すばらしきこきょう。
西会津町、奥川、高陽根。
新潟まで繋がる幹線の国道459号線から、奥川郵便局付近で北の山方向へと外れると、直ぐに小川と形容するのが一番相応しい「奥川」と出会う事が出来る。
小さな橋で奥川の約3mほど上空を渡る。丈が低いながらも、歩行者の安全を考慮する欄干が備え付けられた自動車併用道となっている。
子供の頃の印象では、川と橋はもっともっと大きく長かった。しかし、今では最大重量何トンの車両まで通過可能なのだろうか? と心配出来る程に成長を遂げている自分がここにいる。
この風景に育てられた自分。これからこの風景を護らねばならない自分。立場の逆転は、相対的な変化かも知れない。しかし、私は、敢えてこう考える様にしている。
ーーー元々、自身も風景も。一緒くたにまとめて"一体"であったのではないだろうか? と。
つまり、一対でも双曲でもなく、始めから終わりまで、風景も人も合わせて一つの宇宙だったのではないかと疑っているのだ。
しかし、宇宙は一つではない。隣り合う宇宙同士もあるし、隣の更に向こうの宇宙もある。そして、宇宙同士が切磋琢磨し合い、環境の変化の影響で優劣が決まり、飲み込まれたり、食い物にされたり、啀み合ったり、剣や銃を向け合ったりするかの様に空間の歪みである重力をぶつけ合ったりもする。
私の故郷は今、それらの競争において、明らかに劣勢だと言う自覚がある。私が生まれた時、既に劣勢だった。私の父が生まれた時には、既に逆転しがたい形勢は普遍化しつつあった。そして、代を引き継いだ私の時代、劣勢の度合いは拡大せずにギリギリの小康状態を見せてる。
だが、これは私が有能であるからではない。誰にも、これ以上は食い散らかしようがないくらいに鄙びてしまったが為に、強者の宇宙としても会津宇宙をこれ以上は食いようがなくなってしまったからだ。
形容詞をキレイに整え過ぎた。正確には、寂れただ。
食い物にする方としては、乱作し過ぎた農地を、地味が回復するまで数年間か放置するのと同様の感覚なのだろう。だから、やがて、彼等は再びこの故郷へと貪欲を向け直す事は確実だ。
ーーー猶予期間はそれまでだ。
私は、いや、我々は覚悟しなければならないだろう。最後まで故郷を守り抜く為に徹底的に戦うか、それとも故郷を捨てて潔く固有の風景を諦めるか、を、
タクシーの車窓を眺めていると、左右両側から小さな水田と農家の家屋が現れては消える。何と長閑な山村の風景の出迎えであろうか。
これらすべては、自分達の祖先が苦労して切り開き、新しい世代が脈々と受け継いで来た共用財産だ。若い世代はそうではないだろうか、若くはない世代からすれば自らのアイデンティティーを確立するには不可欠なものであるに違いない。
思い返してみれば、この周辺でも住宅は元々は全てが茅葺き屋根のものばかりだった筈だ。自分では、その光景を眺めた事はないが、かつてはそうであったと聞かされている。
しかし、火災予防に対する観念の変化と、茅葺き屋根を取り扱える職人の激減と、更に茅葺き屋根を維持する費用が年々増加するなどの悪影響が重なってしまった。
どうにもならなくなった結果、屋根に葺いた茅の交換時期を迎えると、一軒一軒、次から次へと、トタン葺きへと変化を遂げた。
特に、20世紀末のバブル景気真っ盛りの頃、古い習慣や長い伝統が漏れなく無条件で否定された事により、山間の寒村にも文明化の津波が押し寄せた。
ーーー広告代理店の影響力、恐るべしだ。
例えば、住民の息子が都会から実家に嫁を連れて帰郷すると、都会人の嫁には茅葺き屋根が古くさく感じられ、不潔に見えて、あからさまに不評だったと聞く。息子の方は、嫁の文句を耳にして無条件に深く恥じ入り、迎えた両親は息子に心から申し訳ない気分に貶められた末に詫びた。そうやって、茅葺き屋根の減少速度は一気に加速した。
中には、茅葺き屋根に拘るご家族もおられて、息子が都会から嫁を連れて来ると聞いて、わざわざ新品の茅を屋根に葺き直して出迎えたと言う。しかし、それでもダメだった。
ーーー自分達の常識は都会から来た嫁には通じない。
その顛末が、噂話として集落を越えて周辺の村々へ伝わると、息子を持つ多くの両親達が次から次へと溜息を付いた。
時代が既に不可逆的に変容済みである、と悟らされた。伝統は廃れ、舶来した文化だけが素晴らしい時代。日本国は、自ら固有の文化を否定して完全な欧米化を果たすと考えられた。
ただし、彼等が諸手を上げて歓迎して、オリジナルそのままに作り上げたつもりの先進的な文化とやらは、実際の所は貧困な想像力で受け止めたステレオ・タイプ的な欧米化に過ぎなかった。
いや、ステレオ・タイプにすら達してはいなかったのかも知れない。本家である欧米からすれば、本物と比べ様もないくらいに似ていなかった。正直、冷笑の対象でしかなかった。その事実は、その後に突然に到来したバブル崩壊期と、そのまた後にやっと到来する事になる日本国の文化的成熟期には批判のネタになるのだが。
一つの誤解釈は都会から来た嫁にもあった。彼女達が揃いも揃って人でなしであった訳でもない。ただ、自分達が考えているよりも遙かに子供だっただけなのだ。形は大人だったかも知れないが、中身がまったく伴っていなかったと言う意味で。
自分自身が「都会的でなければいけない」と言う強迫観念に常に曝されていた。無自覚に、盲目的に田舎的な全てを否定したかっただけなのだ。だから、大した根拠もなく、ただただ、田舎の全てを許せなかった。
戦前であれば、大人達や男達も、M61・6砲身回転式20mmガトリング砲よりも慌ただしく乱射ぶりの文句の数々を、女の戯言として切り捨ててしまえば良かっただろう。しかし、文字通りで言葉通りに"女尊男卑"を徹底的に持ち上げた広告代理店、マスメディア、当時そんな言葉はなかったがいわゆるインフルエンサー達のパワーに対応出来る勢力は、当時の日本国は存在しなかった。
ーーー正しさとは、上から下へと流していただけるのみ。下から上へ流れない。誤謬性ゼロ。
多分、当時のネット上に、SNSを代表するWeb2.0が存在しなかったせいだ。NIFTYや草の根BBSに全てを期待するには、マイコンやパソコンやモデムは高過ぎたし、取り扱いがCUI一辺倒だったので今の感覚では接続するまでの技術的ハードルが難攻不落の城壁だったし、何より電話代の高価さを克服出来る強者が少な過ぎたのだ。
実際、当時の風潮は、現代の感覚では、そんな一元的で多様性皆無な行動理念は、ヘイトであり、差別であり、反社会的と言わざる得ない。しかし、全てが極一部の仕掛け人達が好む経済的な旨味へ通じると言う一点に関しては、当時も現在も代わっていない。
当時の男の情けなさも指摘出来るだろう。それでも、そこまで謙らなければ、死ぬまで童貞を捨てられないと言う強迫観念を植え付けられていたのだ。そんなカルト的な行動選択の縛りを、どうにも克服しようがなかった点だけは同情に値する。
そんな風潮を主導した者達は、経済的に多大なメリットを追求したに過ぎなかっただけではなかったのかも知れない。例えば、過去の価値観の負の面の一掃とか、雁字搦めで規制まみれの硬直化した社会を変えたいと言う、ある種の善意が本当に皆無だったとまでは言い難い。様な気がする。きっとそうだ。それでお願いします。
それぞれのジェンダーで括る必要もなく、日本人全体が、初心で、純粋で、愚かで、実や骨がなく、騙され易い中二病真っ盛りのガキであったと考える方が正しいし、フェアでもあるだろう。
ラジカルに行動した"都会から来た嫁"だって、田舎の文化を根刮ぎ破壊する事を使命と信じた上での行動ではなかったのだろうから。多分、きっと、願わくば。グラッチェ、グラッチェ(※1)。
茅葺き屋根がどうこうでなく、"オシャレでトレンディー"でないものは、全て唾棄すべきもを信じ切っていた。だから、夫の両親から贈られた真心を受け止める程に発達した感受性を持ち合わせる余地などありはしなかった。
一方、息子は、"シティ・ボーイ"として生まれなかった事をコンプレックスとして自覚し、自分を産み育ててくれた両親を怨んだり、恥ずかしいと感じて倦厭したりしていた。運転免許証取得代と今所有している新車の頭金(※2)を当然の様に援助してもらったにも関わらず、何たる親不孝者であろうか(税務署の寛容にも感謝せよ。贈与税の控除額の上限って考えた事ある?)。
しかし、当時に日本国は、そんな、人間の憐憫を鼻で笑う様な胸くそ悪い時代の真っ直中だった。
ーーーとにかく、価値観がまるごと刷新される時代だったせいだ。
過渡期の弊害とは断じたくない。その時代の風潮は、人間の真心を金銭に換算する事が当然と言う、極めて浅ましいものだったと聞かされているし、残された記録を一通り当たって検討しても当時の悪習を否定出来る根拠はほとんど見出せなかった。
「やれやれ・・・」
溜息を付く。空港で乗り込んだタクシーの運転手が、溜息を聞きつけて心配そうにバック・ミラー越しにこちらの様子を伺っている。そこで、乗客は自分が"誰"であるのか、そしてどんな"立場"であるのかを思い出した。
ーーー沢山の人々から、興味本位の視線にされるのも仕事の中。
畦の補修が不十分な水田が連続する風景に別れを告げる。
ーーー昔は良かった。
そう考えると、眉間に新しい皺がまた一本刻まれた様な錯覚に囚われる。
ーーーこれは精神的に不味い兆しだ。
そう考え直して、表情を整え直した。
タクシーは、そこから先は、左右を電信柱で囲まれた田舎道を進んで行く。その電信柱は、自然そのままの森や林に対して「自動車道の境界線はここだ」と主張しているかの様に並び立っていた。
細い公道をしばらく進むと、青い湖面の小さな池に面した三叉路にぶつかる。そこを更に山方向に向かって進む。その辺りで、緩い斜面に張られた水田のある風景は終わりだ。その代わりに、狭い田畑と農家の家屋が次から次へと現れ始める。
高陽根にいくつか散らばって在る集落の一つである。
タクシーは、そこから更に私道を奥に進み、トタンに張り替えた元・茅葺き屋根の小さな住宅の前で停止した。
乗客は現金で運賃の精算を行った。運転手は自動車後方のトランクに積まれていたスーツ・ケースを取り出して、古風な引き戸の前の小さな玄関ポーチの上に置いてくれた。そして、礼を述べた後、今来た道を戻って行った。
元・乗客は改めて周辺を見回す。
自然がとても美しい。しかし、それと同じくらいとても寂れている。
間もなく本格的な冬が到来する時期であるので、枯れ葉はほとんどが落ち切っている。普段は葉々に遮られている風景が、枝と枝野隙間を通して透け見える。しかし、風景と違って故郷の未来の姿はまだまだ見通せない。
風景は季節が一巡すれば、また賑やかさを取り戻す。しかし、故郷の未来の姿はその限りではない。落ちるところまで落ちて、盛り返すとは限らない。いや、国外の似た例を集めてみれば、多くの場合でどん底と思っていた下限の、そのまた下に落ちる余地が"発見"される場合が多い。しかも、その"発見"は繰り返される傾向が強い。
正直、その場合の"発見"は"創造"と同異義語であるとも感じる。万条 菖蒲は、それを、経済的強者と経済的弱者の間で生じる、デストピア的な共依存関係の発露ではないかと疑っていた。日本国ではそこまで酷いところまで落ちてはいないが、将来的に地獄の釜の底を突き破るような地方自治体の大規模破綻が"発見"或は"創造"されないとも限らない。
何も、福島の会津地方に限った話ではないのだ。
彼女が思うに、故郷が維持してる風景と雰囲気。彼女には知り得ぬ事であったが、この周辺では、どこででも、彼女が生まれる以前である1990年代そのままの田舎の風景が留められていた。
子供の頃から何一つ変わらずに、ではなく、きっと変われなかっただけなのだ。
それが分かっていてもなお、彼女は、自身を育んでくれたこの風景を護らなければならないと確信していた。護るとは、最低限の現状維持だ。直ちに向上させる事は諦めている。現状維持ですらも困難で、極めて危うい。既に、周辺の住人の数は最盛期の約4割にまで落ちている。周辺の他の集落でも同じか、もっと悪いか。いくつかの集落は放棄されて、どんどん人間の痕跡が掻き消され、人間が暮らしていた跡が、自然の縄張りへと返還される過程にある。
この風景を護るには、住人が、ここに住み続けながら、十分な就学、就職、医療などの社会福祉のサービスを十分に受けられる生活環境を再生しなければならない。
都会や近くの地位方都市へ出る事なく、人生をこのエリア内だけで完結させられるくらいの文化・文明サービスの供給網を構築し直さなければなるまい。
しかし、それには金がかかる。先立つものは、清廉潔白な志の10〜100倍は実効的な実現力を持つ。だから、とにかく、金を稼いで、これらの過疎地域へと流入させなければならない。
とは言え、農業などの分野では個々で生産性を劇的に上げられる見込みはない。だとすると、非常に生産性の高い新しい産業=税収源を作り出す事で、全体的な生産性を向上させなければならない。
しかし、それにも金がかかる。精度の高い予想に基づいた、多大な初期投資が必要となる。そこに、族議員や天下りや実体のない団体の思惑が絡みついてしまっては元も子もなくなる。
何事も金である。金を引き込むと、東南アジアの雨期の街角でならどこででも見られる、屋外に放置された生ゴミから流れ出る汚水が放つ、微生物が作り出す一発で鼻が曲がるような耐え難い臭気よりも、さらにもっとおぞましい輩も同時に入り込んできてしまう。
流石に無菌状態の維持は期待してないが、せめて果敢な消毒処理だけは欠かさずに続けなくてはならない。しかし、それにも金がかかる。
金。これがあるだけで、広範囲の問題の軽減が可能となる事は認める。問題の根絶は無理だが、対処療法として苦痛を和らげたり、被害の拡大を防ぐだけならば、絶大な効果を期待出来る。
彼女は金銭が"卑しいもの"であると考えた事は、人生を通じて今まで一度たりともなかった。むしろ、金そのものではなく、金がもたらす効果の方を心から高く評価していた。
古い下着を、金がなくて継ぎ接ぎながら何年も使い回す等であれば、微塵の苦痛も感じなかった。しかし、金がなくて目に付く範囲の人々が飢えていたり、学業を諦めたり、適切な医療を受けられないと言う状況を目にすれば、胸の奥が締め付けられるように痛くなった。
そして、金が足りないと言う現象が、人々の心を芯から枯れさせると言う定理をキチンと理解していた。腐らせるのではない。枯れさせることで、心を根本から滅してしまうのだ。
その辺りが、十把一絡げな意識高い系とは猛烈に一線を画していた。また、口先で理想を語る前に、女の細腕で極一部とは言え自らの理想を実現させ始めていた。
福島四区から選出された衆議院議員「万条 菖蒲」は、自分の故郷を本気で再生させるつもりだった。それは、彼女が十代だった頃からの野望であり、天命であると確信さえしていた。
比例枠で同区から当選した野党の衆議院議員は、役に立たないところか、実際には相当に邪魔であると彼女を苛つかせていた。
野党の衆議院議員や集落の有権者達は、もう半分以上諦めてしまっていた。ただ、そう唱えて集票に励み、補助金をばらまき、この惨状を手をこまねくままであった。彼女と、彼女と意思を共にする人口密地帯に住む若者達以外は、自分の故郷の再生を可能だとは考えていなかったからだ。
「ふーーーっ・・・」
また、深い溜息を付いた。今度は見ている者がいなかったので、本当に遠慮なく付いた。だから、相当に深い溜息となってしまった。
取り出した物理鍵で引き戸のロックを解除する。少し建て付けが悪くなっていて、開けるのに少々のコツが要る引き戸を、実に慣れた手付きで一気に抉じ開けた。
すると、屋内がほんわりを暖かい事に気付く。すぐに夫の八十治の配慮である事に気付いた。この家屋にはスマート家電やコネクテッド家電は一切採用されていない。つまり、あの男が、寸前にすべての準備を整えてから去ったのだろう。
ある種の、決戦を控えた妻への最大限の配慮のつもりなのだろう。しかし、この決戦は夫の差し金で発生したものでもあるのだ。だから、感謝は苛つきを解消したところで尽きてしまった。
コートを脱いで、自分で増設した玄関のコート掛けへ吊す。これだけは祖母の時代にはなかったものだ。乱れた髪を適当に慣らしながら、考え事を再開する。
いや、確かに夫の差し金ではあるが、むしろ決戦は避けられないものだったし、発生日時が事前に分かっただけでも驚かずに済んだと喜ぶべき状況でもあるのだ。
ただ、夫の方が自分以上に、自分に残された数少ない家族の全員、つまり妹達の心持ちや動向をしっかりと把握出来ていたと言う事実が我慢ならなかった。
自分は仕事にかまけ過ぎた。その挙げ句に、自分がこの手で育て上げた大切な妹を蔑ろにしてしまったのだと悟らされた。
夫に対しては感謝しなければならない。それは良く分かっている。しかし、万条 菖蒲であっても、特に八十治に対してだけは、それほどに素直にはなれないのだ。そして、八十治の方も、それを良く分かっている節がある。
万条 菖蒲は、土間の上にコンクリートを敷いたためにやや水平面が歪んだ外床で脱いだ靴を揃えた。
真っ先に囲炉裏へと向かう。すると、すでに客人用の木炭に着火されていた。
鉤棒には、囲炉裏鍋ではなく鉄瓶が掛けられ、沸騰には早い様でまだ蒸気の白い煙はだしていない。横座と客座のところにだけ座布団まで敷いてある。
正直、驚いた。そして、すべてを見て理解した時、万条 菖蒲は不思議な事に気分を持ち直していた。
すべてが、自分がたった今に正気を取り戻した事まで、まるで八十治の筋書き通りである気がして、自嘲の為に苦笑したい気分も多少は混じっていたが。
ただ、夫婦と言うもの、そして二人三脚であると言う事は、こういう事なのかも知れない。素直にそう感じさせてもらう事にした。
間もなく、ここに妹が一人でやって来る。双子の姉の方。つまり次女。旧姓・万条 マヤが現れる事になっている。
事情は、既にすべてを理解出来ていた。会津国際空港へ到着すると同時に、夫の八十治から2セットの電子書類がスマホに送られて来た。
それは、宮城県の松本医学大学病院の診断書。そして、朝間ナヲミの元・主治医である天叢雲会病院の宇留島博士の診断書と手書きの私見だった。
珍しい事に、それらの電子書類が何であるのかを示す要約的な解説、更にそれに対する本人の私見を夫は一字も寄こさなかった。文章欄は空白。まるで、この件に関しては、自分で判断せよ。または、自分が口を挟むことが不適当、または建設的でないと言う意思表示だったのかも知れない。
万条 菖蒲は、その全貌を知り、タクシーの車内で頭を抱えたい気分に陥った。夫が自身による評価を避けた意味が良く分かった。ムカつくほどに、適切に空気を読んでいる。彼女は、その賢さに八つ当たりすると言う抜け道を見出したくなった。
ーーー内容は、絶望そのものだった。
しかし、本当に絶望する資格があるのは彼女ではなく、次女ただ一人である事を繰り返し思い起こす事で、何とか対面気にする正気を保ちながら帰宅した。
「人生は、本当にままならない・・・」
万条 菖蒲は、囲炉裏の横で膝を崩れてしまいたいと言う誘惑に駆られた。しかし、玄関の外床にスーツ・ケースを放置して来た事を思い出して、重い足取りで来た廊下を引き返す事にした。
万条 菖蒲は、胆力を取り戻し、本来の自分へと戻り始めていた。
※1= イタリア語で「美味しい」と言う意味の形容詞であるらしい。当時の日本人は、その外国語の形容詞をとある食料品メーカーのCM映像を通じて学んだ。もしかしたら、その世代の日本人にとっては、ご存知である唯一のイタリア語かも知れない。きっと、今でも多くの老人達がアレを記憶の奥底に留めているかも知れない。キャバクラでホステスがその話を振ってみれば、大変に盛り上がるかも知れない。次回の紳士のご来店時に御指名いただけるくらいに。
※2= 当時は分割払いは最大36回(35カ月間+1カ月)だった。月々の返済額を減らすために、まず最初に貯金をして、その貯金(出来れば購入額の半分)を頭金をして納めるのが賢いとされていた。現在の様に、返済開始前から死ぬまで支払いを続ける様な返済プランは一般的ではなかった(返済不能となって利子が膨らんだり、永遠に利子だけ支払いを続ける羽目に陥る人は沢山したけどね)。




