はじまりとそのあと。 〜その陸
やたらに派手なクルマのテールランプが見えなくなった。
自宅の前に一人取り残されたシャノン・ツダヌマ予備役少佐は、庭の扉のセキュリティー・ロックをわざわざ手動解除して、旦那の全自動運転対応のクルマの横を通って家内に入る。
こちらの方の最初から鍵は開いていた。おそらく、旦那が気を使って解錠したままにしておいてくれたのだろう。実際、プライベート用のメッセージ・アプリやSNSアプリはすべてアンインストールされるか、ログアウト処理が施されていた。
もし、旦那が気を回していてくれなかったならば、ここでももう一度面倒臭い手動解除する必要があった(サイバー・ボディにインストールしてあった自宅用セキュリティー・アプリも、宇宙へ離陸する前に根刮ぎアンインストールされてしまった)。
何と言う先読みの正しさ。旦那は、イルマーリ・ユーティライナン大佐と違って見た目は良い男ではないかも知れないが、人生を共に過ごすパートナー、伴侶としては最高スペックを誇る。それを改めて確信した。
シャノン・ツダヌマ予備役少佐は、旦那を中心として自然発生しせているらしい、安心・安全とか言う謎のフィールドに包まれた。少なくとも、本人はそれに包まれたと認識した。そして、"予備役少佐"と言う本人としては、今となっては大した価値を見出していない肩書きを捨てて、ただのシャノン・イリーナ・ツダヌマへと回帰した。
結婚する時、もちろん旧姓をそのまま利用し続ける事も出来た。しかし、ドクター・ツダヌマの母国である日本国の伝統に沿えば、旦那か自分の家名を選んで、二人で揃共有して一体感を得る・・・と、一足先に旧姓を捨てた元・同僚から伝えられた。そいつら、合衆国人同士の結婚だった。
ーーーだったら、家名くらいは旦那を尊重してやろう。
日本国へ帰らずに、死が二人を分かつまで合衆国に自分と永住する人生を選んでくれた旦那への、尊重とは異なる、思い遣りと言う揺るぎない動機がその行動には込められていた。将来、もしかしたら授かる事が出来る様になるかも知れない二人の子供に対して、そうした方が父親の出身や由来を伝え易い、と妄想したからかも知れないが。
「ターダーイマー」
主婦シャノン・イリーナ・ツダヌマは、日本語で帰宅を告げた。しかし、旦那の返事はない。仕事の資料でも引っ繰り返しているのか、それとも仮想現実にダイブしているのか。サイバー・ボディに搭載されていた位置情報転送アプリも今はアンインストールされている。だから、旦那にも、今は自分がどこにいるのか知る余地がないのだ。
ーーーパーキング・オービットを飛行中、私の位置情報が旦那の情報端末に自動転送されたなら、びっくりするだろうな。
そんな事を考えて、ニヤニヤしながらキッチンへと向かう。途中、洗濯済みのエプロンを取り出して、身に纏う。
ついさっきまで宇宙を飛んで、敵国を爆撃して、地球を一周してから帰宅したとは思えない程に華麗な気分の切り替えだ。
人間の適応力と言うのは、特に女性のそれは、社会が考えるずっとずっと高いのかも知れない。
原曲を聴いた事もない、デビー・ギブソンの歌をハミングしながら半日ぶりにキッチンへと入る。火を掛けたままだった、日本から取り寄せた秋サーモンはどうなっただろうか。それが一番の気がかりだった。
これで、サーモン・オニギリを作るつもりだった。旦那の好物の一つだ。何でも、片手で持ちながら、つまり仕事しながら食事が出来る優れもののファースト・フードである。
旦那の切なる願いは、サーモン・オニギリは、直前に秋サーモンを炊きたてのご飯の中心部に押し込んでから握って、続いて軽く直火で焼いたシーウィードで包むことなのだ(食べる前日にオニギリを作り置きしておいて、シーウィード巻いておいて、シーウィードが湿度で十分に湿ったタイプのおにぎりは、それとはまったく異なる趣があって素晴らしいとも言っていた。竹製の籠に入れて提供されれば、それは"エンソク気分"なんだとか)。
秋サーモンは、相田と言う日本国の航空宇宙軍の一等宙佐が紹介してくれた、日本のカントリー・サイドの伝統ショップから航空便で取り寄せた。相田の息子の為に、夫人が毎年利用しているショップであるらしい。
値段はちょっと高かった。しかし、結婚記念日なので特別に取り寄せる事にした。彼女には分からなかったが、もちろん全身擬体保持者である相田一佐にも分からなかったが、彼の奥方に追わせると「油分の質と量が完璧」で「熱々のジャポニカ米の上の乗せると平常心を容易に失う」レベルに素晴らしい魚の切り身であると言う。
だったら、旦那にも同じモノを食べさせてやりたくなるじゃないか。
秋サーモンは焼き上がっていた筈だ。もし、旦那がガス・コンロの上で放置しておいてくれたのなら、粗熱も取れている。後は、フクシマ産のジャポニカ米を研いで、フナイの炊飯器で炊く時間をセットするだけで仕事が終わる。
画竜点睛。素敵な一日を素敵な家事で締め括ろう。
主婦シャノンは、秋サーモンを挟んで置いた魚焼き網を発見した。思った通り、ガス・コンロの上に乗せられていた。
何か軽い?
違和感。
嫌な予感。
amazonではなく、直接に店舗に依頼する形式で通販した魚焼き網を開く(そうすると、送られて来る商品の質が良くなるらしい)。
「ーーーあ"っ・・・」
主婦シャノンは、自分に接続されている二つの義眼の正常性を疑った。続けて、映像処理エンジンのバグを疑った。更に、外から悪意を持つ何者かに視覚情報をハッキングされている可能性を検討した。
すべて正常に機能している事を確認した。
ーーー秋サーモンが消失した。
この視覚情報が間違いないと、量子論的な確定作業が終わってしまった。
何故?
旦那が一人で食べた?
結婚記念日のプレゼントなのに?
主婦シャノンの脚部の全間接のロックが外れ、続いて動力アクチュエーターのクラッチが完全に滑ってしまった。
ショックのあまり、女の子座りでキッチンの床に崩れしまった。
そのまま、大声を上げて泣き出してしまった。
ーーーうわああああぁぁぁーーーん。
年甲斐もなく激しく泣いた。旦那の好物のサーモンを守る為に宇宙まで戦いに行った。命懸けの強襲を成功させて地球の裏から帰って来た。にも関わらず、守り切った筈のサーモンが消えてしまった。
彼女の想いの一部は現実から乖離している様にも思えるが、主幹の問題なのでここではそれは問わない。
重要なのは、女性の切なる想いが、あからさまなまで蔑ろにされた可能性が生じている事だ。
ーーーこれは魔女裁判事案だ。
ーーー石打の刑だ。
ーーー火あぶりだ。
ーーー月に代わって成敗だ。
それまで保っていた緊張感が弾け飛んだ。自覚はなかったが、ギリギリのバランスが成り行きだけで保たれていたのだ。そりゃそうだ。やっとの事で長年取り込まれていた軍から除隊して、望んだ相手と結婚して、念願の主婦となって、今でもローンを支払中の自宅のキッチンでサーモンを焼いていたら・・・突然に強襲部隊に襲われて、ケネディ宇宙センターへ拉致されて、有無を言わさず最新型の戦闘オービターに押し込まれて、大気圏突入作戦に従事させられたのだ。日常から非日常へ。非日常から日常へ。立て続けに起こる状況の一変。まともな神経であれば耐えられるはずがない。
もしかしたら、イルマーリ・ユーティライナン大佐は、これが分かっていて早々に引き上げたのかも知れない。まったく、良い男と言う奴は、女に怨まれるシーンを確実に席を外している。本当に目敏い。実は役立たずじゃん。
「どうしたんだシャノン!!」
尋常ならざる事態を察知して、自宅内の監視を依託している人工知能からの通報によって、旦那である津田沼博士が二階から降りて来た。髪に白いモノは混じってはいるが、実年齢を全く想像させない足取りで走って来る。
何だか良く分からないが、泣きじゃくっている嫁を抱きしめて、とりあえず適当と思われる処置を施す。
「シャノンは良い子だ。何も問題はない。でもそうじゃないんだろ。思うことを何でも言いなさい。いくらでも聞くから」
かつて、日本国で擬体工学の中心人物の一人であった津田沼博士は、今では合衆国における人型機械工学の第一人者へとクラス・チェンジを果たしていた。二昔以上前に日本国から合衆国へと別件で拉致された後、余程気に入ったのか、そのまま住み着いてしまって現在に至る。
情報軍のエース・サイバーだった、かつてのハート・オブ・エースとの結婚生活を送り、今では合衆国の永住権ではなく市民権を獲得している(同時に、徴兵対象にもなった)。
津田沼博士は、とにかくシャノンにとっての聞き手に回る事に専念した。泣く子と泣く女性は理性では絶対的に御せない。それから泣く子になら飴が効くが、女性にはまったく効かない。経験を通じてその手の不条理を熟知している理系の男は、完璧な最適解を直ちに導き出して、それの実行にのみ努めた。
「サーモンがない!! ダーリンのサーモンがない!! アンタが食べちゃんでしょ!! 酷い!! 浮気!! 離婚!!」
津田沼博士には、言葉による表現を通しては自分の妻が何を言っているのかサッパリ理解出来なかった。控え目に見て、支離滅裂だ。本気で離婚する気であるとは思えなかった。しかし、次から次へと人工声帯から飛び出してくる言葉ではなく、全体的な状況を観察する事で、シャノン本人ですらまだ分かっていないシャノンの真意が何であるかを把握した。
主婦シャノンが、国防上に回避不能な緊急処置として一時的に軍籍に復帰させられたと言う事実。それに関しては宇宙軍からの連絡で承知していた・立派に市民の義務を果たして無事に帰還出来た事をたった今知り得た。どうやら、何らかの精神的なショックによって、緊張状態から日常状態への切り替えに失敗したに違いない。
切り替えに失敗した原因は、精神的なショック。そのショックとは、「サーモンがない!! 」だ。軍からの徴用直前まで焼いていたサーモンが見当たらないと嘆いているのだ。だが、それは飽くまでもトリガーだ。サーモンがあろうがなかろうか、どちらにしても何らかの精神的な失調は引き起こされていたろう。もしかしたら、ここまで酷く取り乱す事はなかったかも知れないが。
そして、自身がサーモンを一人で食べたと決め付けて、その悪行を責めている可能性を示唆していた。嫁の指摘は実は間違いだった。だが、誤った指摘を完全無欠な証拠を示しても何の解決にもならない。身の潔白を証明した所で事態は好転しない。むしろ、悪化させるだけだ。
津田沼博士はベテランの域に達しつつある、嫁の操縦術を縦横無尽に駆使する(自由自在は一生無理そう)。決して、独り善がりな、最も正当であり最も愚かな対処方法を採らない。名を捨てて実を取る。嫁の我が儘を受け入れる度量を示しつつ、嫁が心中で持て余してる精神的な圧力を開放させる手助けに徹した。
「そうかー。大変だなー。困るなー。サーモンがないなー」
決して否定しない。一つ否定すると、最低5分の延長を積むだろうと熟知しているからだ。共感している事を示し続ける。貴女は悪くない。悪いのは自分だ。郵便ポストが赤いのも、消防車のサイレンがドップラー効果に影響を受けるのも、全て自分の責任である。
ただ、ただ、そう述べた。それを繰り返した。まるで呪文であるかの様に。ただ単純に繰り返すのではなく、ランダムな順序に組み立て直して唱え続けた。
「嫌!! 嫌い!! 我慢出来ない!! どこか行って!!」
「そうだなー。サーモンがないよねー。困るねー。辛いよねー」
腕の中で暴れる嫁の腕の出力が、やや遠慮し始めている様に感じた。
津田沼博士にとって待ちに待った瞬間がやっと訪れた。強引に、主婦シャノンの頭部を両腕で抱え込んで、小太りで少し厚めの胸肉(胸板とは言い難い)に押し付けた。
「シャノンがいないとボクは生きていけないんだよ。だから、キミの側から離れられないんだ。ごめんね」
津田沼博士は、本当に申し訳なさそうな態度で反撃の狼煙を上げた。
「とても大変な仕事を終えて来たんだね。お疲れ様でした。ご苦労様でいた。キミにしか出来ない仕事だったんだろう。辛かったね」
津田沼博士は、シャノンにとって耳心地が良い、ではなく本当に聞かせて欲しい言葉を順々に紡ぎ始めた。それを5周とちょっとだけ繰り返した頃、シャノンが暴れるのを止めた。そして、二本の義手を津田沼博士の背中へと回して、ギュっと抱きしめた。
「わかった。許してあげる」
津田沼博士は、シャノンの気が済んだらしいと感じた。
「ありがとう。許してくれて」
津田沼博士は、言葉のフィニッシュ・ホールドへと持ち込む。本当なら、許してくれじゃなくて、マヂ勘弁して欲しいところだろう。しかし、そんじょそこらにいる普通の男とは別次元の価値観を保有する男は、そんな月並みな皮肉は思い付きもしなかった。
彼の快挙は、突然に発生したロディオ、馬乗りゲームを攻略してみせた様なものだった。つまり、彼はこのピンチをゲームに見立てて十二分に愉しみ抜いたのだ。
論理的思考。知り合ったばかりの頃のシャノンは、理路整然とした思考力を持ち、極めて切れの良い判断力を持ち合わせていた。しかし、その後は知性レベルがじょじょに下落傾向示した。津田沼博士は、シャノンの健康上の問題を疑った。
しかし、健康、特に免疫システム系は、各種数値は前年の検査結果よりも明らかに向上していた。それも圧倒的に。生体パーツのメンテに不可欠だった抗生物質や他の化学物質の投与量も劇的に減ってたのだから、見立てが明らかに見当違いであった事は疑う余地もない。
論理的思考のパフォーマンスは着実に下がり、それと反比例する様に津田沼博士はシャノンのその振る舞いをどういう訳か「好ましい」と感じ始めていた。
おかしい。あまりにもおかしい。自身の論理的思考にまで乱れが生じている。彼は、トキソプラズマの様な嗜好に干渉する精神支配系の寄生虫による自身への感染を疑った。人間は、トキソプラズマに寄生されると猫が大好きになる。カマキリはある種の線虫に寄生されると、魚類に捕食され易くなる水辺に敢えて近付く。そんな理不尽が自分に降り掛かっている可能性を疑ったのだ。
診断結果は、寄生虫の感染はなし。ただし、コレステロール値がやや高いと診断してくれた医者から釘を刺された。
その後、謎の嗜好干渉の効果は深まり、シャノンを物理的に放しがたくなった。シャノンに尋ねていると、似たような症状の自覚があると答える。
そんな経過の後、結婚する事になった。シャノンの論理的思考に関しては、出会った頃の面影もないくらいに壊滅的に喪失されていた。津田沼博士としては、それでも一向に構わなかったのだが、かなり危険な任務にも就く婚約者の身の安全を慮って、論理的思考が不可欠な任務から外すようにと指令官であり、友人であるケヴィン・フリンに申し出た。
すると、ケヴィン・フリンは、何と転げる勢いで大笑いして答えた。
「そんな可愛いシャノンは、キミの前にいる時だけだ」
津田沼博士は知らされた。シャノンの振る舞いは、目の前にいる相手によって変化する。特に、婚約者の様に甘えられる人間に対してだけ、論理的思考に裏付けられる振る舞いではなく、本能にだけ忠実な振る舞いを採ると教えられた。
津田沼博士は愕然とした。もっとも大切な相手の前でこそ、もっとも理に適った行動=優秀性を示す態度を貫くと言う先入観があったからだ。しかし、ケヴィン・フリンは、津田沼本人が無自覚に行っている生涯初めてらしい恋愛経験に配慮を示しつつ、「こちら側へようこそ」と最大限の同情と歓迎の意を示した。
津田沼博士は知らしめられた。人生の途中で妻を娶った男はもれなく、人生が終わるまでこの種の苛烈な試練によって、徹底的に試され・鍛えられ続けるのだと。精神面での成長促進と言えばそれらしく聞こえるが、強制的に促進させる方の成長行為をあからさまに蔑ろにしている気がしてならない。
これでは、能力の相対的な減少は必須となる。二人と言う群のパフォーマンスの低下は底なしとなる。もし、それが嫌ならば、津田沼一人だけが一方的に減少したパフォーマンスを補うと言う無理をし続けなければならなくなる。
ーーーその様な不効率なシステムに支えられて、人類はその生息数を増やして来た訳がない。理不尽が過ぎる。
混乱する津田沼を、ケヴィン・フリンの言葉が容赦なく襲う。
「オスカー・ワイルドは言った。
女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。
男に欠点が多ければ多いほど、女は何もかも許してくれる。
我々の知性さえもだ。」
だが、津田沼も黙って納得はしない。する筈もない。
「ちょっと待て。
男は女に欠点があるからこそ愛するのだ。
女に欠点が多ければ多いほど、男は何もかも許してくれる。
彼女達の我が儘さえもだ。
じゃね?」
津田沼の真っ当な抗議を受けたケヴィン・フリンは、もう一度、今度は本当に笑い転げた。
「本当に魅力的な人間には、二種類しかない。
何もかも知り尽くしている人間か、まったく何も知らぬ人間かのどちらかである。」
と言うオスカー・ワイルドの別の言葉で返した。
そして、問うた。
「キミはどちらの人間だい? シャノンはどちらの人間だい? 私には二人とも魅力的な人間に見えるが、どちら側であるのかは判断しかねる」
これで、津田沼はもう黙るしかなくなってしまった。
こんな試練を通過した結果、津田沼は典型的な良い男にはなれなかったが、理想的な伴侶の域には到達していた。科学や技術の世界で、一見理不尽に見える現象は珍しくない。しかし、それは個々の局面ではなく、統一理論的に見ると最終的に「そうなるしかない状態に落ち着いている」と納得させられる。必ずと言って良い程。つまり、その瞬間に自分が感じている理不尽も、大局的に見れば理に適っている可能性が高い。もちろん、自身でその妥当性を観察したり、検証したり、実感する事は出来ないのだろうが。
ーーーこれもまた、大宇宙を形成する理論の一部なのだろう。
物理方程式の有り様に対してはいくら文句を言っても無駄だ。そして、シャノンの有り様に対してはいくら文句を言っても無駄だ。何故なら、いずれも宇宙の真理であり、方式であり、常識であるからだ。非常識なのは、悲しいことに津田沼自身であるらしいのだから。
津田沼は知っている。たった今、目の前で本泣きから嘘泣きへ転じた自分の嫁。彼が大立ち回りをしている相手は、嫁本人ではなく、その背後にいるラスボス「大宇宙」であると言う真実を。罪を憎んで人を憎まず。罪を嫁に押し付けた何者かを憎んで、嫁を憎まず。
津田沼は、今、嫁を通じで大宇宙と対峙し、それを攻略するべく人生と言う長い戦いに身を投じている。なのだから、何時までも嫁を泣かせておくわけにはいかない。それは、この壮大な戦いの途上では悪手である。大宇宙の影響下にある嫁を、ます最初に自分の影響下へと取り戻さなければならない。
人生はゲームではないので、終わり良ければ全て良しとはならない。途中経過もまだ満足出来るものである必要がある。そうでなければ、自分ではなく、嫁が納得しないだろうから。
シャノンは、津田沼に自分の表情を見せないために、両腕で旦那の上半身を強くホールドしたままゆっくりと尋ね始める。
「私は今日、貴男の好物であるサーモンを守る為に宇宙まで戦いに行って、勝利して帰って来ました」
「ああ。聞いている。全部知っているよ。本当にありがとう。キミの御陰でサーモンも私も合衆国も同盟国も無事だ。感謝している」
「なのに、帰って来たらサーモンが見当たりません」
「それは一大事だ。その問題を早速解決しよう。私に手助け出来る事はあるかな?」
「答えてください。一人でサーモンを食べてしまいましたか?」
津田沼は、遠大で長大で無限に感じられる遠回りに道程がやっと終了した事を知った。
「食べていないよ。サーモンはまだ胃の中に収められてはいない。キミ抜きで食べ始める事なんか出来る筈がない」
そして、待ちに待った自分の攻撃ターンが回って来た事に安堵した。
「愛している。私はサーモンよりシャノンの事をより強く大きく愛している」
本当に、津田沼が本心からそう語っているのかどうかは分からない。その他利は本人にも分からない。もしかしたら、効果が約束されている魔法の呪文でも詠唱しているつもりなのかも知れない。だが、この説得方法は、嫁を大宇宙の影響下から引き剥がすの技術としては、大変に高い有効性を発揮した。
「本当に?」
「もちろんだ。今のキミを普段のキミより可愛いと感じている。より、離し難くなったとも感じている。死が分かち合うまで共に暮らしたい」
親は手の掛かる子供程可愛く感じると言う話がある。もしかしたら、旦那にとってはより手の掛かる嫁の方が可愛いと言う話なのであろうか。こんな事は、よほどに余裕のある人生を体現者でない限り口にしようと思い付かないだろう。その余裕の本質とは、経済的な余裕ではなく、精神的な余裕である。
だからこそ、金で解決する問題でなく、全ての歴史を通じて、全世界中の旦那達にとって解決しがたい問題第一位として認められている。
「じゃあ、サーモンは今どこにあるの?」
「存在はしている。しかし、焼きサーモンは所詮は人の作りしモノ。万能でもなく、不滅でもない」
「どう言う事?」
津田沼はシャノンの興味の向け先が、大宇宙から自分へ付け替えられたと確信した。
「形あるモノは、常に状況に応じて移り変わる。一度目を反らすと、次に視界に収めるまでに形や風味を変えているものなんだ」
「?」
「明日は何の記念日かな?」
「結婚記念日」
「それを、サーモン入りの焼きオニギリで私一人だけで祝うのは心苦しかった」
「?」
「だから、キミが苦労して入手してくれたサーモンを二人で分かち合いたいと願った。それが私が犯した罪だ」
「良く分からない」
「フナイの炊飯器の中を覗いてごらん」
シャノンは、少しだけ躊躇した後、解くのが惜しいと感じながらも、勇気を込めて二本の義手を旦那の上半身から剥いだ。そして、保温スイッチが入っている事を占めるランプが点灯している事に気付く。
炊飯器の蓋を開ける。湯気が一気に上がる。米のデンプンとサーモンの脂が混じった香りが遅れて上がって来る。その後、鉄釜の中にリゾット状に煮込まれた米が見えた。
「スープ多目のリゾット。正確にはタイ料理のジョークだ。米とサーモンを一度炊いた後、ミキサーで砕いた。それらを更にスープで煮込んである。二人で分かち合って食べたかったんだ」
「!!」
「ベビーフード並みに消化し易い状態だ。これならロボコップのマーフィでも問題なく接種可能な筈だ」
「どうして? オニギリでサーモンを食べたかったんでしょう?」
「結婚記念日なんだから、特別なサーモンをキミと分かち合いたかった。しかし、それが私が犯してしまった罪の正体だ。キミを傷付けてしまった。許して欲しい」
呆然としていたシャノンは、やっと振り返り、胡座をかいて床に座っている津田沼に向かって見下ろして言った。
「許す。許します」
「良かった。許してくれて。ありがとう。寛大なキミを愛している」
"愛している"。日本人の男はなかなか口にしないと女性達は不満に思っている。しかし、彼女達の側にも問題がある。"愛している"を自分達に向かって口にする事を許すのは、自分が好ましいと思っている男に限りるからだ。興味のない男から言われてもノーカン。それどことか、ハラスメントとクレームを申し立てる輩もいる。
しかし、この時の津田沼は全ての障害をクリアーしていた。"愛している"を告げる事を望まれただけでなく、その上で告げる相手の嗜好に沿った状況を作り上げた上で告げて見せた。これは、女性と言うラスボスに対して、ドラゴン・クエストと言うRPGゲームで有名になった専門用語"ツウコンノイチゲキ"を喰らわせたも同然だった。
胡座を止めて、ゆっくりと立ち上がった津田沼は、もう一度シャノンを抱き直した。
シャノンの方も、されるがままに任せた。興奮がやや冷めた後では、多少、悪い事をしたくらいには反省しているのだろう。もちろん、悔い改めて謝罪するつもりは微塵もなかったが。
一方、津田沼は津田沼でシャノンとの会話を進めながら、まったく別の事を考えていた。
男と女と言う別次元の価値観や文化を持つ異種族同士は、何度も破局のピンチを迎えながらもこの様にそれを乗り切れている。それは、男と女の双方が完全が破局を望んではいないからだ。破局のピンチすらも、互いの興味を自分に向けさせる為の道具や装置として利用している気配すら感じる。
一方。
民主主義国家軍と権威主義国家群と言う、それぞれ別次元の常識に支えられる人間の群同士はどうなのだろう? 互いに完全が破局を望んではいないのならば、破局のピンチを乗り切る手段はまだ残されているだろう。ただし、どこかに埋もれているので、探し出して掘り起こさなければならないが、きっとあるに違いない。
しかし、興味を自分に向けさせる為の道具や装置として破局のピンチの多用が常識化する=瀬戸際外交ばかりとなってしまうと、片方がそれ以上の交際を求めなくなるかも知れない。そして、交際を望まれなくなった側は、それを理解出来ずに、破局のピンチと言う劇薬を多用し続ける=エスカレーションを引き起こす可能性があるのではないだろうか。
「シャノンを愛している」
津田沼は、その言葉に地球人類の未来を賭けてみるべきがどうか、迷っていた。
「私も貴男を愛しています」
シャノンは、頭部に実装された二つの義眼越しに、極めて揺るぎない想いを込めた言葉を返してくれた。やはり、本心は瞳に宿るらしい。それが天然物であっても、人工物であっても、些細な違いもないほどに雄弁に。
「ありがとう」
津田沼は少しだけ、地球人類の未来を楽観視しても良い気がした。そろそろ、自分が他の事を考えていると嫁にバレルころだ。彼の今まで積み重ねて来た経験が、直感を通じてアラームを鳴らし始めた。
津田沼は、自分の不義理がバレない様にと願ってシャノンにキスをした。それで、シャノンは満足した様だった。いや、シャノンはシャノンで何かしらの不義理を隠しているつもりだったのかも知れない。
互いがちょっとした秘密を持ち合い、互いにそれを暴こうとしない謙虚さ。ご都合主義であっても、効率性の追求においてはこれが最適解。もっとも効率が良い。
そのちょっとしたすれ違いを見て見ぬ振りする。白黒ハッキリさせずにグレーとの自然な共存を可能とする精神的な余裕の御陰で、二人は日常生活の「リスタート」に成功した。
この件を、後でケヴィン・フリンに相談してみようと思った。
最後にこう考えた。
ーーー「リセット」ボタンを押さずに済んで本当に良かった。




