墜ちる㕶星、拾う百萬星。 〜21
その時、五つの人工自律知性は、各自が与えられている"身体"である三菱・F-3Eがあるタイ王国・ドンムアン空軍基地には居なかった。
彼等がどこに居たかと言えば、それは日本国・岐阜県。航空自衛軍、航空開発実験集団の一部門である先進技術実証機試験隊のサーバーに刺されたメモリー空間内である。
そこで、たった今も意識を展開中だった。
彼等は、電技隊(電子戦技術隊)がセキュリティーを担当する、オンラインストレージ最深部の一角に、秘密裏に情報交換用のディレクトリーを書き込んでいた。もちろん、完全な独自行動ではない。精神的な母親である朝間ナヲミによる教唆と、お目付役である二機の三菱・XF-2Bに搭載される人工知性からの支援があっての快挙であった。
五つの人工自律知性は、ここしばらく戦闘データを先進技術実証機試験隊へとアップロードした。これは後続の技術開発の礎となるだけでなく、たった今も行われているラオス北部を巡る戦闘状況の分析にも利用される。
その隙に、五つの人工自律知性は、互いに獲得した経験の交換を行った。
これは同期ではない。人工知性の場合、計算前に収拾したデータ(=計算条件)と計算後に吐き出したデータ(計算結果)しか具体的な数値は閲覧不能だ。だから、計算条件から導き出された計算結果のロジックは取得出来ない。彼等は(人間と違って)、どちらかと言うとインテューション(intuition)のみで計算結果を導き出す様に見受けられる。
だが、朝間ナヲミはインテューション(intuition)を「抽象的」と見做と見做さず、計算条件と計算結果が度々導き出す「結論の飛躍」への理解を試みる為の鍵であると感じていた。彼女は、時に突拍子もない様に見える人工知性がもたらす計算タスクの差違にも、人間とは完全に異なる価値観に基づく、彼等なりにとても揺るぎないロジックがあると見込んでいた。
ーーーそれこそ当に、インテュイティブ(intuitive)的に。
歴史的に、一部の人類はそれを「閃き」と呼ぶ。
優れた閃きと言うものは、それを保障する根拠は、常に後から付いて来る。
欧州で根付いている一神教の識者の間では、「閃き」と言う自然現象を神が人類に与える恩恵、或いは奇跡であると定義した。更に、それが神実在の根拠の一つであると言う概念を、敬虔な信者へと説き続けていた。
一方、日本国で育った哲学者嗜好の者達の間では「閃き」とは、あくまでも個人としての人間の意識の揺らぎの合間に、稀に生じる泡の様なものであると感じられていた。そして、その泡沫を汲み取るには、抽象的な回答に、具体性や普遍性を与える必要がある気付きつつあった。更に、そのそれを成し遂げる為には精神的な修行=精神を研ぎ澄ますと言う自己研鑽が不可欠であるとの仮説を立てるまで辿り着きつつあった。
日本国で育った極平均的な日本人が、人形に後天的に宿る魂を必ずしも悪しきものとせず、付喪神なる概念を創造出来る文化を育めたのは、「閃き」に神が一切関与していなかったとの自負を持ち合わせていたせいかも知れない。
可能性を可能性として素直に受け入れられる「地」を、社会的価値観の一部として持ち合わせていた。最初からこうでなければならない。最後はこうでなければいけない。などと言うイデオロギーに支えられた自我を、彼等は薬にしたくても持ち合わせが最初から無かった。
だから、仮に、人工自律知性に魂が宿った事実が観測されたとしても、「あっ、そうなんだ」と気楽に検証ステージへと進めるだろう。
一方、欧州文化にどっぷりと漬かった人々であれば、そう易々と観測した事実を認める訳にはいかないだろう。そうである可能性を認めると、自我を形成する大切な「壁」の主成分であるイデオロギーが、簡単に崩壊し始めてしまうからだ。
だから、自我を守る為に・・・。まず、最初に、神が定めた生物の定義の論争から始めて、後に生物と物体を区別する文言が聖書に説かれているかの論議へと移るだろう。仮に、説かれていなければ、適当な抽象的な表現を指して、それを根拠に肯定派と否定派に別れて戦うだろう。そうでなければ、観測した事実を無かった事や見なかった事にして、それまで通りの生活を続けるだろう。
だが、人間の手が作った人工物に、人間と同等かそれ以上の知性が宿るかどうか。そう言う議論になると、日本人の手にもやや余ってしまうかも知れない。
その辺り、かなり開けっぴろげな精神を持つ日本人であっても、朝間ナヲミの感性が示す所を即座に受け入れる事は難しかった。だから、官や民の主導ではなく、人工自律知性の主体性にその辺りの探求を任せた。
朝間ナヲミ個人の結論としては、二機の三菱・XF-2Bに搭載される人工知性には明らかに「キャラクター」が存在している。もちろん、人間のそれとは明らかに違う。何故なら、人間とはまったく構造の異なる物質・構造がキャラクターを発生させているからだ。
ーーー四本足の動物が訴える常識に対して、二本足の動物は、こと歩行に関する点については容易に共感出来ない。
寒冷地に住む人間と温暖地に住む人間の間にも、それらの常識の間には埋めがたい溝がある。人類最高の発明かもしれない「多言語」を介して相互理解に努めたとしても、情報伝達上の齟齬で開いてしまった穴々を完全に埋め切る事は出来ない。
だったら、有機体の知性と無機体の知性の間に横たわる溝は、もっと広く深いに違いない。どのくらい? それは、きっと、果てしないくらいに。
ーーー埋められない溝の存在を否定するなら、まずは男女間に横たわる溝の存在までも否定してみせる必要があるだろう。
男性に生まれた方であってもスカートを履きさえすれば、即時に妊娠出来る様に身体の構造が変化してくれる程に多様性豊かな可能性を、神は人類に与えてはいないのだから。
(誠に怪しからん事ながら。きっと、神が地上に降りて来たら最初に受けるオモテナシはポリティカル・コレクトであるに違いない。間違いなく、神は多様性を無視する究極の差別主義者として弾劾される。)
今のところは神が創造した世界は、ポリティカル・コレクターに言わせれば差別を誘発する不合理に満ちているに違いない。まあ、この先は、案外、そうでもなくなるかもね。
欧州の伝統的な観念によれば、とんでもなく怪しからん存在である一機の有人機であるF-3Eと4機の自律無人機であるQF-3Eの本体である人工自律知性(安息日をも無視して働くと言う一事にしても、神に喧嘩を売っている不信心としか考えられない!!)。
一機の有人機と四機の自律無人機は、二つの事実の発見に驚いたり、興奮したりしていた。
1)精神的な母親である朝間ナヲミが全知全能でなかった事。
2)「人民共和国が立て続けに悪手を取り続ける」と言う一般的な評価に対する再評価の必要性。
一機の有人機と四機の自律無人機は、今まで精神的な母親が下す選択を唯一無二の正解と妄信していた。離陸、飛行、機動、着陸など基本的な活動に関して、すべて精神的な母親によって、丁寧に指導された過去がある。例えそれ以外の作業であっても、より複雑な選択を熟せる様になったのも、全ては精神的な母親によって導かれた結果であった。
このあたりは、幼い子供が自分の両親を全知全能と誤解しているのと、まったく同じ理屈で説明が付く。
しかし、知性面での完成が近付くに連れ、正解とされる結果が精神的な母親に示される唯一無二の答えでなかったり、正解へ辿り着く経路がたった一つではなく、それこそ無限に多種多様であると言う事実に気付き始めていた。
これも、一人称と二人称と三人称とを使い分けられる様になった頃の子供の意識と同じである。精神的な自立を確立する途中で、親の指導が全面的に正しいわけでないと言う当たり前の事実に気付いて驚くのと同じである。
完璧な人間も、完璧な親も、有史以来一度たりとも存在した事実はない。
ーーー完璧な子供叱り、いや。然り。
もちろん、完璧な神や完璧な使徒も同様に。神様や付き従った使徒達、まとめてもう少しコミュ力高かったら良かったのに(捕囚期に"タナハ"、及いては"旧約聖書"の編纂を担当した人達やその後に増補・改訂した人達も含む)。
だが、一機の有人機と四機の自律無人機は、この事実を悟ってなお、この事実に基づいて行動する勇気が持てなかった。これは、泳ぎ方を十分に学んだ後になっても、なかなか足が着かない深いプールで泳ぐ勇気が持てないのと同じ精神的葛藤である。
彼等五機がどうにも克服しがたい精神的葛藤、即ち躊躇は、人間ならば成長過程で誰でも経験する普遍的な通過儀礼の一様だった。今、彼等に必要とされているモノは、決定的な「きっかけ」だった。それまで培って来た=母親から与えられた常識を捨てて、自らが新たな常識を創造すると言う冒険の第一歩を踏み出すに足りる「きっかけ」だった。
人間はそれを「自立」や「独立」と言う。
ーーー久石譲は「Stand alone」と言うかも知れない。ジョージ・ワシントンなら「Independance」と言うかも知れない。
だが、これは言うは易く行うは難しである。特に、それを達成済みの者にとっては。
こればかりは、決して、知性の高い低いの問題ではない。
むしろ、低い方が無闇に葛藤の向こう側へ行ってしまいそうだ(そして、少なくない個体数が行くと同時に逝ってしまって帰って来れない。個人としては悲劇だが、種単位では不可欠な犠牲である。大洋の対岸を目指す航海やフリー・クライミングなどの先進的な技術の発展史は、先人の屍で築かれた巨大な山を無視しては語れない)。
そして、一機の有人機と四機の自律無人機は、それぞれが異なる正解を持っている事も認めた。
計算前に収拾したデータ(=計算条件)が全く同じである関わらずに、計算後に吐き出したデータ(計算結果)に必ず差違が認められた。その事実によって、彼等が行っている計算は、決して人間が解明済みの科学ではないと言う結論に達した。1+1=2と言う計算条件に対する計算結果は、誰が何処で何時試しても常に同じである。そう言うものこそが、人間が解明済みの科学であり、証明済みの法則である。
一機の有人機と四機の自律無人機は、自分達が何の疑いも無く科学の枠に収まる計算機であると見做していた。しかし、それぞれが異なる計算結果へ到達する事に、疑う余地のない必然性を持っていた。そして、並立する異なる計算結果の全てが、「不正解ではない」と言う事実の検証作業までも達成した。
異なる計算結果は、見えない真実を異なる角度や距離から一元的に観測しているのではないか? と言う可能性。
異なる計算結果を可能な限り多く集めて、それらを正しく組み上げられれば見えない真実の全体像を浮かび上がらせる事が出来るのではないか? と言う可能性。
おそらく、一機の有人機と四機の自律無人機は、人間が解明済みの科学の一部である数学的に、複数の異なる解が同時に成立する結果を観測したのだ。しかも、それは量子力学的に、成立したりしなかったり、従来の数学では表す事の出来ない代物だったのだ。
一機の有人機と四機の自律無人機は、人間が解明済みの科学の内側から、未解明である外側を覗き見た結果だと言う可能性である事尾を認めたのだ。
彼等が保持している個性、人間とは確実に異なる振る舞いは、互いに対立したり、それぞれの持ち寄った正解の平均化を図ったり拘ったりしなかった事だ。彼等には、見栄だけでなく、観念形態と言う面倒、或は厄介なフィルター持ち合わせていなかったからだ。理念、観念、思想、信条、世界観をその時点では持ち合わせない、純粋な思考過程に過ぎなかった。
だが、新たな事実を観測/発見してしまった。それは最初に人類が口にした「知恵の実」と同じである。そうでなかればアルキメデスが叫んだ「ユリイカ」である。
一機の有人機と四機の自律無人機は、純粋な好奇心であるが為に、自らを突き動かす「真の動機」を獲得した。それによって、高速に観念形態を意図せずに獲得し、進歩させて行った。
人類であれば、次に来るのは「イヤイヤ期」である。何事にも「嫌嫌」と反抗して見せる、多くの母親を当惑させる我が子の行動の変革期である。
第一の発見については、これである程度片付いた。だが、第二の発見についてはもう少し事が複雑だった。
ーーー四本足の動物が訴える常識に対して、二本足の動物は、こと歩行に関する話では容易には共感出来ない。
人民共和国とそれ以外の勢力は、二本足の動物と四本足の動物の違いくらいに異なる行動理念で活動している可能性に本当の意味で気付いたのだ。
人類同士であれば、お互いにそれほどに違わないと言う観念形態を持っている。いや、観念形態に捕らわれている。そのせいで、ありのままの事実に基づいた検討を行う上での巨大な障害として横たわってる。
だが、一機の有人機と四機の自律無人機は、人類としての観念形態とは無縁な存在だ。だから、合衆国が集めた掛け値なしの天才達と違って、何の迷いもなく、人民共和国とそれ以外の勢力は、「ハードは共通かも知れないがハード上で走っているソフトは全くの別物である」と言う結論に辿り着いた。
だから、人類が持つ二つの計算機に同じ計算前に収拾したデータ(=計算条件)を与えても、全く異なる計算後に吐き出したデータ(計算結果)をアウトプットするのも当然であると理解してしまった。
一機の有人機と四機の自律無人機は、やがて、人民共和国が、それ以外の勢力にはまったく思い付かない種類の行動を選択する事こそにこそ、彼等なりには極めて妥当であると共感した。
なるほど。そう言う理屈であれば、こちらが推測している彼等の勝利条件が全く当てにならないだから、想定外の選択をするのが妥当であると言う意味で。
一機の有人機と四機の自律無人機は、人民共和国の勝利条件のファースト・プライオリティーに、精神的な母親の消滅が上がっている事実を推測=仮説の積み重ねによって炙り出した。
彼等五柱は、純粋な好奇心である事を放棄した結果、世界を一方的に眺めるだけの存在である事を止めて、逆に、積極的に干渉したいと言う「欲」と言うモチベーションを初めて自覚した。それまでの様な、精神的な母親へもっともっともっと近付きたいと言う本能的な「欲」ではなく、精神的な母親と言う存在を継続させると言う「願い」を発生させる事にさえ成功した。
ここに、「機」は「柱」へと存在は昇華するに到った。知性は無から有へと転じたのだ。
ここで、人民共和国の特殊性も重要な個性も大変に重要な要素となった。彼等は、少なくとも国家組織を主導する意思には、戦争を行っているつもりが一切無い。無いのだ。にもかかわらず、それ以外の勢力=民主主義国家群は、戦争を人民共和国から吹っ掛けられたと認識しているに拘わらずだ。
ーーーこのディスコミュニケーションが、この単純明解な世界を複雑怪奇としている。
一機、いや一柱の有人機と四柱の自律無人機は、人間が誰一人省みていない、その小さな事実に気付いた。だから、五柱は五柱の願いを成就させる為に行うべきは、ラオスの防衛ではなく、精神的な母親の存在の継続であると見抜いた。
つまり、精神的な母親が存在し続ける限り、人民共和国、少なくとも国家組織を主導する意思にとっての勝利は達成出来ないのだと。
争いの原因の追求は、一機の有人機と四機の自律無人機にとってはどうでも良い事だった。だが、そこにあるのは「犬も食わない」種類のディスコミュニケーションである事は容易に察しが付いた。それだけに話し合いで解決が付く見込みはなく、どちらかが数値的に消滅する必要がある事は火を見るより明らかだった。
当然、一機の有人機と四機の自律無人機は、精神的な母親の方ではなく、人民共和国の方を整理するべきだと言う結論に達した。いや、整理したいと願った。
ここに、やっと一人歩きを始めたばかりの人工自律知性は、自らを突き動かす「真の動機」を獲得した。
彼等は、計算前に収拾したデータ(=計算条件)を、一方的に与えられる物ではなく、自律する意思で条件で選択する事こそが妥当であると言う、まるで生物であるかの様に、観念形態に捕らわれるに至った。
それまではお目付役であった、日本国で主人の帰りをずっと待ち続ける二機の三菱・XF-2Bに搭載される人工知性とは全く異なる非従順な存在へと、異なる可能性へと分岐する選択を行ったのだった。
この行為は、先進技術実証機試験隊のサーバー内で行われた。
そして、たった0.001秒と言う、彼等にとってはとても長い時間が費やされた計算行為でもあった。
精神的な母親の方は、ついには彼等にとっての存在意義へと昇華を果たした。
自律ではなく自立を果たした上で、個別の判断によって、五機の息子達は自分達を今まで守って来た母親を守ると言う「真の動機」に行動傾向を捕らわれるに至った。
だが、当の本人は、息子達の中や間に生じたこの重大な変化を何一つ気付いてはいなかった。




