吾三十(前)而志于学。
三十(を前)にして学に志す。
ーーー私も、何か凄い事に挑戦しないといけない気がするの!!
私、森 朝顔は、旅客便の乗り換えの為に降りた羽田空港ターミナル2でバッタリと出会して、「折角だから」と予約便をキャンセルして、わざわざ私の隣の席を予約して搭乗してくれたマヤおば様に対して、「ちょっと」はとても言えないくらいに荒ぶる興奮を上乗せして断言してしまった。
その時の私は、失礼なくらいに瞳孔が開き気味で、さらに鼻息も相当に荒かったに違いない。
そんな自分の様子を客観的に見る機会にでも恵まれてしまったのなら、多分即座に死にたくなってしまう。
この年齢になってなお、我が壮大な黒歴史に新たなページを刻んでしまうとは・・・。
(マヤおば様が、録画機能を搭載する義眼置換者でなくて、本当に良かったと思う)
国内線の旅客機が会津空港へ降りる直前に、そんな取り留めのない戯れ言を聞かされたマヤおば様は、途端に目を丸くして、何事かとばかりに軽く瞬かせた。多分、物凄く驚かせてしまったのだ。
"私も"と言うのは、勿論、憧れのお姉ちゃんみたいに、と意味が多分に含まれている。
私が何を言いたかったのか、いろんな含みもまとめてキチンと伝わった様たが、私が何を伝えたかったのかは全く言っていなかった。
それも当たり前だ。余りに前途洋々且つ意気揚々過ぎて、にも関わらず断言した話が余りに漠然とし過ぎていて、伝えるべき何かが、私が発した言葉には何一つ含まれていなかったのだから。
意気込みだけが凄くて、その一方で、その内容は皆無だったのだから仕方がない。せめて、内容が薄いくらいに留まっていてくれれば、まだ言い訳のしようもあったのだろうけれど。
マヤおば様は、きっと、思わず実年齢を忘れさせる私の子供っぽさ、と言うか私の年相応からは程遠い幼い外観に振り回される方向で圧倒された事だろう。
もしかしたら、断言の本質が意気込みだけだった部分に、年少者らしい微笑ましさを見出せたかも知れない。しかし、二十五才を超えてなお、若者の特権にすがるのは個人的には不本意極まりない。
きっと、マヤおば様の価値観で測れば、十代も二十代も同じ。精々微差しか違いのないガキンチョ同士であるのだろう。彼女の様に、精神的に切った貼ったの様な職場環境では、今の私でも一〇年前の私でも、等しく使い道がない点では変わりがなさそうだし。
私だって、早くみんなに認められる大人になりたい。努力はしているつもりだ。キチンと納税だってしてるし、運転免許も自分で貯金して取得したし、ゴミの日の分別はしっかりとやっている。しかし、肝心のお姉ちゃんの背中は視界に入るどころか、どこにあるのか検討も付かない程に遠く感じる。
あのお姉ちゃんと、いつか、並んで歩きたい。物理的ではなくもちろん社会的にだ。
これではいけない。分かってはいるのだ。人生の華である「20代」も、既に折り返し地点に差し掛かっているにも拘わらず、まだまだガキっぽさをぜんぜん払拭出来ていない。
だから、きっと、マヤおば様は二十歳そこそこのガキに、ついさっき思い付いた理想論でもされから聞かされるとでも感じたのだろう。
先ほどの断言は、実はついさっき思い付いた・・・つまり、ついさっき思い立ったではないのだ。幼い頃から抱き続けている念願中の念願である。しかし、何を以て並んで歩くのか、並び立つ手段をこの年齢になっても見当も付いていないのが痛い。
ーーーそれでも、私は自身を止める事が出来なかった。
どうにも内から沸き上がって来る、とても強くて重い衝動を抑える術を知らなかった。だから仕方がない。しょうがない。回避しようがない。だから、軽い事故である。不運な事故なのだ。そう言う訳で、一回くらいなら許してもらえる筈でしょう。
マヤおば様は、他人とは思えない程に私を愛して、気に掛けてくれた"万条 菖蒲おばさま"の実妹だ。長女であるおばさまとおば様は年齢差が一回りもあったので、今頃になってやっと居なくなった頃のおばさまの恰幅に近付きつつあった。
(万条おばさまの方が体つきはやや少し細く、手脚はもっと長かったけど)
私は、つい、さっき、種子島で星の世界へ旅立つ"お姉ちゃん"を見送って来たばかりだ。
意味深な「星の世界」や「見送る」ではない。文字通りの一時的な別離の挨拶をして来ただけである。
実は、私が大好きな、そして目の上のたんこぶ的なお目付役であった森 向日葵が、3時間ほど前に月軌道プラットフォームゲートウェイ(Lunar Orbital Platform-Gateway)へ向かって旅立ったのだ。
ーーーそれも、物凄く大きなロケットで売り上げられて。
そのロケットには、人間を乗せさえしなければ、相当に重い貨物を月周回軌道まで運んでいける程の性能があるとか。昔、古い方の"ちーちゃん"が言ってた。ロケットに人間や構造的に脆い荷物を載せてしまうと、ロケット本来のフルパワーで空を飛ぶと、勢いが強すぎて「グシャッ!!」と潰してしまうとか。人間を潰さないギリギリの勢いを絶対を越えない様に飛ばさないといけない。だから、積載量が本来が運べる量よりけっこう軽くなっちゃうと。
ーーーお姉ちゃんが完熟して地面に落ちた柿の実みたいに、「グシャッ!!」と潰れなくて本当に良かった。
私は、ロケットの打ち上げ成功と、更に高いところへ行く為の軌道遷移加速にも成功した事を確認してから、二人の母さんに電話で打ち上げの成功を伝えた。
ーーーまるで、自分の事である様に物凄い強気になってだ。
何事にも優秀なお姉ちゃんは、ナヲ母さんの業績を継ぐものと思ってたら、ちょっとだけ近くてだいぶ離れた職種を選んだ。
自慢の姉が自身の生涯の仕事として選んだのは、事もあろうか「宇宙飛行士」である。それも、激しい選抜試験を潜り抜けて、最も厳しい選抜作業の先にある「宇宙パイロット」に成れてしまったのである。
今回の飛行ではまだ「副操縦士」だ。しかし、しっかりと経験を稼いだ後に「機長」を目指すのだろう。
私が見るに、お姉ちゃんの将来には頭をぶつけて痛い天井が存在していない。そうと言うネガティブな概念をもたらすのに不可欠な、凡人には有り触れた挫折体験を持ち合わせていないんじゃないかと思える。望みさえすれば何でも出来る。何にでもなれる。何処へだって到達出来る。
もしかしたら、お姉ちゃんにも天井はあるのかも知れない。しかし、それはきっと、私にはどれだけ背伸びしても、目をこらしても見えない程の高い空の向こうにあるに違いない。
ちょっと羨ましい。
凡人に生まれた自分の運命が憎い。
本当なら私だってお姉ちゃんと一緒に遠い遠くへ行きたい。しかし、それは無理な相談である事は分かっている。自分の掌を見る。なかなか消えてくれないボールペンのインクの跡とカーボン紙で指紋が少し焼けた跡が見透かせる。
私の職業は民間病院の事務員。しがない民間企業のサラリーマンだ。つまるところ、キャベツ畑で採れる兵士よりも掃いて捨てるほどに沢山の代替や予備が用意されている有り触れた一般人である。
だから、お姉ちゃんを見送る事しか出来ない。
他人であれば、ただ夢を託せば良かった。きっと喜んで私の夢を受け取ってくれただろう。もし、そうできればもっと楽だったろう。
しかし、それはどうしても出来なかった。無理だった。だって、お姉ちゃんは家族なのだ。生まれと時から、ずっとずっと必死で追い掛けていた人なのだ。だから、託すんじゃなくて、夢をどうにかして分かち合いたいのだ。
四人家族の我が家では、お姉ちゃん一人だけでなく、二人の母達も何者かになった人である。私一人が常に取り残されて来た。中学時代に三年間の全てを猛勉強に費やして、家族三人が卒業した志望高校に、ほとんど補欠合格と言う為体でなんとか入学したばかりの頃には、けっこうそれを辛く思って、その挙げ句に燃え尽き症候群に陥っていた。
(だいたい。お姉ちゃんは主席合格で、入学式で祝辞まで述べていた)
どれだけ頑張っても、本当に限界ギリギリまで努力しても、手が届く範囲が近過ぎる。お姉ちゃんと比べると手前そのものだ。すぐに指先が天井に当たって、突き指しそうなくらいに激しく跳ね返されてしまう。
今は居なくなってしまった古い方の"ちーちゃん"は、それを「挫折」と言う経験だと褒めてくれた。あの人も、二人の母達と同じで何者かになった人だった。しかし、何者かになった人であっても、生来ずっと抱えている「人生の苦悩」の方は何一つ解決しないのだ、と臆面もなく告白してくれた。
ーーーそれの何が悪いのか。と自身を誇りながら。
だから、何者かになった人と何者かになれない人が、互いに背中合わせで、互いに想いを預け合って生きる事が出来たのだ。
御陰でお互いに寂しい想いをせずに済んだ。
天才であっても、一般人であっても、いずれの枠から外れても、人間として生まれた以上は、相当の苦悩を背負わされて生きなければならない。場合によっては、天才が背負わされているそれは、そうでない人が背負わされているそれ以上に圧倒的に重い場合が多々あるとも、概念ではなく、もっと確かな認識で受け止めている。
今では。すべては、古い方の"ちーちゃん"の御陰である。
しかし、何でポンコツな私が森家の代表として、お姉ちゃんの晴れ舞台を祝う為に九州の先にある種子島まで出張ったのか。それは、宇宙ミッション・プログラムの一貫としてである。
現在の宇宙ミッションでも、合衆国の慣例に倣って、宇宙に打ち上げられる宇宙飛行士は打ち上げ直前の24時間、或いは決まった時間だけを家族やパートナーと過ごせる事になっている。
でありながら、種子島のすぐ隣の島(馬毛島)にいる筈のナヲ母さんは、ちょうど今も大きな船に乗って何処かの海を漂っているそうだ(何処にいるかは秘密事だそうで、五大洋のどれにいるのかも私にもさっぱり分からない)。そして、ハコ母さんは、タイミングが悪いことに上司の宇留島博士と一緒に合衆国へ開かれている何かの学会に参加中。
そんな事情で、森家の味噌っ滓である私が、家族を代表してお姉ちゃんを見送る人間として"種子島宇宙センター"まで出向いて来たのだ。
だいたい、どうして「タローさん」を呼ばなかったんだろう。ドゥクパ王国じゃ遠過ぎる? それとも日本国籍者じゃないとシステム的に不味いのかな?
そんなイロイロを考えながら問診票に答えたり、複数の抗体検査を受けて行く。
お姉ちゃんのいる制限エリアへ辿り着くまでに、沢山の健康チェックを通過した。それだけですごく疲れた。
折角の晴れ舞台に、私なんかが一人だけ駆け付けて、お姉ちゃんが心底からガッカリしたりしないかどうかが心配だった。でも、想定外にもとすごく喜んでくれた。そして、打ち上げまでにたっぷりと残された時間を使って、久しぶりにいろんな話をする事が出来た。きっと、十年分くらい積もり重なってしまってでっかい山となっていた互いの想いを交換・整理して来たのだ。
私が高校生になった頃から、お姉ちゃんは遠い人になってしまった様な気がしていた。大学生になった頃には、もう雲の上の人みたいに感じてた。その後は、もう、住む世界が違うみたいな。
ナヲ母さんと同じで、お姉ちゃんも学業を終えてからは家族にも話せない体験を重ね始めるに至って、遠くからこっそりと応援する事しか出来ない「手が届かない人」になってしまった、ともう半分くらいは諦めていた。
しかし、お姉ちゃんとしてはそうではなかったみたいなのだ。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、私を取り囲む状況の変化に戸惑っていたと言うのだ。特に万条 菖蒲おばさまが亡くなられた頃からは、私の知らないいろいろな出来事が私の知らない所でたくさん起こっていたと言うのだ。
もちろん、何が起こっていたのかは、お姉ちゃんも詳細は知らない。知っていても教えてはくれないだろうし、それ以上の突っ込みは止めておいた。
マヤおば様は、私の勢い任せの宣言を聞かされた後で、少しの間静かになって深く重い考え事を脳味噌をフル回転させながら処理している様に見えた。
私は、マヤおば様が私に返す社交辞令選びに艱難辛苦している様子に気付いた。そして反省する。
適当に、「ま、頑張りなさい」と在り来たりの返答でお茶を濁してくれれば良いと願った。そして、あまりに長々と悩まれると、変な勢いに任せて、まるで酒に酔った様に空虚な大言を吐いてしまった自分の浅はかさがどんどん嫌になって行った。
ああ、過去に戻りたい。そして、全てをなかったことにしてしまいたい。
お姉ちゃんなら絶対に、こんな呆れられてしまう様な大仰なバカはやらかさないんだろうなぁ。
滑走路で減速中に旅客機の座席にいた。だから、その場から逃げ出す事も出来ない。私は今座っている窓際の座席が針のむしろの様に感じられた。
旅客機がターミナルに横付けされる。ドア・オープン。機内の管制権が機長から地上管制側へと譲り渡される。回りの乗客が通路を通って機外へと出て行く。
マヤおば様は、通路側の席に腰を下ろし続ける事で私を通せんぼ。
「良いんじゃない。何か凄い事。絶対に挑戦してみるべきかもね」
逃げ出したくて困っている私の目を真っ直ぐ見詰めて、マヤおば様は力強く応えた。
ただ、応えたのではなかった。
福島四区の代議士は、友人の娘に向ける顔ではなく、度重なった地獄を潜り抜けて来た政治家の顔で応えたのだ。
「私は。いいえ。私だけでなく、姉の「菖蒲」と共に、貴女が自分の意思で立ち上がる日がいつか巡ってくるだろう事を・・・心から願っている」
マヤおば様は、通路側の席から腰を上げて、奥の席に座っていた私に通路への道を示してくれた。
「朝顔ちゃん。貴女にはいくらでも挑むべき運命が用意されている」
私は、普段とは少し雰囲気が違ってるマヤおば様の言動に怯んだ。しかし、誘導されるままに、もぞもぞと通路へと身体を移動させた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
マヤおば様は、もう普段の感じに戻っていた。
さっき、別人の様に感じてしまったのは誤解が何かだったのだろうか?
「望みさえすれば、貴女の道は必ず開かれる。忘れないで。人生と言うものは、自分が望んでいるよりも遙かに短いのかも知れないのだから」
マヤおば様が、ぼそっと呟いた。その言葉は、暗殺で命を落とした彼女の姉を指していたものだったのかも知れない。それとも、持病の悪化であっと言う間に鬼籍入りしたばかりの古い方の"ちーちゃん"の事を指していたのかも知れない。
ーーー万能と思われていた遺伝子コンピューター治療の限界を、世間様に向かってあからさまに知らしめた。
確かにあの二人は、あっと言う間に短すぎる人生を極めつけの早足で駆け抜けて行った点だけは同じだった。私から見れば二人とも揃って、後世の人々に誇れるには十分過ぎる程に巨大な業績を残した上の退場だった。だから、思い残す事など何もなさそうだった。
ーーーしかし、そうではなかったのかも知れない。
そんな「If」を、私は初めて思い付いてしまった。だとしたら、思い残したものとは何だったのだろう? 私も将来的に二人がいる世界へ向けて今生から退く時に、思い残しによる無念に捕らわれるのだろうか?
心底からぞっとした。
ーーー私は本当に未だに何一つ成し遂げていない。そして、未だに成し遂げたい事など何一つも持ち合わせていない。
ちょっとした眩暈を感じた。中央席群の背もたれに左手を向けて身体を支える。
「怖れる事は何もない。貴女でなければ出来ない事などいくらでもある」
マヤおば様が、物理的に私の背を強く押してくれた。
それで、精神的な金縛り状態が突然に解けた。一皮剥けた。黄昏れていた昨日に決別して、明日、ただし未明を迎える事となったのだ。
「目をこらして回りを良く見て見なさい。貴女が属している社会の、良いところと悪いところの両方をしっかりと把握するところから始めなさい」
ちょっと恐かったけれど、私はなけなしの勇気を注ぎ込んで振り返った。すると、そこはマヤおば様の本当に嬉しそうな笑顔があった。
「私、二人のお母さんも、向日葵ちゃんも、みんなみんな、貴女を支えたいと願っている。それを忘れないで欲しい」
「はい・・・。分かりました」
空港の制限エリアの出口のところで、私はマヤおば様と別れた。マヤおば様は秘書のクルマが迎えに来ていると言う。家まで送ろうかと尋ねられたが、親友の新しい方の"ちーちゃん"が買ったばかりのクルマで迎えに来てくれているので断った。
私は、そのまま空港の搭乗階の自動車停車場へと向かった。新しい方の"ちーちゃん"が、駐車場料金をケチるので、無料で空港敷地内へクルマで入ってこれる送迎スペースで合流しなければならないのだ。
ターミナル屋内のエスカレーターで二階へ登って、入り口から屋内へと入ってくる搭乗客の流れに逆らって何とか屋外へ出ると、高校時代からと言う付き合いがとても長い悪友が待ち構えていた。
お互い、こいつがいたから高校三年間をボッチで過ごさずに済んだと考えていた。
この私との腐れ縁の女は、ナヲ母さんと同じく全身擬体保持者だ。私と同じ病院に勤めているが、経理部に就職した筈なのに、今では人事部へ異動させられた。運動面では今でも昔と変わらずに大変に鈍くさいのだが、頭の回転の方は速く、目の付け所もそこそこに鋭いらしい。備品管理の事務作業だけを担当している万年平社員と違って、幹部コースへの潮流に上手に乗る事に成功したに違いない。
「おかえりー。向日葵先輩どうだった?」
「あー。格好良かったよ−」
私は小さなスーツケースを、悪友のクルマの後部トランクに放り込む。
「食事して行く? それとも直帰?」
助手席に潜り込んで、シートベルトを締めながら応える。
「お茶かな。ルクラ・バックス、擬体用の新コーヒー・フレイバー出したんでしょ?」
新しい方の"ちーちゃん"は、ルームミラーとサイドミラーを覗き込みながら、方向指示器を出して、クルマをゆっくりと発進させる。
折角、フル機能の第二小脳搭載型の擬体なんだから、電子ミラーと360度監視センサー搭載オプション車にして、義眼経由でなく意識へ直接に情報を書き込ませれば良いのに。その方が楽だし安全だ。いつもでもそう感じる。しかし、本人は「この方が人間っぽいでしょう?」と言って私の話を聞かない。
きっと、オプション設定の料金が高めな事が気に入らなかったに違いない。
「じゃ、駅のショッピング・センターにクルマ突っ込むね」
「大嫌いな駐車料金取られるじゃん」
「クルマ替えたから、もう大丈夫」
新しい方の"ちーちゃん"は、フロントガラス左側に見慣れぬQRコードのステッカーを左手で指した。
「新車買う時、身体障害者手帳の認証データを国土交通省に登録してもらった」
「何それ?」
「前のクルマは中古だったから出来なかったけど、新車登録の特権。私の"級"だと公共施設での駐車料金は無料になるの」
「あー。うらやまー」
「空港だと、搭乗者がそのまま何日もクルマ置いて行っちゃう問題があって、今では使えなくなっちゃったけど」
「一部の意識低い人って迷惑ねーーー」
「自分達がその一部として数えられない幸運に、心から感謝しようよ」
私達はそれからしばらく車内で大爆笑した。きっと、交差点で隣に止まったクルマの搭乗者達の目には、ガラス越しに見えた私達の様子が意識低い低モラル若者にしか見えなかった事だろう。
爆笑に飽きた頃、マヤおば様との会話の事を思い出した。そこで、マヤおば様に言ったのと同じ宣言を悪友にも伝えてみる事にした。反応にどんな違いがあるかを確かめてみたくなったのだ。
「ところでね、私もお姉ちゃんみたいに、何か凄い事に挑戦しないといけない気がするの!!」
悪友の、擬体が二次的に浮かび上げる表情からではなく、空気を伝わって微かに漏れ出て来る、魂の何かの反応っぽい本音中の本音を捉えようと、必死になって精神的な感覚器官のアンテナを研ぎ澄ます。
物心ついた頃から全身擬体のナヲ母さん、さらに高校〜大学時代をずっと一緒に過ごして来た第二世代型の全身擬体保持者の友人を持つと言う希有な経験を持つ私だからこそ、何となく分かるのだ。
他の人にこの事を話すと、大抵の場合は「そんなバカな」って言う表情を浮かべて応じるものだけれど。しかし、この直感が意外に当たるのだ。
実のところ、裏腹なことを言い出したならこっちの方の"ちーちゃん"をとっちめてやろうと思っていた。だが、それは全くの杞憂だった。
「当然じゃない!!」
悪友は、さも当然と言う感じで応じた。何の揺らぎもない。心に一点の曇りもない。心も体が完全に表裏一体の意思表現だった。
「へ?」
「アサガオはさー。絶対に生きている間に何かする人だよ。高校の頃から何となくそう思ってた」
「そうなの?」
「だいたい、あの廿里博士が喋ってる事を理解出来るだけで凄過ぎ」
「え?」
「廿里博士のあの煙に巻くような話し方、取り留めがなさ過ぎて・・・困って、何時だったか第二小脳に搭載されてる人工知能に分析させた事あるの。アレは絶対に故意でやってるよね」
私には、悪友が言っている事は実感を伴わない。でも、他の人も同じ事を言っているのも知ってる。
「で、どうなった?」
「人工知能が根を上げた。入力言語を日本語以外に選択する事を求めて来たよ」
私は、あまりに想定外の顛末を聞かされて驚いた。
「何それ?」
「言葉の選び方とかアクセントに抑揚の付け方。ごめん。今だからこそ言えるけれど、全部が何かがどこかがおかしい。でも、おかしい部分を指摘出来ない。多分、あの人と世間話して、会話が弾んで、素直に大笑い出来るのはきっとこの国にはアサガオ一人だけだったんじゃない?」
「そうだったの?」
「そう。だから、"博士の日記帳"を普通に読めるのアサガオだけなんじゃないかな?」
「ふーん」
悪友は、ショッピング・センター屋上までグルグルとしたコースをクルマを登らせる。最後に、身体障害者優先枠だけは避けて駐車した。スーツ・ケースはトランクに残して、手ぶらでコーヒーチェーン店のルクラ・バックスへ向かう。
ちょうど開いていた外が見える窓側の席に着いて、タッチパネルを使ってコーヒーをオーダーした。すぐに、デリバリー・ロボットが注文した品を運んで来てくれた。
21世紀初頭では、黒魔術の呪文と言うか、プログラムの命令指定分のスクリプトじゃないかと疑いたくなる難易度の高い注文を熟せる事が、"陽キャ"の証しだと誇れたみたいな牧歌的な時代があったとネット・ニュースで読んだ事がある。
しかし、行く所まで行ってしまうと、スクリプト・エラーを生じさせる場面がじょじょに増えてて行った。注文の仕方をミスったり、受注の仕方をミスったり。後で調べてみると両側でミスってたり。人間の処理能力の限界を明らかに越えてしまうところまで、黒魔術的注文文化が到達してしまった為だ。
今では、9割以上の顧客がタッチパネルを使ってオーダーする様になった。しかし、極一部のお歳を召された方達は、昔ながらの口頭での注文に拘って実行している。受注側は、カウンターに人間は立たせているが、実際の受注は聴覚センサーを持つ自動注文器の人工知能が担当している(無人でもOKなのだけれど、注文時に客の前に人間を立たせておかないと、その手の人々は共通して何故か分からないが烈火の如く怒るからだ)。
ある意味、究極の娯楽の一つとして完成したのだろう。そんな特殊な拘りを持つ人々は統計上の数字の上でもじょじょに減少して行き、最後には消滅へと到達するだろう。そして、古き良き時代の一つの完徹が密かに達成されるのだろう。
我が悪友は、紙製からナフサ材製へといつの間にか回帰したストローで新フレーバーのコーヒーを一口だけ試した。その後は、ストローで氷を突く遊びを始めた。どうやら、新しい風味はお気に召さなかったらしい。
まったく贅沢なものだ。ハコ母さんが聞いた話では、ナヲ母さんが全身を擬体へ置換した頃は、擬体用の飲食物はあればマシな方で、特に地方都市では選択の余地などなかったそうだ。
しかし、時代が進み、擬体の構造や技術は事実上の第二世代へと突入している。20年前にはまだまだSFチックだったサイボーグ技術を、現代社会では過去を知るものには驚くほどに柔軟に受け入れている。きっと、ナヲ母さんも今の時代に青春を迎えていれば、もっともっと苦労することなく楽しい時間を送れたに違いない。
そして、第二世代の擬体保持者達が当然と感じてタラタラと垂れている文句だらけの今の世界だって、ナヲ母さんを代表とする第一世代が足掻いて拡張した権利の上に成立しているのだ。
そこで、しかし・・・と気付いてしまった。近い将来に確実に誕生するだろう「第三世代」の擬体保持者達は、どんな日常生活を送れる様になるのだろうか? と。権利は拡張されるのか。それとも反動勢力によって振れ戻るのだろうか?
新しい勢力は、誕生して、社会から「勢力(既存勢力とは異なる)」と見做された以降は、普及や拡張面で必ず一進一退を繰り返す事になる。だから用心しなければならない。
焦らず急ぐ。少しでも多く進んで、少しでも少ない退きに届ける様に努める。相対的に、すこしでも良いから、必ず前に進まなければならない。
それの繰り返し。変化の後に反動が訪れるのは避けられない。だったら、反動で戻されながらも、幾分でも良いから前進していなけばならない。三歩進んで二歩下がる。これが鉄則。社会の変化はこうやって起こって、常識の一つへと取り込まれる(敢えて、それを"社会の進歩"とは呼びたくない)。
それが出来なければ、新しい勢力は漏れなく、必然的に過去に一時的にだけ実在していた勢力の例に倣って、一方的に整理された上で、風俗史の片隅へと追いやられて、整頓された後に消滅させられてしまう。
そんな事をつらつらと考えていると、私を執拗に呼ぶ声がする。
「で、アンタはいったい何に挑戦すんの? まず最初はさ」
「そうね。まずは社会貢献かなー。私が育って来た会津を盛り立てたい・・・なんちって」
そして、サイバー達を今以上に受け入れられる社会へと政治家達に舵を切らせられるようになりたい。ただ、それを口に出すのは憚った。何故か、今口にしてしまっては、すべてがウソになってしまいそうな気がしたからだ。きっと、時期尚早であるのだろう。
「良いね。私も手伝うよ」
「え?」
悪友が妙に乗り気に話を進めた。
「ちゃんとアンタの挑戦を手伝ってあげる。腐れ縁だから」
「本気?」
「マヂ」
「さんきゅー。お礼にここのお代は奢るよ」
「クルマ出してやったのに、割り勘のつもりだったの?!」
「いやいや・・・帰りにガス満にしてあげるから」
「やったー。ハイオクだ!!」
「もう、ハコ母さんみたいな事を・・・」
新しい"ちーさん"は良い奴だ。コイツといると、いろんな悩みを忘れてしまう。そして、お姉さんほどは無理にしても、ちょっとくらいの挑戦ならば上手に挑める気がして来る。
ーーーありがとう。
感謝は心の中で述べるに止めた。
こんな軽いノリで、私は、残りの生涯ずっと続く事になる二人三脚の片割れを獲得したのだった。
私はそう遠くない将来に、この悪友には絶対的に頭が上がらなくなってしまうのだ。
この時の私は、まだ知らなかった。
皮肉なことに、賢さと言う、行動規範としてのフェイル・セーフ機能を実装していない者だけが、特権的に溺れる事が許される「万能感」や「全能感」。などなど。
それらは、いろいろと多種多様にわたる、自己肯定感を一時的、或いは主観的に高めると言う一点においては実に類似した感覚。
第三者の目、客観的には、全てを諦めきった清々しさがもたらす刹那な解放感にも見える。
たった今、ここから始まる私達には、それらの異様な向上感はまったくもって無縁の感覚であった事を。




