蝉と冷やし中華。
万条 菖蒲は、双子の妹達の食事には相応の情熱を発揮していた。一般的な常識で言えば、相当に意識が高い部類に属していた事は間違いない。それは、揶揄の対象であるファッション的な「意識が高い」ではなく、心の底からそうでなければ先だった母親に申し訳が立たないと言う崖淵に立つ精神に支えられていた。
だから、もし、その方針が揺らぎ事があるとすれば、本人の意志ではなく、経済的な選択の自由を失った場合、または食材の供給システムなどのインフラが崩壊した場合に限られた。
まず、双子の妹達に、偽物や手抜きの食事が、この世界の一般的な食物であると言う誤解を与えたくなかった。
忙しいからと言って、愛のない食卓に座らせる事は出来るだけ避けたかった。
そして、食卓に愛があるかないかは食事の質と、参加するメンバーで測れると悟らせたかった。
特に、価値観を形成する幼児期には、一切の妥協が許されないと信じていた。
そうあるべきとする根拠は自らの幼児期の体験にあった。
少なくとも、母は長女に対してその様にしてくれた。
だから、次女と三女である、双子の妹達も同質の配慮を施されて然るべきだ。
以上のドクトリンに従って、万条 菖蒲は、食卓のあり方を定めている。
そして、今は、双子の妹達のために夏の定番メニュー"冷やし中華"を作っている。沸騰したお湯に、駅前のスーパーで買った"冷やし中華"のパッケージに入っていた生麺を、十分にほぐしてから放り込む。茹で上がるまでの僅かの隙を突いて、麺の上に散らすキュウリの千切りを、だだだだっ! と手際よく仕立て上げる。
続けて、ダイソーで買ったボールで卵を溶く。急いでいるので、ホイッパーを使わずに菜箸でそのまましゃかしゃかと。しかし、錦糸卵の最初の一枚目を焼き終えるまでの余裕はなかった。長方形のフライパンにごま油を垂らしたところで、麺を茹でる鍋の下のレンジに火を止める。ここで茹でるのを止めないと麺が、茹で過ぎで麺に似た何か違う食べ物になってしまう。
そう言うのは、幼い妹達に「麺という物は美味しく無い食材である」という誤解を与えかねないにで駄目だ。情操教育上、大変によろしくない。それに農家や麺工場で働く皆さんにも申し訳が立たない。
火を止めた直後に、茹で上がった麺をお湯ごとシンクの中にある金網のザル目掛けて、ぶちまけて湯切りをする。その上に冷凍庫から取り出した氷をぶちまけて、水道水を掛けて麺を締める。
強制的に粗熱を取った後で、ごま油を垂らして麺に絡ませて、少しの間だけ冷蔵庫の特等席で出番までお待ち願う事にする。そして長方形のフライパンを小さめのレンジの上に乗せて、熱を加えてごま油を十分に引き延ばしてから、火を弱火に調整して、溶き卵を慎重に薄く敷き伸ばす。すぐに焼き終わると、それを大きめの皿に移す。そして、次の溶き卵を敷く。焼く。それを幾度か繰り返した後、すべてをまな板の上へ移動して、重ねて、多少サイズにムラのある細切りにする。
最後に、ハムを五枚を重ねて、繊切りにする。これで、麺を飾る具の準備は整った。
麺を三枚の大皿と一枚の小皿に分けて、その上に錦糸卵、キュウリの千切り、ハムの千切りを乗せて、麺に付いて来た出来合のスープを上から半分、横から半分に分けて掛ける。
これで昼食の準備はお終いだ。このためだけに、万条 菖蒲は小美玉の学校から、鉾田市にある自宅まで折り畳み自転車とバスを乗りついで帰宅した。妹達と食事をしたら、また学校へ戻る予定だった。姉業が終わったら生徒会長業にジョブチェンジ。生徒会長業の方では、会津校舎再建の金策、生徒間の意志調整、さらに学校運営側との折衝など・・・多忙を極める身である。
それでも、万条 菖蒲は一刻で終わる昼食のためだけに帰宅した。彼女は、自分の妹達の育成を、会津校舎再建の金策、生徒間の意志調整、さらに学校運営側との折衝よりも、もっと上位の優先事項と定めていた。もし、妹達の育成の障害となると判断すれば、彼女は間違い無く姉としての義務を優先して、生徒としての義務を放り出して憚らない事は疑う余地が無かった。少なくとも本人はそれを微塵も疑っていなかった。
盛り付けが終わった三枚の大皿と一枚の小皿を見下ろして、万条 菖蒲は、自らの作業に合格点を付けた。本当は、もう少し野菜を増やしたかったが、繊維類とビタミン類の摂取は夕食で挽回しようと決めた。
彼女は、実母が双子の妹達に対して果たせなかった義務と権利を、父親ではなく自分が相続したと言う強い自覚があった。実際、中学時代、妹を背負って登校するなどの問題を起こした事もあった。今では、それはやり過ぎだったと、本人も笑いながら認めるだろう。しかし、あの頃は、彼女にそれ以外の選択は思い付けなかった。あまりにも必死過ぎてバランス感を欠いていたのだ。
そして、その母親代わりの「ねーねー」は、その日・・・何度目かの声帯が許す限りの大声で双子の妹達を呼び付けた!
「マヤっ! アイっ! 何度呼ばせるのっ! ご飯出来たっ! すぐに食べなさいっ!」
しかし、何時になってもキッチンに併設される食堂に現れない。自分が本気で怒れば、双子の妹達が従わない事まで今までなかった。違和感、それも嫌な感じの方を抱いて、万条 菖蒲はエプロンを外して、両手に付いた水分をそれで十分に拭き取ってから、双子の遊び部屋へ向かった。
やはり、予想通り、マヤとアイは遊び部屋にいた。部屋に散らばった積み木を踏まないように酒ながら、二人に近付くと・・・小さな木箱を前にして、二人が半泣きで座り込んでいる。
「どうしたの、何かあったの?」
間違い無く何かあったと確信して、二人の正面に膝を付いて視線を二人の高さに合わす。
それでも二人はなかなか、何かを言い出せない。どうやら、持て余すほどの大きな驚きと言うか、理解しがたい不条理に見舞われた様なのだ。
「怒らないから、何でも言ってみなさい。ねーねーが出来る事なら何でも助けてあげるから」
それを聞くとマヤとアイを顔を見合わせた後、マヤが二人の目の前にあった小さな木箱の引き出しを開けた。
「ごめんなさい」
「セミさん動かない」
万条 菖蒲が、二人が差し出した木箱の引き出しの奥を覗き込むと、そこには緑色の線の入った大きな蝉の死骸があった。ミンミンゼミだろうか? 全ての足をくの字に曲げたまま腹を出し、羽根を下向きにして転がっていた。
「セミさんどうしたの?」
咎めている訳で無いと、優しい口調になる様に努力しながら、尋ねてみた。
「昨日捕まえた。明日遊びに来る、はーねーちゃんをなをちゃんに見せ様と思った」
「朝は動いてた。さっき見たら動かなかった」
マヤとアイは二人で一人分の情報を姉に伝えた。この時の二人は、「ねーねー」を全知全能で、神様とほとんど同じ事が出来るんじゃ無いかと疑っていた。何故なら、二人に素敵なモノをもたらしてくれるのは、常に「ねーねー」だったからだ。
「ねーねー、お願い。セミさんを助けて」
「そしたらすぐに逃がしてあげるから」
それを聞いて、さすがの万条 菖蒲も狼狽えた。流石の彼女にも出来ない事はある。しかし、何より大切な妹達の願いを叶えてあげたい。しかし、それを為す術はない。もし、そんな事が出来るなら、今すぐにでもしてあげたかったのだが・・・。
話題を逸らして、これを無かった事にしたいと言う誘惑に駆られた。それは、現実逃避というストレスから逃げるには極めて有効なテクニックだ。しかし、救いを求める視線に対して不義理は出来ない。自分だけ救済されれば良いと言うものじゃない。
自分は、双子達は考えるほどに全能に近い存在でない事を、そろそろ伝えるべき時期に達したと悟るしかなかった。それは妹達の期待を激しく裏切る事である筈だ。今後しばらくの間、姉妹の関係が少しぎくしゃくするかも知れないと覚悟するしかない。何より嘘を付くのが一番良くない。この小さな戸惑いの二乗(^2)を、騙す事だけはあってはならない。
ねーねーである万条 菖蒲は、双子を残して世界を去って行った実母なら、きっともっと上手く対処出来たんだろうな、とまだまだ子供である自分を不甲斐ないと思った。しかし、今そこにいるのは自分一人だ。だから、今自分の手の内にある選択肢の中から対処方を選ぶしかなかった。
「マヤ、アイ、良く聞いて」
「はい」「はい」
「セミさんは死んでしまいました。死んでしまった生き物はもう帰ってきません。だから・・・生き返らせる事が出来ないの」
「なんでっ?」「うそ」
マヤとアイにそれは承服出来ない不条理だった。今まで、ねーねーは破れた服も、壊れたオモチャも、何だって直してくれた。なのに、セミだけ"直せない"のは意地が悪いと思ったのだ。
「生き物には魂がある。魂のない物なら何度でも直せる。でもね、魂がある生き物は一度魂が消えてしまったらもう、直せない・・・一度切りの生命なの」
「ちゃんと言う事聞くから」「今日のオヤツも入らないから」
マヤとアイは出せる限りの譲歩を、姉との交渉のテーブルに載せて来た。交渉の冒頭から、出せるカードを全て出し尽くすのは絶対に上策ではない。それは父親が彼女にだけ施す特殊な教育の世界では、常識中の常識だった。もし、その世界でそんな事をするヤツがいうなら、それは間違い無く詐欺がブラフだった。
しかし、妹達はそんな殺伐とした世界の住人では決して無い。姉はそれほどに妹達が追い詰められていると承知するしかなかった。承知した途端に、妹達の悲しみと戸惑いが彼女の胸を深く剔る。外傷が全くないの胸が本当に痛い。
その痛みに負けそうになる自分を自覚すると、自分で自分のケツをひっぱたいて、無理矢理に前に進ませるしかないと・・・薄れて逝く理性が悲鳴を上げる。
「ごめんなさい。それでも出来ないの。ねーねーにはその力が無い」
そう言って、双子の妹達を抱きしめる事しか出来ない。抱きしめると母親似の、双子達の栗色の髪の柔らかさを頬で感じる事が出来た。それは父親似の自分が受け継げなかった"良いモノ"だった。
双子達の栗色の髪の柔らかさを頬で感じていると、少しだけ胸の痛みが安らいだ。本当に少しだけだったけれど。人はそれを救いと呼ぶのかも知れないと、17才の女子高生はその日の経験を通じて学んだ。
双子の妹達に、今はもう居なくなってしまった実母の面影を重ねてしまった。それを妹達に対して申し訳なく思うと、ついつい涙が目尻から滲み出てしまった。
そんなねーねーの様子を見て、マヤとアイは、さらに混乱した。もう、蝉の話どころの話ではなくなっていた。想像以上に大変な事態になったとショックを受けて、ねーねーの腕の中で、ねーねーと一緒にわんわんと泣き出してしまった。
そして、マヤとアイはその日、刺激的な経験を通じて、二つの事を学んだ。
ーーーねーねーは何でも簡単にできる超人ではないのに、頑張って自分達にいろいろな幸せをもたらしていてくれた事。
ーーーそして、世界には絶対にしていけない取り返しの付かないことがある事。
一通り泣いた後、セミの死骸は一度小さな木箱に収納して、三人は不思議な食感になってしまった冷やし中華を黙って食べた。
そして、食後にマンションの裏手にある富士浅間神社の境内まで行って、三人で大きな銀杏の根元に穴を掘って、蝉の死骸を埋葬した。
「かわいそうなことをしちゃった」「もうむしつかまえない」
双子は揃って深く反省している様だった。その様子を見て、再び冷静さを取り戻した万条 菖蒲は二・三点の情報的修正を加える事にした。
「つかまえても良いの。でもね、昼に捕まえたら夕方に離してあげて。明日になったら、また元気になった虫を捕まえれば良いの」
「うん」「そうする」
「そうしてあげて」
「それから」「今度はもっと優しくする」
「そうね。優しくね」
その日、万条 菖蒲は学校へ戻らなかった。副会長に電話を一本入れて「家庭の事情で動けない」とだけ伝えた。彼女は、それ以上は有無を言わせずに通話を切った。続いて、電話機の電源を落とした。
そしてその日だけは、双子の妹達が夢落ちするまで、高校の生徒会長職は中止して、優しい"ねーねー"専従の自分で居てあげようと誓った。