろうか。頼定が合掌を終えた後、振り返って少し離れた場所にいる佳乃子に呼びかけた。
「お祈りはせんのか」
「ああ、もうしない」
「そうか……」
「もともとあの爺の言いつけで手を合わせていたにすぎん」
「……皆に罰当たりだと怒られるぞ」
「は、とうに慣れたわ」
慣れたとは言うが。頼定は世崎に戻ってからの佳乃の評判を見聞きしていた、城下での瓦版から城仕えの女中の噂話まで隅々と、側近にも協力をさせて。今日はその側近も人払いのため、傍に置いていないのだが、それでは本末転倒だろうと佳乃は言うがそれを言うなら稲のこともそうだ。のらりくらりとかわしては、あちこち付いて回ろうとする稲を振り回しているのだ、佳乃は。
外は快晴、初夏にある緑の香りが、裏山からふもとである二人の元へさざめいてくる。少し歩いたところで、見せたいものがあるというので佳乃は頼定の後をついていった。
「なんだこれは」
「俺が買い取った。雄の馬だ。足を怪我して使えんため、馬肉にするというんでな。治せば十分走れるというのに」
佳之が馬を見る、馬も佳之を見あげた。真っ黒い瞳は硝子玉のようで、佳乃は意地でも目を離さなかった。
「嫌にでかいな」
「ああ、外国からの贈り物だ。本国の馬よりでかく速い、その分気性も荒いがな」
「相変わらずのお人好しなことだ」
「元は北の荷馬車に使われていたものだそうだ、馬力も速さもここらでは群を抜いてるだろうな。そのうえ頭も良い。どうだ、要らないか。治ったら乗ってみるといい、きっと気持ちがいいぞ」
「いいや、馬なんぞ乗らなくともこの足がある。馬肉にするときは声をかけろ」
馬の抗議するような高い泣き声と剥き出しの歯茎に、頼定は苦笑いした。この馬も馬ですこぶる頭が良いようだ。ぶるるという溜息のような鳴き声がし、馬に背を向けて去ろうとする佳之へ頼定が言った。
「佳乃、お前の弟子や側近らを集めてひとつ話があるんだが、いいか」
「……どうせ駄目だと言ってもきかないだろう」
はは、と笑って肯定する頼定に、ため息をついて佳乃は仕方なく頷いた。
そうして集まったのが夕餉も終わった〇〇刻、遅ければ遅いほど良いというので佳乃はこの時刻に言われた面々を集めたが、何故裏山を後ろに集まっているのか、頼定の顔つきでなんとなく佳乃は察していた。
「「肝試し?」」
と声を揃えたのは澤村と稲である。古賀はほう、といった様子で裏山を眺めている。頼定は腕を組みながらうんと頷いた。
「風流だろう」
「わざわざ人を呼びつけておいて……」
「まあそう言うな。夏の風物詩だ」
振り返ると興味津々という顔の古賀に、少し冷や汗をかいている澤村に、明らかに不安げな稲の顔がある。
「肝試しといっても、裏山にある墓石まで行って、この蝋燭を置いて帰ってくるだけの散歩だ」
墓石?! と稲はその言葉に裏山に墓があるとは知らなかったのか、初めて聞いたかのような表情をする。古賀は面白そうだと眼鏡をかけ直した。澤村はというと、はんと鼻で笑っている。
「は、ははぁん。度胸試しってんなら、悪かねぇや。この裏山は庭みてぇなもんだ、ねえ、佳乃様」
「馬鹿らしい。おい、ひっつくな暑い。おい、澤村」
「ちなみに二人一組で回ってもらうが、今回うちの側近は別件で不在でな。一人は余りだ」
「つまり?」
「誰かは一人で回ってもらう」
その言葉にうおおと頭を抱える澤村と、嫌だ嫌だと頭を振る稲は未だに納得がいっていないらしい。納得がいっていないといえば佳乃もそうである、眉間にじっと皺を寄せたまま頼定を睨みつけるようにして立っていた。だが一人だけ頼定の思うがままの人間がこの場にはいた。
「では如何にして決めましょう」
唯一乗り気である古賀が言った。すると頼定は待ってましたと言わんばかりに懐から細長い紙切れを五本取り出した。
「くじびきで決定する。黒色同士、赤色同士、白は一人だ」
頼定の握っていた和紙がそれぞれの指先でつままれ、いちにのさんで引かれた。結果は頼定と古賀が黒色、澤村と稲が赤色、そして佳乃が一人白となった。
「なんだ、お前が一人か。つまらんな」
「つまらんも何もないだろう」
「いいや、実は秘密にしていたがこの裏山には夜な夜な『出る』という噂を耳にしていてな。それが自分の子を亡くした母親で……聞くところによると、毎晩、私の子を返して、返してと……」
頼定の恨めしそうな顔つきとわざとらしい表現に、震えあがるのは稲と澤村だけである。古賀はしらっとした顔で聞いているし、佳乃も興味がなさげで、むしろ呆れながら口を開いた。
「お前」
だが頼定は小さな声で返す。
「こういうのは楽しむ為の方便だ。見逃せ」
澤村と稲には、密やかにされているやり取りは気づいていない。佳乃はやれやれと肩を下ろすようにして、あれやこれやと嘘八百を並べ立てられると、それまでさあいざまいらん、とばかりに胸を張っていた澤村を挙動不審にさせて頼定は意地悪げに笑っていた。
さて、そうしていざ参らんとばかりに、一組目は古賀と頼定が。二番手に待ち構えていた澤村と稲は藁をもすがるように佳乃のほうをちらちらと見やっていたが、さっさと行って来い、という佳乃の手つきにしょげながら、お互いが提灯を持つようにしながら裏山のけもの道を上っていった。灯かりが見えなくなったところで、続いて佳乃が最後にけもの道へ入って行った。皆入る様はそれぞれで、先頭を切った頼定は良く知っているだけあってか、この行いを提案した者だからなのかはわからないがやけに楽し気であったし、古賀はそんな頼定を見定めるようにしながら同じように裏山のあちこちを見渡していた。二番手に入っていった稲は、澤村に対し負けじと先頭を行くようなそぶりを見せてはいるものの、澤村もそれに負けまいとやいのやいの言いながら一本の提灯を吊るした棒を二人で仲良く握っていた。
頼定は最後に皆へ向かって道順を説明した。
「いいか、最初の分かれた道を左、そして次を右、もう一つ次を左だ」
暗い森を眺め、佳乃は昼間との違いっぷりを考えていた。昼はさんさんと日が照りつけ、森の緑も青々としている。いくら深いとはいえ、先を見越せないほどの深さではない。木々の間は人がある程度通れるほど幅も広く、道もけもの道はない。だというのに頼定はけもの道をわざわざ作ったという。忙しい身だというのにわざわざこんな時間まで作って、難儀な奴だと佳乃は思った。恐らく自分が流刑で北に赴いていた間の時間を、こうして埋めようとしているのだろう。分かりやすい奴だ、と佳乃は頼定に関しては往々にして思う。まだ戻って数か月、頼定と顔を合わせることは日常からして少ない。互いに別の仕事を持つ身であり、昔のように同じ部屋で学びを行う歳でもない。だからこそこうしてわざとらしい行事を作らなくては、数年の間は埋められないとでも思っているのだろう。そもそも、埋めようなどと佳乃は少しも思ってはいないのだが。
少し経って、澤村と稲の提灯の灯かりが見えなくなってからようやく佳乃も動き始めた。裾にあたる草をかきわけながら、道を歩いた。ふと昔のことを思い出す。それは遠いようで近いような、あれも夏の日のことだ、よく学び舎で切磋琢磨していた三人は暇さえあればこうして裏山で遊んでいた。計略ごっこという名の遊びで、どの布陣がどう動いた場合はどうするのが得策か、敵がこう来た場合はどうするか。額をくっつけるようにして考えあったものだ。ほうほう、と梟が鳴き、佳乃は意識を現実に戻してさっさと前を歩いた。
蝋燭の炎が揺れる、少し生ぬるい風が辺りを過ぎ去ったようだ。古賀は右手にしていた燭台を、少し先へ向けて照らすようにした。後ろには頼定がいる。
「天ヶ崎様は、」
「頼定でいい。なんだ?」
「……頼定様は何故、我々と時間を共にするのです」
「賢明なお主なら気付いていると思うがな」
「佳乃様の下について良い部下であるかどうかを、見定めているように思えます」
「はは、まあ、当たらずとも遠からず、だな」
頼定の答えに納得がいったのかどうかは定かではないが、そうですかと返すだけ返答し、古賀は再びすたすたと歩みを始めた。頼定は稲か澤村と組めば、あれこれと面白い反応が見れたことだろうと考えるが、古賀は古賀で面白い奴だと見定めた。歩む速度が遅れぬように、頼定も提灯の灯かりに遅れないよう足を進める。足元をひゅうっと風が吹いた。
一方その頃、先頭を切って出た稲と澤村であるが。時同じくして足元に吹いた風に、稲は驚き片足をひょいと折り曲げるようにして飛び上がった。
「さささ澤村さま、もう少し提灯を私のほうへ寄せてください!」
「へ、へへっなんでぇ、佳乃様の前だと甲斐甲斐しくお節介焼いてるお前が、幽霊ごときに……、おっ!?」
「えっ!?」
「い、いや、なんでもねぇ」
「なんでございますか! もう!」
一瞬首筋をすうっと何か、風ではない何かが撫ぜるような感覚に振り向いた澤村だが、後ろには何もいない。横にいる稲はしがみつきこそしないが、澤村の持つ提灯の棒を半分持つようにして、ひっついている。誰も己の後ろにいるわけがない。ぶんぶんと頭を横に振り、何も考えないようにしながら、澤村は再び歩き出した。稲は真っ暗な辺りを見回す、自分達が歩いているのは道とはいえけもの道、すぐそこを何らかの生き物が通っていてもおかしくはない。城の敷地内とはいえ、これだけ鬱蒼と茂った草木を見ていると、獣以外のものがいてもおかしくはないように思えてしまう。
「あれ?」
「な、なんだよ」
「さっきの道って、右に曲がられましたが、天ヶ崎様からはなんて言われていましたっけ……」
「ええ、なんだよ今更。だから最初を右で、次も右で、最後が左だろ?」
「さっきの分かれ道は三つ目だったような……」
「……。」
暫しの沈黙が二人の間に訪れる。どこかで知らぬ鳥の鳴き声が聞こえてき、同時に草陰ががさがさと揺れた。二人は手を取り合って息を呑んだ。
「……何かの鳴き声がしたな」
耳の良い佳乃はふと立ち止まった。甲高い、人の声にも似たような気もしたが、近くの木にカラスが止まり、ぎゃあぎゃあと鳴いたのでどうせ山に住む鳥だろうと思い再び歩き出す。
意外にも一番に墓石に蝋燭を立てたのは、佳乃である。先頭と続いて行った他四名は何処へ行ったのか、どうせ道にでも迷ったのだろうと佳乃は薄暗い闇夜の中、苔が生えてきた黒くて大きな石の前に一つ、燭台と蝋燭を立てる。石の大きさは佳乃の膝丈ほどだろうか、特別雨凌ぎの屋根がついているなど、丁寧に祀られているわけでもない。それの意味を知る者は、今の城にどれほど残っているのだろうか。しかし手を合わせることはなく、佳乃は振り返りさっさとその場を後にする。
しかし帰り際に、す、と動きを一切止め佳乃は耳を研ぎ澄ました。今度は鳥の声でも、木の葉がざわついた音でもない。
『か……して』
か細い泣き声のようなそれに、辺りを見回す。だがそこには澤村や頼定たちのような姿はなく、声の主に似た女の稲も見当たらない。
『かえして』そう、確かに聞こえた。女の声だ、若いか年増かまではわからない、佳乃の耳は確かにその声を聞いたが、目はその姿を捉えていなかったからである。
『返して……私の子……』
もう一度、声が聞こえる。佳乃は眉間に皺を寄せてどこかわからない、森の茂みを見渡しながら言った。
「ここに子供はいない」
怒りともいえるような木の葉のざわめきが、佳乃のいる辺りをざわざわと駆り立てる。ゆうらりと、木々の影か何か分からぬ黒い靄が現れては佳乃の前へ立ち塞がった。
『私の子……かわいい……の子…』
ふと、一瞬佳乃の脳裏を蘇ったのは、とある女の座った後ろ姿だ。
『返して……私の……かわいい……』
意識を戻し、目の前にいる黒い靄と相対する。それでも佳乃は恐れることなどなく、もう一度はっきりと口にした。
「お前が求めている者はここにはおらん。他を当たるんだな」
すると、幾つかしんと森が静まり返る。
いなくなったかと思った瞬間、突然竜巻のようにぶわっと風が舞い上がると、佳乃の一本に縛っていた髪は舞い上がり、提灯も大きく揺れてその火はふっと消えてしまった。
「……全く」
もう、声は聞こえてくることはなかった。また、先ほど脳裏を過ぎった女を思い返してしまう。黒く長い髪で、綺麗な色の着物を撫でている女の後ろ姿だ。佳乃はその瞬間だけ呼吸を忘れていたかのように、静かに深呼吸をして意識を取り戻す。
謎の声が過ぎ去ったいま、後はただ、暗闇に目を慣らして歩いていくのみだ。それでも佳乃の胸中には何か思い当たることがあるらしい、誰もいない草木に向かって、ぽつりと呟く。
「……あんたじゃないのは分かってるさ。けれど、ここまで私を縛り付けてくれるなよ」
いいや、案外気にしているのは自分だけで、女々しいのは己のほうなのだと顔を上げて、佳乃は山を下りた。坂を上がっていけば、いずれ誰かしらと鉢合わせるか、帰り道に戻れると思ったのだが、慣れた山の中で、森自体を降りることは頼定と同じぐらい早いだろう。自分が一番ともなればあとは続いて後の者もおりてくるだろうと見越して。
帰り道すがら、くるりと振り返って森を見つめ、道の先にあった、墓石のある位置をだいたい眺めて佳乃が言う。墓石はふもとから見て大体中枢にある。蝋燭を立てて来たとはいえ、結構暗い場所まで来たのだなと思う。そろそろふもとである、入る前は鬱陶しいと思われた暗闇も慣れてしまえば簡単なもので、月の光が照らす地に戻るのが少し億劫でもあった。目の前を邪魔していた横から伸びる草を腕でどかす、道の先にはもちろん、まだ誰も到着していなかった。
「佳乃様ぁ~!」
そうして他の面々が到着するのはほぼ同時であった。真っ先に泣きついてきたのは稲である。それまで捕まっていた提灯の棒を振り払い、佳乃の元へとべそをかいてやってきた。そんな稲と組んでいた澤村はというと、どこか青い顔をしながら「へへ……大したことなかったですよ」とまだ虚勢を張っている。何か見たのか聞いたのかでもしたのかと問う前に、稲がわんわんと半怒りで澤村を指さす。
「澤村様ったら、途中で出た猿に驚いて腰を抜かしてしまわれたんです!」
「あっ馬鹿、てめぇ! それは言うなって!」
「もうそこから石まで、私が肩を貸しながら歩いて……」
「おい、やめろやめろ! 佳乃様には話すんじゃねぇ!」
言うなだの言うだのと、子犬が吠えるが如く二人はきゃんきゃん言い合っている。うるさいからと引きはがそうとするも、稲が袖を掴んで離さないうえに、いつの間にやら反対側の袖を澤村が握っている。仕方がないから無心でいると、衣服についた木の葉をぱっぱと払いながら頼定がやってくる。その後ろには古賀も見えた。
「なんだなんだ、仲良くやっているな。それでこそ肝試しのし甲斐があるというものよ」
「これが仲良くに見えるか」
「はっはっは、しかしなんやかんやで皆無事に蝋燭を置けただろう」
よく見ると、頼定だけではなく古賀も己の身についた木の葉を払っている。それに佳乃が出て来た道から戻ってきた者は一人もおらず、それぞれが別方向から出て来たように見えた。
「頼定、お前、道を間違えたな?」
「はっはっは、いやいや、うっかりだな」
「危うく夜の森を彷徨い歩く破目になるところでしたよ」
淡々と語るのは古賀だ、恐らく古賀がいたからこそ墓石まで辿り着けたのだろう。その道がどういった道であったのかは聞きたくもないし、常に冷静で表情を見せない古賀もどこか疲れた顔に見える。
「お前は側近を常につけておけ。古賀は側近じゃない」
「今日は致し方なくだな……」
「そういや、到着は遅れましたが一番はオレらでしたよ!」
割って入るように澤村がふふんと鼻を鳴らして言う。はて、と佳乃は思った。しかし同時に頼定が口を挟んだ。
「いや、一番は我々だ。先に蝋燭なぞ置かれていなかったぞ、なあ」
賛同を求められた古賀はゆっくりと首を縦に振る。しかし澤村も負けてはいない、それどころか先ほどまで言い合っていた稲まで加勢してきた。
「いやいや、オレらですって!」
「あんな怖い思いして、一番を切ったんですよ! それに私達が置いた墓石の前にも何もありませんでした!」
「なあ!」
「ええ!」
この二人、すっかり肝試しのおかげで馬が合ってきたようじゃないかと佳乃はぼんやり眺めていたが、どうにも話が食い違っている。何故ならば佳乃にも言い分があるからだ。
「私も一番に置いたぞ、苔の生えた墓石だ。これぐらいの」
と、自分の膝丈あたりに手をやる。すると場にいた皆は首を傾げた。話をまとめると、澤村と稲組は澤村の腕一本分ぐらいの大きさの墓石の前に蝋燭を置き、頼定と古賀組は大人の拳二つ分の小さな墓石の前に蝋燭を置いてきたという。
「そうか、石を指定していなかったな」
と言ったのは言い出した天ヶ崎頼定である。途中まで話が食い違っていることを怪奇現象、霊の仕業だと思い冷や汗をかいている者までいたというのに。拍子抜けな顚末に、澤村と稲が長い溜息を吐く。本当に霊自体を怖がっていたのはこの二人だったろうに、肝試しに意味はあったのかと佳乃は自分の持っていた提灯の火を見る。『返して』あの声がふと蘇ったが、佳乃は安心している二人を見て何も言わなかった。
「そうそう、墓石といえば、一体誰の遺骨を埋めたお墓だったのでございますか?」
「それは自分も聞きたいところです、天ヶ崎様」
「ええ、もういいだろう誰の墓だってよお」
墓石に興味津々なのは稲と古賀だけで、澤村は「肝試し」に十分試されたのでもういいのだと言う。これ以上怖い思いをしたくないようにも見えるが。
「それはな、佳乃子が答えを知っているぞ」
そして自分で言わないあたりが、この男の嫌なところなのだと自分に話を振られた佳乃は小さく舌打ちをした。好奇の眼差しと疑心の眼差しが飛び交う中で、佳乃は言う。
「あの墓石は」
輪の視線が一気に集まる中で佳乃が口を開き、皆が次の言葉を待った。
「何も意味を持たない。ただの石だ。昔、誰が一番大きな石を運べるか競争して持ってこられたものだ」
はあ、なんだ、良かったと聞こえてくるのは稲の口からで、澤村はほれそれ見た事かと言わんばかりに胸を張っていたが、横から古賀があんなにびびっていただろうと口を挟む。稲もそれに同意しながら、澤村はびびってなんかいないとどこまでも意地を張り続けていた。
「いいのか」
「何がだ」
佳乃にそっと話しかけて来たのは頼定だ。
「本当のことを言ったまでだ。この石にはなんの意味もない」
「いずればれることだぞ」
「……。」
頼定の声に佳乃は押し黙って、少し離れた場所からやいのやいのと騒ぎ立てている三人を眺めた。いつの間にか頼定の側近が現れて、そっと主人へ向かい、後ろから何かを囁いていた。佳乃からそれを聞き取ることはなかったが、頼定が小さく頷いたのだけは見えた。
「では今日はこれにてお開きというわけにしよう。澤村、古賀の両名は夜も遅い故、下の者が使う舎でよければ使うといい。俺から伝えておこう」
佳乃に母の記憶はない。いや、失くしたい一心で無くそうとしているだけなのかもしれない。本当は覚えているのだ。綺麗だった黒くて長い髪、母譲りだと言われた自分の髪。母親である女はいつも艶めいた髪をしていた、艶っぽい紅を口に塗っていた。綺麗な着物に簪をしていた。女は長屋で一番の美人だった。いつも色んな男がそれを見に来ては下手なおべっかをつかって、どうにか気を引こうとしていた。女は滅多な男じゃ振り向かない。長屋の一室で、佳乃はいつも隅にいた。暑い日も、寒い日も、一人で。記憶にある女の顔は佳乃を見ようとしない、なので表情も顔の作りもわかりはしなかった。女が向くのは強くて偉い男ばかり。
それで、
それで、
それで。
「佳乃様」
稲の呼びかけに、はっとして、佳乃は視線を空から下へと下ろす。心配そうにしていた稲は、佳乃が自分のほうを向いたことに胸をなでおろしながら、言った。
「私達も戻りましょう。これ以上は、いくら夏といえど冷えこみます」
「……そうだな」
夏の夜は長い。もうすぐ恒例の『鬼灯祭』が始まると、後ろで澤村と頼定が騒いでいた。佳乃は前を向いて歩きだす。もう二度と、真っ暗な闇夜に染まった森を見ることはないだろう。
空気を思いきり吸い込めば、夏の香りがした。




