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和国世崎の生ひ成り帳  作者: 六曲
10/12

五色祭り

 春、従来では五色祭りと重なって行われていた上巳。これは大名であった武家らが将軍へ行う挨拶であったが、今現在この国の制度が改められた折にそのような作法は無くなった。皆無となったわけではなく正確に言うならば減った、というのが正しく、未だに古き制度への変革を懇願しているような大名家からは使いと共に届け物が来るのだが、世崎の現将軍である御台はそれに見合った織物を届けて返してやるのみ。三都にてこの国を治めようという現在の制度を、現将軍はここで元に戻してなるものかというお考えのようだぞとは城内での誰かの戯言である。

 そうしてとうとう、御台様、現将軍である御方が五色参りの役目を果たし城内へ戻られた。佳乃が世崎へ帰ってからひと月半が経とうとしていた。

 場所は白鷺城内部、大奥と呼ばれかつては将軍の側室らである女性や女官らがひしめき合っていた場所であるが、女将軍となった今、そこに女性らの声高い世間話も色めいた話も嫉妬で渦巻いた念もなく、ただひっそりと男女混ざった官僚らが本丸より、帰還した御台所の世話と政に関わる要件をまとめていたりと忙しない。しかし、中でも一つだけ普段は滅多に表へ出ない御台所が足を運ぶ部屋があった。『咲きの間』と呼ばれる一室で、そこは中奥でも少し離れた場所にあり、五色祭りの喧騒からかけ離れて庭の景色を眺める事が出来る、静かな間である。奥の奥にあるそこは部屋の屏風には四面、それぞれ四季を表す花が描かれており、御台所が座る場所より一段低く段差がついた畳の上に、佳乃子はいた。

「上様、この度は五色参りのお勤め、ご無事に戻られて何よりでございます。また、この世崎にて私めを呼び戻して頂き、誠に有難く存じ上げます」

 上様、御台所と呼ばれる人物は御簾の向こう側におり、顔は一切見えない。すると、中から色香の含んだようなおっとりとした声が聞こえて来た。

「……この数年で世崎は変わったが、そなたも変わったものだ。だが此処でそのような堅苦しい挨拶は似合わぬなぁ」

「は」

 通常ならば気にもとめない普段履きの袴である佳乃子も、将軍の前となれば上質な紋付き袴を、そしてはきはきとした口調の言葉を使っていた。それもそうだ、城の主、直属の上司である蓮城のまた上の上司に面するのだから。しかし御台所は一段段の上がった畳の上、それも御簾の向こうで顔を見せずに話しかけていた。とはいえその打掛は将軍に相応しい程の上質なもので、淡い萌黄の色に季節の花々が散りばめられており、帯は絞り染めの中にうっすらと柄の描かれた、これまた上品な赤色である。顔すら見えぬが、その御髪に刺さった簪も鼈甲で造られた特製のものであるのがわかる。上げられた髪から見えるうなじはほっそりとして、それでいて白い。ひじ掛けに掛けていた腕が扇子を持ってそっと上がった。

「もそっと近う寄れ。顔を上げよ」

 佳乃子は御台所の言われるがまま、座りながら畳の上をにじり寄り、その顔を上げた。

「そなた、未だにそのような男の成りをしているのだな。だが……その凛とした顔つきに、上げぬ髪は似合うておる。そなた、小姓を持ったと聞いたが、女の仲ではあるまいな」

「まさか。上様もご存じのはず。男であろうと女であろうと、私は……」

「……ふふ、そうか、良い。つまらぬ話をしたな。旅の帰りで早々にそなたの顔を見られたので気が昂っておる」

 すると、すうっと御簾の中で御台が動く気配がした。この間には誰もいない、御台自らが見張りもつけるなと申し付けたからだ。

「だがより女らしくなった、とでも言おうか。……柳の小僧の件、そして小里会の件、話は聞いておるぞ。ようやった、褒美は何が良いか」

「褒美など。あれはご命令に従ったまででございます」

「お主も頑なな女子じゃ」

 佳乃子は再び下げていた頭を静かに上げた、確かに、今目の前には御台がいるのだと気配で感じていたからだ。御簾の向こうで御台はどのような目で佳乃を見下ろしているのか。ふんわりと御台の打掛に焚き染められた香の香りがした。そうして、御簾の下から手先が見え、扇子の先端が佳乃子の顎をくっともう少し上へと挙げる。

「美しいな、『桔梗』。北へ送る前にこの名を付けて正解であった」

「懐かしき名でございます」

「しかし……そうだな、ならば褒美は祭りの際にやろう。良いな」

「は。有難きお言葉、承りました」

 二人の間には暫しの沈黙が訪れる。扇子が顎先から外され、御簾の中から出て来た白い手がゆっくりと中へ戻っていくと、佳乃子は目をやや伏せるようにしてその場で頭を下げた。

 閉めきった襖からは外の様子は伺うことが出来ない、だがこの咲きの間のためだけに作られた小さな庭園には確かに春の花々が咲き誇っている。ただ其処に桜の木は無く、桜を見るならば宴が開かれるために設けられた正式な表奥の庭に出なくてはならない。外では雀が鳴き、ちちちという声と共に空を飛んで行った。


 一方城下では、城主である御台所が世崎へ帰って来たという報告にあちらこちらで祝いの様子が絶え間なかった。勿論広場にある桜の木は町一番の武家屋敷が貸切るように宴会を開いているそうだが、澤村は小料理屋での下ごしらえに手いっぱいだ。そもそも憧れの佳乃様との花見はこの間済ませたばかり、こんな騒がしい日は露店に出ず、中で野菜の皮むきや洗いに精を出しているほうが澤村には気休めになった。隣で芋の皮むきをしている、同じく小料理屋での弟子の一人が澤村を肘で小突く。

「よう実利、聞いてんだろ、今日が城の五色祭りだってよ。いいのかいあのお武家様に付いてなくて」

「うるせぇなあ。幾らなんでも浪人風情の俺が、城へ上がることは許されねぇって分かっていってんだろ。それに佳乃様はお武家様じゃねぇよ」

「へっへ、だろうな。みんな佳乃様とはいえ、お城の役人様の腰ぎんちゃくになれたお前らを羨ましがってんだよ」

「腰ぎんちゃくじゃねぇや」

 ごぼうの泥を、たらいに張った水でごしごしと手のひらで落としながら、澤村は城のある方向へと顔を上げる。厨房には格子がついた窓があるだけで、見えるのは晴天の空だけだ。

「城の五色祭りねぇ。まあ、仕事とはいえ、佳乃様が上様をどう思ってらっしゃるのかだなぁ……」

 ひと悶着なけりゃいいけど、と口には出しながらもどこか佳乃の活躍が無いかという気持ちもある。だがあるとすれば……、自分も目の前で見ていたいものだと、澤村は羨ましい思いを空に馳せるのであった。


 白鷺城の表大奥にある、ひとつ抜きに出て広い中庭にて、五色祭りの宴の準備は行われていた。大事な祭りの宴を取り仕切るのは決まって中老である蓮成である。

「そこの敷布は紅色でもう一回り大きめの物を。食前酒の用意は何処の品を? ああ良い、それで良い。藤、大奥の端の者らへも酒は振る舞うように手配を。上様に失礼のないよう、宴の席はそこの大桜が見える木陰に配置を。芸者の用意は?」

 芸者と呼ばれて出て来たのは芸妓を得意とする者らである。一人で幾つもの芸妓を披露する者から数人で雑技を見せる者と、さまざまである。だが世崎にて上様の御前で芸妓を披露する為、とあれば国中から集まる者らといえば、そうそうたる顔触れだ。

「時刻は……ふむ、もうそろ上様の御用意が為される。皆の者、各々の仕事に励むように」

 はいと、四方八方から城に仕える人間の声が聞こえてくる。木々の最終手入れを行う庭師は、念入りに通りから見える葉の一枚一枚から普段見えぬ雑木の一本一本まで、丁寧に鋏を入れていた。


一方、中奥には、朝から主である佳乃子を探し回る稲がいた。まだお付きになってから数日しかないが、それまで聞いていた通り、佳乃子の早朝は稲よりも早く、毎朝一人で鍛錬をしていた。時には道場で、時には庭で、そうした後に水浴びをしてから城の者が起き出す頃に一人再び眠りにつき、昼頃に起床してくる。なので稲は朝手が空いている間は何もすることが無く、手持無沙汰を解消すべく藤に相談してはみたが、佳乃の報告書の清書や城下で起きている些細な事件から佳乃が対処すべく案件を探してみたりするだけで、それでもやはり暇は暇であった。そのおかげで、中奥に来た新参をからかう女官の標的ともなる。

 しかし今日は珍しく布団にはおらず、部屋の障子も開きっぱなしで(布団は畳まれていなかったが)佳乃の姿が見当たらない。そのため今現在、稲はこうして中奥を歩き回り主を探しているのだが。誰に聞いても見ていないという。

「もうお庭で五色祭りが始まってしまうというのに……」

「そこな女子」

 渡り廊下で声をかけてきたのは見知らぬ若い男だった。腰に下げる剣の鞘からして城に仕える者だというのは明らかだが、稲がまだ中奥へ上がったばかりだからだろうか、これっぽっちも見知った顔でないのは。男は目鼻立ちがくっきりとしており、背丈も佳乃よりあった(佳乃は城にいるそこらの男達よりも背が高い)。後ろに薄い顔をした小姓を付けており、その出で立ちといい着ている袴といい、位の高いお方だと思い稲は頭を下げ返事をした。

「は、はいっ」

「佳乃子という人間はおらぬか。いや某、上様と共に五色参りをして参ったもので、世崎へ戻ったと聞いてはいるがとんと見かけぬのでな」

「佳乃様……主に何か御用でございましょうか」

「主? ということは、おぬしは佳乃子の小姓か」

 左様でございます、と返答する稲の声色は少し身構えていた。佳乃を見てみたい、お前の主は、と声をかけてくる輩はたいていが物見遊山か因縁をつけてくる者ばかりであったので、この男もその一つに違いないと思ったのだ。だが自分が佳乃の小姓だと知るや否や、男は何やら楽しそうに笑い始めたではないか。それは単なる嘲笑には思えなかった。

「そうかそうか、いや失敬。あの者に小姓が。お主、担がれていたりはせぬか? はっは、いや聞かれたら佳乃子に怒られるな。しかし久々に世崎の事情を聞いたが、そうかお付きが出来たか……面白い事もあるものだ」

「あの、それで、佳乃様に何か……」

「ああ、大したことではない。いずれ宴で目にするだろう。それに小姓であるお主が見つけられないということは、恐らく蓮城様か上様にお呼ばれである可能性が高い。もう少し、部屋の前で待ってみるといい。どちらにせよ機嫌は良くないだろうがな」

 そう言って、ではなと去っていく男の背中には美しい花の紋様が描かれていた。五色祭りに合わせて縫われたものだろうか、その主の後ろをさっとついて行く小姓を見、着る物に頓着がない自分の主は、せめて今日ぐらい何か華々しい着物でも着てくれないだろうかと想像しようとした。だが稲にはどうにも佳乃が、女の着物姿でしゃなりしゃなりと歩くところを思い浮かべることができなかった。


「あっ、佳乃様」

 あの後、もう一回りする余力もなく稲が男の言う通り佳乃の自室へと戻ると、そこには佳乃本人がちょうど戻って来たところであった。内側の廊下へ入れば他の女中がぱたぱたと忙しそうに駆けまわっているというのに、此処は角部屋、外の庭が見えるだけで木に止まった小鳥が小さく鳴いているような静けさだ。

「何処をうろちょろしていた」

「そ、それはこちらの台詞です! もうすぐ宴でございま……佳乃様、そのお着物は……?」

「仕方があるまい。上様の御前だということで、爺めから贈られてきた」

 普段着である半裃とは別に、佳乃は長裃を見に纏っている。肩衣もかっちりと両肩に継ぎ添われており、それも縦の縞模様が入った納戸色の裃、それと淡い白に似た色の熨斗目のしめであるので、黒や灰色の裃ばかりである他の男よりも目を引く使用になっている。本人からは不本意だと言いたげな表情がありありと見え、稲は少し笑いそうになったが、それにしてもきっちりとした珍しい姿に呆けてしまう。

「なんだ、可笑しいか」

「い、いいえ、身綺麗なのは良いことでございます。それに、城のどの殿方にも見劣りしておりません!」

「……それは、喜ぶところか?」

 殿方、と自分で言って稲は思い出した。先ほど出会った見知らぬ男のことを。

「そういえば先ほど、佳乃様をお探しになられていた殿方がいらっしゃいました」

「名は」

「あっ……申し訳ございません、伺っておりませんでした」

「どんな男だ」

「ええと、佳乃様をご存知のようでした。そうですねぇ、お顔立ちの整っておられる方で、良く笑われるお方でした。今まで見かけた事のない……なんでも上様の五色参りに仕えていらっしゃられたとかで」

「ああ、成る程な」

 そこまでいうと察しがついたのか、佳乃は一人相槌を打ち、どうでもいいように聞き流す。稲は自分の着物も、主人に見劣りしていないか見返しながら自分の衣装棚を思い返す。だが農民の出である稲が持つ着物の一張羅といえばこれぐらいで、恐らく他の女姓ならばもっと値の張るものを着てくるのだろうけれど、これしかなかったのだと、言い訳のように一息ついて稲は主人のあとを歩き出した。



「上様が参られたぞ」

「お席の用意を」

 上様は頭に風折烏帽子かざおりえぼしのような帽子と、それから黒い麻のような布を前へ垂らしており、一向にして誰にもその素顔は見る事が出来ないようになっていた。それでも城内の人間は特別驚いた様子はなく、頭を下げ、上様がお席へ着くのを見守っていた。老中である蓮杖が、城内から席の上までの段へと上様の手をとり足元に気を付けながら導いた。その黒地の布からは何も見えていないわけではなく、上様の足取りも五色参りの後とは思えぬ軽やかさであった。


 祭りが始まると、騒がしかった周囲は呼吸をするように静まり返った。さらさらと木々に息吹きしている葉のざわめき、庭を流れる池の水が流れる水音と鯉がぱくぱくと口を開ける様子。一流の剪定師を専用にしているこの庭では、五色祭りともいえば桜の木を中心とした仕上がりとなっているが、もちろん他の色も緑や黄色と目に優しく取り入れられている。城仕えの武士はもちろんのこと、宴に参加している皆誰もが上様の御前に出ても恥ずかしくないようにと洒落た着物を見に纏っている。上様の横に並んだ色鮮やかに飾られた女姓らは、色とりどりとした花々のお喋りのようにくすくすと潜めいていた。

「では五色祭りを始めさせて頂きます。芸妓者、前へ」

 一番手の芸妓は南出身の独特の舞を披露する女性二人の一組だ。遠い世崎へ来たのも初めてだという二人は緊張しているのが見受けられる、がちがちで現在宴に出る前に蓮城の前でその舞いを披露した時は、それこそ足を引っかけたりと振付を間違えたりと、目が当てられなかったが、本番である今日の舞いは初番手にしては中々良い出来のものを終えたようで、終わった時には桜がひらりと舞い、上様も布越しだが機嫌が良いように思えた。

 次には話芸者が息を吸い、上様のみならず他の者へも語り掛けるように話を始めた。さすがに二番手ともなれば芸妓者の緊張も解れ、宴の場は酒も回って来たおかげもあってか、やんややんやと盛り上げる声もあちらこちらから飛び交うようになっていく。三番手、四番手へと順調に芸妓の順番が回って行った。

 佳乃はというと、上様の座るひな壇の下段に位置する老中らとともに肩を並べている。ついこの間までは、こんな場所に自分がいる姿など想像もしていなかった稲が、動きたい衝動を抑えて次々と酒や肴を運んで回る女中を眺めていた。稲の主人である佳乃は酒に一切手をつけておらず、注げる気配も無いのだ。時折、用意された膳に手を付けはするものの、特別美味しそうに食べるわけでもなく、稲は主人が手を付けたのちに自分も手をつけるのだがその副膳の美味いこと。何故、こんなにも美味しいものを口にして反応一つないのだろうかと、問いかけてみたいものであった。本丸中庭に咲く花々も、その庭の壮観といったらまさに絶景ものである。城下町での桜はたしかに目にしたが、ここはそんな木が何本も植えられているのだから、上様というのは本当に偉い権威の象徴なのだなと稲は思いながら、里芋のあんかけを口に運ぶ。上様の横に並んだ女姓の華々しさといったら、それはもう着物や飾りはもちろんのこと、仕草も顔も、女である自分が見とれてしまうほどの美女ばかりだ。前将軍は側室を持たなかったというが、それほどまでにあの黒布の下に隠されている上様のお顔はもっと美しいものなのだろうか。


 とふっと稲が芸妓から上様へ視線をちらと向けていた、そのときだった。ざあっと紙吹雪が舞い上がり、真剣を携えた芸妓者が声を上げてその紙一枚一枚をより細かく切り刻んで、まるで本物の桜の花びらのように紙が舞っていく。周囲からは歓声の声が上がったが、佳乃は咄嗟にその場から立ち上がり、何がくるのか予想がついていたかのように上様の前へと走り出る。

「え、えっ佳乃様?」


 佳乃の予想は的中した。紙吹雪の中を紛れ込んで、他の芸妓者ら複数名が上様へ向けて、自分の持ち場を離れ武器を手にしているではないか。先ほどの男は真剣を、他は木刀から隠し武器のようなものと様々だが、女姓達はきゃあと悲鳴をあげた。それを囲むように勿論城仕えの武士らも立ち上がったが、上様一人が微動だにせずにいる。


「お命頂戴致しまする」

「良い、面白い見世物じゃ。続けよ」


 虚無僧姿で籠を被った男が尺八と思わしき木刀を手に、佳乃へ打ちかかった。佳乃は難なくそれを交わし、男の腕を掴むと捻り上げるように天へと突き上げ、と思いきや瞬時に地面へ叩きこむ。敵は容赦なく佳乃へ次々と襲い掛かって来た、その拳や武器は当たらずとも降りかかる火の粉は払えど払えど、キリがない。それはまるで小里会のすったもんだを解決した時のように不利な戦いだが、今回はそれに加えて佳乃一人ときたものだ。稲は小姓として懐刀を持たされてはいるものの、実際に使うとなると足がすくんで動けない。ただ主人の無事を祈るのみ、だが出なくてはという思いで震わせながらその足を立たせた。すると何故か、隣にいた、昼間見た顔の男が手のひらを見せて稲に「座っていろ」と命ずる。あっという間にその男は、佳乃の周囲を囲んでいた者らの隙間から中へと入り、佳乃の手助けへと参上した。見ていた女姓らからすると、それはまるで正義の武士といった様子だったらしい。上様からの意見はない。近習の者が取り囲むようにし、周りに被害が出ないよう囲っているため、稲から二人の様子はよく伺えなかった。男が佳乃へ告げた。

「何を悠長に遊ばせている?」

「せっかくの見世物だ、ここで遊ぶ手はないだろう」

「はは、それもそうだ」

 笑った男は佳乃と背中合わせで芸妓者──今や賊らを前に、飛んでくる真剣を己の持ち合わせていた鞘で受け止めた。がちん、と音が鳴り少し手前に引いてから思いきり押しやると、敵はよろけて距離を開ける。

「せっかくの遊びだ、勝負でもするか」

「何を賭ける」

「それはもちろん……」

 佳乃は横から飛んできた男の剣を交わし、手刀でその真剣を落とすと敵の首を窒息させるように絞めた。男は鞘から真剣を抜いて、言う。

「上様の御心次第」

 きんっ、と刀と刀が交わり合う金物の音が響いた。反対では佳乃の拳が首を絞めつけた男の鳩尾にずんと一発、入り込んだ。


 近習、周囲の各々が真剣を抜こうと、その腰に下げていた鞘へと手をかけた。だが、

「宴の席であるぞ。控えよ」


 御台所のその一言により、真剣を抜きかけていた周りの近習達は身構えながらも刀を鞘へと納める。

 相手の股をくぐり抜け背後から一突き、また向かって来た相手の手元を抑えるようにして、飛び馬のようにひょいと飛んで翻る佳乃の姿は長袴のものとは思えぬ動き。男のほうもまた、斬りつける事はなく相手の刀を受け止めるのは刃部分ではあるが、相手を打つ時は峰のほうで、どちらも血で宴を汚すことなく飛び掛かってくる敵をひらりひらりと交わしては核実に仕留めていく。それはまさに、上様の言うように見世物の一つだと、周囲を囲む近習たちは呆気にとられていた。



そうしてとうとう敵は一人だけが残り、佳乃子だけが意識のある取り押さえたままの男の上へ片膝を立て、両手をがっちりと抑え込んでいる。男は身動き一つすら取れず、歯痒いのか悔しそうな表情で地面から顔を上げた。

「くそっ、やっぱりあんたか、佳乃……!」

 自分の行く手を阻むのは佳乃だと予想をつけていたのか、佳乃の顔を見上げるなり地に伏した男はよりいっそう険しく見えた。

「前将軍様といい、今の将軍といい、どうせその体を売って成り上がったんだろうよ、この売女め! 国を売ろうとした女が、また城仕えとはとんだザマだ!」

「黙らぬか、上様の御前であるぞ!」

 少し息を上がらせながら、佳乃の後ろからやってきた男の言葉も虚しく、賊は馬鹿にしたような笑みで言う。

「どうせ俺は打ち首だろうから言ってやるさ。いいか、世崎に戻って騒ぎを解決してるって聞いちゃいるがな、そんな体のいい罪滅ぼしの仕方があるか。城の者だってどれだけの人間がお前を信用しているか! 町の人間はまだ、みんなアンタを恨んで仕方ねぇのよ。今回だってそうだ、俺は御台所よりも、アンタの首を取りたかったさ……。花街にいる身売りよりも汚ねぇその面と体で、いったい何をどう償っていくってんだ? ええ?!」

 男の頭を掴んでいた手が力強く、地面の砂利へと打ち付けた。何も言わずに佳乃は黙り込んだまま、もう一度その男の頭を持ち上げる。賊は鼻から血を流し、額に擦り傷のような痣を作っていた。佳乃はそんな男へ顔を近づけて告げる。

「そうさ、だがお前はその汚い面と体に抑え込まれている。見てみろ、売女だなんだと喚いたその口も手も、私の心一つで塞がれる。上様がこの場で打ち首だと言わぬ恩情、そのちっぽけな胸に抱き死んでいくんだな」

 その言葉は決して小さくは無いが、大きくもない。周囲にいた者だけが、佳乃の言葉とその様子を見ていた。それもたちまち噂になってしまう、怒り慌てるどころか、真剣を携えた男相手に、罵倒されていたにも関わらず、佳乃自身はそれを何とも思わぬような顔をしており、ある者は男を見るその目は笑っていたと言い、ある者は殺意に満ちていたといい、またある者は侮蔑にも似た見下げる表情であった、と。

 すぐに縄を手にした近習達が近寄っていき、男と佳乃が抑えていた両手を縄で縛りあげて賊を無理やり地面から立たせると、何も言わぬようになったその賊らを城内へと引っ張っていった。


 稲と男の小姓がそれぞれの主人の元へと駆け寄っていき、怪我はないかとそれぞれ点検を始めた。

 一方、しんと静まり返った場で、皆はそれぞれが戸惑っていた。何しろその場にいる御台所が何も発言をしないのだから。だが御台所はそれすらもただ、じっと見つめている。役目を終えた佳乃はというとその場に立ち上がり、裾についた土埃をぱんぱんと叩き祓い落として、心配そうな稲と共に静かにまた同じ立ち位置に戻るだけだ。男も自分が元いた席へ戻り、手酌で酒を静かに注いでいる。そんな中、場を取り仕切るのは老中である蓮成であった。ぱんと手を打つと、各々に宴の続きを催促する。

「さ、余興はこれにて。皆の者、上様の御前で行われる五色祭りを台無しにするおつもりか。膳を下げよ、酒をお注ぎせよ。次の芸者、前へ参れ」

 次の芸者ももしかすると、という考えは無いのだろうかと皆が思うであろう。実際、膳を下げ銚子を運ぶ女中らはいつまた何が起こるか分かったものではないと、急ぎ足で蓮成の指示に従っていた。だが御台所の周りにいた近習らは、そうではないとちらりと横を見る。佳乃だ、今の一件でもしまた何かあろう事ならば、次もまた佳乃がその行く手を阻むだろう、そしてその身のこなしといい度胸といい、下手をすればどうされるかわかったものではない。何も起こす気がなくとも、芸者達はごくりと喉を鳴らした。次に出て来たのは北からやってきたという一座で、外国では時には獣も連れて行うという大道芸を披露した。玉乗り、曲芸、一本足の車輪の上での技は少しずつ、今さっき起きた揉め事を見ていた者全員の心をほぐしていく。

 桜の木々は争いごとなど無かったも同然に、ただその場にどんと居座り花びらをひとつひとつ散らしていく。佳乃は少し桜の木々を見上げ、そしてまた目線を戻して御台所の護衛へと務めた。



 その夜のことだ。昼間、佳乃を探していた男と佳乃が顔を合わせたのは。昼間のひと騒動もあり、宴が終わったあとも城内はばたばたと慌ただしかったが、佳乃は自分の役目は果たしたといってどこ吹く風。武芸の練習をし、風呂に入り夕餉を終えた帰りの話である。月が細くなった形で夜闇を照らし、外の渡り廊下から自室へ続く廊下を歩く佳乃の足は早いものだが、春とはいえ夜風にぶるりと身を震わせる稲の足は主人についていくので精一杯だった。その先で奥からやってきた男とその小姓と、鉢合わせたのだ。

「佳乃様、この御方が昼間話していた……」

 とまで稲が言いかけたところで、佳乃が遮る。

「何の用だ」

 ぶっきらぼうで素っ気ない一言だが、それは目の前にいる男へ向けられたものだ。稲は、顔馴染みなのかと内心ひやひやしながら、主人と男のやり取りを見守る。男の後ろにも薄い顔をした小姓が一歩下がってついていた。

「そろそろ戻る頃だと思っていたからな、待ち伏せだ」

「女姓の寝泊りする棟だぞ。おかしな噂が立っても私は知らんからな」

「それはそれで、面白いじゃないか。俺の嫁探しだとでもいえばいい」

「何が嫁だか。当分遊ぶつもりだろう」

佳乃はさらりとした表情で流すように首を傾ける。男はにっと笑ってみせて、佳乃とのやり取りを楽しんでいるようだ。夜風がさあっと吹くと、庭の草木がさわさわと揺れて稲の鼻元もくすぐる。

「は、っくしゅ! し……失礼致しました!」

 そのくしゃみでそうだと思いだしたように、男が口を開く。

「佳乃、お前が戻っているというのは聞いていたが小姓をつけていたとは知らなかったぞ」

「上がうるさいからな。何かしらつけておけば黙っている」

「とかなんとか言って、気に入ったんだろう。お前は他人を身近に置くのが何よりも嫌だからな」

「そうだな、貴様と違ってな」

「ははは、そうにちがいない」

「ちっ、相変わらず嫌味の無いやつめ」

 後ろにいる男の小姓は何事もないかのように、ごま塩のようにてんてんとついた目鼻のまま、黙って主人と佳乃の様子を見ている。だが佳乃の小姓である稲には、いまの様子がとんと理解できていない。一体どういう関係なのか、今まで城の人間とは蓮杖と藤以外で、こうも話した事のない佳乃が。そう思っていると佳乃本人が口を開いた。

「いい加減鬱陶しいぞ、頼定」

「よりさだ……? ……あの、不躾ですが、貴方様は、あ、あ、天ヶ崎頼定様で……?」

「うむ。如何にも、某が天ヶ崎頼定だが。なんだ、拠点を世崎に置かずとも女姓の間では名が広まってしまっておるか」

「そそそ、それは知らないとはいえ、大変な失礼を致しました!!」

「良い良い、そんなに畏まるな。偉いのは叔母である御台様で、某はその甥に過ぎない。それも前将軍である上様の甥だからな、親戚とも言えないほど遠い存在だ」

 そう、この男こそ次の白鷺城に殿として奉られるに一番近いと言われている立場にいる男。御台所からは無下にも甘やかされてもいないとはいうが、その腕は確かで剣術に武術、数術や問答といった知識術の広い野で才能を発揮している男だ。このように性格もあっけらかんとしているため、例え次の将軍になろうと非の打ち所がないと城に仕える人間の間では、その話題がもっぱら上がる。また男ともあれば将軍になる前にお手付きになってみたいものだという女姓達もいるのだ。

「それに佳乃子とも旧知の仲だ」

 半ば強引とはいえ肩を組まされた佳乃は、眉間に皺を寄せるもその手を無理に払いのけようとはしないのを見て、頼定が言っていることは嘘ではないのかもしれないと稲は感じ始める。

「重い、頼定。貴様肥えたか?」

「主がこうだからな。口も悪い上、いろいろと気苦労が耐えぬだろうが、根は悪い奴ではない。某からも宜しく頼むぞ」

「は……はい」

「お前な、何を言いに来たんだ。昼間も私を探していたと聞いたぞ」

 いい加減にしろと肩を組んでいた手をぺっと叩き、離れた佳乃が睨むように視線をやる。昼間と聞いて、佳乃の隣にいる稲を見てああと頼定は頷く。

「いや、特に用事はない。五色参りから帰ったついでに顔を見ようと思っただけだ」

「今度来るときは酒を持ってこい」

「呑み比べか、いいな! 是非ともそうしよう」

 ではな、といって天ヶ崎頼定は小姓を引き連れその場を去って行った。かと思いきやくるりと踵を返し、頼定が尋ねてくる。

「そういえば、上様からは何を承った?」

「まだ何も」

 そうか、と言って頼定は手を挙げて、次こそその場を去って行った。春にも相応しい花嵐のような方だ、と稲はその後ろ姿を見送るように頭を下げた。頼定の小姓は寡黙で、何一つ言わずにまたさっと後をついていく。いるのかいないのかわからない、忍者のような小姓だと、佳乃と稲の主従はその小さな背中を見て同じことを考えていた。


 天ヶ崎頼定、天ヶ崎とは先ほど当人が言っていたように前将軍の甥が継いでいる系列の苗字だ。そして御台所には直系の兄弟姉妹も子もおらず、頼定はこのまま御台所の推薦で、次期将軍まで押し上げられるのではと言われているほどの人物である。今でこそ若年寄の地位に落ち着いてはいるが、それでも佳乃と同年代で若年寄という地位もまた異例の出世ではある。両親共に公家の出だが、世崎にいる叔父の前将軍の元で修行を積みたいという本人の申し出から、五つの頃から世崎へ来たという。その後は下積みをし、叔父が亡くなった後は全国各地を回り見ながら、世崎の為となる情報をかき集めているのだとか。

「……頼定様とは、旧知の仲だというのは本当のお話ですか?」

「本当だ。蓮城の爺の元で、共に学んだからな」

「成る程、蓮城様の」

 であれば納得がいく。真面目で学問に取り組む頼定と、そっぽを向く佳乃の幼少期が目に浮かんだ。浮かんで少しおかしくなる、佳乃にあんな真逆のような友人がいたのかと。

「何を笑っている」

「え? え、わ、笑っていましたか?」

「勘繰るなよ。あれとは腐れ縁なだけだ」

「勿論! わかっておりますとも」

 本当にそう思っているのか?とでも言いたげな顔つきで、佳乃は自室へ続く廊下へさっさと歩いていった。藤から佳乃付きの小姓となるよう命じられて以来、部屋は佳乃の隣へと移りあがった。お三の間であった一女中が、いきなりの出世。同僚はさぞ驚いただろうが、口ではおめでとうと顔では作り笑いを浮かべていた。心の中ではどう思っていたのかわからないが、稲自身も異例の引き抜きで驚いているばかり。今でさえ起きてすぐ隣の部屋に、佳乃がいるとは信じられない程だ。

「ふぃっ、くしゅんっ」

「……移すなよ」

「そ、そこはご心配のお言葉くらい」

 すいっと障子を開き、佳乃は奥の自室へと入っていってしまった。小姓になったとはいえ、佳乃が日々やることは政とは一切関わりなく鍛錬か昼寝かのどちらかで、小姓である稲には仕事らしい仕事がなかった。主人の部屋掃除以外というと、鍛錬に付き添い、食事に付き添い、風呂に付き添い。付き添いといっても食事は毒見役なんぞいらんという言葉のせいで、毒見係もできず。風呂といっても勿論共に湯に浸かることはなく、主人が入って出てくるのを待つのみだ。これではまだ前のほうが仕事になっていたのではないだろうか──そんな思いも脳裏によぎるが、今日の五色祭りでの一件。あれをみたら誇っても良い主人なのではないかとも思える。

 どちらにせよ、わからないことばかりだ。佳乃の気まぐれでの出世、城下町で聞いた佳乃の噂、賊の吐いた言葉にあった「恨み」「売女」と呼ばれた佳乃、そして旧友。

 ひゅうと春風が再び足元を撫で、くしゃみをする寸前で鼻を抑えた稲は、今日はもう考えごとはやめようと慌てて中へ入った。障子を開けて中へ入ろうとした先で、するりと足元に白い何かが舞い込んできたのを稲は屈んで拾い上げた。夜桜だ、振り返り夜の月を見上げる。白くて細い月、ここから桜の木が見える庭はないが、花びらはどこかに入り込んでいたのだろう。稲は、摘まんだ白いそれを大切そうに部屋の中へと戻っていった。


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