窓の外
満喜乃はいつも窓の外を見ていました。
それは授業中でも昼休みの時間でも変わりません。
ただじっと、窓の外を見つめているのです。
「何かあるの?」
私が尋ねても、満喜乃は
「ううん、なんもないよ」
と、ただ首を振るだけでした。
春。満喜乃は私が14歳で関西の田舎の方にある中学校に転入したときに、はじめてできた友人でした。私は転校するのが初めてでしたから、先生に連れられ、緊張しつつ教室へと入り、決められたとおりに自己紹介をして席に着いたときまでは、最初遠巻きに、しかし興味津々の目で級友たちから見られるなんて知らずにいたので、とても辛かったのです。私はここへ来て何も悪いことだってしたことがないのに、初対面の人に対してそんな目で見るので、なんと不躾で礼儀のなっていない人たちだろうと、心の中で憤慨しました。けれど、その目が何を言いたがっているのか、私にわからない理由があったのです。
教えてくれたのは、満喜乃でした。
「あんた、東京から来たんやってね」
教科書を見せてもらおうと、隣に座っていた満喜乃にお願いしたとき、快く見せてくれたついで、そう囁かれたのです。わずかに首を傾げて囁いたときに、綺麗に結われた三つ編みが肩から滑り落ちるのがとても印象に残る、儚げな少女でした。
その囁きはたとい小声だったとしても、授業中ですから、教室内は静かです。そんな中で返事を返すのは憚られました。けれども満喜乃はとても慣れた調子でそう囁いてきました。私はやはり声を出せなかったので、「うん」と頷いて「ありがとう」とだけ囁き返しました。
私が東京から転校してきたのは、最初に先生から告げられたことなのに、なぜ改めて訊くのか、私にはわかりませんでした。
授業と授業の合間は、やはり遠巻きの視線がありました。私は居心地が悪く、もう教室から飛び出してしまおうかと考えるまでになりました。そこへまた、満喜乃の声がありました。
「東京はええなあ」
何を言われたのかわからず、一瞬ぽかんとしている私へ、満喜乃は続けます。
「街灯もネオンがきらきらしてて、綺麗なドレス来て、化粧なんかした別嬪がようさんおるんやろ? うちとことみたいな田舎とちごうて、お金持ちがようさんおるんやろ?」
なんと答えようか、とても悩みました。たしかに、東京には満喜乃が言うような華やかな場所はあります。けれど、そうだと答えたとして、私は彼女に何をしてあげられるわけでもありません。
そのまま黙っていると、満喜乃は呆れながらこう言いました。
「そういうときはちゃんと答えなあかんよ? 黙っとったら、いつまで経っても生意気って思われるで?」
余計なお世話だ、と思ったのですが、なぜ質問に答えられず黙っていると「生意気」と思われるのかわからず、また、悩んでしまうのです。
「……私、ドレスなんか持ってないわ」
ようやく絞り出た答えがこれだとは、自分自身も知りませんでした。
けれど、満喜乃は笑ったのです。「うちかて持ってへんわ。あ、おばあちゃんが繕うてくれたドレスみたいなモンはあるけどな」
翌日の空気は昨日とちがってさっぱりしたものでした。なぜかというと、どうやら私が「東京から来た」というのが原因だったというのです。
なぜ東京から来たら遠巻きにされるのか、満喜乃によれば、
「うちら、田舎もんやから」
やはり、わからないのです。
満喜乃はクラスの中心人物というわけでもなく、孤立しているわけでもなく、つかず離れず、身体が弱いということ以外は私たちとなんら変わらず、笑うときは笑い、怒るときは怒りますし、誰かが満喜乃の分のお茶菓子などを全部食べてしまったときは、子どものように拗ねました。
満喜乃には誰にも負けないところがあります。それは笑顔がやさしいこと。私が勝手に思っているだけですが、これは他人ながら譲れません。私が裁縫の時間に鋏で自分の指を切ってしまったとき、満喜乃は目を見開いてから
「まったく、しゃあないなあ」
と、まるで親が子どもに対するような声音でそう言うのです。そのときに、たまらないくらいやさしい笑顔をするのです。私が満喜乃に勝てないもののひとつでした。
けれどそんな満喜乃の笑顔は、窓を見ているときには、なりを潜めていました。
「私いつも思うんだけど、満喜乃ってどうして空見ているのかしら?」
その問いに明確に答える友人は、ひとりもおりませんでした。
「ごめん、亜矢ちゃん。次の国語の宿題って提出するやんか。見せてくれへん?」
いつもしっかり宿題を片付けて授業に臨む満喜乃も、たまには宿題を忘れて私にお願いしてくることだってありました。見せてもいいけど、私の答えはあまり当てにならないわよ、と警告したら、
「私、亜矢ちゃんのこと信じてるし、大丈夫」
と笑うのです。根拠も何もないのに。
けれど満喜乃は笑うのです。あの笑顔で。
そして、授業中はじっと窓の外を見ます。転入して半年もすると、それはもう満喜乃の日課なのだと思うようになりました。どうせ訊いても答えてくれないのなら、それ以上しつこくは訊きません。満喜乃の個人的なものかも知れないのだから、と自分を無理矢理納得させました。
「満喜乃って、猫のようよね」
運動の時間に、私はそっと尋ねてみました。やはり、諦められません。満喜乃のことなら、どんなことでも、なんでも知りたい。そう思わずにはいられないと思うのです。
「そう?」
「ええ、だってね……窓の外、見てるもの」
「ああ、猫ってジーッと部屋の隅っこ見てるもんなあ」
あれって何見てるんやろ、と暢気に答える満喜乃が、本当の答えをはぐらかしているように思えて、ひどく心が落ち着きませんでした。
冬が近づいてくるようになって、満喜乃の調子が悪くなりました。もともと身体に持病があり、季節の変わり目には必ず体調を崩すそうです。
そういうわけで、数日ほど満喜乃の欠席がありました。その間、私は私のと満喜乃のと、ふたり分を記帳していました。昼食の時間や登下校は、他の友人と済ましていたので、淋しさは感じませんが、満喜乃が隣にいないことをふとした瞬間に自覚すると、なぜだか自分が世界から取り残されたような気がしました。
「はい、これ。字が下手なのは許してね」
満喜乃が4日ぶりに教室に戻ってきました。私が代筆した満喜乃の帳面を渡すと、満喜乃はやはり笑って
「おおきに」
と言いました。
違和感、というものは目に見えないものであると思っていました。けれども、満喜乃の笑顔は、そのときには違和感の塊に包まれているように感じたのです。
そうして1年余り、私は満喜乃や友人たちに連れられて、美味いと評判の甘味処や贔屓の貸本屋などに行き、東京とは趣のちがう、ふんわりとした町並みを楽しんだのでした。
やがて、大晦日の空気が教室内にも漂うようになりました。ここへ引っ越しをしてきて、初めての年越しを迎えます。「よいお年を」と担任に見送られ、私たちは家路に着きました。
「さようなら。よいお年を」
友人たちと別れた私は、満喜乃が見あたらないことが気になって、足を校舎の方へ向けました。
木造の校舎内は、雪が降っているせいもあるのでしょうか、不思議なくらい静寂に包まれています。ぎしぎしと床板を踏みしめる音だけが廊下に響き渡り、白い息を眺めながら、私はなぜかぼんやりした気持ちになってしまうのでした。
満喜乃を探しに戻ったというものの、彼女がどこへいるのか、また本当にここにいるのかなどわからないままでいたので、私は不安になってきました。満喜乃が本当に学校に残っているのなら、早く私を見つけてほしい。このままでは、私は校舎の中で彷徨い歩くだけになってしまうかも知れない。根拠のない不安に駆られて、一目散に自分の教室に入りました。
けれど、教室の中に人影があると自覚した途端、私は安堵と同時に少しだけ、たじろいだのです。
「何をしているの?」
その問いがまったく愚問だということは、百も承知でした。
満喜乃は、雪の降る窓の外を見ていました。
「帰ったんやなかったん?」
「満喜乃こそ、まだ帰らないの?」
言いながら、私は満喜乃に近づきました。満喜乃は「うん」とだけ言って視線を窓に戻そうとしました。
「……ねえ」
私はこの機会を逃すまいと、思い切って満喜乃に尋ねました。
「満喜乃って、ずっと窓を見ているじゃない? 何かあるの?」
「なんもないよ」
「嘘よ。だって、何もないのなら窓なんか見ないわ」
満喜乃に「嘘だ」と言う。私が今まで1度もしたことのない、満喜乃への反抗でした。
そんな、いつもとちがう雰囲気の私に何かを察したのか、満喜乃は笑顔を引っ込めて、それまでずっと窓に向けていた表情をつくりました。私は改めて尋ねました。
「窓に何か見えるの?」
「……見えるよ」
私の再びの問いに、満喜乃はようやく答えてくれました。
「何が、見えるの?」
なぜか訊いてはいけないような気がして、私はなぜかおずおずと訊いてしまいました。すると満喜乃は、今度は黙って首を振りました。
「わからへん」
「見えるけれど、それが何かわからないの?」
言いながら、私は満喜乃の横に立って窓を見ました。正確には窓が開いていたので、その外。
空がありました。雪雲が包む、灰色の空。
真っ白に色づいた山並みと人気のない道。そこへ乗る、いずれのものとも知れない足跡。どこまでも続いています。
ただ、それだけでした。
「何があるの? 私には何も見えないわ」
教えて、と言っても、満喜乃はどう答えていいのかわからない、という風に眉をひそめて。
「――」
耳鳴りがひどかった。雪はどんな音も、すべて飲み込んでしまうと言います。自分で何を言ったのか、何を答えられたのかが思い出せません。
裸の木の枝に縮み込む鴉が、小さく何かを呟きました。
やがて次の夏が訪れ、中学に進学して2度目の夏期休暇を迎えることになりました。
いつからか、満喜乃は窓の外を見ることがなくなりました。それを素直に喜んでいいのか、複雑な感情が心臓を包み込みます。
「何?」
私の視線に気づいて、満喜乃は怪訝な表情を私に向けました。
「いいえ。夏休み、楽しみね?」
「うん、そうやね」
やわらかい声と、満喜乃の笑顔は、いつも同じです。
夏休みの半分を母方の実家がある東京で過ごし、戻ってきた私を待っていたのが、満喜乃が入院したという知らせでした。
はじめは体温調節の不具合で寝込んだようでした。その回復が遅れ、他の病気も併発したために入院ということになったそうです。
私が見舞いに行くと、看護婦が病院の離れへと連れて行きました。
満喜乃は、サナトリウムにいました。
病室で満喜乃を見つけると、私は泣きたくなりました。満喜乃が、また窓の外を見ていたからです。
「……具合は、どうかしら?」
「うん、今日は気分ええよ」
やめて、と言っても、もはや彼女の視線の中に窓の外を入れないでいるのは、無理な話でした。私には何もできません。何も、できませんでした。
新しい学期が始まると、私は普段どおりに登校し、授業を受け、満喜乃の分の帳面をつけ、友人たちと甘味屋へ行き味比べをしたり、満喜乃の見舞いに行くなどして1日を終え、また朝を迎えます。
その一連の生活の中に、ときどき「窓の外を見る」ことが入るようになりました。けれどいつ、どこを見ても、何も変わったものは見えません。おだやかな日常がゆっくりと流れているだけで、数分もしないうちに飽きてしまうのです。
耳鳴りがすると、あの日を思い出すのです。思い出して、私はまた視線を外へ戻しました。そして、窓を全開にして外を見つめる友人の姿が、目蓋に現れるのです。
半年後、満喜乃は息を引き取りました。
どうして亡くなったかなどは、たとえ知っていても、私には必要ありませんでした。私にとっては「満喜乃の死」だけが事実だったからです。
満喜乃がいなくなってから、私は以前よりも頻繁に窓の外を見るようになりました。何を見ているというわけでもありません。
何かを探している。言葉にするなら、そんな感じでした。
耳鳴りの奥で、今でも流れていく、満喜乃の笑顔。何がいるのか、私は今でも「窓の外」を見ています。
あのときの笑顔を、思い出しながら。
―――何か、いるの?
―――……いるよ
おわり