幕間:わたしの先生は……
ずっと、悪い夢を見ているような、他人事みたいな記憶だった。
わたしがしてきた事だというのに、身体がそれを受け入れようとしてくれない。
わたしは確かに、魔王だったんだ!
間違いなく、魔剣に取り憑かれて、心と身体を作り変えられていた!
……“最初”から、理解していた。
確か、あの時は……
* * *
「――んっ、あれ、わたし……」
窓から差す薄明かりで、わたしは目を覚ました。
眠い目をこすりながら、ゆっくりと起き上がって、ドアを開けた。
まだちょっと眠いのかな。
視界が少しぼんやりしていて、光が滲んでいるような感じ。朝霧?
二日酔いに体調不良が重なって熱を出した時によく似ている。
おかしいな、ゆうべは呑んでいなかったと思うんだけど。
ああ、でも嫌な夢は見た。
先生と離れ離れになっている間に、気が付いたら胸にナイフが刺さっていた夢だ。
しかも、刺さった傷口から真っ黒なツヤツヤしたネバネバが溢れてきて、手の指先まで覆われていくのを見た辺りで、その夢は途切れた。
怖い夢だ。
「ほら、おねえちゃん! 早くいこっ!」
見慣れない小さな女の子が、わたしの手を引く。
「ん? どうしたの? なにかあるのかな?」
「セレモニーがねっ、始まるんだよ! おねえちゃんも、きれいなドレス着てるし、行くんでしょ?」
言われて気付いた。
わたしは黒とも紫ともつかない、艶のあるドレスを着ていた。
ああそうだ先生どこだろう。
ゆうべはぐれちゃって、それきりだった気がする。
いや、ベッドに運んでくれたのは先生? きっと違うなあ。
ふと振り向く。
ベッドがどこかに行っちゃった。変なの。
歩く、歩く、歩く。
そういえば、さっきから呼吸もうまくできない。
「はぁ……はぁ……」
あたま熱いし、せなかぞくぞくするし、あしもとフラフラ。
二日酔いじゃなくて、びょうき?
そうだ! 恋の病だ!
先生、どこ? 先生、さみしいよぅ……。
こんな状態のわたしを、わたしの先生が放って置くはずがないよね。
探そう!
道行く人々は、みんな笑顔で道を譲ってくれる。
どうぞ、ほらどうぞ、さあどうぞ、って。
まるでわたしを祝福してくれているかのよう!
結婚式、じゃないよね。
誕生日でもない。
「あっ! 先生見つけた! おーい、先生!」
何かゴチャゴチャがいっぱい邪魔をする。
通れないから振り払う。
ばしゃ。
べしゃ。
面白い、おもしろい!
楽しい、たのしい!
「先生、ずっと探してたんですよ!」
いくつか、会話を、交わしたような気がするんだけど……。
何を、話したんだっけ?
「ドレスの話をしようよ!」
女の子が言う。
そうだった。ドレスの話をしなきゃ。
「ねぇ。先生どうですか、この格好……気合い入れておめかししたんですよ。ウッフフフ……」
「アレットさんがご自身で選んだものではないように思えます」
「えー?」
「ひどいや、おねえちゃん似合ってるのに」
「この子は似合ってるって言ってくれたのに。ねー」
ひどいや先生。
わかったぞ、こんな貧相な身体だからわたしを見捨てようとしているな?
「今度、一緒にドレスを選びましょう。早く着替えておいで」
ねえ、ねえ。
わたしね、身体を治したいの。
そうなの? おねえちゃん、からだをなおしたいの?
うん。でもどうすればいいかな?
かんたんだよ! これをのんで!
「っふふ。つれないなぁ……そんなに魅力が足りないんですか? じゃ、こんなのはどうでしょう?」
差し出される、ヘドロのようなお酒。
普段のわたしなら鼻をつまむけれど、今は大丈夫。
んっ……
熱くてドス黒い何かが口から注ぎ込まれるたび、身体の奥深くからドクンドクンと脈打って、わたしが作り変えられる。
「んっ、くっ……んんっ」
胸も脚も、肉付きを増していく。
そっか……わたし……もう、人間じゃないんだ……。
おへそまで届くほど一気に伸びて長くなっちゃった髪の色、真っ白になってた。
それによく見れば、わたしの服はドレスなんかじゃない。
黒とも紫ともつかないツヤツヤしたものに全身が包まれている。
その上から白い下着みたいな鎧を纏っていた。鎧のあちこちには、赤く光る線が通っている。
ああ、変なの……一体、なんの冗談だろう。
でも、気持ちいい。
むくむくと湧き上がる衝動が、わたしにささやく。
ルクレシウス・バロウズを捕らえろと。
「ぷはっ、はぁ……ほぉら……見て……たわわに実ったフルーツ、こんなに大きくなった……先生だけは食べ放題だよ? いいんだよ……来て……ふふ、うふふふ……」
脚を交差させるように歩く。
爛れた熱情に命ぜられるままに、左手で胸を掴み、見せつける。
この人を食べたい。
この人に食べられたい。
わたしは人間ではなくなった。
だから、わたしが人間だった時の気遣いなんて、もういらない。
……それなのに。
「君にそんな事を言わせた奴を、僕は決して許しはしない」
まだ怒りが先立つというの?
頑張って身体を治したのに! こんなに、男の人に好かれるよう作り変えたのに!
「なんで!? わたし、いっしょうけんめい頑張ったんだもん! こんなにフワフワボインボインなんだよ!? 食べてよ! 据え膳!」
わたしは怒った。
安酒を振り回す酔漢のように、怒って、怒って、暴れた。
早く、わたしを保有してよ。所有してよ。
あなたのものにしてよ。
どんなに願っても、想いは届かない。
「っふふ。うふふふ……いいんですよ、先生……ここでわたしと、ずっと一緒でも……もうこれ以上、頑張らなくてもいいじゃないですか……」
説得を試みる。
後ろ髪を引かれる思いがあってわたしに振り向いてくれないというのなら。
もう、そんな事を考える必要なんて無いって事を|思い知らせてあげないと《いないのに!!》。
「まだ、心休まる状況ではありませんからね」
止まって、止まって、お願い、止まって!
いいや、駄目。止めない。止まるのは、この人のほう。
「キリがないでしょ!! 先生は傷を次から次へと増やして、それでもやめないつもりですか! どうせこれ以上やったって無駄ですよ、無~駄~!」
アッハッ♪
押し倒しちゃった……!
「――ッ」
「つーかまーえた♪」
伝わってくれたかな?
まだ……だよね……
「もう充分、思い知ったでしょ? 手遅れになる前に、ご自身のケアを優先してはいかがです? 具体的にはそうですね! わたしと小さな別荘で一緒に暮らしましょう。子供は3人くらい欲しいですねぇ? それじゃあさっそく今から子作りしましょうか。すっごいムラムラしてるんですよ! うっふふふふふ!」
こんなの、わたしじゃない。
違う、これが本当のわたし!
「たとえきみが人間じゃなくなっても、約束は守る。結婚と性交渉は3年後かつ、きみがその時まだ僕を愛してくれていたらです」
は……?
「いやいやいやいやありえないでしょ……わたしが今すぐ都合のいいお嫁さんになってあげるっていうのに、ヒーローごっこなんてしなくていいって言ってあげたのに! だってわたし、もう人間じゃないですし。律儀に約束守るのも馬鹿らしいじゃないですか!」
思わず投げ飛ばしちゃった。
先生が悪いんだぞ。わたしの言うこと素直に聞いてくれないんだもん。
「わたしが、わたしだけが、先生を苦しみから救えるんだもん――あうぅ、ぐ、う、うぅうう!!」
頭……割れる……痛い……いたい、いたい、いたい、いたいよ……!!
「ぐ、う、うぅぅ……せん、せぇ……にげ、て……!」
「僕が逃げたら、誰がアレットさんを止めるんですか!」
「わたしは、きず、つけたく……うっ、ぐ……――」
傷付けたくない。
傷付けたくないから、近くに行きたい。
「――んっ、んんんぅああああっ」
まるで全身の毛が抜けるみたいなぞわぞわが一気に来て、背中から何か生えてきた。
感覚がある。
動かせる。
目の前にもってくる。
翼だった。
端っこが赤くふち取られた、真っ黒な、鳥のような羽根。
そんな翼が6枚……
――それを目にした瞬間、自分が何者なのかを再解釈した。
「アレットさん……そんな……」
「アレット? 違いますよ。わたしの名は――」
立ち上がり、翼を広げ、わたしは剣を天に掲げた。
「――魔王リリザレット」
隣にいた小さな女の子の姿が消えて、声も聞こえなくなっていた。
ここから先は、さながら酒を呑みすぎた時とか、熱にうなされている時みたいな、本当にグチャグチャに掻き混ぜられたような記憶になっていた。
胸の高鳴りと、下腹の疼き。そればかりが私を満たしていく。
……何かとんでもない事ばかり言っていたような気がするけれど、うまく思い出せない。
ただ、覚えていたのは……
早く戻らなきゃいけない、と焦っていた事。
それと先生が、どんなわたしでも肯定すると言ってくれた事。
それだけは、記憶に強く強く刻まれていた。
日が経つにつれて、だんだんと熱が引いていって、意識がはっきりしてきた。
わたしが誰かを殺してしまいそうになるたび、先生は必死になって止めてくれていた。
あんなにも、あんなにも、わたしを想ってくれていた。
わたしは怖かった。
醜く成り果てたわたしが、愛される資格なんて無いんじゃないかって。
酷い事だって、きっとたくさん言ってしまった。それなのに、つぶさに思い出す事すらできない。
最低な、わたし。
先生のしてきた事を、あんなに否定してきたのに。
だから、意識がしっかりしている間に、役に立てると思った事は全部やった。
もう死んじゃってもいいやと思って、審問官スキルを使ったらさ……
胸、痛くなっちゃって、全身から汗が流れて、力が抜けていって……
やっぱり、わたし……結局は、人間だったんだなって思い知らされた。
それからしばらくは、時間の感覚がない。
夢の中だ。
真っ暗な空間で、ひとりで泣いていた。
……ずっと、ずっと。
ふと足元を見れば、背は随分と縮まっている気がする。
幼い頃の姿。
何もできなかった頃の、惨めだった頃のわたしの姿だ。
道理で泣けてくるわけだ。
だけど、ふと気付く。
手、温かいな。
いつから両手がこんなに温かくなっていたのだろう?
明るさを増していく視界。
胸の重しが取れていく感覚。
なんとなく、想像はつくけれど、でも、出迎えてくれるこの“誰か”が誰なのかを確かめたくて……
目を開けた。
……――
…………――――――
「アレットさん……」
ほら、やっぱり先生だ。
ウスティナさんもピーチプレート卿もいた。ふたりとも仮面や兜を被っていなかった。
「先生……? ……――」
色々と訊きたかったのに、何を訊こうとしたのか忘れちゃった。
涙ぐむ先生に、ぎゅっと抱きしめられた。
無性に嬉しくなって、わたしもつられて泣けてきた。夢の中じゃなくて、現実で。
涙が止まらないのに、こんなに穏やかな気持ちになれるのは、どれくらいぶりだろう?
「アレット、ただいま戻りまし、た……戻ってきても、いいですか?」
これも夢なのか、夢じゃなかったとしてもたくさん迷惑をかけてきたわたしに戻ってくる資格なんてあるのか不安で、だからたどたどしい言葉で問いかけた。
ああ、先生……なんて顔をしているの……
そんなに溢れんばかりの笑顔で泣かれたら、わたし、甘えちゃうじゃないか……
「うん……おかえり……!」
痛いくらいに強く抱きしめられて、何度も頭を撫でられて、わたしはようやく実感できた。
わたし……帰ってきても大丈夫なんだ。