はじまりがおわる。 〜その陸
〜インドネシア共和国領海、バリ海、スラマドゥ大橋手前。
浮上航行を続ける「たいげい」は、ゆっくりとロンボク海峡を北上し、そこからはさらに航行速度を落としてバリ海を西進。
バトゥーに聳え立つ、また、遠目では槍ヶ岳を連想させられる山形で知られるアルジュナ山(3,339m)を擁するジャワ島と、それに寄り添って海に浮かぶ小島であるマドゥラ島が手と手を取り合って作り出す、湾に見えない事もない、とても巨大な、実上の海流的な閉鎖水域を目指す進路を取り続ける。
先に、バリ島を横切って以後は、合戦を一つ終えたばかりの潜水艦の乗組員達の脚下に広がる海底は、艦底へと一方的に急接近している。
この周辺は、4,000m級水深を誇る大洋が広がる外界ではなく、人類が繁栄するに相応しい陸地に囲まれた、いわゆる内海の様なものである。
ちょっと前まで潜水航行していた水域とは、海底地形が完全に異なる水域へ入ったと言う訳だ。
この海域は、つまり水深の浅い内海や大陸棚上の海域は、邪な考えを持つ国家や組織が、核弾頭搭載弾道ミサイルを搭載した原子力潜水艦を海中に隠匿するには、極めて不適当である。
機械の目や耳で覗いてみても底が窺い知れない程に水深のある、いわゆる"懐の深い"海域であれば、それはあらゆるものを飲み込んだり、包み込んだりする。
実際、日本国以外の東アジアの隣国達は、日本海溝真上の航海に、事もあろうか放射性廃棄物(やそれに劣らずヤバイもの)をつい最近までバンバン放棄していたみたい。それも、"懐の広い"、どこかの国からは東側に見えるあの海があってこその蛮行である。
そう言う意味で、つまり、平和目的、或いは透明性の高い海運の効率や安全性の向上の為であれば、こちらの浅い、"懐の深くない"海域の方がよっぽど好ましい(浅い海の方が、事故で沈没した船舶の発見や引き上げが容易だろうし)。
だいたい、"懐が深い"と言う表現も考え物である。例えば、"懐が深い"男を、直情的に生きるタイプの女性が相手にする場合は、客観的には相性最悪な組み合わせとなりえる。
それは"懐が深い"男は、自分が何を考えているのかを身近にいる女性に対して、徹底的に誤解させられる程の知力の持ち主である可能性が高いからだ。
容易に印象を一定方向へと誘導されてしまう。手の上で転がされてしまうと言う事だ。主観的にはとても幸せでも、客観的には真逆と言う状態に陥りやすい。
ーーー本人的には自分はとても輝いている筈なのに、他人から見るとボロボロの状態に陥ってる。
長い目で見ると、それは大変によろしくない。
この種の男の性向は、ありふれた女性にとって、相思相愛とか相互理解に挑戦する上で大変な障害となる。しかも、女性の側には、相思相愛とか相互理解が出来ていると一方的に思い込まされかねない危険もある(そこが良いの♡ と言う人もいるから、ご自由にとしか言えないね。だから、自分が良いと思った男を選ぶのが一番いーと思うよ。もちろん、自己責任で)。
女性の側の幸福と不幸が、"懐が深い"男の気分しだい。こう言う一方的な依存関係は、行く行くは歪な人間関係を生み出してしまう。
人間関係を家族関係へと昇華させてしまうと、長い目で見ると、それは大変によろしくない事になる。もし、それでも弁護士さんの懐を暖めたいと言うのなら、仕方がないけれど。
老婆心ながら・・・どうせなら、懐ではなく情が深い男を探すべきだろう。もちろん、懐が深い男だと、「自分が情に深い男である」と標的とする女性に誤解させるのも容易そうだが。
もっとも、懐の深さ、情の深さ。いずれも、業の深さでは等しく厄介ではある。
人生は本当にままならない。深く考えるよりも、案外、「神様の言う通り。なのなのな・・・」で決めた方が良い結果をもたらすのかも知れないし。
ーーー懐の深さ。
最近発表される物語が、揃いも揃ってノーストレスなものばかりなので、どうにも筆が滑ってしまった(正確には、キーボード上を指が滑ってしまった)。
兎に角、
海の方も男のそれと同じ理屈が通る。
懐の深さは、良い事に使えばたくさんの良い事が出来る。
しかし、懐の深さを、悪い事に使えばたくさんの悪い事が出来てしまう(懐の深い海の強奪と、そこへ自軍の核弾頭搭載弾道ミサイル搭載原子力潜水艦を配備する事は、その真実を証明する一例である)。
秀でたモノは、正の面だけでなく、それと同じくらいの規模の負の面をも絶対的に持ち合わせている。正と負は必ず表裏一体である。
だから、懐の深い海の取り扱いは、刃物や馬鹿と同じで、ちょっとでも取り扱いを誤ると、使用者だけでなく回りにいる無関係者達の身の安全まで脅かし兼ねない。それほどに、文字通りで掛け値無しに危険極まりない代物でもあるのだ。
侵略嗜好を全く持っていないと公言する国家であれば、人類にとっての海とは、かの「平和の使徒」である事が自国の核心的利益であると公言して止まないあの人民共和国が、潜水艦の探知が困難になる懐の深い海の領有を切望して、自国沿岸から遠く離れた海洋まで出向いて無理矢理な進出活動を実行し
続ける説明が付かない。
既に、自前の領海と認められている内海や沿岸水域の様に、浅い深度の海域しか領有していなくても、「平和の使徒」であり続けるならば、何の不都合もない筈だし、一向に構わない筈だし、差し支えもないではないか。敢えて、深い海を新たに領海に加える事で生じる"懐の深さ"を獲得する意味などないではないか。
「平和の使徒」としての本命を真っ当したいのであれば、あくまでも自衛目的で運用するならば、潜行中の潜水艦であっても、上空や上宙から簡単に発見可能な程に浅いせいぜい最大水深100mの海しか持ち合わせていなくても何の不都合がない筈である。
何も、自国沿岸(←国際的な認識による)から遠く離れて、大深度海域への接続口となる南シナ海までわざわざ出張って来て、他国との摩擦を盛大に繰り返す必要もないのである。
わざわざそれを行っていると言う事は、彼等には、膨大な手間暇を掛ける事をヨシとするだけの目的が存在していると言う事になる。
根拠は"常識"である。周辺国の本当に全てと、何の目的もなく外交問題を立て続けに引き起こすなんて、そんな馬鹿者はいない筈である(もし、本当に目的なしだと言うなら、即刻で前言撤回して、「そんな馬鹿者はいた」と主張を訂正する用意はある)。
イブン・タナカ中佐は、「たいげい」艦長の菊池 敬吾二佐から公開された情報を思い出している。
例の不審潜水船「イー」の末路についてである。
不審潜水船「イー」は、彼女を支配していた名も知らない人物は、自身を取り囲んでいる水域の劇的な環境変化に気付いていた。
だが、海水にシェイクされ続けたせいで、また、スターリング・エンジンを多用して機材の実力以上に長期間の潜行を続け過ぎてせいで、慣性航法装置が自艦の位置を見失い始めていた。
その最悪状態で、全くもって予期していなかった巨大な海流の変化に出会してしまった。深海に引きずり込まれ始めた頃には、東西南北でけでなく、自分達が計器上の数値では、浮上しているのか沈下しているのかも分からなくなっていた。
でありながら、自艦の急速な沈み込みを不審潜行船の艦長自身の尻の穴は、確実に感じ取っていた。
彼としては偉大なる党から与えられた使命に殉じる事が正しいと知りながら、偉大なる党を裏切ってでも、何とかこのピンチを切り抜けて生き残れないものかとまだ生じていない選択を探していた。
それは、「たいげい」のソーナー・システムに記録されていた"音"の変容でも明白だった。
不審潜水船は、圧縮空気を盛大にブローして、既に海上への浮上を試みていたのだ。だが、浮力よりも沈力の方が明らかに優勢だった。
その辺りの筋書きは、ほぼ同時刻のイブン・タナカ中佐の想像の通りだった。だからこそ、彼は不審潜水船に向けてアクティブ・ソーナーを打たせたのだ。
ーーー上方向を見失いつつある者に、「こちらに上方向がある」と伝えたかったのだ。
溺れる者に対して、救命ブイを投げてやるのに等しい行為だった。
だが、その溺れる者は、自国に対して邪な意思をもって隠密行動中だった。本来ならば、見殺しにして然るべき"敵"だったのだ。
ーーー見るに忍びない。
それでも、イブン・タナカ中佐は、同じ海に生きる者同士として、目前で繰り広げられようとしている不幸を見過ごす事が出来なかった。
不審潜水船「イー」の艦長も、以心伝心で出所不明のアクティブ・ソーナーへ択された意味、敵から塩を送られた事実を悟っていた様だった。
不審潜水船はスキュード・プロペラをバッテリーの残量も気にせず、海上の方に向かって正しく全力で回し始めた。
不審潜水船「イー」の艦長は、投げ入れられた救命ブイに縋ったのだ。
だが、海の自然は人間の思いやりが通用する程に甘くはなかった。イブン・タナカ中佐が咄嗟に投げ入れる事が出来たのは、救命ブイではなく「藁」程度のものに過ぎなかった。
不審潜水船「イー」は、全浮力と全力推進を維持したまま、生への希望を持ったままで、呆気なく深海へと引き釣り込まれて行った。
そして、最後にスクリュー音を記録した5秒後に、強烈な圧壊音が「たいげい」のソーナーへと届けられた。
不審潜水船「イー」は、安全深度を抜け、構造限界をすんなりと超え、水圧に襲われて、耐水殻を呆気なく押し割られてしまったのだ。
公式には、これは戦闘結果の撃沈ではなく、海難事故による沈没として取り扱われる事になるだろう。
ただし、人民共和国が、不審潜水船「イー」のインドネシア共和国に対する不当な領海侵犯を認める事が出来ればだが。
おそらく、このまま、人民共和国は、知らぬ存ぜぬを貫く事になるだろう(そして、一方的に強く長く怨み続ける事だろう。ひ孫の代なっても、ついさっき一族郎党が不当に虐殺されたばかりで、まだ流れ出た血も乾いていない!! みたいな感じで突っ掛かってくるだろう)。いつも通り。平常運転で。
そうなると、ロンボク海峡、または太平洋だかインド洋の海底で眠る無名の戦士達の魂を慰める者が永遠に不在であり続けると言う事になる。
イブン・タナカ中佐は、誤解された方の帝王学のイメージ通りの、冷徹そのものの選択を躊躇なく出来るかの国の指導層が共有する価値観を、非人間的が過ぎると感じていた。それとも、実母が好む日本の古いドラマ「大江戸捜査網」で毎回流れるナレーション、「死して屍拾う者なし」的なヒロイズム原理主義の体現なのだろうか?
彼には、自分が理解出来ないのは、それが「極東アジア特有の価値観」であるせいなのかも知れないとする事で心の整理作業を片付けた。
人民共和国が抗議なり、何なりのアクションを取らなければ彼の母国であるインドネシアとしても、今回の事件については積極的な無視を貫くだろう。
だから、事の真相を知る事になるインドネシア海軍としても、公式な慰霊行為などは一切行わないだろう。
インドネシアに限らず、海に面している国家であれば、何処に対してでも、積極的に難癖を付け回り続ける破落戸と積極的に歩調を合わせる事を望む国家や組織などある筈もない。
「たいげい」が浮上した後、インドネシア海軍では手に余ると判断して、違う意味での宿敵中の宿敵であるオーストラリア海軍がロンボク海峡南側(インドネシア防空識別外)に対戦哨戒機を送ってくれた。
だが、もし、沈没船が深海1,000m級の海底へと転がり落ちている様なら、オーストラリア海軍の機材でも空中からの発見は困難を極めるだろう(スクラムに失敗した原子炉でも搭載されているのなら、そうでもないかも知れないが)。
菊池 敬吾二佐は、イブン・タナカ中佐が打ったアクティブ・ソーナーの真意には気付いている様だった。だが、敢えて何も発言しなかった。
一方で、ソーナー・マンなどは、「どんな状況でも戦闘意欲を失わない、戦闘種の猛犬に等しいインドネシア海軍中佐」に対して、畏怖の念を懐いたらしい。そして、彼の懐いた感想は、今や艦内全域へと広がっていた。
イブン・タナカ中佐は、以前と以後では、自分に対する乗組員による扱いの質が劇的に向上したと言う印象を持っていた。
菊池 敬吾二佐は、その効果も計算して、沈黙を守り続けているのかも知れなかった。
全ては終わったのだ。顔も知らないに拘わらず濃密なコミュニケーションを取った故人艦長や故人乗組員の運命は決まった後だ。今更、救い直す事なんか出来る筈もない。
ーーーしかし、貴方達が生きていた事をオレは決して忘れない。
イブン・タナカ中佐は、「もしかしたら、自分もこの先に同様の運命が待ち構えているのかも知れない」と想いを噛み締めて、"勝って兜の緒を締めよ"と言う日本の古い知恵を知らずの中に実践していた。
イブン・タナカ中佐と菊池 敬吾二佐は、監視員と共に「たいげい」の艦橋に上がっている。艦周囲、360度の全方位を肉眼で監視中だ。
水深は既に浅くなり始めている。周辺に浮かんでいる、「たいげい」から見れば小舟としか言えない漁船の数も増加中だ。
左右に陸地が見え始める頃には、民間の貨客船や貨物船を頻繁にすれ違う様になる。
前方にスラマドゥ大橋がじょじょに姿を現し始める。ジャワ島とマドゥラ島の間に横割る狭い海峡を横断する、全長5,438mと言う巨大な斜張橋だ。航海の最後にこれを目にすると、スラバヤへ帰って来たと実感出来る。
開通後10年間は、地元住民による落書き行為が繰り返されて地元自治体を困らせたが、工事中に事故死した作業員の幽霊がヴァンダリストを呪うと言う噂が広まってからは、悪質な損壊行為はほとんど起こらなくなった。
ただし、工事を受注した外国企業が設計図通りに建設しなかった箇所が2030年になってから大量に発見され、見込み通りの耐用年数は期待出来ないとして、スラバヤ市民を大いに落胆させた。
実際、これが原因で、スンダ海峡(ジャワ島〜スマトラ島)を結ぶ巨大橋の建設計画が一度白紙化されている。
イブン・タナカ中佐は、そんな事を考えながら、そう遠くない未来に海上ですれ違うだろう、まだ遠くにいて肉眼では小さくしか見えない貨物船を双眼鏡で覗き込んでいる。
南国の海の上である。寒くはない。むしろ、雲切れ間から差し込んで来る、いや、肌に突き刺さって来る太陽光は暑いのではなく痛い。
更に、海面からの反射光も追加で襲って来るので、海軍軍人の肌は誰もが良い感じに黒々と焼けている。
歳を取って艦を降りて、陸上勤務となると肌の色の黒さが薄くなる傾向がある。それを、冒険的な海軍の軍人達は、将官から一兵卒まで揃って悲しんだ。少なくとも、現場にはそう言う文化があった。
そう言う退任を控えた色白の海軍軍人を陸上で見掛けると、イブン・タナカ中佐は、「やがて自分にもそんな瞬間が訪れる」と否が応でも認めざる得ないと思い知らされる。
特に、一つの大きな冒険を終えて来たばかりの男にとって、あんなに血湧き肉躍る瞬間を捕まえる機会を永遠に失う「老い」と言う「時間切れ」が耐え難かった。
ーーーまだ、帰りたくない。もう少し、この充実した瞬間が続いてくれないものか。
イブン・タナカ中佐は、トロイ戦争終結後にたいくつな日常生活が待ち構えている自らの領土(島)イタケへと直帰せずに、地中海を言い訳がましい理由で彷徨いていた英雄「オデュッセウス」とその部下達が抱えていた、ある種の複雑に高揚が収まらない気分の正体を少しだけ理解した。
ーーーホメロスの『オデュッセイア』を近いうちにキチンを通し読みしてみよう。
艦橋の上に立っていると、背後から風が推して来る。「たいげい」もそれなりの速度で進んでいると言うのに、それでなお背を押すと言うのは、それなりに強い風が吹いているのだろう。
もしかしたら、スラマドゥ大橋を横断する二輪車がフラフラしながら走行させられているのかも知れない。
ーーーこの素晴らしい艦とも、これでお別れか。
イブン・タナカ中佐は、日本国・海上自衛軍・通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」と言う、過去に自分が艦長を務めた艦よりもずっと自由に動ける黒い「大鯨」に既に魅了され尽くしていた。
ーーー我が軍でも、この種の決戦兵器が欲しい。
だが、アンダー・テーブルで行われる秘め事にラブラブな偉い人達が、その種の交渉に決して応じない事で常に損をしている日本国の輸出品を自国の備品として採用するとは思えなかった。
日本国には妙な法律が存在しているのだ。国外での商業行為であろうとも、それが地元では一般的な文化であろうとも、担当者個人への金品などの利益の供与を国内法で公に禁じている(それも極めて強く厳格に)。それらを重箱の隅を突き破る勢いで突いて、難癖を付けて、見い出して、地の果てまで追い掛ける勢いで罰する。しかも、最高裁による厳しい判例が多数積み上げ済みである。
郷に入っては郷に従う。それを決して許さない人々が日本にはいる。決して多数ではないが、その声はとても大きく、さらに主語は途轍もなく巨大だ。
これでもそこそこ海外で売れる日本製品。そこにこそ、日本の技術者の魂と海外セールス担当者の汗を感じずにはいられない。。
イブン・タナカ中佐が知る限り、世界中でそんな荒唐無稽な法律を杓子定規に運用する様な不思議な国家は、日本国以外には存在しなかった。
軍用兵器に限らず、海外ビジネスにおいて、政府レベルの巨大プロジェクトでは、担当者個人への金品などの利益の供与は絶対的に避けられない。日本国は、それが分かっていながら、我が歩むべき王道として一歩も譲らずに歩んでいる。
しかし、彼が知っているもっとも身近な日本人である、自分を産んでくれた母親は、そんな骨の通ったサムライ的な価値観は持ち合わせていなかった(時代劇ファンではあったが)。
そして、こうも思う。果たして、日本人の血を半分継いでいる自分は果たしてどうなのだろうか? と。
気が付くと、背後で、菊池 敬吾二佐が、スラバヤの第2艦隊司令部の管制と連絡を取り始めていた。
「こちら、第2艦隊所属KRI「ナンガラ513(ナンガラIII)」、入港許可願う。航行に支障の無い軽度の損傷を負っている。ただし、一部水密に支障あり。乾ドッグへの干し上げを上申する。タグボートの用意を・・・」
イブン・タナカ中佐は、驚いて振り返る。
気付いていなかった。今気付いた。
日本国・海上自衛軍・通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」は、日本の海軍旗ではなく、インドネシアの海軍旗を掲げて航行中だった。
「菊池二佐、どう言う事なんだ?」
イブン・タナカ中佐は、菊池 敬吾二佐を問い質した。これは、重大な違法行為だった。他国領海の自由航行を行う最低のルールである所属旗の不正掲揚に相当すると言って良かった。
菊池 敬吾二佐は、さも当然と言う素振りでイブン・タナカ中佐へ敬礼を送った。
「イブン・タナカ艦長、見事な操艦でありました。手助けさせて頂いた日本国・海上自衛軍一同は、賞賛を惜しみません」
「艦長?」
「そうです。この艦は、すでに日本国から貴国へと引き渡しが完了しております。多少の些末な書類的なサインや支払いなどは、まだ残されておりますが」
「引き渡し?」
「はい。貴国は日本国から「たいげい級」潜水艦の中の6隻を購入する契約書に既に調印済みです」
「6隻?」
「はい。この「たいげい」は最初の引き渡し艦となります。これから、残りの艦に日本国で改装を施した上で、1年に1隻のペースで引き渡しを継続する予定です」
「どうなっているんだ?」
「襲撃直前にブイ・アンテナ深度まで浮上した時に、このプロジェクトの責任者である志摩家海将補から命令を受けました。貴国も、今回の不審船の一件で重い腰を上げた様です。我が国から6隻まとめてお買い上げになる決断を即決したとか・・・」
イブン・タナカ艦長としては、何が何だか分からなかった。だが、自分に充実感を与えてくれた「たいげい」としばらく別れなくて済むらしいと言う事くらは理解出来ていた。
「私が乗艦した時から決まっていた事なのか?」
「交渉は艦長が乗船する以前から始まっていましたが、貴国側が決断の先延ばしを繰り返していたと言うのが実情の様です。そこを、我々の志摩家が今回の事件を梃子にして"開かずの扉を力技でこじ開けた"と推測しています」
イブン・タナカ艦長は、驚きのあまりに、口を開けっ放しで呆然とする。
「まあ、そんな訳で、我々海上自衛軍の全乗組員は、今や艦長の指揮下に入っているとお考えください」
イブン・タナカ艦長は、取り敢えず、ボスらしい事をしなければならないと感じた。しかし、あまりに急な事で何をすれば良いのか分からない。そこで、全世界の船乗り共通の解決策を採る事にした。
「本日、20:00時、基地の酒保に全乗組員で集合だ」
菊池 敬吾二佐は、ニコニコしながら応じる。
「本日、20:00、基地の酒保にて全乗組員。わかりました。しかし、そこで何を?」
イブン・タナカ艦長は、男らしく言い放った。
「艦長の奢りで宴会だ。今回の航海の成功を祝して飲み放題。何でも好きなだけ飲んで良し」
菊池 敬吾二佐は、困った表情を作って応じた。
「しかし、貴国は飲酒が御法度の御国では?」
イブン・タナカ艦長は、言を曲げずに言葉を繋いだ。
「何。今日ぐらいは誰でも見過ごしてくれるさ。だいたい、何処のコンビニでも売られているじゃないか?」
菊池 敬吾二佐は、冗談の通じる男に対して、自分から右手を差し出して握手を求めた。イブン・タナカ艦長はそれに応じた。
「今後暫く、その位の寛容さを我々を受け入れてくれると助かる」
イブン・タナカ艦長は、敢えて尊大な態度を作って応えた。
「もちろんだ。我々は「Kawan seperjuangan」、・・・「戦友」だからな」
KRI「ナンガラ513(ナンガラIII)」と艦名を変えた「たいげい」は、スラマドゥ大橋の下をくぐってスラバヤ軍港へと進む。
所属は第2艦隊となる事が既に決まっていた。
イブン・タナカ艦長は、タグボートの接近を今か今かと待ち続けた。
>>・・・ーーー・・・ーーー・・・ーーー・・・ーーー<<
インドネシア共和国は、導入当初から何かと不具合の多かったナーガパーサ級通常動力型潜水艦6隻体制を刷新。機材を総入れ替えすると言う、全装備の近代化計画を立てていた。
だが、ナーガパーサ級潜水艦の建造計画を技術的にサポートした国家や企業が、前回と同様に後継機種として改良型ナーガパーサ級の技術移転の申し出をしていた。
しかし、西ドイツ起源の209型潜水艦を原型とする改良型ナーガパーサ級潜水艦では、人民共和国の相手をするには無理が有り過ぎた。
それを承知で、アンダーテーブルな交渉を持ち掛けて来る。インドネシア共和国は、日本国から中古の「たいげい」級を導入して、運用に慣れた後は新造艦を注文し、行く行くはナーガパーサ級の様に自国で建造するサポートを得たいと願っていた。
日本国としては、インドネシア共和国との大型国際取引には過去に色々な経緯があった事から、話半分くらいに耳を傾けていた。しかし、志摩家海将補と一部の政治家達が、積極的に動いた。建造メーカーも、付き合い程度に協力的交流を開始していた。
それでも、インドネシア共和国の政治家と利権家達は、それでも過去の技術提供国が個人的に提示するアンダーテーブルな条件の甘みを忘れられなかった。
それで、話がもつれて、1年以上"交渉中"の看板が掲げられていた。それが突然に動いた。先の沖縄本島での首相暗殺事件や沖縄本島への弾道弾による攻撃が実行され、その後に日本国側の鮮やかで隠密な報復処置の詳細を知った。それらの報復処置が、全て潜水艦によって達成された事を知った。
それで、今度は逆にインドネシア共和国の方が前のめりの接触を始めて来た。それでももちろん、機材調達の決定権を持つ者達への個人的に提示されたアンダーテーブルな条件が最後まで引っ掛かった。
その、左右に振れる乙女心の様な迷いを、志摩家海将補が断ち切る方へと誘導した。
もし、
不審潜行船が貴国への脅威として動いた場合、
交流活動目的でインドネシア領海内を潜行中の「たいげい」が脅威の無効化に成功した場合、
日本国から中古の「たいげい」級6隻の導入する。
と言う約束に漕ぎ着けた。
インドネシア共和国としては、自国領で敵潜水艦の初撃沈の功績を外国の軍隊に持って行かれる事一点に不満をもった。
そこで、志摩家海将補は、"「たいげい」に乗船しているインドネシア海軍中佐の指揮下で襲撃作戦を行った事にする"と提案した。
話は直ぐにまとまった。
脅威の無効化に成功した場合のみ、この約束は有効。
逆に、「たいげい」が損害を被った場合は、この約束は無効。
とされた。
その交渉の内容を一方的に送り付けられた菊池 敬吾二佐は、一度頭を抱えた。志摩家海将補を恨めしくも思った。しかし、よくよく考えてみると、最初から勝算が高かったことが分かって来た。
それはインドネシア海軍が保有する深海データ(地形も含む)を総動員して、襲撃作戦を実行出来る事を意味していると気が付いたからだ。
おそらく、志摩家海将補はそれに気付いているだろうが、インドネシアから訪れている交渉相手は気付いていないのだろう。
そんな事情で、菊池 敬吾二佐はイブン・タナカ中佐に、襲撃が終了するまで「たいげい」の操艦を預け続けたのだ。
志摩家海将補は、賭けに勝った。
彼が思う以上に、事は圧倒的で華麗に進んだ。
「たいげい」が追っていた不審潜行船は、攻撃を実行する前に自滅した。しかも、内部孤立波(水中波)発生した同じ海域に潜水していた点では同じでありながら、敵は深海に引きずり込まれて圧壊した。
一方で、「たいげい」はイブン・タナカ中佐の操艦によって、見事に窮地を脱した。御陰で、たった今も航行中でスラバヤ港を目指していると言う。
この経緯は、インドネシア共和国の心象を良くした。自国の艦長職経験者が初操艦で「たいげい」を使いこなしたのだ。それは、他の艦長職経験者であっても、同様の戦果を上げられる可能性を示唆している。
もしかしたら、スペック通りの性能を発揮した事など一度もないナーガパーサ級潜水艦をすべてたいげい級潜水艦へと置き換えさえすれば、一緒にメラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの海で、宿敵であるオーストラリア政府が一目置かざるえない軍事的な最大勢力を築けるかも知れない。
何かと摩擦が多い、オーストラリア軍に一泡吹かせてやれるかも知れない。
そんな野望を懐き、インドネシア共和国は日本国製の兵器導入へと急激に舵を切った。
日本国は、「通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」を直ちに引き渡すべき」との政治決断を下した。そして、その公的名称を既に、KRI「ナンガラ513(ナンガラIII)」へと書き換えていた。
「たいげい」を日本国からインドネシア共和国へと送り届けた日本国・海上自衛軍所属の乗組員達は、しばらくはそのままインドネシアへ滞在する事となる。
まず、現地で彼等を待ち構えている三菱重工業からの派遣チームと合流して、海上自衛軍の機密データを艦の引き渡し前に全て抹消作業に協力する。
更に、インドネシア海軍のサブマリナー達の機種転換業務をサポートする事になる。まずは、イブン・タナカ中佐を中心に教導部隊を発足させる事となる。
搭載されるリチウムイオン電池とディーゼル機関と電気推進システムは、先に大規模整理を終えたばかりなので、このまま暫くは日常の整備だけで維持出来るだろう。
「たいげい」は、たいげい型潜水艦のネームシップである。
横須賀の第2潜水隊群第4潜水隊へ試験潜水艦として配備される事でキャリアを開始した。
今回も、初の潜水艦輸出と言う時代を切り開く役目を授かる事となった。
おそらく、二番艦の「はくげい」も長女を後を追って、来年か再来年にはインドネシアへと送られることになるのだろう。




