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命を継ぐ者。 〜 Inherit the Life. 〜  作者: すにた
第二章 二人目の共犯者
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いきどまりのいのち。

 西会津町に建つ一件の古民家。


 面して見える他人の家屋は存在しない。


 人口密度の低さ故だ。


 都会であれば、家の壁の約1m先にはお隣さんが建て(てもらっ)た家屋の外壁が立ち塞がっているのが当然であるに関わらず。


 塀の代わりに建てたフェンスならば、互いに触れ合うほどに接近して建っている(※)。人間同士のそれの方は、年々ハードルが上がり続けているに拘わらずだ。


 ここでは所有する敷地面積が広過ぎて、集落からちょっとでも外れると、どれだけ歩けばお隣さんがあるのか分からない場合もある。


 普通の集落でも、回覧板は最低自転車で。大抵は自家用車で回している。


 この古民家が、一体いつの頃から建っているのかを私は知らない。


 漠然と江戸時代の末期だろうと考えている。


 ありがたいことに(・・・・・・・・)、指定文化財建造物や登録有形文化財建造物には指定される兆しはない。


 この家よりも文化的価値がある建築物が周辺では珍しくないからだろう(指定されると、何かと面倒でね・・・)。


 なお、これは万条(まんじょう)家の本宅ではない。


 本宅は会津若松の方に建っている。あちらの方はSRC造の近代的な住宅だ。免震関係の装備も充実していた。おかげで、震災でも窓枠、手すり、外装パネル、水道管などのパイピング類などが破損しただけで済んだ。


 ただし、GPS測量によれば土地そのものがズレたので、復興時にどの様に境界線を取り扱うか。これは、被災区域全体で共有される問題となった。


 この古民家は、私、万条(まんじょう) 菖蒲(あやめ)にとっては、祖母にあたる人物が個人所有する不動産だった。少なくとも私が子供の頃はそうだった。


 祖母は曾祖母から相続したと聞かされている。曾祖母は、おそらく実家からだろう。


 祖父が権力基盤を父への移譲を終えた後は、祖母はこの古民家で一人暮らしを始めた。


 残りの人生を自分の好きに使いたかったのだそうだ。別に、祖父に三行半を突き付ける熟年離婚ではなかったらしい。ただ、これまで祖父の影の中で生きる事を半強要されて、それを詰まらなく思っていた。


 人生の最後で張っちゃけた生活に区切りを付けて、"自分らしく私らしく"生きてみたくなった。今でいうところの、自分探しを始めたのだろう。


 祖母は、地元・会津の有力政治家の家系のど真ん中(メインストリーム)に生まれた祖父の元へ嫁いで来た。そして、直ぐに二児を授かり、キチンと育て上げた。祖父は父と同じ様に多忙であったろう。一年の中、3/4は東京へ赴いていたらしい。


 正直、実質的には、福島の家は別宅で、東京のマンションが自宅だったそうだ。しかし、衆議院議員である祖父の権力の基盤は福島の方にある。有権者も東京にはいない(都会に出稼ぎに来た県民ならば、県の領事館で投票出来るのかも知れないけれど)。だから、祖父が留守にしている間は、祖母は祖父の代理人として有権者様のお世話を任されていた。


 選挙区内の支持者の家で長男が生まれたと聞けば出向いて祝いの言葉を述べたり、未来の支持者(有権者)の誕生の祝儀のついでに(・・・・)祝い金を贈った。支持者の誰かが生活面で困っていると聞けば、適切な人物や機関を紹介して、付け焼き刃的にだったかも知れないが問題解決に努めたりした(付け焼き刃的であったのは、非援助者の個人的資質に由来する問題であったが為である)。夏祭りの時期は、毎週末、ビール・ケースを積んだトラックを従えて応援に駆け付け、ついでに運営資金として寄付金を届けたりした。


 とにかく、忙しかった。その割に、実質的な栄誉は全て祖父へと集約された。


 なかなか酷いと今でも思うのは、福島の権力基盤を長年維持出来たのは祖母の御陰であったに関わらず、多くの支持者や有権者は、祖母の"下の名前"すら知らなかった。ただ、「万条(まんじょう)の奥さん」と記憶されただけだった。


 感謝はしても、誰も祖母を見ていない。祖母を通じて祖父を見ていたからだ。


 議席や後援会など、政治ビジネスの基盤を全て父へ受け継がれた後。小さな改革が、山積み状態で実行された。


 私の父は、病弱だった母に対して、祖母と同じ役割は絶対的に期待出来なかった。それを承知で口説き落として嫁にしたのだから、賢い父は婚姻届を提出する以前に有効な代替手段の構想・検討を十二分に終えていた。


 父は、祖父とは違って、大量の私設秘書を囲った。それらのたくさんの私設秘書を手脚の様に駆使して、先代以上にきめ細かい地元様(票田)のメインテナンスを実現した(若かった頃の父にとっては、その核心的な政治システムが次世代の私にとっての大きな障害に転じるとは予想していなかったのだろう)。


 その様子を見たから、祖母はさっさと引退宣言を下したのだろう。そして、自分が唯一所有する西会津町の古民家へ引っ込んでし合ったのだ。


 贔屓目に見ずとも、祖父以上に優秀だった父。だから、今後は好きにやらせる為に、祖父をもお達者クラブへの道連れとした。完全に一線から引きずり落した。祖父もそれは分かっていただろう。


 自信家であった祖父は、経験が乏しい息子に対して偉そうにアドバイスして、マウントを取るのを楽しみにしていたに違いない。しかし、そんな引退後の計画は見事に崩れ去った。それでも、祖父もその事について、祖母に対して何も文句を言わなかった様だ。


 長年連れ添った夫婦の阿吽化。祖母の不満の高まりを祖父も重々承知していたに違いない。そして、それに報いる必要も感じていたに違いない。


 ーーーおかげで、親子間での(祖父と父の)世代間の無用な対立(意地の張り合い)が未然に防がれた。


 何だかんだで上手く回る関係。羨ましい。つい、私自身も遙か先に迎えるであろう将来にも、それと同じ幸せを期待してしまう。


 引退後の祖父は、会津若松の本宅、東京の別宅、祖母の古民家をクルクルと回っていた様だ。流石に、コンビニにも歩いて行けない田舎の古民家へ祖母と完全に引きこもるには気力と足腰が未だ充実し過ぎだった様だ。


 主に、官庁街の古い知り合いを通じた陳情。企業家や投資家への会津への関わり合いのメンテや新たな引き込みなど。すべきことはいくらでもあった。


 時は金なり、と言う。会津には金はなかったが、時ならいくらでもあった。なのに、その時が金になってくれない。それが故郷では平常化して久しい惨状だった


 また、祖母は、以前から担当していた民生委員の役割だけは引き続き引き受け続けた。


 夏期になると、父は私と妹二人を祖母の元へと送った。私は小中学生の頃は、全ての夏を祖母の家で過ごした。


 私は祖母の家が好きだった。囲炉裏(いろり)目当てに、寒い時期になると土日だけ祖母の元で過ごしたりした。薪を割ったり、囲炉裏(いろり)で作る料理はとても楽しかった(私の味付けで料理が美味しかったと主張しては、歴史修正主義者の(そし)りを受けてしまうだろう)。


 二人の妹達はそうでもなかった様だ(まだ、小さかったからね)。だが、私には祖母のように早く、火箸ひばしで薪や炭を突いたり、灰均し(はいならし)で灰模様を描ける大人になりたいと願っていた。


 私は祖母の手伝いをしながら、近所の大人達の輪に加わった。集落周辺には、子供が少なかった事もあり可愛がってもらえた。


 獣肉が取れれば別けてもらい、山菜の季節にはお呼ばれして一緒にあく抜きなどの作業を努めた。


 民生委員である祖母の背を通じて、人間の社会が如何に負の方向に捻れているのかを意外に早く理解出来た。この事は、今となっては大きな財産だったと言える。そのせいか、中学校では"年齢の割に妙に擦れたガキ"だと思われていた様だが。


 祖母は残念ながら、私が火箸ひばし灰均し(はいならし)を自在に使う姿を見て褒めてくれると言う体験をせずに逝った。私が子供らしい危うさから脱して大人への階段を上り始める以前に、他界してしまった。


 驚いて気力を失ってしまった祖父も、すぐに祖母の後を追った。


 人間の人生は、人の命は、とてもあっけなく終わる。母の件でもそれは嫌と言う程に分かってしまっていた。だから、涙は流れたが、それほど深く暮れる事はなかった。


 おそらく、祖母も私はそう言う人間であると知っていただろうと思う。情に薄いのではなく、情に溺れない。それは祖母も同じであったに違いない。もし、私が家族の誰に似ているかと問われれば、祖母にだ。


 ただし、外観ではなく、文化的な遺伝子「ミーム」を引き継いでいると言う観点でだ。


 そして、お葬式の後、一つの想定外の事実が発覚した。


 祖母は、私宛に一通の遺言を残してくれていた。


 ーーー西会津町の家は、菖蒲(あやめ)に相続させる。


 父は驚いた様だったが、その遺言状を一字一句違わずに実行した。それによって、私は未成年でありながら、家を持つ身分へと転じた。


 同時に、祖母の貸金庫から私の名義の信用金庫の貯金通帳が出て来た。入金は7年以上前に終えられていた。年間最大入金額が110万円までに抑えられてもいた。


 これだと、相続面と贈与面のいずれでも控除金額内に完全に収まり、仮に問題があったとしても時効となる。税務署も手を出せない。どうやら、相続税、固定資産税、暫く間の修繕費などの出費を想定していた様だった。


 御陰で、中学生だと言うのに、私は税制にだいぶ詳しくなってしまった。それが、高校生になって役立つ事になるとは、流石の祖母も予想していなかっただろう。死後の世界で再び出会えるなら、祖母にその顛末を詳しく聞かせてあげたい。きっと、驚いて、大笑いして、最後に悲しい表情を見せてくれるだろう。


 兎も角、文化的な遺伝子「ミーム」の継承と維持にはコストが掛かる。それを当然と考える祖母の、そういう冷徹な現実感の持ち様は、やはり私と良く似ている。いや、私が(・・)良く似ている。


 もしかしたら、祖母は祖父以上に賢い人間であったのかも知れない。私はそんな疑いを持っている。では、祖母は何故一生を影の中に暮らしたのか。おそらく、それはそれを求められて輿入れして来たからだ。遺影写真でしかお目に掛かった事のない曾祖父は、もしかしたら祖父の至らぬ点を補う為に、祖母を選んで迎えたのかも知れない。


 ーーー祖父と祖母の結婚は、お見合いによる出会いから始まっていた。


 高校に入学した頃に、私は祖母の真意にやっと気付いた。


 私は祖母の家と一緒に、特に奥川周辺の人々の強い繋がりを何の努力もせずに築き終えていた。


 今思えば、これが祖母から相続したもっとも有効なカード(ジョーカー)だった。


 どうやら、祖母は私は万条(まんじょう)家の基盤を継ぐと、最初から未来を見通していた様だ。そして、将来の私の背中を無条件で押してくれる人々との絆を成人するまで維持するには、"私が奥川の住民である"と言う強い印象を与える。普遍的な事実化する必要があると確信していた。


 キング・メーカー。規模は小さいが、祖母はこの選挙区における私の基本的な立場の創造を終えてから他界したのだ。


 実際、私が西会津町の家を継いだと言う事は、大きな噂話となって周辺に住む全住人へと繋がった。


 しかし、それは実は呪い(カース)と言う一面もあった。私は、その事実によって、生涯を万条(まんじょう) 菖蒲(あやめ)として、世代超えて脈々と継がれてきた万条(まんじょう)の歴史の一部として生きる以外の可能性を奪われたのだから。


 その頃の私は、愚かにも"これで父の立場に近付ける"と単純に喜んでいた。父の両肩に乗ってる重みについては、まったく現実的な考察が及んでいなかった。


 馬鹿な男に騙されて、全てを捨てて何処かへ蓄電と言う展開が絶対的に許されない人生。


 少女漫画や成人女性向け漫画の様な、ロマンス一点張りの将来的展望の完全消滅。


 まあ、私にはそう言うのは似合わない事は分かっている。馬鹿な男やロマンス男と言う種類の男性は、大抵の場合私のような女には最初から近付いて来ない。乱れた私生活など最初から始まり様がないのだ。


 だから、父が急死した時、会津若松にある実家、定期収入源の貸家土地、預金・株券などの取り扱いやすい資産など、全てまとめて妹達へと相続させた。私は、父の跡目を継ぐために必要な目に見えない力だけ(・・)を相続した。


 夫の八十治(やそじ)が相続関係の実務を仕切った。おそらくその時(・・・)からだろう。


 その時になって初めて妹達は気付かされた。私が選んだ八十治(やそじ)が、ただの影の薄いだけの男ではなく、敢えて目立たぬ様にと努めている、実務にはとても有能で明るい男であると。


 思えばそれからは、妹達からの喜ばしい報告などは私に直接に贈られたが、面倒事などは八十治(やそじ)だけに伝えられる様になった。私よりも多忙である筈の夫は、それでも嫌な顔一つ見せずに、妹達の世話をしてくれていた。


 私の初めての決戦となった、父の空けた議席を奪い合う補欠選挙では、選挙資金と言う問題が出た。まさか、身内から裏切り者が出るとは想定していなかった。


 父の資産の相続申告に関して、税務署まで動き出す予兆を見せた。出馬を止めなければ、踏み込むと言う無形の脅迫である。


 おそらく、これには身内だけでなく、過去に悶着があった中央官庁の役人も結託していたに違いない。それは、私が彼等の意向に反する形で高校を再建したことに遺恨を発している。面子を潰された自分が偉いと確信している大人達は、その恨みを死ぬまで忘れないらしい。


 ーーー閑そうで羨ましい。本当に。こちらには、そんな時間的な余裕はない。


 政治家になると決めた時、これからは自分は畜生として生きると決めた。にも関わらず、まだまだ人間の価値観で物事を考えていた。それが私が政治家としての第一歩を踏み出した直後に体験した、致命的な間違いとその代償だった。私の甘さが完全に露呈した瞬間でもあった。


 あの時も、八十治(やそじ)が地元の信用金庫や地方銀行を回って、どうやったのかは今でも不明だが、大した担保も用意出来なかったに関わらず、十分な金額の融資を決めてくれた。


 また、公安警察警部を名乗る"山田(仮名)"とか言う男も現れた。有用な敵方の内部情報を多数与えてくれた。どうやら、私と関係のない所でいくつかの勢力が争っているらしい。私の選挙は、不運にもその戦場として選ばれてしまっていたらしい。


 その良く分からない男も、どうやら八十治(やそじ)が巻き込んだらしい。私にはない嗅覚で、争い事の天王山を見出せる様だ。


 まあ、兎も角、八十治(やそじ)の御陰で、今の私がある。


 私が頼るのだから、妹達が頼ってしまうのも仕方のない事なのだろう。


 ーーーきーーーっ。きゅん・・・。


 屋外から、タイヤでジャリを踏みしめる音と自動車のエンジンを切った音が聞こえた。


 どうやら、マヤが到着した様だ。まずは、妹の訴えに耳を貸してみよう。


 家の引き戸の鍵は閉めていない。姉は妹に対して閉じる扉は持ち合わせていないと言うメッセージが伝われば良いと願ってのことだ。


 上手に引き戸を開ける音が聞こえる。妹達も慣れているのだ。そして、子供の頃に学んだ開け方(コツ)を忘れていないと言う事でもある。


 祖母と一緒にこの家で遊んだ体験も、きっとまだ記憶してくれているに違いない。


「ごめんください」もなしに勝手知る屋内へと入り込んで、玄関で靴を上品に脱ぎ、それでいて廊下を気兼ねなく歩き始めた床の軋み音が聞こえる。


 良かった。親愛を示すメッセージは的確に伝わった可能性が高いと判断した。


 ーーー妹達に対して閉ざす扉を、私は持った事ないのだから。


 次女のマヤは、すぐに囲炉裏(いろり)の間へと辿り着いた。開けっ放しのふすま越しに姿を現した。


 脱いだコートを玄関で掛け置く事なく、片手に保持している。


 少女の域(アドレッサンス)を脱して久しいと言うのに、未だにとても可憐に見える。


 ずるい。それが率直な印象だ。


 自分と比べれば小さくて可愛い。自分と比べれば大きな二重の瞳が可愛い。自分と比べれば声色もキツくなくて可愛い。


 詰まるところ、妹達、アイとマヤは、揃ってかわいい系だった母親の生き写しなのだ。それでいて、どこがとは指摘し辛いが、父親の何かを確実に引き継いでいる。


 ーーー私が持っていないものを与えられて、祝福されて生まれて来た。


 ついさっきまでは、そうだと信じ切っていた。


 父親のどこにも母親のどこにもにも似ずに生まれた自分とは違って、家庭の中で微妙に居たたまれなかったり、何と言うか引け目を感じて育つ事もなく、真っ直ぐに育ってくれた。


 ーーー私は、家族写真が嫌いだ。私だけ浮いて見えるから。


 それでも、二人の妹達は私の誇りである。


 私の両腕から巣立って久しい、妹達の中の一人を慈愛を()めた視線で見詰めているつもりだった。


 だか、これも自分がやると、まるで詰問前の冷徹な品定めをしていると誤解される場合が多い。だから、早々に視線を反らしてあげたかった。しかし、それでも反らし難かった。一秒でも長く見詰めていたくなってしまった。


 ーーーどうしたら、今のこの()との距離を詰められるだろう?


 双子の妹達には分け隔てなく、出来る限りの愛情を注ぎ込んで来たつもりだ。だが、自分がそう努めた様に、運命、或いは神は妹達を優しさで包んではくれなかった様だ。


 同じ環境で育った同じ遺伝子の持ち主達に、相対する定めを与えたのだから。


 ーーーまるで、一方は成功品で、残された者は規格外の廃棄処分対象だとでも言わんばかりに。


 私は、親友の朝間ナヲミから神を呪う言葉を度々聞かされた。その時は、"分からんでもないくらい"に聞き流していた。しかし、今では、あの悪友が放った言葉に、一字一句に同意出来る。


"機会があれば問い詰めて、答えが気に入らなかったら立てなくなるまでボコってやりたい。"


 今の私なら、朝間ナヲミを後ろに押し退けて、この二つの拳にケルベロスの爪から作成したナックル(メリケン・サック)を填めてから、自分ではなく神の足腰が萎えるまで殴り続けるだろう。


 正方形の囲炉裏(いろり)の横座から立ち上がり、居間の入り口に立ったままの妹。何を迷ってるのかは、夫と因幡先生がくれたヒントの御陰で分かっているつもりだ。


 しかし、今はそんな事よりも、姉妹ではなく女同士として、その身を襲った不幸に寄り添ってあげるべき。そう判断して、私は妹の元へ寄り、そのまま抱きしめた。


「事情は理解している。(つら)かったわね」


「お姉ちゃん・・・」


 しばらく、喉から出すべきものが出せなくなっていた妹が声を取り戻した。


「宇留島先生の私見も繰り返し読んだ。何度も読み返した。だけれど、一度だけ尋ねさせて」


「うん」


 私、万条(まんじょう) 菖蒲(あやめ)は自分の喉がまるで痙攣しているかの様な錯覚に陥る。これを口にして、言語化してしまえば、事実として現実に定着してしまうかの様な怖さがあった。もちろん、自分の行動一つで運命が引っ繰り返るはずもない。しかし、それでも、そうであって欲しいと願わずにはいられない。


 自分の思わぬ弱さを改めて突き付けられた瞬間でもあった。だが、怨まれても仕方がない。この過酷な運命。誰かが怨まれてやらなければならない。だったら、その役目を引き受けるべきは自分だ。何故なら、自分がこの妹の姉であり、唯一の年長の本物の(・・・)家族であるからだ。


 私は決意した。揺らがぬ意思を実現する為に、夫ではなく、何故か悪友の横顔を思い起こしてしまった。だから、何となく夫に後ろめたい気分になった。しかし、それが引き金となった。私は、第一声を絞り出した。


「間違いはないのね?」


 妹を抱きしめる腕の力がつい強くなってしまう。そして、ヘタレな自分を悔しく思う。しかし、こんな抽象的な言葉しか思い付かなかったのだ。


 抱きしめられた妹の全身が強張(こわば)るのが分かった。今、自分が妹を今いる所から更に一歩追い詰めてしまったと自覚した。しかし、そうでなければ前に進めないとも分かっていた。


 ーーー痛みは、もっとも小さくて済む間に受け入れるべきだ。例え、それが致命傷に匹敵する痛みであったとしても。


 もし、そのまま死んで朽ち果てるしか運命が残されていないのならば、多量の麻酔を投与して最後の瞬間までお花畑の中で過ごしてもらっても構わない。


 しかし、僅かでも異なる可能性に向けて腕を伸ばす余地が残されているのならば、激痛が伴ういばらの森の横断に挑戦させない訳にはいかないのだ。


 もちろん、いばらの森の冒険には、妹一人で旅立たせたりはしない。自分も共に立ち入るつもりだった。


「うん。間違いはないんだって・・・」


 マヤがボソリと告げた。


 私は、自分が死刑宣告を受けた以上の驚きを、今更ながら感じた。そんな筈はない。それで良い筈がない。しかし、運命とやらは、それで構わないらしい。悪友が言うところの、神様はきっとそう言うのを眺めて閑を潰している。そう言うどうにもならない不条理(どうして)()の怒りが募る。


 自分への不条理であれば、自分の力で払い除けられる。しかし、家族への不条理はそれが叶わない。襲い掛かる不条理を払い除けられるのは、本人ただ一人であるからだ。


「でもね。宇留島先生が言ってくれたんだ。ナヲ姉さんのところとは違う形だけれど・・・、私の遺伝子の一部なら・・・引き継ぐ受精卵なら・・・作れるかも・・・だって・・・」


 嗚咽を交えて聞こえる日本語が、すでに言葉にならない。しかし、残酷な事に意味だけは明瞭に伝わる。


 次女のマヤを襲った悲劇。それは「不妊」だった。生殖機能だけの徹底的な不全。女性特有の"生理"などの一連の現象を伴いながら、実際には排卵が伴わない。正確には排されるのが正常な"卵子"ではない。顕微授精(ICSI)を用いたとしても、受精出来る細胞を持ち合わせていない事が判明したのだ。


 マヤは既婚者だった。しかし、本人が強く望んだ懐妊の兆しがなかった為に、どこにでもある一般的な産婦人科の受診から始まって、最後に松本大学医学部の特殊な研究チームまで辿り着いてしまった。


 私には報されなかったが、もう一人の双子のアイも比較サンプルとして遺伝子を提供していた。二人の双子の遺伝子はコピーのエラー以外の構造上の差違は発見出来なかった。


 でありながら、三女の方は二女とは妊娠が可能と判明した。当然だ。既に長女を出産すると言う実績を示しているのだから。


 更に、二女一人だけが、遺伝子的な疾患や感染症などの後天的な影響を受けずに不妊状態にあると判明した。


 常軌を逸した膨大なマンパワーによって判明した事実は、二女の機能不全の原因は、分子構造の解析によって、遺伝子の一部(一つのアミノ酸残基)メチル化(H3C修飾)、機能の封印効果に求められた。私のDNAメチル化マップは、一般的な、ホモ・サピエンスのそれとの明確な相違点が確認されたと言う事であるらしい。


 もしかしたら、不妊の原因がそれだけではないのかも知れない。しかし、発見されたその一点だけでも、妊娠を望む上では致命的な障害となるのだそうだ。


 生殖補助技術、いわゆる体外受精や顕微授精(ICSI)等の手段が完全に無効なレベルの不妊である。これが私達に下された運命の判決だった。


 マヤは、その段階ではまだ完全に希望を失っていなかった。誤診と言う、"丁か半か"的な在り来たりな可能性に(すが)る余地があったからだ。


 ーーーセカンド・オピニオン。


 そこで、生命科学の最先端の研究者として知られる天叢雲会病院の宇留島博士を頼った。朝間ナヲミの元・主治医であったため、万条(まんじょう)の三姉妹とはまったく知らない間柄でもなかった。その御陰で、本人のチームによる徹底的な再診察が実行された。


 しかし、結果は、松本大学医学部のそれよりも辛辣なデータを積み重ねるだけで終わった。


 妊娠はほぼ(・・)不可能(ただし、奇跡の干渉の余地が残されている)。


 初期の段階で行われた、トリオ検査(子宮内膜着床能検査(ERA)、子宮内膜マイクロバイオーム検査(EMMA)、感染性慢性子宮内膜炎検査(ALICE))でも、見込みは極めて薄い(・・)とされた(ただし、奇跡の干渉の余地が残されている)。


 妹の生殖機能の不全は、子宮の疾患、子宮内の乳酸桿菌不在または不足、慢性子宮内膜炎、卵管付近の疾患や異常、生殖系ホルモン分泌異常、抗リン脂質抗体症候群、免疫異常などいずれにも該当しない。


 ただし、本人の生命の維持には影響しない疾患(幸いにも。ただし、引き続き推移は見守るべきである)。


 厄介なのは、他人の受精卵を用意したとしても確実に着床障害が起こる事だ。生命倫理の問題だる事から、気軽に試せるレベルの話ではないが。


 ーーー卵子の質だけでなく、子宮の機能も相当に怪しいと言う事だ。


 そうなると、妹のパートナーも同様に自分の遺伝子を継ぐ子供を、妹の胎を通じては(・・・・・・・・)出会えないと言うことにもなる。


 松本大学医学部でも、添加の宝刀である「免疫抑制剤」を利用すれば、受精は出来なくとも何かしら楽天的な反応があると見込んでいた。しかし、試してみても、まるで身体の構造が男性であるかの様に、女性特有の反応を示してはくれなかった。


 宇留島博士が、わざわざ手書きで残した私見の内容を、マヤがどこまで理解しているのは分からない。あそこに書かれていたのは、三点。


 1) まるで、生殖機能の一点に絞ったかの様にピンポイントな機能不全である事。


 2) さらに、マヤの遺伝子そのものではなく、模倣した遺伝子をiPS細胞、STAP細胞、ES細胞などの多能性を苗床として、自身のクローンであれば、メチル化されていない生殖遺伝子を保持して誕生する可能性がある(ただし、クローンの完成には、人間の成長と同様に長い年月が掛かる)。


 3) ただし、これらの手段を用いて妹のパートナーとマヤの遺伝子を混ぜ込んだ二人の遺伝子を分かち合った子供を、ヴォランティア女性による代理出産させる事は、遺伝子改変情報技術の規範に触れる可能性が極めて高く、現在の文部科学省が認可する可能性は限りなくゼロに近い。


 宇留島博士は、門外の一般人にもこれを読めば理解出来る事を願って、専門用語や抽象的な表現をまったく使わず、その上で言葉と表現を選んで、極めて短い文章へと纏めてくれていた。


 この件だけでも、宇留島博士の人柄が、それからこれをマヤに伝える上でどれだけ悩んだかを窺い知る事が出来た。


 あの女性は、自分の出産どころか、それ以前にパートナーの獲得にすらまったく興味がない人物である様だった。しかし、それでも自分と違って(・・・・・・)それを望む者の心中を理解し、察し、寄り添うだけの器の大きさがある事が判明した。しかし、それほどの人物であっても、この世界の不条理を排せないのだ。


 私の悪友は、祝福された同性婚を通じて子供まで得た。不運の連続だった割には、奇跡にも縁が深い様だ。


 一方で、私の妹はどうだ。不幸であるというに関わらず、奇跡とはまったく無縁だ。


 この不平等。運命による選別。好き嫌い好き。森羅万象が引き起こす依怙贔屓(えこひいき)が嫉ましい。


 ああ。ヤバイ。この怒りを朝間ナヲミへ変な風にぶつけてしまいそうだ。八つ当たりは良くない。しかし、2・3回くらいなら蹴っ飛ばしても罰は当たらないかも知れない。


※= ネパールの都市部(カトマンズやポカラ)だと、所有する土地ギリギリ、1cmも残さずに高層建築を建てる。誰かが引っ越してきて、新しい隣人として隣に高層建築を建てる場合、もともと在った高層建築に密着、接着、つまり隙間ゼロの限界建築を行う。理由は、適当な隙間、クリアランスを開けておくと、新しい隣人の方が土地境界線を無視して(越境して)隣人が建築物を拡張して来るのがお約束だからだ。ネパールの人々は生活の知恵として、後の隣人トラブルを避ける為に、トラブルが起こる余地を取り去るためにクリアランスも取り去る。弊害として、大きな地震が発生すると、建物特有の揺れ周波数が異なる物体同士が接着している為、その面している部分で揺れが増大され、破壊被害が増す傾向が強い。なお、ネパールの大地震で建物が容易に傾くのは、まったく別のメカニズムによるものである。

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