万条家の双子達 〜その壱
〜茨城県鉾田市、鉾田にある富士浅間神社の境内
ーーー師走。
早朝に、大地を覆い尽くす霜に気付く。
季節が、深まった秋から、空気までが凍てつく冬へと移り変わりつつある。
そんな不都合な事実、敢えて気付かぬ様に努めていた不愉快を、渋々ながら認めさせられる。
春が到来した時から、この冬が帰って来る運命にある事は承知していた筈だ。
巡り来る。季節とはそう言うものだ。
芽吹き花咲く春もあれば、出会いと繁殖に最適の夏もあれば、草木が実を付け全ての生き物の腹が肥える秋もある。当然、すべてが凍り付き猫はコタツで丸くなる冬もあるのだ。
だが、忘れがちな理の重みを思い出すのは、決まって常に理の"負の部分"が自分に巡って来た時である。
そんな、秋と冬の移り変わり目に、猶予期間、つまりモラトリアム或いはグレイス・ピリオドを、日本国は使い果たしつつある事に気付いていた。
茨城県鉾田市、アクセスにもっとも便利なのは、鹿島鉄道鹿島鉄道線・鉾田駅。高架の駅舎からは、市バスやタクシーを使いたくなるくらいには離れた、それなりに充実した森の中に建立された富士浅間神社。
敷地内には、現在、たった一人の参拝客が参っていた。だが、鳥居をくぐった後に、そのまま社へは直行せず、参道脇に並んでいる大銀杏の一本に背中越しに寄り添う様に立っている。女物の、腕時計の小さな文字盤上にある針の進み具合を気にしながら。
どうやら、境内で誰かと待ち合わせをしてる様だ。左腕のコートの袖を軽く引っ張って、腕時計で現在時刻を確認した。もう、何度か繰り返し済みの動作だ。
彼女が鳥居をくぐって、時間が経過するごとに境内を包み込む、ある種の神々しい光景は、秒単位で着実に移り変わっている。
それは、主観的には太陽の動きによって、客観的には地球の自転運動によって、太陽と地表の構造物の間に存在する角度が相対的に変化する事によって引き起こされている。
富士浅間神社の境内は、まだ夕暮れ前だと言うのに木漏れ日として降りしきるオレンジ色の遮光で照らされている為に、たった一人の参拝者の視線の及ぶ範囲の全てが目が痛くなるような黄色で敷き尽くされている。
それは、現在ご存命の全鉾田市民が生まれる以前から生えている大銀杏が、今まで高く広く突き伸びている枝に纏っていた大量の黄色い葉々を、力の及ぶ範囲の全てに向けて散り落としているせいだ。
境内では、辺り一面に敷き詰められた黄色い葉々の隙間を見付けるのも難しい。具体的には、参道とそれ他の境内敷地の見分けすら困難になっている。
きっと黄色の下には何かの石と砂利による、水捌け目的の舗装が施されている筈だ。そうでありながら、黄色を踏まなければ一歩も歩けない有様でもあった。
大気温度が低く、肌を通じてやや寒く感じるせいか、それとも夕暮れを控えた微妙な時間帯であるせいか、富士浅間神社の境内はとても静かだった。
参拝客も他には見当たらない。走り回る子供もいなければ、葉々を引っ繰り返して虫探しをする野鳥の姿も見られない。
あまりに静かだった為に、境内の外から大銀杏の所まで届く音は、近くを走る自動車の騒音や、近所の住民か近くで仕事中の作業員が発したらしい怒鳴り声だけ。それらが時折聞こえた。
そんな、一面が黄色に支配される世界に、黄色の反射光で照らし出されながら留まり続ける女性。
大銀杏の、長年に渡って地表近くの枝をきれいに刈り続けられていた。地域住民またはジュ民組織による手入れが十分に行き届いていると言う事だ。御陰で、幹はありがちな若い銀杏の大木のそれと違って、大小の枝や葉々によるバリアに覆われてはいなかった。
スダジイやモチノキの様な被子植物の大木であるのではないかと誤解されられる程に、やや幹の凸凹な表皮が見事に露出していた。その有様は、真に幹の側に立つ女性が記憶として抱いている印象の通りだった。
御陰で、その女性は、その背と両肩に常にのし掛かかっている精神的な重みを、躊躇なく大銀杏に一時的に預けられた。ざわついている心中とは裏腹に、追憶そのものと言える周辺風景に心を奪われていた。
まるで、遙か昔に置き忘れた、とても古い思い出を記憶の彼方から引き寄せる努力が実ったかの様に、時より深いながらも幸福そうな溜息を洩らしていた。それは、きっとこの女性が、幸福、或いは人生の真価の何たるかをキチンと経験する幸運に恵まれている、つまり、何者かによって深く愛されて育って来た、精神に偏りの少ない人物である事を証明していた。
当たり前の事かも知れない。しかし、その当たり前と信じる事こそ、保証する事は人生の難事だったりする。少年や少女にはこの事実はとても非現実的に感じられるだろう。しかし、少年や少女を育てる立場にある親となってみれば、その非現実感は超現実化へと一瞬で変わる。
世の両親、或いはポリコレ的には単なる単体の「保護者」と呼ぶべき存在の多くが死力を尽くしながらも、その何割かは当たり前の事を子供達に与えてやれていない。それを自覚して、自己嫌悪に陥っていたりする。
こればかりは、本人の努力で何とかなる課題ではない。本人とは、サービスを受ける子供だけでなく、「保護者」もまた当事者として含まれる。
生まれ落ちた環境に依存する=ガチャ的要素の強い後天的に獲得した資質であるからして、運が悪いと当たり前でない環境で育てられた子供達が大量に成人する。
大銀杏の枝葉の下にいる女性は、一人の、一回りほど年上の少女から受ける事の出来た配慮によって、運良く当然の事を施されて成人した、とてもとても幸運な星の下に生まれていた。
待ち合わせの相手の到着が、少しばかりを超える程度には遅れている様だ。だが、待ち人でなく待つ人は、境内で時間を無為に過ごす事を少しも嫌ってはいない様だった。
ーーーもう少しだけならば、この時間がこのまま継続しても構わない。
何か、想い耽っている様に覗える。思索をしている雰囲気ではない。もしかしたら、遠い日の思い出、或いは決して取り戻せない過去を懐かしんでいるのかも知れない。それは、一回りほど年上の少女からの配慮に対する感謝、または郷愁に心を奪われつつあるのかも知れない。
ーーー一回り年上の優しい姉。
仮に、それが無為な時間であったとしても、キチンと自律した人間であれば楽しみ様はいくらでもある。彼女は、子供の頃、育て親代わりだった優しい姉にそんな説教をされる毎日を送って来た。そして、そんな退屈だが託して充実した毎日がその先も永遠に続くと信じ切っていた。
今思えば、境内を支配する陽光の起源である太陽に等しく、余りに巨大な存在感を纏った姉だった。
小学校低学年まではそれで良かった。流石に、中学校まで進学すると、煙たく感じる説教も多々、頻繁に喰らわされた。しかし、今となっては、その様な不満を持ってしまった事を激しく後悔している。
今となっては、つまり、太陽に等しく巨大な存在感を誇った姉を永遠に失った後となっては、である。
彼女は、何度目かの溜息を付いた。
「帰りたい・・・あの頃に・・・」
つい、余りに素直な想いが言葉になって口から漏れ出してしまった。
黄道がやや南側に移動する季節に入っている為に、この季節の影は夏期と違って直径がやたらに長く伸びる。だから、遠くから、太陽を背にして誰かが自分に近付いて来るならば、日光を遮る本体よりも影の端の方がずっと早く到達する。具体的には、足下に影を落とす。
腕時計を眺め入る為に下方へ落とした視界の片隅で、何者かの影が自分の靴の先端を踏んだ事に気付く。顔を上げて、影の根元を確認する。
「ごめんなさい。人を巻くのに思ったより時間が掛かったの」
遅参の言い訳をする人物は、つまり待ち人は、自分、つまり待つ人とまったく同じ顔付きだった。それどころか、爪先から首筋に至るまでの服装も趣味に共通性が見られた。
いや、そんな些事ではなく、もっと根本的に二人は同一性を持ち合わせていた。まるで、魂は二つあるに関わらず、意思は一つだけしか持ち合わせていない。みたいな。
だから、一度でも二人から目を反らしてしまえば、どちらがどちらであるか、待ち人と待つ人を再び見分けるのは極めて困難でありそうだった。
「構わない。安全第一よ。こう言うのに「多分」とか「だと思った」は許されないから・・・」
待ち人は、待つ人を見て、まるで鏡で自分を眺めている様だと感じた。
「マヤ・・・。それは分かるけど・・・」
「アイ。小さかった頃の朝顔が、何度命を狙われたのか、忘れたわけじゃないでしょ」
「そうね。貴女が正しい」
大銀杏の下で合流を果たしたのは、三十路半ばを越えて久しそうでありながら、とても美しく見える女性が二人。
待つ人の方が、福島四区の代議士である万条 マヤ。
待ち人の方が、個人経営の会社組織のオーナーである万条 アイ。
二人は双子。かつて、外患誘致者と外患援助者が引き起こした軍事テロによって、内閣総理大臣任期中に命を奪われた万条 菖蒲の双子の妹達だ。
人質の命は地球より重いが、現役総理の命の方は鼻をかむ前のチリ紙1枚よりも軽いと言う事実が証明されたに等しい惨事だった。
この双子は、遙か以前、2030年代後半の一時、この神社の境内で、今は亡き姉とその友人達に見守られながら元気一杯に走り回っていた。
ちょっと恐いけれど優しい姉。姉を支える二人の親しい友人達。朝間ナヲミと森 葉子。そして、その後に加わった、姉の友人達の友人であった廿里 千瀬。
あの頃の自分達には、それら三人の女性が、自分達の後の人生にこれほどに深く関わって来る事になるとは想像も出来なかった。いや、優しい姉が一人が一緒にいてくれさえすれば十分で、怖れる者など何もないと感じていた。姉一人がいてくれれば、この世界のあらゆる危険から自分達を守り切ると単純に考えていた。
思えば幸せだった。幸せ過ぎた。
自分達の価値観の中心には、常に優しい姉がドカッと座っていた。姉に従っていれば、大抵の問題は起こる前に解決出来てしまっていた。
特に幼児の間は、優しい姉が好きだった。大きく育ってからは本気で反発しながらも、どうやっても口で言い負かされてしまう恐い姉が大好きなままだった。「好き」と言う言葉は、どうしても口には出せなかったけれども。
ーーー違う。姉に対して一方的に依存していたのだ。きっと。
全員がお婆ちゃんになるまで、ずっと一緒に、束になって生きて行くものと信じていた。その権利を当然の如く、自分達三姉妹は運命から保証されていると考えて、それを一切疑わなかった。
だが、それは今思えば、それは何の根拠もない、単なる空想の産物に過ぎなかった。
何故なら、一緒に居るべきあの姉は、この世から退場させられて久しいのだから。
優しい姉は、自分達が高校を卒業して自立可能になるまで育つのを立派に見届けてくれた。そして、その後は、自身が生涯を掛けて達成すべき目標を目掛けて全力前進を始めた。
突然に結婚して、生涯を通じて利用可能な下僕を、夫として獲得した。
実際にどうだったかは関係なく、姉が選んだ未来の夫、自分達の義理に兄に対するこの双子の第一印象はそんなものだった。
しばらくしてから、優しい姉が長女を出産した。おそらく、その頃が姉は人間的には一番幸せだった頃じゃなかっただろうか?
長女の首が据わった頃から、優しい姉は、政治的に一番幸せだった期間が始まった。夫に長女を任せ切って、出産以前と比べても遙かに精力的に活動を再開した。
やがて、最初の大きなテロに出会す。姉本人は偶然に危機を躱せた。しかし、残念な事に夫と長女がテロの犠牲となってしまった。結果、姉が核家族の全てを奪われてしまった。
その後の姉は、本当に鬼神と化した。一人の個人である事を放棄していた。おそらく、心を許していたのは、朝間ナヲミを含めた極少数の大人達だけだったに違いない(残念ながら、実の妹である双子達はその極少数には含めてはもらえなかった)。
きっと、姉が何かを諦めてしまった事実に、支持者達はまったく気付いたり、何一つ察したりはしていなかっただろう。だが、姉が事実上の母親代わりだった双子達には、姉が人の情に見切りを付けて、殺害された夫と共に夢見た未来を獲得する為に、山積みにされていた解決すべき問題への対処にを、強い使命感に縋りながら、没頭し続けている様にしか見えなかった。
何だかんだ。色々あって、髪に混じった白髪が急激に存在感を示し始めた頃になって、日本国・内閣総理大臣にまで登り詰めた。福島県出身者初、女性初、最年少など、多数の枕詞付きの首相となった。
双子達には良く分かっていた。姉による日本国・内閣総理大臣職への就任は、それ事態が野望の最終到達点ではない事が。政治的な代表者となる事でしか実現出来ない、究極の政治的目標を達成する為の手段に過ぎなかった事が。
ーーー他にもっと確実な手段があったならば、好き好んで、日本国・内閣総理大臣などを言う面倒くさい役所には就かなかった。いや、可能であれば避けたかった。
意外にも、国民による、双子達の姉に対する政治的な支持は極めて厚かった。特に福島県と鳥取県では熱狂的としか言えない程の支持を受けていた。控え目に言っても、野党やマスコミの低レベルな揚げ足取りに揺らがないくらいには、安定した支持層の獲得に成功していた。
だが、それでも、内閣総理大臣職の二期目を勤める事は適わなかった。
何も、与党内での支持率が低かった訳ではない。これは不可抗力である。本人の責任とは言えない。不幸にも人生の最後で、先に鬼籍入り済みの家族達と同様に、自身までが大きなテロに巻き込まれて命を奪われてしまったからである。
ーーー万人に向けて可視化された、公然の暗殺が達成されてしまった。
そのせいで、優しい姉は、自身が生涯を掛けて実現を求めた「達成すべき目標」の成就の最終的な正否を確認することなく他界させられてしまった。
それでもだ。元総理大臣の万条 菖蒲が"生涯を掛けて達成すべき目標"、つまり彼女が掲げていた国策や政策の方は、彼女の死後になっても相変わらず健在だった。決してお蔵入りして有耶無耶にされてしまう事態には陥らなかった。揺らぐ事無く、その後もずっと国是として維持され続けたのだ。
身体は滅されても、志の方は生き残ったのだ。まるで、無限の生命を得たかの様に。
こればかりは、琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Armyと、その貢献組織である人民共和国も想定外だったろう。
命のないものは、もう殺せない。もう一度殺したいのに、殺しようがない。日本国・国民が共有する概念の一つとなってしまった以上、解消するには概念を生み出す日本国・国民そのものを絶滅させる以外に手段がなくなってしまっていた。
人民共和国としては、完全に手詰まりとなってしまった。確かに、日本国の有力政治家を繰り返し買収して、万条 菖蒲の遺産の解消を試みだ。しかし、全てが無駄に終わった。むしろ、それらは概念を共有する日本国・国民に対して火に油を注ぐ行為に他ならなかった。
暗殺劇の成就を世界にあからさまに曝す事によって、人民共和国は万条 菖蒲と言う人格を伝説化せしめてしまった。我々から見たら、それは人民共和国にとっての大きな誤算である。しかし、当の人民共和国は、誤算であるとの認識にすら至っていなかった。目の前で起こりつつある現象を不条理と捉えて、彼等が実行した作戦の評価すらままならない程の混乱に陥って久しかった。
双子達の様な、残された家族の心中としては堪った物ではないが、万条 菖蒲は暗殺させる事で、無限の生命を与えられたとも言える。いや、実体のない。いわゆる概念へと転生したとでも評するべきか。
策士策に溺れる。諸葛孔明が、曹操を指して述べた言葉であるらしい。なお、諸葛亮が実際の所、徐州琅琊陽都で生まれた様だが、本当に今で言う意味での漢民族の一員であったかどうかは知らない。あの大陸の民族は中原にいるかどうか関わらず、とても入れ替わりが激しいからねえ(シーサンパンナのタイ族だって、そっちの方から押し出されて今の場所へ辿り着いた可能性もあるし)。
独裁国家と民主主義国家(或いはメンバー入れ替わり制度のある複数人僭主を頭上に抱く共和制国家)では、双方の常識が相当に掛け離れている事を知って置いて損はない。
独裁国家や独裁者の勘違い。
ーーー国策や政策は、立案者が計画の中心人物を一人殺害すれば無効化出来る。
独裁国家では、確かにその通りだろう。独裁者一人を殺せば、その日のうちに過激な国策や政策は一変する。それは、特定の国策や政策の実現は、独裁者一人の意思から発した欲望に過ぎず、残された者達には何の利益ももたらさないからだ(むしろ、国家をいたずらに疲弊させる要因であったケースが多々ある。だから、方針の一変=無効化が起こるのだ)。
しかし、日本国は独裁国家ではなく民主主義国家だ(野党政党や自称知識人や意識高い系が一丸となって否定しても、この事実だけは揺るがない。何故なら、民主主義国家でなければ、いわゆる"あんな人達"がこれほど長く安定した反社会活動に現を抜かかしている人生を、"個人の思想の自由"と言う"人権"の尊重を理由に見過ごしてもらえている筈がない。"あんな人達"と、それを全面的に支持するマスコミや自称知識人が何を考えているのかは分からない。おそらく、それらの不可解な行動は、お仕事であるか、案外、何も考えていないせいなのかも知れない)。
民主主義国家において、国策や政策は決議を受けた後に一度動き出してしまえば、実力者や中心人物の一人や二人を暗殺した所で大政局に大した影響は与えられない(むしろ、偉い人ではなく、その下で実務に従事する担当者をまとめて大量に殺害した方が簡単だし、費用対効果はよっぽど高いだろう)。もしかしたら、場合によっては、調整や仕切り直しの為に作業時間が多少は延びるかも知れない。しかし、それでも決して無効化はしない。
海の向こうの独裁者が是が非にも潰したかったのは、元総理大臣の万条 菖蒲が主導した21世紀最大の経済改革「本州南北地方経済特区構想」だ。
これが実現してしまうと、海の向こうの独裁者には極めて都合が悪い。それは、近い将来に掠め取る予定の核心的利益の達成を阻む強い力をなってしまうからだ。
「本州南北地方経済特区構想」が実現すると、"悪辣な日本のファシスト共からの解放を世代を超えて切望する沖縄地方の人民"が抱える日本国政府への不満が大幅に軽減されかねない。これでは、偉大なる人民解放軍・海軍が太平洋へ打って出る為に不可欠な海路の確保が、今以上に困難となってしまう。
琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Armyは、元総理大臣の万条 菖蒲の暗殺はキッチリと成功させた。だが、人民共和国が忌み嫌う「本州南北地方経済特区構想」実現の頓挫には失敗してしまった。
ーーー万条 菖蒲一人を殺せば、暗殺者達が言う所の「悪辣な経済搾取計画」の全てが自動的に瓦解すると確信されていたに関わらず。
しかし、何故、「本州南北地方経済特区構想」は、立案者である万条 菖蒲の不在が大したトラブルにならなかったのだろうか? それは、立案者本人が、自分不在でも勝手に議論、作業、調整、実現へと進む事を意図して計画を策定していたからだ。
まるで、自分の暗殺をも当然起こり得る要素の一つとして計算尽くされている為に、「本州南北地方経済特区構想」が始動した後は、自身は裏方として、あくまで政策の象徴として活動する事に徹してた。
それは莫大な利権関係を、立案者の既得権を、積極的に放棄していたと言う事になる。そうであれば、莫大な利権は広域に拡大分散して行く。そうなってくれれば、立案者本人の意思に関係なく、利権保持者(新旧勢力含む)は自らの利権を守るために、立案者本人に代わって、「オレがオレが!!」と言う勢いで「本州南北地方経済特区構想」の作業を勝手に進めてくれる。
こうやって、「本州南北地方経済特区構想」は独自の命を獲得させられた。既に立案者である万条 菖蒲の手を離れ、独自独歩で勝手に歩き始めていたのだ。
何故、「本州南北地方経済特区構想」は独自独歩を始める事が出来たのか。理由は、推敲な理想に基づくものではなく、単なる経済的な必然性に基づくと言う極めて下賤な事情によるものだった。
ーーー誰だって実利の大きな商売に対しては、前のめりになって背姿で本気を示すものである。
「本州南北地方経済特区構想」に限らず、政府主導の巨大プロジェクトは一様に儲かるのだ。ただ、一般的な巨大プロジェクトは始動する前から利権分配が決定されており、発表後から新規参入希望者が首を突っ込むことは事実上不可能である。万条 菖蒲は、それを逆手に取った。プロジェクト発表後であっても、誰でもプロジェクトに首を突っ込める仕組みを作って置いたのだ。
例えば、とても悪名高い、全省庁統一資格(四段階ある)をこの件に関しては完全に排除した。
この処置に利権者(上位の入札資格保有社)は、大変に憤った。だが、改革・解放によって利益を得る者達の数が、利権者の数よりも圧倒的に多かった。だから、一部の不満の声は大勢の満足の声に掻き消されてしまった。
民主主義の理念に基づき、多数は少数を打ち破ることが出来る。結果として、万条 菖蒲は、既存の少ない数の利権者を敵に回し、真新しい多大な数の利権者を味方とする事に成功していた。
人間は正しいことの為に、茨の道を顧みずに好んで進んだりはしない生き物だ。同時に、人間は多大な利益さえが見込めれば、茨の道であっても苦難を顧みずに好んで進み続ける生き物でもある。自己犠牲にはそれなりの代償が必須となる。万条 菖蒲は、赤の他人の善意には何一つ期待しなかったが、赤の他人の欲望に対しては多いに期待を寄せていた。
人間は、やらなければいけないことより、"やりたいこと"を優先する生き物である。だったら、「本州南北地方経済特区構想」を人間にとっての"やりたいこと"にしてしまえば良いと言う理屈である。
万条 菖蒲は、自分の野望の実現の自動化を以上の通りに暗殺前にキチンと達成していた。海の向こうの独裁者は、その辺りを読み違えたのではなく、察する能力を持ち合わせていなかったのだ。
ーーー余りに、自国の政情とは掛け離れすぎていて。
日本国は民主主義国家である。だから、最低でも国民の51%が受け入れてくれれば、国民の51%が賛意を選挙などで表明してくれれば、「本州南北地方経済特区構想」は、遅かれ早かれ成立する(憲法改正ではないので、投票者2/3の賛同は不要)。有権者の51%に受け入れてもらう為には、有権者が「本州南北地方経済特区構想」の経済的利益を直接的に授かれると感じてくれれば良い。
今日は買えないモノでも、10年後には必ず買える購買力を獲得していると確信させる=未来への希望=明日は今日よりきっと良くなると想像させる→楽天的マインドへ到達させる人為的な誘導が不可欠なのだ。
万条 菖蒲は、獲得可能な莫大な利権を自ら放棄する事で、より多くの、より幅広くの、より多層に属する有権者達に向けて気前よく利権をばらまいたのだ。何故なら、そうする事で国家事業に参加する為のハードルが下がり、経済的利益を確保出来る見込みが高まり、抵抗勢力のパワーを削ぎ落とす事が出来るからだ。
そうやって、経済改革を歓迎する雰囲気を醸し出させ、イデオロギー対立で政敵に回った指導者達や、単純に商売嗜好が異なる為に背を向ける競争者達をも取り込んだ。不幸にも自分が暗殺させる以前に、幸運にも新しい時代潮流を形成する事に成功していたのだ。
「本州南北地方経済特区構想」に対するモチベーションを、個別に、同時に、絶え間なく、多発する仕組みの構築を完了していたのだ。
この流ればかりは、独裁国家の国民や独裁者に理解しろと言っても無理である。こう言う理を否定し、独裁者一人に決定権、決裁権、既得権の大半を集中させる事にこそ、独裁国家が含む権威主義国家の最大の特徴があるのだから。
おそらく、琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Armyとそのスポンサーは、「本州南北地方経済特区構想」が瓦解もせずに、むしろ実現速度を加速して行くと言う想定外の現実に直面するに至り唖然としただろう。続いて、絶望もしただろう。
ーーーまるで、自分達が巨大な詐欺に出会したかの様な。
「こんな馬鹿なことがあるかっ!!」的に比類なき、至極の不愉快を体験させられた末に大変な癇癪を爆発させたに違いない。
自由選択の意思を、十分に獲得出来ていない権威主義国家の人々の弱さはここにある。権威主義国家群の中にはいくつかの巨大な国家も存在している。例えば、過去のソヴィエト連邦、現在の人民共和国である。それらの国家の、支配層はたった一つであり、意思決定機関もたった一つである。
一方で、民主主義国家では、支配層は多数存在し、切磋琢磨して頻繁に入れ替わる。意思決定機関も複数系統併存し、幅広い多様性を発揮し過ぎて、時に政府内で二派や三派に別れて互いの価値観をぶつけ合って火花を散らし合う。それ故に、支配層=頭が一つしかない権威主義国家に対して、民主主義国家は多数の頭をそれを支える首を持つ。
まるで、多頭・多首で有名な八岐大蛇の様に、首の一本や二本切り落とされた所で、他の頭が残されているので、国家組織としては痛くも痒くもない。万条 菖蒲が暗殺された後も、何事も無かったかの様に、日本国の経済改革が進んでいった理由は、万条 菖蒲に代わる支配層=頭のストックがいくらでも用意されていた事にこそある。
本当に機能している民主主義国家の最大の特徴は、そこにこそある。民主主義国家はしぶとい。多頭制は衆愚制に陥らない限りは、殺しても死なない。侵略者にとっては、最も殲滅し難い政治形態なのだ。
ワンマン会長でありながら、自分の役目を代行してくれる副会長を仕立て上げていたと言う偶然。万条 菖蒲は、高校時代のトラブルの経験を通じて、多頭制の有効性を確信していた。だから、自ら指導する国家の最大の強みを最大限に利用し切る事にしたのだ。
21世紀最大の経済改革である「本州南北地方経済特区構想」。
実現に向けたレールは順当に敷かれていた。
始動前に暗躍したプランナーは、夫の万条 八十治。
成立前まで陣頭指揮に立ったデザイナーは、立案者である万条 菖蒲。
そして、万条 菖蒲の生前から、早い者・強い者勝ちで無造作に積み上げられたモチベーションを掴む事に成功した利権者達が、自らの欲望に従って、永続可能なシステムへと昇華させる。
人類史を振り返ると、巨大な帝国や企業は、だいたい三代で完成するケースが多い。
勢い重視。波乱の一代目は、個人の器量と言う力業だけで、ややあやふやな部分を所々に残しながらも雛形として纏め上げる。夫の万条 八十治と万条 菖蒲が、新しい国是の創造、旧体制を新体制へと変わるように時代をねじ伏せる才気、或いは才器として活躍した。謂わば、人類史上で繰り返し登場して来た"帝国始祖"や"創業者"に当たる。
抑制重視。揺れ戻しや反動を防ぐ事が最大の役割である二代目は、一代目が残したあやふやな雛形を元に、個人の器量に頼る事ない堅固なシステムへと昇華させる。拡張期に見切りを付けて、安定期の導入に努める。具体的には、社会情勢に十分に適応させる事を目的に、組織全体を盤石なものとすべく改革する。
例えば、出来る限り広い支持基盤と言うネットワーク作る方向へと既得権獲得者達を導く。欲を言えば、更に情報インフラを双方向でより広く、深く、強く張り巡らす。これらの実行は、組無数に散らばる膨大な利権者達が担当する。
二代目はネットワーク作りの見返りとして、組織内での対立する利権保持者同士の立場や不満不平を生み出す状態の再調整など精力的な交渉を行う。不要な枝を付け替えたり、整理する事で、実体をより確実なものへと上書きする。
それは、結果的には、組織内に併存するライバル同士が手を結び合う=共存を承知する事につながる。
この作業全体は、豊臣秀吉が日本の全大名に向けて発した"惣無事令"と少し似ているかも知れない(関白のそれと違って、苛烈な責罰までは伴わないが)。
無から生じた組織を安定期へと落とし込むのが三代目だ。組織に参加している自分よりも長い経験を誇る有象無象のプレイヤー達を、情を排除して論理的に従わせる新しい文化の定着化に勤しむ。言い換えると、二代目が上下関係を力ではなく技で構築したシステムを、無条件で受け入れて、穏当で確実な運用を心掛ける事だけが求められる。
一番困難な役回りは、おそらくは二代目だ。一代目は、論理面の構築をほぼ全て先送りにして、自らの願望を実現する為の組織や時代潮流を作り上げている場合が多い。そんな組織は、無理や無茶上等の、傍から見れば統制が取れていない無茶苦茶な人間の群でしかない。それが一つに纏まって機能的に活動出来るのは、偏に一代目と言う得意なキャラクターやストーリーを持っているからだ。
それぞれに理想や嗜好の異なる人間の群でありながら、何故に統制が取れてキチンと一つの群として活動出来るのか。理由は一つ。多くの人材が多様な事情で一代目を「頭」として認めているからである。気に入っているからを言い直しても良い。
二代目は、過去にそんな原理で誕生した組織を、一代目以外に人物がリーダーとなっても一代目と同様に支持される組織へと変貌させなければならない。個人主義を辛抱するある意味とても無茶苦茶な人間ばかりで構成される群を、まとめて組織人へと調教し直さなければならない。
また、調教対象は一人や二人ではない。群に属する一人一人個別に行う必要がある。当然、反発も出るし集まる。それらの問題を、自身の判断で、飴と鞭を使い分けて、懐柔したり痛めつける事で解決しなければならない。
これはとても地味で、それでいて神経をすり減らす不愉快な作業である。そして、多くの歴史家は二代目の調整能力や事務能力を高く評価しない。何故か軽んじる傾向が強い。きっと、英雄崇拝のきらいが強すぎるのだろう。
そうでなければ、一代目が拡げ過ぎた風呂敷を改めて畳み直す作業を甘く見過ぎているのだ。世界的な大帝国だか大王国を築いた元・マケドニア王のアレクサンダー大王の後目争いを見よ。拡げ過ぎた風呂敷を畳めずに、たった一代で消滅、二代目になって直ちに領土の大分裂=ご破算と言う憂き目にあっている。
そして、二代目は可能であれば、一代目が作った個人固有の高い能力に強く頼ることで成立していた組織を、チームによる共同作業によって同じレベル、またはそれ以上に高い効率で回せる様に再構成する知恵も求められる。これには、それまで手作業で回していた組織を、自動的に回る組織へと昇華させる作用、または効能がある。
その意味で、二代目もまた、一代目に負けず劣らずダイナミックな行動が求められる。無頼者達の群を統一の取れた組織へと変貌させなければならないのだから、それはとても"楽"とは言えない。一見優雅に見える水鳥が水面下では足ひれを使って必死に漕いでいるかの様に、人知れず魂と精神を磨り減らす日々を送る事になる。だが、それでも充実感ならばいくらでも得る事が出来る。
一方で、三代目の役回りは"楽"と言えば楽だ。一代目の役割は眼前に道も地図もない荒野を方向を決めて切り開く行為だ。二代目の役割は一代目が決死で切り開いた跡を道と呼べるものへと必死で仕上げる行為だ。おかげで、後から続くすべての後継者が容易に組織の運営を続けられる様になる。二代目による運営期をもって、サドンデスな、冒険的な創世記が完結する。
自重必須。三代目は、先代までとは異なる素養が求められる。むしろ冒険をしてはならない。取り組むべきは穏やかな安定化。二代目が努めた安定期を素直に受け入れるしかない。雨降って地固まった状態の組織を、もう一度混ぜ繰り回してはならない。
だからこそ、為人や行動原理にハデさも大胆さも求められない。巨大な野心に裏付けられた能力よりも、現実的な判断に裏付けられた協調性や自重性が求められる。
二代目が残してくれた道を確実に継承し、四代目へこれから進むべき地図の橋渡し役である事を納得してしなければならない。
一代目〜二代目は組織の創世記に当たる。起承転結の「起承」に部分に当たる。物語で一番面白い部分。ドラマでもっとも視聴率が取れる部分でもある。そこでは、創業や創始に携わる英雄本人達が時に命懸けで活躍するのだから目を奪われない筈がない。しかし、三代目の頃になると英雄本人達が老齢を理由に現場や前線から姿を消す。鉄火場が激減する事から、次の英雄が現れる余地はなくなる。だから、次世代の英雄達の代わりに過去の英雄達の後継者、子孫や元腹心がその地位に就いている場合が多い。
歴史の立役者本人でなければ、直接的に立てた功績は少ない。また、その覇気はコンバット・プルーブンではない。だからこそ、三代目は遠慮なく、新しい幹部達の処遇をいじる事が出来る。そう言う価値観の転換を体現するからこそ、三代目はある種の特殊性を持つのだ。
二代目→三代目→四代目への継承が成功すれば、その後は容易に世代交代が進むと言う土壌が生まれる(即位後に見られる王族の兄弟殺しが起こるかどうかは、どちらかと言うと民族的な性向の発露の類いなので不問としたい。被支配者達には支配者達が何人死ぬかよりも、統治手段の如何こそが重要である)。
こんな感じで、継続可能な国や組織などが初めて成立する。一代目や二代目は、ぞれぞれ数世代の人材が担当する事もある。明確に、どこまでは一代目で、どこからが二代目であるかがキッチリ判明しないケースも見られるかも知れない。
しかし、安定期の始発点となる三代目だけは、画竜点睛的なパーツである事から、明白であり、多くの場合は一世代だけが担当するのみである。
そして、四代目からは、下手を打たない限りは、組織は確実に自動的に回る筈である。
何もしていない様に見えて、本当に目立った事を何もするべき事を定義づける役割を担当するのが三代目なのだ。
ただし、この"何もしない"と言うのが多くに人間にって案外難しい。後目競争を勝ち抜いて、三代目に望んで就任する様な人物であるなら、自分が誰よりも優秀であると言う自信と自負に塗れている場合が多いだろう。
だったら、念願のリーダーとなった後に、少なくとも心中では大人しくしていられる訳がない。実際、「先代とは違った指導をしてリーダシップを示したい」と言う、自尊心ではなく虚栄心がもたらす罠=試練に苦しんで失敗してしまうケースが多い。
虚栄心と評するのは、自分で作ったものでなく、他人から引き継がされたものに過ぎないにも拘わらず、己の色にシステムを染めたいと言うのは余りに外道であるからだ。もし、そうならば、自らが一代目となる事を試み、ゼロから新しいシステムを構築すべきであるからだ。
以上の事情で、三代目の段階で野心一杯の革命家や目立った業績を残して虚栄心を満たしたい「大物」がその役職に就いてしまっては、それまでに気付き上げたシステムを瓦解させるか、粗悪な別物へと変化させてしまい兼ねない。
できるだけ、そのシステム由来の人間関係に束縛されない人物背景、精神構造、価値観が求められる。そして、一代目〜二代目と共に引退する初期支持者の後継者達と、それまでとは異なるネットワークを緩やかに構築していける様な、飄飄とした(あるはそう見える)人物が好ましい。
三代目こそ、誰を就任させるかとても微妙で慎重な最も大きなギャンブルとなる。実は、三代目に付け替えは効かないのだ。失敗すれば、ご破算となってゼロとなる。良くて道半ばくらいまで立ち戻ってやり直しとなってしまう。
例を挙げれば。江戸幕府の徳川家光、オスマン・トルコのスレイマン大帝(←正確にはマホメット二世から数えて四代目だけど)、ムガール帝国のアクバル帝は、もっとも正しく三代目の役所を真っ当した様に思える(残念なのは、ローマ帝国のティベリウス。二代目の本人は有能だったけれど、後継者を自分で決められなかった(しかも、大本命として一代目が指名した後継者であるゲルマにクスは早死にしてしまった。後に皇帝に即位するカリギュラはゲルマにクスの息子。結果、三代目と五代目で大失敗)。惜しい。三代目の後継者選びは本当に難しい。
特に事実上の三代目と第五代皇帝の治世を経てもローマ帝国その物が滅びなかったのは、〇代目と一代目が優秀過ぎたからだろう。案外、ティベリウスが三代目であったのかも知れない。
"〇代目と一代目が優秀過ぎた"の真意は、万条 菖蒲が試みたものと同じ。自分だけでなく、より広大に多くの人々にとって、ローマ帝国が継続した方が敢えて潰してカオスを呼び込むよりも多くのメリットがあったからである。
これこそが、自分の夢とか目標とか野望とかを継続的に達成させる為に不可欠な、「自動化」の正体である。ローマ帝国の住民と周辺国家にの人々は、自発的にローマ帝国の継続を望み、許し、認め、願ったのだ。こうなると、〇代目と一代目の意向とはへったくれは一切無関係な事象として、ローマ帝国は成立する。
成功した三代目は、漏れなく自分がギャンブルの真っ直中にいる事を自覚していた。成功しなかった三代目は、漏れなく自分がギャンブルの真っ直中にいる事を自覚していなかった。だから、自分で愚かなギャンブルを初めてしまう。
しかし、多くのケースで、巨大な規模では〇代目と一代目ほど上手に「自動化」を達成出来ない。万条 菖蒲であっても、せいぜい日本国と言う狭い国土内でのみ、それに成功しただけである。
しかし、極少数しか確認出来ていない"成功した三代目"は、何故、どうして、どうやって自我や欲望を抑え切る事が出来たのか? それは、驚く事に、その一世一代のギャンブルを楽しむ事を放棄して、冷静を保ちながらギャンブルに勝つことだけを念頭に専念していた節が垣間見える。
ーーー例えば、スレイマン大帝は、自ら理屈の分かる統治者として君臨する事を望んでいたらしい臭いがプンプンする。
本当にそう望んでいたのかは分からない。ただ、そうであろうと自らを律するべく努力しらと言う可能性はある。もし、そうであるなら長く生きれば生きるほど、より強靱な自制力が求められる。まるで、決して中毒症状に陥ることなく制御しつつ、麻薬類全般を嗜み続けるほどに、タイト・ロープな人生であったに違いない(その手の人々は、ほぼ例外なく権力や薬物に溺れて終わります)。
ギャンブルを楽しまないと言う事は、つまり一世一代の大博打を冷静に眺めると言う事は、それはそれは自分がどれほどの危険の中にいるのかを知ると言う事でもある。ギャンブルに酔っていれば意外にも気にならない事が、どれほどの大事か分かってしまう。
本番を控えて、緊張の余りついつい飲酒に逃げたくなる心理は、それに通ずる人間の弱さでもある。命懸けのギャンブルに、素面で挑み続けられる人間なんてそう多くはいない。
そんな悦楽のない「将」を体現出来る人材はとても限られている。期間限定で、我武者羅に戦える=ギャンブルに酔える人材であれば、探せばいないこともないレベルで現れるのとは、とてもとても対象的だ(好き嫌いの問題で、折角の神懸かり的に戦える人材が十二分に活用された例は少ないが)。
創業守成。三代目の役割は「守成」である。「守成」の才の自然的な発生は希有である。この才の持ち主が少ないからこそ、一代で築かれた大帝国や勃興企業はそのほとんどが、四散、解消、或いは次世代の新興勢力に飲み込まれてしまうのだ。
言うならば、三代目とは、何の興奮も高揚も精神に与えてくれない「守成」に徹する覚悟を持ち、実につまらない「将」の役職を心の底から嫌いながら、どうしても逃れられない責任を感じて引き受けてくれると言う、極めて無茶な要求を満たしてくれる人材が求められるのだ。
今、日本国と「本州南北地方経済特区構想」は、正確には、万条家の双子達とその支持層は、その難解な条件を満たす三代目を欲していた。だが、誰をも納得させられる三代目がまだ登場していない。まだ、見出されていない。それが、目下の、最大で唯一の問題だった。
万条 マヤと万条 アイの話し合うべき主題も、その一事であった。




