送られる命。送る命。
私が、妻の五月と最後に"出会った"のは今から30年以上も前になる。ベットの上に横たわり、もう二度と目を開けなくなった妻の亡骸を抱き上げてから、果たしていくつの季節が過ぎ去っていたことだろうか・・・。
あの運命の日、私はその事実を医者から告げられた時、予想していた程に取り乱すことはなかった。それは突き付けられたとても不愉快な現実が、まるで自然が途切れることなく見せる物理的な現象の一つで、自分には何一つ関与することのできない結果として受けとめていたからだと、その時は思った。
その後に知ったのだが、人間は許容できないほどに大きな悲しみに対面した場合、あらゆる感情がブロックしてしまって精神的な不感症になるという素晴らしい才能を持ち合わせているそうだ。
神様という素晴らしい至高の存在は人間に対して、これほどに深い配慮を怠らないくせに、私の最愛の妻の生死についてはたいへん無頓着であった。そのことだけが悔やまれてならなかった。
妻の五月の死後、風化していく彼女の記憶を一つも逃がすまいと藻掻く日々が私を待っていた。今となっては反省しているが、五月が残してくれた娘達、菖蒲、マヤ、アイ達の存在が頭の片隅に追いやられてしまっていた。
そのせいで、長女の菖蒲には今でも頭が上がらないし、何より双子の娘達のマヤとアイは、私よりも姉に今でも懐いている。父親失格の烙印をしっかりと捺されて久しいと言うことだ。
家族を犠牲にして足掻いたというのに、結局は藻掻きは無駄に終わった。そして、私はその経験を通じて「地上には地獄しか存在しない」と誤解するに至った。あの頃の私は、ダンテの神曲に登場する冥府のガイドであるヴェルギリウスに代われるほどにこの世界への愛着を失っていた。
しかしながら、さらに時は過ぎた頃私はまた新しい事実を学ぶ機会に恵まれた。悲しみというものがやがて記憶の奥底へ沈み、新しく体験する喜びによって心は癒されていくことをその課程を通して悟ったのだ。
それは、五月が私に残してくれた長女の菖蒲の御陰だった。
双子の娘達、マヤとアイの初めての誕生日、つまり私が五月を失った日である一周忌、私はお墓参りを終えて、自宅のドアをくぐった瞬間に、魂の抜けた妻をこの両腕に抱いてこの家に帰宅したあの瞬間の感情を思い出し、それに心が完全に囚われてしまった。
まるで今この瞬間も妻の骸の重みが右手と左手の肘にかかっている擬似的な感覚におちいった。身体の全て筋肉の統制が心から離れていく気がした。もしこのまま、二度と思考できなくなってしまえばと本気で考えた。薄れていく意識の中で、そのまま死のうという誘惑にかられた。
今考えれば大それた想いだが、その時はそれが甘美な誘惑に感じられたのだった。だが私はそれをギリギリの所で思いとどまることが出来た。危ない所だった。
それはおそらく、意識が途切れる寸前で、自分が感じていた重みが五月の屍のものではなく、五月が残してくれた、私の魂と世界を繋ぐ「鎹」、三人の娘達であること思い出せたからだろう。
それから私は意志混濁の途中に、一瞬だけ意識を取り戻した。私は床に倒れていて、長女の菖蒲が必死に私の首を引っ張っているのが分かった。次に気が付くと、菖蒲が大泣きしながら、膝の上に私の頭を乗せていた。何とか気道を確保しようとしていた。
その時になって初めて、私は呼吸が出来ない事に気付いた。焦っていると、強制的に体内に息が吹き込まれて、肺が一杯に膨れた。その揺れ戻しで、私は息を吹き返した。菖蒲の膝の上から床に転げて、凄まじい咳きをして、吐いた。
しばらく藻掻いていると、何とか絶え絶えに自発呼吸が出来る様になった。そのまま、床をのたうち回っていると、菖蒲が白い服を身の知らぬ男達を誘導して来た。私の意識は、またそこで途切れた。ただ、最後に赤ん坊の泣き声が激しく聞こえていた気がする。きっと、双子の娘達、マヤとアイのものだったのだろう。
私が病院から退院が許されて、自宅へ帰るのには約一週間の入院期間を費やさなければならなかった。そのほとんどは治療ではなく、検査だった。
入院中に私の中で何かが変わった。何が変わったのは分からないが、何かが確実に変化していた。
自宅へ帰った日から、私は妻を恋しく思っても、過去の想い出の虜になる事は無くなった。ただ、命の恩人である長女を見つめて、いずれかの方向、出来れば前へ進むもうと考えるようになった。
この自分の生き写しと言われる長女を、妻とそっくりの栗色の髪を持つ双子達とは、別格の存在として意識し始めた。
その後は、地球は私にとって新しい惑星であるかの様に、新鮮な世界を提供してくれる様になった。新鮮な喜びの連続の後で、気付くと双子の娘達、マヤとアイは二回目の誕生日を迎えていた。
病弱だった妻が外の世界を学ぶ為に使っていた絵本を、長女の菖蒲が二人の小さい妹達に読んで聞かせている。マヤとアイはまだ、話の意味までは理解してはいないだろう。しかし、姉と過ごす時間を何よりも喜んでいるのが分かった。
私は娘達の将来を期待するだけで、それまで知ることのなかった喜びを感じる様になっていた。
それから、さらに、指ではとても数えられない年が過ぎ去った。三女のアイに続いて、次女のマヤも大人になり、明日この家からいなくなってしまう。
私はグラスに注いだウイスキーを啜った。そこは我が家のテラスで、夕日が良く見える私のお気に入りの場所だった。木製の椅子とテーブルがあり、私は椅子に座りテーブルの上には読む予定もないペーパー・バックが置かれている。
それは五月が好きだった風景だった。妻と暮らした自宅は、2037年の会津大震災で全壊してしまったが、その後に、妻が愛したこの風景だけはしっかりと復元した。
かつて、妻が私の帰りを待って座っていた椅子を復元したものに座りながら夕日を眺めた。それに飽きると私は眼鏡をテーブルの上に置いて、目と目の間を指で摘んだ。最近、特に目が悪くなった。私も六〇歳を越える年なのだから老眼になるのも仕方がない。
そんな事を考えながら、私はもう一度夕日を眺めた。すると、まぶしい光のこちら側に何時か何処かで見たことがある『影』が現れた。だんだんと近づいてくる。栗色の髪と透き通る様な白い肌。大きな瞳が長いまつげに隠れるような線の細い女だ。懐かしい記憶の中から、それが誰であるかを探し出して、はっとして椅子から立ち上がって叫んだ。
「五月!」
私の口は奮え、乾き、瞳は瞬きさえ忘れた。だが、夕日の中の影はこう答えた。
「お父さん、どうしたの? 私よ、マヤ!」
夕日を背にしたまま、驚いてる『影』は間違い無く次女のマヤだった。私は気が抜けて、椅子に再び座り込んだ。そして、落ちついてから苦笑いをした。
「すまない、マヤ。お前があまりにも綺麗なんで、お母さんと間違えてしまったんだ」
マヤは私の頬にキスをした。栗色の髪の持ち主の姿は、本当に亡き妻の生き写しだった。
「私はマヤでもあり、お母さんでもあるの。気にしないで」
マヤは私を強く抱いた。
「私は明日、婚約者と結婚してこの家を出ます。でもそれはお父さんとお母さんが私にくれた幸せのおかげ。私はあの日、お母さんが私に約束させた様に、きっと新しい命をはぐくむの。命を継ぐ者を誕生させる為に。お母さんの挑戦が決して無駄ではなかったことを証明する為にね。だからお願い・・・悲しまないで」
私は一呼吸置いてからうなずいた。
「そうだな。マヤは幸せになる」
私は自分の言葉で納得することができた。
「しかし、花嫁の父というものは何時の世もセンチなものなんだ。きっとお母さんのお父さんも同じ想いだったに違いない。因果応酬とはこのことか」
その日、私は娘と一緒に星が満天に散りばめられるまで西の空をを眺めた。途中、一度グラスの中でカランと氷が音を立てたが、そのグラスを手に取りはしなかった。そして最後まで私の側に残ってくれた娘の横顔を眺めることもなかった。ただ、今までの私の一生が幸せだったとの想いにひたっていたのだった。
眠りの前に私は自分の左手の薬指から銀の指輪を外して娘の手渡した。それは、妻と一緒に埋葬した結婚指輪のイミテーション物だった。
「お母さんの指輪はお前達の手元にある。そしてまた次の世代に受け継がれていくんだろう? この指輪もそうしてはもらえないだろうか」
マヤは無言で指輪を受け取り、強く頷いた。
もうこれ以上何も話す必要はない。私たちは分かり合った。
その夜は秋にしては異常に寒かった。突然に吹き出した風がまるで冬の到来を感じさせた。
私はたくさんの幸せな想いに包まれながらベットに入った。
やがて夢を見た。何時もの様に私は夢で妻と再開した。
今夜の彼女も私と出会った時のままの姿で美しかった。そして、ふと気付くと私もあの頃の若者に戻っていた。私と妻は一言も言葉を交わす必要はなかった。見つめていると、彼女の唇が動いているのが分かった。
あ、り、が、と、う・・・。
そう読み取れた。私にはそれで十分だった。
妻は私に手を差し出した。私は妻の手を取った。私と妻はもう二度と離ればなれにはならいと何故か確信した。そして、その代償として三人の娘達にはもう二度と会えないことが分かった。しかし、それは仕方のないことだと知っていた。
翌朝、私の身体は冷たくなっていた。マヤが私の身体を揺さぶっているのを知ってはいたが、どうしようもなかった。何故なら、それは運命だから・・・である。
私の一生は静かに、そして、幸せに終わった。菖蒲、後はお前に託す。




