藪蚊とにんじん。
私とナヲちゃんは、万条 菖蒲さんの妹達と一緒に遊ぶために、万条宅近くにある神社の森までやって来ている。
万条さんの妹達とは、マヤちゃんとアイちゃんの事だ、二人は双子で、私達とは去年の秋に、只見町の温泉で出会った。
ここは、もちろん福島県。奥会津の只見町じゃない。茨城県鉾田市、鉾田にある富士浅間神社の境内だ。
さっきまで境内を取り囲む様に茂っている藪を漕いでいた子供達が、石畳や石像のある見通しの効く境内まで帰って来た。
その後を追って、草や葉っぱを全身にまとわりつけた女の子も現着だ。私の恋人のナヲちゃんである。二人の監視と尾行、大変にご苦労様である。
ナヲちゃんが大自然の中でストーキングしていた、双子ちゃん達は容姿がそっくり。真っ黒な瞳と栗色の髪、本当に瓜二つ。この双子の一号はマヤちゃん。二号はアイちゃん。ただし、いずれも自分が一号だと宣言している。
空気が流れる境内と違って、風がほぼ静止する藪の中は藪蚊で一杯だ。二人ともけっこう刺されてる。白い肌がぷっくりと膨れている。遊び始める前に、虫除けスプレーをきっちりと掛けておいたんだけれど、貼りし回っていると汗で全部流れて無くなっちゃうみたいだ。
姉の万条さんが、二人を捕まえて大急ぎで虫刺されの後にキンカンを塗っていく。
「すーすーするー」
「たのしー」
一号と二号のどちらもキンカンの刺激は嫌いじゃないみたい。一通り刺激を楽しんだ後、追って来たナヲちゃんを眺めて不思議そうに尋ねる。
「ねー、はーねーちゃん」
「なーに、アイちゃん?」
するとアイちゃん、自分の左腕の赤く膨れた蚊の吸血跡(痕)を指した。その後、ナヲちゃんの真っ白で無垢な肌を刺す。
「なをちゃんは何で蚊に刺されないの?」
それは鋭い質問だ。
「う〜ん、どうしてだろ?」
それを聞きつけて、万条が大慌て。
「アイっ! そんな失礼な事聞かないのっ!」
これはちょっとばかり微妙な話だ。ナヲちゃんは普通の娘じゃない。全身の大気に触れるすべての部分が人工物で構成されている。機械化代替身体、擬体と呼ばれる"身体障がい者で"なのだ。
藪蚊にしてみたら、人間に見えない。正確には吸血衝動を満たす、産卵直前の御馳走とは見なされていないのだ。だから、双子にはいくらでも寄って来る藪蚊の魔の手(口)から、ほとんど自由なのだ。しかし、それが果たして喜ぶべき事なのか、それとも悲しむべき事なのか・・・判断基準が人それぞれなのだ。
暑くなって来たせいか、神社の境内の方でも、じっとしていると、蚊がぷ〜んと寄って来る様になった。特に、万条さんの双子の妹達の所に集中的に寄って来る(もしかしたら、ナヲちゃんも大好きな双子に纏わり付く"一匹"かも知れない)。
「ねえねえ。なをちゃんは何で蚊に刺されないの?」
それは一部の擬体の人にはキツい質問でもある。さて、ナヲちゃんはどう出るか。多分、大丈夫って言うだろうけれど、本音の部分ではどう感じるだろうか。ハラハラしながら反応を待つ。
「ごめんね、朝間さん」
双子の非道を姉が詫びた。これが常識人のしっかりとした対応だろう。子供のした事とは言え、問題となる発言があれば、まずは謝罪を示すのが道徳的だ。
「いいよ。気にしてないから」
しかし、ナヲちゃんは本当に、ぜんぜん気にしてないみたいだった。良かった。1月の大震災による被害で、擬体を新しいのに換装してから、以前ほどに自分の機械化身体に対するコンプレックスは抱かなくなった模様。
きっと、それも万条さんの妹達の御陰に違いない。貢献半端ないね。双子達が自分を人間と認めてくれたから、自身が機械人形でなく人間であると自覚させてもらえたってのがあるんだ。
私達と、万条家の双子ちゃん達とは、只見線でのSLの旅の後に出会った。
それ以来、ナヲちゃんはちっちゃい二人が気になってしょうがなかったのだ。けれども、米国の親戚にも小さな子供がいなかった事から、"ちっちゃいの"に対してどうやって接したら良いのか分からなくて困っていた。経験不足ってやつだね。
それに輪を掛けて、擬体になっちゃったものだから、本当にどう触って良いのか本当に悩んでいた、自分が子供達の目で、人間に見えるのかどうかすら妖しいと思っていた。
だから、大好きなのに、遠慮して、モジモジして、自分から近付いていけない。これは良くない。そこで只見線でのSLの旅が終わった後に、万条菖蒲さんにこの件を相談した。そしたら「朝間さんをウチに連れてきなさい」と一言返した。
それから、私とナヲちゃんvs万条姉妹との深い絆の物語が始まって、今へ至る。
コンプレックスから解放されたナヲちゃんは、アイちゃんの方を、両脇を抱えて持ち上げて説明する。
「実はねー。ナヲちゃんの血は特別製で、アイちゃんの血ほど美味しくないから蚊が寄って来ないの。アイちゃんだって美味しいご飯の方が好きでしょ?」
「うん。ねーねーの作るハンバーグ好き。でも時々、にんじん隠して入れるから気が抜けない」
「そうそう。ナヲちゃんの血はにんじん入りなんだよ。だから、蚊も寄って来ないと言う訳さ」
「じゃ、どうしたら私にもにんじん入りになれる?」
そこで、ナヲちゃんは大人の悪い笑顔に変わった。
「ねーねーの作るハンバーグのにんじん沢山だべれば蚊が寄って来なくなるかもよ」
それを聞いて、双子達はまったく同様に複雑な顔をする。虫除けスプレーもにんじんも大嫌いなのだ。ナヲちゃんはアイちゃんを降ろすと、アイちゃんとマヤちゃんは小声で話し合いを始める。
虫除けスプレーとにんじんの、どっちが大きな嫌か? と言う脅威の判定会を始めたのだ。
彼女たちには生身とか擬体とか、一体どういうものであるのかを良く理解出来ない。だから、ナヲちゃんにだけ黒魔術的な蚊を寄せ付けない裏技があると勘違いしたのだ。それを教えてくれれば、虫除けスプレー地獄からも逃れられるんじゃないかと期待もしていたみたい。しかし、それには「にんじんを食べる」と言う大きな代償を支払う必要があると知らされて、「どっちがマシ?」的な、非積極的選択を迫られて困ってしまったのだろう。
双子ちゃんの動きが止まった。万条姉は、その隙を突いて双子ちゃんをガッチリと捕まえて、有無を言わさずに虫除けスプレー塗れにしてやった。双子の妹達は抗議の声を上げたが、これで辛い儀式も終わったので、再び境内を遠慮無く走り始めた。
「虫除けスプレー使う?」
万条さんが私にも「サラサラパウダー配合」の虫除けスプレーの缶を寄越して来る。
「ありがとう。遠慮無く」
するとナヲちゃんがそれを受け取って、髪の毛を持ち上げてうなじの辺りとかにもしゅーしゅーとスプレーを掛けてくれた。
「ありがと」
私も虫除けスプレーの缶を受け取って、ナヲちゃんの手首の上と足首の上にだけスプレーした。
不思議そうに眺めている万条さんには、私から詳しく説明した。
「今のナヲちゃんの擬体は試作品で、すごく生身に近い。で、手首の上と足首の上の部分は香水を着けられる様に、他の部分よりも人工毛細血管が皮膚の表面に昇って来てる。だから、蚊もここでなら吸血出来ちゃんだ」
「へえー。私の知ってるいる擬体とは随分違うのね」
「ふ〜ん・・・」
万条さんはこの件に興味を持った様だ。それを察して、私の説明にナヲちゃんが捕捉を加えた。
「それと、私達は蚊の耳元から聞こえてくる「プーン」と言う耳障りな羽音・・・あれがすっごくハッキリと聞こえるの。第二小脳に任せて「自動」に設定すれば、両耳から音を頼りに、蚊の飛んでいる位置を計算して、両手で叩いて潰す・・・なんてアプリもあるんだよ」
それを聞いて、万条さんも流石に驚いた。こう言うのは本当の経験者でなければ知らない知識だ。
「それば便利ね。ちょっと感動してしまいそうだわ」
「まあ、擬体も悪い事ばかりじゃ無い。って最近分かって来た」
それを耳にして、私はちょっと私は驚いた。随分前向きになった。そして、それを私以外の誰かに伝える日がとうとう来た、と。おそらく、ナヲちゃんは万条菖蒲を、私が考えてた以上に気に入っている。そして、心を開いている。
それを確信して、ちょっと複雑な想い。だって、多くの人間に対して心を開けることは、ナヲちゃんが擬体保持者としてこの先も生きて行くにはとても大切なことだ。それは世界からの疎外感を乗り越えて、自分も社会や世界の一部であると感じる余裕を獲得していると言う意味だから。一方、自分以外の誰かに心を開くって言うのは・・・その・・・ナヲちゃんからの愛を一身に受けたい我が儘な女の子としては残念と言うか・・・嫉妬心を感じる。
自分だけが特別ではいけない。でも自分だけが特別で居たい。ああ、もう。頭ごちゃごちゃになる。
その日は、PM4時になった頃に、神社の境内から万条さんの部屋に引き上げた。そして、暑い日に駆け回った代償として、マヤちゃんとアイちゃんはお風呂に入らずにお昼寝タイムに入ってしまった。
私とナヲちゃんは、そこでお暇して、学校にある寮に戻った。
なお、その晩、私とナヲちゃんのスマホに万条さんからのメールは入った。
内容は・・・双子ちゃんが揃って「にんじん入りハンバーグ」を完食したと言うものだった。
きっと、いつか、双子ちゃんが大きくなる頃には血液の中に十分になにんじんが入り込んで、蚊も寄って来なくなるかも・・・知れない。