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命を継ぐ者。 〜 Inherit the Life. 〜  作者: すにた
第八章 それぞれのフロンティア。
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墜ちる㕶星、拾う百萬星。 〜29

 多数の核弾頭を抱える再突入カプセルが五つが、大気圏再突入時に起こる大減速(プラズマ)ステージと言う最終試練に曝されている。


 この試練さえ通過(克服)出来れば、地表に住む人類と、人類による文明社会と、その他大勢の生物層に対して、文字通り一律に最悪をもたらす悪魔として振る舞う機会が与えられる。


 ーーー求めよ、さらば与えられん (Knock, and the will be opened to you.)。


 いや、これは新約聖書「マタイによる福音書」に記された知恵(覚悟)だ。いや、申し訳ない。謝罪が必要かも知れない。共産主義者と言う生き物(人生者)は、押し並べて無神教者であらねばならない事を忘れていた。


 彼等によって創造された(解放された)中距離弾道弾(聖なる拳)に対して、この言葉をあてがうのは大変な失礼に当たり兼ねないのだから。


 だいたい、この言葉の語句に、それから先で与えられる叡智(理想)は「正しい信仰」であって、「正しい侵攻」ではないのだから(※0)。


 再突入カプセルの再突入の様子は、インド北部上空とヴェトナム中部上空を飛ぶ、「連合スペースガード(U.S.G.A.)」所属の高高度観測・管制指揮機から観測されてる。また、衛星軌道上から合衆国・宇宙軍と日本国・航空宇宙軍から拝借した情報衛星から見下ろされてもいる。


 更に、合衆国・宇宙軍の虎の子、地球観測衛星として軍事転用された赤外線観測用宇宙望遠鏡である「ジェームス・ウエッブIII」も、地平線ギリギリの角度から鋭意的に盗撮中だ。


 赤外線観測用宇宙望遠鏡が動員されたのは、超精度を誇る赤外線センサーで、五つの再突入カプセル以外に、何らかのステルス処理された「本命」が方向とタイミングをズラして再突入準備を行っていないかどうかを判明させる為だ。


 18枚の六角形セグメントに分割された宇宙望遠鏡の主鏡は、少なくとも、「連合スペースガード(U.S.G.A.)」と合衆国・宇宙軍が捕捉していない「ホスタイル(敵対的な飛翔体)」は存在しないとの朗報をもたらしてくれた。


 しかし、それでも、油断と予断は許されない。特に、「連合スペースガード(U.S.G.A.)」の最高責任者である「人形遣い」は、人民共和国が戦争開始前からコツコツと打ち上げていたキラー衛星や、運用開始に失敗した振りをして衛星軌道を占有している似非ジャンク衛星など寄せ集めて、同時多発的に落下させるテロ攻撃を計画している線を最後まで疑っていた。


「人形遣い」は、実質的には主席参謀(Chief of staff)である「クィーン・オブ・クローバー」に、「人民共和国の行動原理を解析する上での、構成要素の最後の一ピースがどうにも見当たらない」と告げていた。


「人形遣い」にとって、人民共和国の行動原理はまったく共感出来ないことである事は間違いなかった。だが、だからと言って、客観的に理解する=行動原理を紐解く事は出来るはずだった。しかし、「いつ」、「どこ」で「なに」をするなどは説明が付くのだが、最後の一ピースである「どうして」が断片的にしか分からなかった。


 個人や団体を問わず、行動予測において、「いつ」、「どこ」で「なに」をするさえ分かれば、容易に「どうやって」をするのが導き出せるので十分に対処が出来る。


 他人の悪意を未然に防ぐには、この「どうやって」がとても重要だ。右から来るのか、左から来るのか、それとの上から来るのか。火攻めで来るのか、それとも水攻めで来るのか。


 しかし、行動の動機に当たる「どうして」が分からないと、「どうやって」の高精度での予測が把握が難しくなる。長年の研究による経験と観測のおかげで、断片的な「どうして」しか把握出来ていなくても、短期的な「どうやって」の予測ならば出来ていた。


 それでも、やはりしっかりと「どうして」を把握出来ていないままでは、どうしても長期的な予測を外してしまう。しっかりと「どうして」を把握出来ないと、人民共和国の主観的現実と外からの観測者の客観的理解に致命的な誤差が生じてしまう。


 特に、一方的な(ワンサイドゲームの)攻め方(振る舞い方)にこそ、もっとも人間的な決断の連続である。何故なら、他の状況下では観測不能な(潜んでいる)個人や団体の為人(ひととなり)の影の部分、権現的な悪意(本当の欲望)が、そんな状況下でこそ果敢に発揮、発露、発現される傾向が高いからだ。


「どうやって」攻めるかは、「どうして」攻めたくなったのかと言う呪怨的な情熱の蓄積過程が大きく影響するせいだ。


 だからこそ、本性を見誤ったままで、つまり、行動主にとっての「どうして」を把握出来ていない状態での行動予測は難しい。故に、時間が経過すれば経過するほどに予測と現実の「どうやって」の間に誤差のレベルで隙間いが生じる。当然、誤差に目を瞑って推測を立て続けると、隙間が蓄積されて誤解が生じる。やがては隙間が断絶をもたらして、結果的に行動主の「どうやって」を完全に見誤ってしまう。


 だから、合衆国などの情報解析機関は、短期予測を一度を立てた後で、引き続き「いつ」、「どこ」で「なに」をするの再検討を繰り返していた。予想した「どうやって」と現実に起こった「どうやって」の誤差を埋める作業を続けていた。


 実際、誤差は生じている。だから、「いつ」、「どこ」で「なに」をするに対する推測がもたらす「どうやって」が、短期間で微妙なズレを見せていた。これは、最後の一ピースである「どうして」を把握し切れていない事を証明していた。これがこそが最大不安要素であり、至急で解決すべき問題であり続けている。


「どうして」。


 人民共和国に住む人々が共有する理念(利念)は、中原思想、真の中央に座する天子への憧憬、儒教的な天命に対する崇拝などの文化的側面だけでは説明が付かない。欧州哲学や現代精神学と言う、優れた解析ツールではどうしても異質な文化の真髄へは迫れない。


 ーーー皇帝(地上の主)天子(天上の主)が、民主主義国家軍が想定していい類いの意思、本心、思想、信念、嗜好から生み出される「どうして」に突き動かされている事くらいまでしか見当が付いてなかった。


 皇帝兼天子は、既に、21世紀初頭に、人民共和国において爆誕済みだ。


 見当が付きながらも、残念過ぎる事に、民主主義国家群は、その皇帝兼天子が胸に抱えているモチベーションの正体を全く把握出来ていなかった。


 それは皇帝兼天子へと登り詰めた人物が、あまりに特異な成長過程と、独特な立身出世過程を背負っていたからだ。人民共和国において(民主主義国家であっても)、同じ様な苦難の人生(理不尽が連鎖する人生)を経由して支配階級へと登り詰めた者は皆無だった。だから、比較すべき先例がなく、故に為人を分析するに足りるフィルターが完成していなかったのだ。


  その人物が他者を出し抜いて、大陸史でも極めて稀な皇帝兼天子へと登り詰めた最大の勝因は、最後の瞬間直前までダーク・ホースであり続けていた事だ。とにかく、偉大なる党の幹部となってからも本当に目立たなかった。心を許しあえる、本当の友達らしい相棒に関しては影も形も見当たらなかった。


 どちらかと言えば、偉大なる党内での彼に対する解釈や評価は、「瓢箪から駒」的に支配者中の支配者であった(もちろん、本人的には努を積み重ねたの結果こそが勝因であるだろう)。


 皇帝兼天子が、その胸内に秘めている野心や野望の正体は、はもっと他の何かと大変複雑に絡み合った"想い"の塊だろう。


 ーーー中原思想的民衆の価値観で焼き付けられた個人関係だけでなく、果ては国家関係の間までにも求めずにはいられない上下関係面で、何が何でも上位に在りたい。


 かの国では誰もが持ち合わせている、有り触れた承認欲求だけであるほど、単純明快な形は取っていないだろう。


 人民共和国の人民達の外交へ対する願望の根本には、地理的周辺国々の国民達のそれとは、明らかに異なる傾向(特色・性向)があった。それは、彼等には、国家的な利益を拡大させると言う意図よりも、意外にも外交官や人民達の自己肯定感の充実と言う至上の課題としていると言う「仕草」だった(※1)。


 ーーー民主主義国家群の価値観の持ち主は、それに気付いたは大変に驚く。


 自己肯定感の充実と言う行為は、根本的に自己(中心/満足)的なモノであるので、外交関係を結ぶ相手側の同意や共感を大して(・・・)求めない。大切なのは、その様に(見下した態度で)、自らが振る舞う事が出来たと言う事実(史実)である。


 もちろん、自己肯定感を高める為に、水に落ちた犬を更に棒で叩く様に、不必要に痛め付ける行為の繰り返しを通じて、文化的、歴史的、或いは道徳的に下位に在る事を強制的に受諾させ、その無理強いで受諾させた事実の宣言を、開けっぴろげな場で告白させ、大々的に公式な謝罪と賠償を突き付ける場合も多い。


 これは我々の価値観ではあまり冴えたやり方ではない。下位の者の面子を傷付ける行為でしかないからだ。上位の者であると自認する立場にあれば、下位の者達から不要の恨みを買う事は避けるべきだ。


 何故なら、下位の者達の方が上位の者達よりも圧倒的に多数であるからだ。数が勝負の殴り合いになれば、少数派である上位の者達の側に勝ち目はない。だったら、平時は無用な対立を避けて交流手段は出来るだけ穏便に徹した方が賢い。少なくとも、民主主義国家群の、マキャベリの著書に目を通した者であれば、本気で思っていなくてもそうである振りの徹底を努めた方が、最終的には利が多くなると理解している筈だ。


 人民共和国の人民達にとってはそうではない。相手に対して自分達よりも下位に在る事を受諾を強要させてなお、その後も機会があればあの手この手で必ず不必要に痛め付ける。しかし、それらの行為は、必然性があって行っているのではない。


 どちらかと言うと蛇足的な行為であり、「立場的にお前達は下位にある」と分からせる続ける為の圧力であり、その関係性を相手の精神に強く焼き付けたい(でトラウマ化させたい)と言う、あまり趣味の良くない娯楽に過ぎない。


 ーーー分からせ。


 人民共和国では、"なろう界隈"で流行る遙か以前から、中原では常識of常識として、或いは文化的娯楽(暇つぶし・八つ当たり)として、この種の「分からせ」欲求が広く共有されていた。


 ーーー主従関係の再確認(再承認)


 文化的、歴史的、或いは道徳的に上位な立場に在るのは自分達の方であると言う上下関係。


「お前は俺の下である」と分からせたい。そう言う承認欲求。現代SNS風の言葉に言い換えると、「オレはお前より知っている」とか「ワタシはアナタより正しい」などと、激烈にマウントを取りに行くとなる。


 残念な事に、平等で対等な人間関係と言う、我々の間では極当然の人間関係そのものが、人民共和国の文化圏では根本から存在していない。


 だから、必ず人間関係には上下が存在する。命令する者と付き従う者、みたいに。人民達にとっては、その人間同士の上下関係が最小単位の社会であり、それらの壮大な積み重ねこそが人民共和国の社会なのである。それこそが、人民達が考える社会秩序でなのである。過去からそうやって来たし、現在ではそうやっているし、将来でもそうやっているだろう。


 個人であれば、当人を何らかの上下関係の中に組み込まれないと、当人の人間関係は希薄(ゼロ)と言う事になる。それは、当人は社会に参加すらしていない事と同意義な表現となる。


 だれだって孤独は嫌だ。社会に組み込まれたい(誰かと繋がりたい)。だから、さっさと人間同士の上下関係をハッキリさせて、最小単位の社会を作りたくなる。この衝動は、既に彼等の本能の領域まで焼き付けられた慣習である。


 相手を選ばずに、初対面から互いの関係を上下関係で推し量るべくマウント・ポジションを巡ってジャブを激しく交わし合うのはそのせいだ。彼等なりの合理性が、そこに間違いなく存在しているのだ。


 そして、それ(they)こそが、彼等の独自の文化である。歴史である。道徳なのである。


 これもまた、我々が尊ぶ「多様性」の一面である。


 良い悪いではなく、その(・・)社会ではそう(・・)振る舞うのが正しい(・・・)のだ。「郷に入っては郷に従う」と言うではないか。


 問題があるとすれば、「郷を出ても彼等の郷に従わせる」点だろう。


 しかし、それらの巨大な個人の集まりは、世界に国境はなく、世界全てが自らの郷であり、地球は彼等が好む秩序で回っていると信じている。回っていないと思い付かない。


 何故なら、彼等が主従関係の上位に立っているからだ。その根拠は、彼等が天子が住む中原=世界の中心に住んでいるから。中原付近以外は文明の外側であると知っている(認知している)からだ。


 これが、人民共和国の人民達が共有している無邪気な価値観の一面である。


 仮に、彼等の持つ社会的哲学が悪趣味だと思えても、我々の理想に反するからと言って、無闇矢鱈(むやみやたら)に否定・拒絶してはならない。何故なら、それは否定・拒絶された者達の存在理由(レゾンデートル)文化・文明(アイデンティティー)をも(ないがし)ろにする行為に他ならないからだ(ただし、相手が我々と同様に、我々独自の習慣に対して「多様性」を配慮してくれるとは限らない)。


 ーーー「水に落ちた犬を更に棒で叩く」様な行為にこそ、立場の弱った人間にその事実を身を以て分からせる優しさ(配慮)にこそ、人民共和国の文化的な神髄が宿っている。


 それは、国際的な外交関係にも良く笑われる。あの国の外交官は、ほぼ100%尊大な振る舞いをTVカメラの前で見せてくれる。そんなに頑張って悪役に徹しなくても良いのにと思わずにいられない。


 そこにも、彼等なりの合理性があるのだ。彼等は別に悪役に徹しているのではなく、自分達が我々に対して、立場的に上であると言うジェスチャーを送っているのだ。悪役に徹していると誤解されるのは、彼等としても望むところではない筈である。


 彼等の主観によれば、自分達が外交関係を結ぶ相手に対して奇妙な程に尊大な振る舞いに徹するのは、そうする事が許されて当然な立場にあると言う、圧倒的な上下関係の有無の一方的な宣言行為に過ぎない。


 尊大に振る舞った相手がどんな反応を見せるかは、実は大した問題ではない。それは既にもう終わった事になるのだ。尊大な振る舞いが終わった瞬間に、実は、既に目的は完全に達成されている。振る舞った事、それその事こそがとても重要なのだ。


 だから、仮にその手の人民から尊大な振る舞いを吹っ掛けられたとしても、「はいはいはい。そうですねー」と話半分くらいで受け取っておけば良かったりもする(国家間の話であると国民情緒的には、それはちょっと難しいかも知れないが)。


 個人であっても、外交官であっても、マウント行為に勤しんでいる自身が大好き。自身が立場的に上にいると再確認の繰り返しが出来ていると、自己肯定感が充実され、その種の脳汁がドバドバと放出される(らしい)。そして、その様な姿勢こそが人民からの支持の原動力となる事を、文化的遺伝子(ミーム)レベルで理解している(んじゃねえの?)。


 とは言え、これは実は人間関係上良くない。聖書にも書かれている。


 ーーーあなたの神である主を試してはならない(マタイによる福音書)。


 多分、人間を試して良いのは人間を超越する神だけ。人間が人間を試してはいけない。なお、筆者はまだ神に試された事はない。きっと、神は、気ままに試したりはしない節度の持ち主であるに違いない。しかし、人間に対しては、神と同レベルの節度が期待出来ない。多分。


 しかし、一部の人間は公然と継続的に試し続けるのが好きだ。それどころか、どうしても試練を与え続けてしまうのだ。止められない、止まらないのだ。きっと誰しも経験がある筈だ。例えば。


 ーーーあなた、わたしとしごとのどっちが大切なの?


 人民共和国は、民主主義国家軍の懐の深さを試しているだけのだ。ただ、それがどうにも過剰で、見過ごせないレベルにまでエスカレートしてしまっているだけなのだ。


 自己承認欲求とは、相手がいなければ絶対に成立しない馴れ合いだ。一人だけではどうにも獲得出来ないコミュニケーション(快楽)なのだ。だから、まー何だ。欲求主が欲求先へと強い依存状態にあるんじゃねーかなーと。多分ね。


「人形遣い」も、そこまでは理解しているつもり(・・・)だった。だが、「どうして」今回もまた、かなり突然に、天災回避の為にラオスに流星を意図的に落として人災をもたらし、その後に謝罪をするどころか被害国への侵攻を開始し、今度は核弾頭を落とそうとしているのかが、どうしても見えない。


 我々の客観的に寄ればロジックが完全に破綻している。しかし、彼等の主観に寄ればロジックには何らの綻びは見えず、むしろ堂々とした筋が一本キレイに通っている、筈なのだ。


 ーーーもちろん、我々の様な部外者の客観で、その筋が通るとは認められない。


 一つの事象に対して、真っ向から対立する評価を下し合う。根本的な認識の違いがある為に、我々には彼等のやる事なす事が奇妙に見えてしまう。しかし、逆もまた然り。だから、話し合いをしても常に平行線を辿り続けるのだ。


 マスコミや評論家は、まあ、万人が理解出来る適当な「どうして」を結論付けて解説している。強ち間違ってはいないと思う。しかし、万人が理解出来ない「本音」の部分は微妙に外しているのだ。


 国際政治の最前線にいる者にとって、「どうして」を生み出す(ジェネレートする)「本音」の部分を無視する事は許されない。リアル・ポリテークとは、立ちションや野グソと言う大して目立たない行為に対してであっても、それが政治の枠組みの中で行われたのなら、真剣にどんなサインが含まれているのかは検討しなければならないと言う、切実な宿命下にある。


 だから、「人形遣い」は漫然とした不安を抱えていた。


 ーーー果たして、今回の核弾頭を使った弾道ミサイル奇襲がどの様に終わるのか?


 ラオス・タイ地域での戦闘がどの様な終わり方をするかと言う将来の話ではない。たった今起こっている奇襲が、この先はどこまでエスカレートするのか検討も付なかったのだ。


 侵略者に対しては、どれほど巨大に譲歩しようとも共存出来ないこと。譲歩は新たな譲歩要求を招く。なし崩しで、先の約束は反故にされ、譲歩能力が物理的に耐えるまで譲歩を求められる事になる。それは各文明が抱えている戦国時代の習慣に残され、現代社会の隅々の端っこで今も繰り返されている。


 ーーー個人や国家の関係に拘わらず、どこでも、有り触れている。


 むしろ、譲歩は共存関係の成立を遠ざける。強烈に反抗して返り討ちにして差し上げない(・・・・・・)限りは、迫り来る侵略欲を止められない。謙虚を捨てて、毅然とした態度でぴしゃりと叩き返してやる必要がある。これは、国力関係の大小に関わらずだ。


 ーーーまた、侵略が、国家の存続の為ではなく、国家の更なる繁栄(国土計画・経済改革)政治的な辻褄合わせ(政治的ご都合主義)の為に行っている場合の多々ある。


 だから、手痛い反撃を受ければ、これでは採算が合わない悟り、熱く火照る侵略欲を冷ます効果があるかも知れない。


 ーーー情けは人の為ならず。


 平和主義は国家の為ならず。侵略者の立場になれば、(くじ)いてもらわなければ、己でも持て余している程に巨大化した侵略欲はどうにも止めようがない。また、自国が侵略者となる場合もあるので、その際は(くじ)いてもらう必要がある。


 案外、お互い様の関係。それこそが、本当の意味でも共存関係。


 DVなしの条件で、夫婦喧嘩の絶えない家庭が、隣のブロックまで聞こえる罵り合いを繰り返しながらも、どう言う訳か家庭裁判所まで関係清算の調停工作を持ち込まない理由はこの辺りにある。


 その程度の話であれば、民主主義国家の有力政治家(或いはその秘書(ブレイン))百はも承知している。皆、それぞれが、独自にパートナーとの度重なる乱を経験している(に苛ついている)からだ。しかも、現在進行形で。


 その上でこう考えている。


 ーーー宗教的独裁者が支配する国家よりも、ずっとずっと理解が難しい。


 合衆国や欧州の政治家の多くは、「人形遣い」の抱えている不安を全く理解出来ずにいた。だから、今回だって「十分に叩いて分からせれば(・・・・・・)、素直に引っ込む」くらいの見通ししか立てていなかった。しかし、その十分がもしかしたら「国家を滅亡させる程」に叩く必要があるのかも知れない。


 合衆国や欧州で指導的な立場にある富裕層達は、「独裁者であっても、今持っている富の全てを失うまで争う価値観を持ち合わせる程にバカではない。適当な所で手を引く」、諦めて、後の再挑戦の準備の為にと気分を切り替える(騒動の後始末を始める)だろうと心の底から信じていた。


 つまり、世界の果ての、何処にあるのかも知らない国家の独裁者であっても、合衆国や欧州で指導的な立場にある富裕層達は、根っ子の部分では自分達と価値観を共有していると信じて疑わなかったのだ。


 しかし、「人形遣い」はそうではない事を知っている。希薄な根拠(先入観)で「一方的に他人を信用・信頼し過ぎる事は危険である」と経験に裏付けられた知恵を持っていた。それは、若き日ではあるが、彼自身が欲しくなった人形を手に入れる為に、ドデカい紛争を引き起こした経験があるからだ。


 ーーー人間は失敗を犯して初めて、本物の叡智へと続く道を見付ける事が出来る(※2)。


「人形遣い」は、人民共和国の顔を見せない独裁者とその取り巻き達が、自分と同じ種類の愚考に染まっている事は、同類として本能的に見抜いていた。同類とは、自分と同様に、平均的な人々とは共感し合えない、極めて特殊な性癖の持ち主達だと言う事だ。そこまでは分かっていたのだ。


 しかし、「人形遣い」は、自分がその当時に欲しかったモノは稀代の「人形」であった。だが、人民共和国の顔を見せない独裁者とその取り巻き達が、自分にとっての「人形」がなんであるのか。彼等、または彼等が切望して止まないモノ(羨望)が一体何であるなのか。それだけが、どうしても思い当たらなかった。


 閃きが足りない。


 それは、「人形遣い」が失って(卒業して)しまった渇望(衝動)を、争いの主導権を握る当事者達が、まだ保ち持ち(胸に秘め)続けていたからだ。満たされぬ想いを募らせ、思いの丈をどうにもならない程までに複雑に絡み合わせ続けているからだ。


 その辺りの心情を十分に理解出来ている「人形遣い」は、想いを満たす事以外に何も考えられなくなっているだろう人民共和国の指導者達に対して深く同情した。


 それは、きっと彼等が、誰にも理解出来ないほどに長い時を苛つきながら生きているだろう事を、知っていた(・・・・・)からだ。


※0= 神に祈り求めなさい。さすれば神は正しい信仰を与えてくださるでしょう。一応、何かを求めるなら、積極的な姿勢を維持しろ・・・的な意味合いでこの聖書の言葉は広く共有されている。


※1= 例外の史実も少しはある。18世紀の沈黙外交。徳川政権による 「正徳新例」に発した日本と清との間に生じた通商関係の変化。新井白石と康熙帝が、直接交渉を全く行わずに、互いの多様な事情への配慮して暗黙の中に妥協点が見出された。おそらく、日本と大陸の間の国際関係がもっとも安定していた時代である。


※2= 失敗を犯しさえすれば、必ずしも叡智へと辿り着けるとは限らない。ただし必ず賢者タイムをもたらしてくれる、あっちの方の叡智(・・・・・・・・)は、こっちの叡智とは全くの無関係である。まあ、失敗も叡智もいずれも人の子のやる事なので、大して違わない気もする。神の視点から見下ろせば、きっと、誤差の範囲に収まってくれる筈。

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