幕間:炎獄の記憶
宿にやってきて火事だと伝えてきたのは、ゴステトゥーロだった。
私――ウスティナとアレットとゴステトゥーロ、それから衛兵達は足早に駆け抜ける。
別働隊として、ピーチプレート卿にはエミールとヒルダとクゥトを率いてもらった。
……夜なのに、ここウェスト・セルシディアは随分と明るい。
その理由は視界いっぱいに広がる、この光景だ。
建ち並ぶ家々が、炎に包まれている。
そんな光景を目の当たりにするのは、しかも数十人の兵士を引き連れての、それは、この長い長い生涯で数えきれないほどあった。
かつて、この仮面を付ける前は、見るたび胸が締め付けられた。
が、その中でも最も鮮烈に覚えているのは、私の故郷が燃やされた時だった。
◆ ◆ ◆
もはや遍く思い出は、枯れ葉のようにみずみずしさを喪った。
私にとってそれらは、己の過失を再認識させるもの以上の意味を持たなくなった。
かつて私は、クレイスバルド王国国防騎士団・魔王軍討伐隊に志願した。
故郷から旅立つ時、両手に持っていたのは剣と盾だった。
その身を包んでいたのはローブのような革鎧だった。
国が下級兵のためにあつらえた粗末なものだったが、私にとっては充分だった。
残してきた幼い弟たち、妹たち。私の進出を祝う故郷の人々。
私は、皆の前で告げた。
――『必ずや私が武功を立てて、我ら黒エルフの地位を認めさせてみせる。もう奴隷だの魔物だのと言わせないぞ』
今も私は、それを勇ましいなどと言えるだろうか。
今や私は、それは浅ましいなどと言えるだろうか。
私は下級兵としてオストラクル家の騎士団に率いられ、魔物の軍勢を追い払った。
人一倍頑丈だった私は、他の者達の目にはどのように映ったのだろうか。
日を追うごとに、増えゆくスコア。
戦況の悪化に伴い、減りゆく報酬。
それでも踏みとどまった。
月日は流れ、魔王が討たれた。
私は暇を出されて故郷へ戻った。
やったのだと、我々は人類に仇なす魔物共とは違うのだと、心躍り、足取りは軽くなった。
けれども。
……故郷の皆は、ゾンビになっていた。
家族を真に愛していたならば、あの場で皆の首を刎ね、ゾンビから屍に戻してやるべきだった。
私は無力さに打ちひしがれ、何も出来なかった。
震える両手からは剣も盾も零れ落ち、両足からは力が抜けた。
這いつくばって、世界を呪った。
もとより、筋を噛みちぎられた左腕では満足に剣など扱えたものではなかっただろう。
そうこうしているうちに討伐隊が次々と、私の故郷だった場所に血の花を咲かせた。
何もかもが片付いた後も、私はそれでも尚、壁際で頭を抱えてうずくまっていた。
それから月日が流れ、未だに私が茫然自失になっていた間にも、私の知る好敵手達は次々と名声を獲得していった。
対する私は惨憺たる有様だった。
仲間を見捨てた臆病者。
子供を殺した人でなし。
呪いを振りまいた疫病神。
信じたくなかったが……そういった罵声は、私が同胞と信じてきた黒エルフや、肌の黒い人間達からも浴びせられた。
そういった者達は、自分達の冷遇されてきた身の上ばかりを気にして、同じ痛みを知る者達に手を差し伸べはしなかった。
そんな様子を見た人間達はますます嘲笑した。
魔物に屈し、人間を陥れようとした臆病で陰湿な種族だと。
かつて私が立ち上がろうと思っていたあの頃から、私達の種族を取り巻く状況は何ひとつ変えられなかった。
むしろ悪化していた。
それを自覚した時にはもう、私は私として生きることをやめた。
スレイドリン・ゾラクェンとしての己を終わらせ、ボロ布と仮面で姿を隠し、ウスティナと名を改めた。
ウスティナとは故郷に伝わる言葉で“臥せる者”を意味するが、それを知るのは今や最後の生き残りたる私だけだ。
弱った左腕の代わりに右腕を鍛え、身の丈ほどの大剣を振るうことにした。
誰も守れない盾など、私には不要だった。
憎悪も、悲嘆も、諦観も、絶望も。
仮面と偽名が覆い隠してくれる。
誰とも言葉を交わすことなく、必要であれば筆談だけで済ませた。
だから女だとは誰も思ってはいなかっただろう。
声も、肌の色も、尖った耳も、消し去ったのだ。
あるのは力と、ウスティナという名前だけだ。
なるべく沢山のろくでなし共を道連れにしてやろうと思って、魔物も盗賊やゴロツキのたぐいも、それまで以上に貪欲に狩り続けた。
リザードマンの最後の生き残りとやらにも出くわして、両断してやった。
単なる悪あがきでしかないが、自殺よりはずっと気が晴れる。
死に場所はどこでも良かった。でも、死に方は強敵に首を刎ねられたいと思っていた。
偽者は衆目の前に引きずり出して、一騎打ちにてねじ伏せた。
私を騙る者を殆ど全く見かけなくなるまで、そう時間は掛からなかった。
ウスティナとしての私は、かつての私よりもずっと名声を集めていた。
かつての好敵手達すらも、置き去りにして。
皮肉なものだ。
何も背負うものが無くなって、初めて前に進めるとは。
初めからこうすればよかった。
衝動の赴くままに暴力で叩き伏せることは、矜持を背負って戦うよりも、ずっと心が安らいだ。
それなのに。
ああ、それなのに貴公らは!
私だけでは成し得なかったあらゆる事を、意図してなのかそうでないのかは知らないが、私の意に沿っているかのように成し遂げてしまう。
確かに、思ったさ!
貴公らはいわば闇を照らす光の、その種火だと!
寒風の中にあっては容易く吹き消える種火を、私は両手で守り続けてみせると!
遠からぬうちに灯火がやって来よう、と!
だが。
あんなにも早く光が差すとは思わなかったのだ、ルクレシウス!
貴公らと過ごす日々は、私が成し得なかったあらゆる事を自覚させた。
私が過去に喪った何もかもが、それで取り返せる訳ではないさ。
そんなことは先刻承知だよ……。
でも、そこに囚われて何もできないよりは、踏み出すべきだ。
だからこそ、貴公らに害を為そうとしてくる何もかもが、私は憎い。
ましてや、灼ける街は私の奥底を手酷く刳ってくる。
◆ ◆ ◆
道中で、カレン・マデュリアとローディの口論に出くわした。
私としてはそのまま言い合ってくれても一向に構わなかったのだが、いかんせん建物が老朽化していたからな。
「――!」「きゃあ!?」
瓦礫が彼女達の頭上から降り注ぐ。
それを、私の右脇に抱えたアレットが止めた。
「――停滞付与」
「「……!!」」
「ふぅ……間に合った……ローディ。わたし、もう役立たずなんかじゃ、ないよね?」
「……納得行かないけど、助かったからいいわ。ありがと。それじゃあ、私はダンのところに戻るから。じゃあね。おばさんも頑張ってね」
「お、おば……いえ、まあ、いいですわ」
ローディもまた凡骨なのだな。よくわかった。
手を振って去りゆくローディを、カレンは憮然とした面持ちで見送った。
が、それを、まま放って置くという道理もあるまい。
「わたくしからも、ありがとうございます。また借りを作ってしまいましたわね、わたくし……」
「ならばそれを返すつもりで協力しろ。カレン・マデュリア」
「そうですよ。先生を殺そうとしたことがあるから、あまり頼りたくないですけど……人手不足なんで」
貴公も大人になったな、アレットよ。
私は“割り切る”のが苦手だ。
今だって私は、殴り倒したい衝動を抑えるのに精一杯なのだ。
「そう……ですわね」
惨状を前にたったそれだけの事しか言えない、この女を。
「……難しいでしょうけど、どうか、信じて。あなた方に対して申し訳ないと思っている事は、本当でしてよ。ただ、返し方について、ずっと、ずっと考えておりましたの」
「知らん。置いていくぞ」
貴公ら凡骨共が何を悩み、悔いていようと、知った事か。
いつだって己の安寧を保つ為に他者を見捨て、正当化のための詭弁ばかり弄する貴公ら凡骨共など。
その蒙昧で頑迷な頭では、どうせ言葉だけで終わる。
今回とて、私が頼んだから動いただけだろうに。
「ああっ、お待ちになって!」
カレンは地を滑るように走り、付いてくる。
その遥か後ろを、衛兵たちが。
そして私は跳ぶ。
右脇にはアレットを、左脇にはゴステトゥーロを抱えて。
ウェスト・セルシディアを燃やす炎を、消して回った。
この炎は、魔術を構成する最も原始的な単位である魔素を媒介に燃えている。
だからアレットの停滞付与でその魔素そのものを止めてしまえば、炎は消える。
逆に言えば、私には消火の手菅が無いということだ。
無力を再確認させられるとは、忌々しいな。
よく見れば、住民の一部も消火に協力していた。
ルクレシウスから付与術を習っていたことが、此処で功を奏したな。
道中、ヴェラリスとも会った。
ゴステトゥーロは、私と合流する前にジェイミーとヴェラリスにも話を通してくれていたという。
ヴェラリスは別ルートから消火・救出活動に協力してくれた。
「ではそちらを任せ、私達はルクレシウスと合流するとしよう。嫌な予感がする」
「私もです……」
「儂に任せろ。匂いを辿れば解る」
「ああ」
弱った足腰は、私が担いで補えば済んだ。
元より崩れた建物であれば、壁を蹴るに遠慮は必要あるまい。
なので特に苦労もなく、ルクレシウスを見付けた。
と、同時に目にしたのは、眼下で暴れまわる凡骨共だ。
数が多い。
ヴェラリスが先んじて片付けているようだが、殺さず無力化するのは流石に骨というものだろう。
「頭目の首でも差し出せば、連中も手を止めるか」
特にあの金髪の男、彼奴をとびきり惨たらしく殺してやろうか。
この高さから飛び降りれば、容易く両断できよう。
私の種火――ルクレシウスに軽々しく手を出した報いを受けてもらおう。
「それは、おやめになって」
「承服しかねるな」
「どうか、ご容赦を……あの男は、わたくしが止めますわ」
「万一、制止すると銘打っておいてルクレシウスを暗殺されては、たまったものではないのでな」
それ見たことか。
反論できず沈黙だ。
「わたしも同行および監視をしますね」
「頼んだ。だが、死ぬなよ」
「……はい」
周りで取り囲んでいる凡骨共を、ヴェラリスと協同で片付けていく。
――すると、どうだ。
カレンは本当に、四角い装置で凡骨の親玉の腕を止めてみせたではないか。
完全には制止できず、アレットが手助けしたとはいえ、だ。
此度に至ってはルクレシウスの教育も無かった筈だが、如何なる風の吹き回しだというのか。
騒動も収束に向かった事だし、問いただしてやるのもいいだろう。
もちろん穏便に済ませるつもりだ。
だからそう怖がるなよ、カレン・マデュリア。