柳小僧を捕まえろ
始まりの一歩がここから
蔵の中には、金銀財宝、農民、商人ですらお目にかかれない宝ものばかりがそこかしこに積み重ねてあった。お重を開ければ金であしらわれた櫛や髪飾りが、葛篭を開ければ手触りのよさそうな、反物が。だが、目当てはこれらではない。息を呑み、奥へそうっと近づいてみれば、何やら小さな鉄製の入れ物がある。お重よりひとまわりほど大きなその入れ物は、大きな南京錠がかけられていた。ちょっとやそっとでは開かないのは一目瞭然、だが探し求めていたものがそこへあるのは確実だ。
砂利を踏む音と、人の声が聞こえてきた。大方、門前の警護にあたっていた武士だろう。蔵の異変に気付いた武士は急いで大声を上げた。
「柳の小僧だ!であえ!であえ!!」
他の警護が駆けつけるもすでにその蔵に人影はなく、置き去りにされたのは金銀財宝、高価な反物やお櫃。人の影などどこにもなく、はじめから何もいなかったのではと、首を傾げた。だがあの小さな入れ物だけが、ひっそりと侵入者と共に姿を消していた。
夜は、続く。
天気はかんと晴れ、風は涼しく、袂をさっと通り抜けるほど良い日和である。
土手や池の堀にいる木々では、桜がまさに咲こうとしているところで、枝のあちこちには開きかけの蕾が顔を見せていた。茶屋に髪結い、蕎麦屋に小間物屋、あらゆる店が軒を並べる表の大通りは、今日も変わらず賑わっていた。昼時でもあり、呼び込みの声もいっそう張っていた。
「また柳の小僧か、持ち出したものは屋敷の刀に金物いっぱいだと」
「なんでまた刀なんか。おれなら小判を盗むね、お武家さまの蔵には米俵だって山積みだろうしよ、食いもんには困んねぇだろうなあ」
男二人、瓦版を手にそんな他愛ない話をしている横を、ひとりの旅姿が通り過ぎた。大きな都であるこの地へ旅など、何も珍しいことではない。だが菅笠をかぶり、脚半を履いて旅の姿ではあるが、おかしなことに荷物ひとつ持たず、手ぶらであった。相当長い旅だったのだろう、ワラジはとうに履き潰されている。出稼ぎにしても、ツヅラのひとつやふたつ、肩から下げているものではないか。
「食い逃げだぁ!捕まえてくんねぇ!」
すると突然聞こえる親父の怒声、なんだなんだと道を振り返る町人。必死の形相で、親父から逃げる男が道の向こうからやってくる。
「邪魔だ邪魔だ!どけ!」
どんと旅人へぶつかるが、もちろん男は食い逃げの身、人へ当たろうがお構いなし。邪魔だと言わんばかりに旅人を押しのけようとした。だが、何故だか体が動かない。
それもそのはず、男は目の前の旅人に胸倉を掴まれ、足を取られているのだから。
なんだなんだと口にするが早いか、男の視界は一瞬にしてすってんころり。民衆から見ればすってんなんぞ易しいものではなく、男が背負投げされている様は、地面へ叩きつけられているも同然だった。まるで赤子の手をひねるとはこのことだ、抵抗する暇もなく、男は背へ受けた衝撃に悶えた。地面へ砂埃が舞い上がり、一連の流れを目にしていた町人は、おお、やるなぁ、と関心するばかり。
旅人は男を地面から起こすと、両腕を後ろに引き、懐を探りだした。何をしているのかと思いきや、懐の中から巾着を引っ張り出すと紐を解き、中の銭をちらと見る。小判はなくとも、小銭がいくつか底へ貯まっていた。そこへ、後からひぃひぃと息を切らし、食い逃げだと叫んだ店主だろう親父が、もつれる足で駆け寄るやいなや、男を地面へ引っ倒し、その上へどんと腰を下ろした。
「ああ、すまねぇ、旅の旦那。ちぃと目を離した隙にやられっちまって、くそ、お前さんでこれで三度目だってんだ。おい、金はないなんて言わせねぇぞ、きっちり払ってもらうまで、俺はテコでも動かねぇぞ、いいか、嫌だと言おうがなぁ」
店主は悔しそうに、息を上がらせながらも説教を続けた、言いたいことはまだあるぞという顔で。だが、横から伸びた手いっぱいの銭に顔をあげた。旅人が、巾着から取り出した銭をじゃらんと突き出していた。
「これで足りるか」
「はぁ? へぇ、勿論足りることにゃ足りるんですが、こんなにたくさん……」
「残りはこっちの飯代だ。親父、そいつで何杯食える?」
腹這いになり上に重しを乗せられた男は、持ち金すべてを使われようと、畜生!と唸ることしかできなかった。
砂埃をぱんと払い、旅人が顔を上げ、雨除け日除けの傘を外すと、ホコリよけに頭へ巻く手ぬぐいが現れる。それを解けば、髷も結っていない、およそ二尺ばかりの黒々とした髪が、ばさりと旅人の頭から垂れ下がった。
気付いた一人があっ、と声を漏らし
「佳乃様」
と、どこかの誰か一人が小さく呟いた。
少し離れた場所から、ついさっきの若い男二人が、それを眺めていた。
とある島国、ここ世崎はその陸の中央で栄えた都である。北の大郷、南の灯と共に栄の三都と呼ばれ、内陸であるにも関わらず、四方から多くの人間が集まるため大変、多色賑やかな都であった。武家の住む屋敷や商人や町人の住む長屋、少し離れた所には田畑があり、世崎ご自慢の米や菜がよく採れた。
また、此度、都を治める御台所が腰を据える城の天守が、悠々と民の住む町を見下ろしていた。その城、月威城は小高い丘に天守を置き、辺り一帯を堀で囲む作りとなっている。堀は、その昔、水堀として使われていたが、今では河川から水を引くこともなく、空堀である。
「あたしもね、聞いただけの話だが、そのお方は佳乃様といって、城の新御番だったのさ。だが、ただの新御番じゃない、御台様のご寵愛を受けていたらしい。御台様に気に入られてるのをいいことに、好き勝手し放題、傍若無人の野蛮人。城の男も女もそうとう手を焼いたって話だ。だがとうとう六年前、騒ぎを起こして、北のうんと奥の山へ出されたんだってさ。だがそれが世崎へ帰って来たってもんだから、城の者が騒いでるんだよ」
新御番とは、城敷地内の警備を行う使用人である、昔は密偵のような役割を担っていたとか。その多くが刀の腕を良しとしていた。
城の敷地の西に位置する、二の丸御殿。女の例に漏れず、噂好きのお女中ひとりが中心となり、それを囲うように丸くなり、皆が噂の『佳乃様』像を聞き入っていた。女中は皆、手にはボロ雑巾や箒を持ち、どうやら掃除の真っ最中のようだが、そっちのけで耳を傾けていた。
「あたしも聞いたことがあるよ、般若のような面に、鬼のような手足。城の男だってかないっこしないって」
おお、怖い。お互いの顔を見合わせて、噂をひとまとめにした想像上の人物に、皆は震え上がった。
すると噂をすればなんとやら、小言を並べる声と、それに適当な相槌を打つ声が聞こえてきた。声は奥からこちらへ向かってくるようで、女中らはさっと持ち場へつくと、廊下を磨き庭を掃きと、それぞれの仕事へ戻った。
「佳乃様、いけません。そのお姿で天守閣へ上がるなど、藤めは許しませんぞ」
その名に、誰もがちらりと目をやる。廊下の拭き掃除をする女は少しずつ床を磨き、庭の掃き掃除をする女は同じ箇所を何度も掃いた。裃の公服を纏うは、初老の男。やや痩けて頬骨が高いこの男は、若年寄の藤である。いつもながらあれやこれやと忙しく舌を巻いているが、今日は一段とその声が張っているように、女中らには思えた。その藤の半歩前を歩くのは、いやに長く黒い髪、佳乃である。
「湯浴みをし、お服をお着替えなされ。久方振りだというのにあなた様はまるで変わっておられず、藤めは嬉しいやら悲しいやらでございます。まったく元気は人一倍というか人の十倍といいますか、そも北へやったのが間違いだったのでしょうか、ああ、一段と逞しくなられて……」
「お前は、相変わらず喧しい奴だな」
「あなた様の世話係ともなれば喧しくもなります。これ、仕立てたばかりの羽織りがなかったか。ああ、あの納戸色のものを持って参れ」
指示された女中は、すぐにとすり足で奥へ引っ込んでいく。
「お食事はどうなされますか、あと一刻ばかりで夕餉の用意が」
「いらん、下で食ってきたばかりだ」
「佳乃様、天守閣へ御用ならば、御台様は今朝方世崎を発たれたばかりでございます」
「それを早く言え、行き損になるところだった。戻る」
「まったく、あなた様は、まったく、まったく」
藤を悩ませながら、板の目を闊歩する袴姿は、まるでこの城の勝手をよく知った様子だった。雑巾を手に、せっせと柱を磨いているお女中、御末の一人お稲は、物珍しげにその子犬のようなまん丸とした目を、いっそう丸くした。あれが噂に聞く『佳乃様』なのか、成る程、噂の通りならば、ここの勝手知ったる様も、お女中達の上へ立つ藤への態度にも合点がいく。とはいえ般若の面に鬼の手足、とは言い過ぎではなかろうか。藤はあれを逞しくとは言ったが、別段抜きに出て大きな体つきには見えなかった。顔はというと、つり上がった目元はきりりと鋭く、真一文字に引いた口はお喋り好きのそれとは違う。まん丸とした狸顔、と呼ばれる自分とは真反対だ。
踵を返し、廊下を引き返す二人が遠ざかると、お女中らは二人の背を見送り、一斉に口を開いた。
「いい男じゃないか」
「ありゃ御台様のお気に入りになるのも無理はない」
「髷を結って月代を剃れば、それなりそれなり」
「お稲、何を阿呆みたいな顔してるんだい」
「あっ、いえ、いえ、なんでも」
皆のあまりの手の返し速さに呆けてしまっただけだとは、お稲は流石に口を割れなかった。
刻は戌の晩、とっぷりと日が沈んでいる中、半月の明かりだけが、肩から手ぬぐいを下げたひとつの影を照らし出す。湯浴みを終えた佳乃は、その足で暗がりの大広間へ来た。ここはその隣に隣接した広い道場である。昼間は城や武家の男が、ここへ来ては剣道武道弓道を学びにやってくるのだが、月の昇るいまとなっては、人の気配は一つもない。はずであった。
光に当たらぬもうひとつの影が、佳乃の後ろからすぅと手を伸ばす。その手が肩の手ぬぐいへ手をかけた瞬間、佳乃の右手が布の端を掴み、光の下へ晒し出すようにこちらへ引っ張り出そうと力を入れた。だが相手も同じ考えなのだろう、暗がりへ佳乃を引き込むよう大きな力をかけて手ぬぐいを引く。力比べでは勝てない、佳乃はすぐに手を離すと体勢を低くとり、影の懐へ飛び込んだ。そこに、顔も見えぬ相手への恐怖など毛ほどもなく、佳乃はむしろ力試しをするようで、好奇に駆られていた。右足を軸に力いっぱい飛び込めば、相手は僅かに後ろへ下がったが、それも範囲の内である。佳乃は、握りこんだ左拳をその腹めがけて振り抜いた。何かに当たる感触。感触はあった、だが手応えではない。その拳を手の平に受け止められている事に気付くも、既に遅く、相手の右足が佳乃の脛をぱしんと蹴った。軽くも鋭い衝撃に揺れた体を、暗がりの相手は見逃さず、佳乃の胸倉にさっと手を入れ、まるで藁でも担ぐようにひょいと持ち上げると、背負投げで佳乃を床へ放った。しかし床へ背をつけた佳乃に衝撃はなく、赤子を床へ下ろすように、なんとも静かに、柔らかい投げであった。
「力が全てはないと、何度言いつけたことやら。お前はいつになっても、力押しの一点張りですね」
ゆったりと宥めるような男の声が聞こえ、影が月明かりの元へ現れた。仰向けとなっている佳乃は、その人物を見上げながら顔をしかめる。
「引退したんじゃなかったのか」
手ぬぐいがパシンとその顔面を叩いた。またも鋭い衝撃に佳乃は鼻を抑える。
「成る程、空気の良い山奥とはいえども、その口悪さは治らなかったというわけですか。ですが、身のこなしに衰えもなく、足腰の使い勝手はうんと上達したように思えます。北はさぞ良き療養となったことでしょう。変わりないようで、藤も喜んでいましたよ」
「……蓮成師匠も、お変りないようで」
鼻をさすり立ち上がれば、柔らかな笑みを浮かべる男、上背は佳乃よりもやや高めといったところだが、その体格は常人のそれと変わらぬように見える。
男は、さきの会話から察するように、佳乃の武芸の師である。名を蓮成といった。その優しげな笑みはまるで仏のようではあるが、蓮成はその道の達人、ちょっとやそっとで敵う者などおらず、佳乃をひと投げしただけはある。並びに、この道場の師範でもあった。
「ここを出た頃とまったく変わらぬお姿で、気味が悪いのですが」
弟子入りした頃から、蓮城の見目は変わらぬように見える、それどころか若返っているのでは?と改めて感じるのだ。妖怪じじい、と佳乃はぼそり呟いた。と共に、手刀が空を切る音が聞こえ、二の舞になるまいと身を屈めて交わしたが、真上から振り下ろされた反対の手刀が佳乃の頭を小突いた。
「皆がお前の噂をしていますよ、大層な尾ひれをつけて」
見え隠れしていた月が、大きな雲へとすっぽりと包まれ、辺りは一面の暗闇となる。
「多くがお前の帰還を良しとしていません。町の皆は贔屓目で見る者はないでしょう。城の者とて、年寄衆は苦い顔をしています。お前が頭を下げれば昔の話は多めに見てやる、といった口もありますが」
「古狸へ下げる頭などありません」
「……」
はあ、と深く徒労したため息が、蓮成の口から漏れては夜の闇へと溶けていく。困った弟子をもったものだと呆れる気持ち。そして六年前、騒ぎの中心となり、それでも国へ戻ってきたこの弟子がこれから行く先が、どうあろうと酷な道になることが目に見えたからだ。
佳乃の帰りを待ちわびていた者など、この国にはいない。いや、藤は、佳乃がこの城へ来た当初から世話係を務めている、手を焼いているが、いくら小言を言おうと嬉しいことに変わりなどないだろう。蓮成もまた、弟子のひとりとして、佳乃の帰りを祝う気持ちはあった。だが多くが、その名に良き思いなど抱くことはないだろう。城の男も女も、皆口々にする。「ああ恐ろしい!」と。
それは六年前。最も記憶に新しい、この都への反乱であった。50余りの僅かな人数だが、彼らは確固たる信念を集わせ、襲撃を起こしたのだ。そしてその前線で拳を振るい、城の男をなぎ倒す姿が見られたのが、佳乃だった。城の敷地内への侵入経路も、その一部で火事が起きたのも、城の勝手知ったる佳乃ならば容易いことだろう。斬首されずに済んだのも、御台所のお情けだなんだと散々罵倒されたものだ。たった六年、されど六年、佳乃は島流しと同様に山奥へ放られた。
そうして、なぜこの地へ戻ってきたのか、御台所の許可なくしてはこの城へ上がることも許されないのだから、この都の長が呼び戻したというわけなのだが、それはまた別の話である。
「御台様の申し入れを受け、此処へ戻って来た。それがどういうことなのか、承知ですね」
佳乃は何も言わず、再び口を真一文字へ引いた。雲を抜けた月の明かりは、白く冷たく佳乃を照らす。
「お前は過去の罪滅ぼしをし、御台様ひいてはこの地を守らなくてはならないということです。」
翌昼、今日もまた良い日照りの天気である。城は新たに一人加わったとはいえ各々の仕事に変わりはなく、飯炊きに掃き掃除、庶務や伝達と忙しい。ただ一人を除いては。
お稲は身に覚えのない言われで、何度か説教を食らったことがあった。出処は、御台所の側近にある女達だ。田舎の出というだけで煙たがられていた女中が、お稲の他にも何人かいた。一年も経てば、御末いじりも飽きてきたのか、最近はとんとなくなったと思ったのだが。突然呼び出され、藤の後ろへついてこうして西の間へ来たのである。何かしでかしただろうか、と小さな頭で考えるが、小さな事も大きな事も忘れがちなその頭に思い当たるところはなかった。
「失礼いたします」
部屋には蓮成、そして佳乃がいた。その姿に、一瞬でお稲の小さな体がいっそう縮まる。身を固くしたまま中の二人をちらちらと見ていたが、挨拶をしないか、と訴える藤の目に、お稲は慌てて両手をつき頭を下げる。「そう畏まらなくとも良いですよ、中へお入りなさい」と蓮城の声。畏まるなとは言うが、普段仕事を指示する立場にいる藤と、ただの師範とはいえ大政に参与する立場も兼ねている蓮成、そして昔は御新番であった佳乃もそれなりに、お偉方には変わりない。失礼のないようにと稲は恐る恐る顔を上げた。藤と蓮成が、何やら話をしている。
「一年ほど前ここへ奉公へきた御末なのですが、よく働く娘です。物怖じはしないかと」
「馴染みの女中や遣いのものを付けるより、幾分も良いでしょう」
真近で見る蓮城は、稲に神々しく見えた。城の番付一、二を争うほどの良い男、とは同室の女中の言葉だが、まさにその通りだ。目下のものにも態度を改めず、優しいお声とお顔で話しかけてくれる、その上お強いのだから、女達はそれはもう気にかけるだろう。隣で胡座をかく佳乃はというと、昨日と違い正装をしている、袴に長着に納戸色の羽織りと、しかし髪は相変わらずで、長いものを放るよう垂らしていた。そして、表情は明らかに不機嫌そのものである。
「足早ではありますが本題と参りましょう。柳の小僧の話は、知っていますね」
はい、と答えたのはお稲。いや、と答えたのは佳乃。横で藤が説明をと口を開く。
「つい最近、世崎に現れた小僧、つまり泥棒のことでありますが。武家の屋敷ばかりを狙う小僧で、その姿は幽霊のようにふらりと現れふらりと消えてゆくものなので、柳の小僧と呼ばれております。これまで三つの屋敷が小僧の手にかかったと知らせを受けております。他の屋敷の者は皆、次はどの家かと用心に用心を重ねているようです」
「先ほど、そのうちの一つ、堀田の家の者から、少しの間でいいので庭番がほしいと頼みが参り、お前を呼んだのです。得意のひとつでしょう。してお稲、そなたには佳乃の目付を任せたいと考えているのです」
「致し方あるまい、他の者は怯え嫌がるのだ」
女中の下の端にいるような自分が、ここへ選ばれた理由が藤のそれでようやく理解できた。それもそうだろう、自分とて昨日の一目見ただけで、挨拶を交わしたことすらないのだ、昔からここへ働く者やあの噂を聞いた者ならば誰しも嫌がることかもしれない。とはいえ、多少の驚きはあるものの、お稲に嫌だと断る理由はなかった。
「冗談じゃない、庭番や門番ならまだしも、わざわざ女を引いて行けと?」
「引いて行くのではなく、お前が引いて行かれるのです。無愛想なお前のこと、行ったとてその先で問題を起こすに違いありません」
「そのなんとかという小僧を捕まえるにしろ、付き人は邪魔になるだけだ」
佳乃の苛立った声が徐々に大きく響いていく。藤はやれやれといった様子で、お稲だけが呆けた顔をしていた。それでも佳乃が叫ぶことをしないのは、同じ間に蓮成がいるおかげである。
「女一人守れずして、何が新御番ですか」
ぴしゃりと言い放たれた蓮城の言葉に、ぐ、と佳乃は喉をつまらせ、言い返すこともできずにただ顔をしかめた。
振り返ればまん丸の瞳がふたつ、呆けたようにこちらを見ている。佳乃は眉間へしわを寄せて、ため息をつくのだった。