はじまりがおわる。 〜その肆
〜インドネシア共和国領海、バリ海、ロンボク海峡・ペニダ島沖。
不審潜行船の正体と目されている「遠征33号」。
絶対。おおよそだけど、たぶんそう。
自国近海ではなく、他国領海奥深くの不慣れな海峡部であるに関わらず、大胆不敵にロンボク海峡の水面下、深度100mの海宙のど真ん中を進み続ける。
海の上を航行する民間水上船からすれば、自分達の足下に全長70m級もの、所属隠匿船が航行中とは想像も出来ないだろう。
高度な魚群探知機を搭載する日本の漁船だって、漁をしていない時にまで電源を入れて常時監視しているとは思えないし。
ところで、国連海洋法条約と言う約束事が、軍艦であっても無害通航権(※)の主張を許してくれる。これは太平洋戦争後に成立した軍人両用の習慣だ。だが、おおよそ「遠征33号」である不審潜行船は、それすらもガン無視で潜行航行中である。
だが、それでも、先進国並みの潜水艦ハンターとして十分な装備を持つ哨戒機による入念な探索が行われれば、艦体の上空を通過するだけで磁気センサーによって磁気探知機で存在を把握されてしまう(まっとうな訓練と機材アップデートが施された場合。最近ではMAD不搭載哨戒機も増えている様ですが)。
日本国の南方領海/沖縄県沖では、懐の広すぎる地元自治体の領頭様による暗黙の了解の元で色々好き勝手出来ている様だが・・・、超自由人的振る舞いで有名な人民解放軍・海軍であっても、流石にジャワ海まで出向いて、海の底を目掛けて水中ケーブルを垂らす測量船などを自由に送り込める訳ではない(インドネシアは過去に、正確にはスシ・プジアストゥティ海洋・水産相時代に、某国の違法漁船をナトゥナ諸島沖の排他的経済水域で拿捕・乗組員を拘束後に、爆破・撃沈した事もある。時に、日本国よりよっぽど強硬な手段で抗議してみせる)。
だから、おおよそ「遠征33号」である不審潜行船は、この海域を航行する自国のタンカーや漁船などに搭載させられた、フルノ製やシムラッド製とかどこかの魚群探知機で集積したデータで作り上げた最低限の海中地形図しか持ち合わせていない可能性もある。
そんな事情では、隠密作戦であるが故に、アクティブ・ソーナーで探針しながら進む訳にもいかないので、確実な水路ど真ん中を堂々と征く以外に選択がないのだろう。
ーーー成せば成る。とにかく前進すれば何とかなる。
進歩的な共産主義国特有の超先進イデオロギーは、科学的根拠希薄な仮説を気迫で押し切るのだ。つまり、そこにこそ、彼等なりの意識高い的なスノッブの真骨頂があるらしい。
世界には、自分の常識が通じない、人々、民族、団体、国家などは腐るほどある。珍しくもないのだ。だから、もし、貴方が海を越えて異国で商売でも始めようものなら、ちんぷんかんぷんで、非常識で、馬鹿にしているのかとしか聞こえない主張を耳にすることもあるだろう。
しかし、相手に非がある、自分に対して邪な考えがあると一方的な判断するのは早急過ぎるかも知れない。意外にも、かなり高確率で、貴方が自分の耳を疑っている話を、貴方が出会った人々は本気で、懇切丁寧に主張しているのだ。そして、その方が賢く、ウィンウィンの関係を続けていけると信じていたりするのだ。
しかも、彼等なりの主張の根拠を並べてもらうと、そちらの方もさっぱり理解不能と来ている。チャールズ・チャップリンの映画的なスラップスティックではないのかと疑いたくなるが、それは堪えて欲しい。苦しいとは思うが。
ーーーそれぞれの文化が、圧倒的に違うと言う事はそう言う事なのだ。
どちらかが一方的に悪いとか、劣っているとか、遅れていると単純な解答に問題を集約する事は出来ない。話し合いの前提条件が圧倒的に異なり、噛み合わず、擦り合わせもままならない。我々の文化と彼等の文化の間に存在する文明的な谷や溝の深さが、絶望的に深い。ただ、それだけの事である。
だから、「訳が分からん」と彼等を簡単に切り捨てて欲しくない。ただ、「そう考える人もいるのだ」と受け取って、関係性を保持する手段を模索して欲しい。敢えて、怒ったり、落胆したり、蔑んだりする必要はない。
もちろん、貴方が被害を一方的に被ってまで、彼等の主張を受け入れてやる必要はない。ただ、「No Thank you.」を現地語に訳して、満面の笑みを浮かべて拒否してやって欲しい。繰り返し、相手が諦めるまで根気強く拒否し続けてやって欲しい。
ーーー国際交流と言うものは、一方的に相手の主張を受け入れることではないのだから。
ここで言いたいのは、命を失う危険に直面している実戦面での戦略や戦術の採択でも、お国柄と言う要素が強く影響せずにはいられない。の一事である。
我々にとって当然の"自由意思"が道徳的に「悪」と言う、本気で卒倒しそうな価値観が主流の社会もこの世界には存在し、そう言う社会は我々が思う以上に多く、普遍的で、広く指示されていたりする。
同様に、一神教を持つ人々は多神教を持つ人々の価値観に対して根本的に共感出来ないとか。政治イデオロギーにそんな要素まで絡むから、世界がカオス化しない筈がない。
こんな事実の羅列を真正面から受け止めれば、人類社会が現代まで普遍的に抱えて来た混迷の深さの一端を垣間見れるかも知れない。
我々の価値観によれば、あまりに冒険的な戦術と言う捨て身のロマンを追求し続ける「遠征33号」より、更に100m程下の水深には、日本国・海上自衛軍・通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」がパッシブ・ソーナーから判明する「方位」と「速度」を頼りに追尾中。
「遠征33号」のスクリューが水中を掻き乱す、海流の向こうから聞き取れるキャビテーション音。更に、暖かい海での作戦時には必須となる元ネタには存在しない冷却ポンプが発する騒音に聞き耳を立てて、付かず離れずの距離を詰め終わっていた。
「たいげい」は、激しい水流に弾き飛ばされて、シャドー・ゾーンからはみ出ない様に巧みな操艦を続けている。
追跡者は、今では追跡対象との同じ距離を維持しながらロンボク海峡を南進中だ。
イブン・タナカ中佐は、海上自衛軍・潜水艦がもれなく採用しているX字型の舵の事を「せいぜい海底に鎮座する時に便利なもの」程度にしか評価していなかった。特に、開発費と維持コストの両面からの判断で。操舵機能の生存性の高さを差っ引いてもだ。
だいたい、自前でその技術の開発は不可能だし、自国へその技術を採用した艦を導入する事もほど不可能だと考えていた。強烈な無い物ねだりは、身を滅ぼす。しかし、それでも、過去に自分が指揮した艦との乗り心地面で違いを意識せずにはいられなかった。
ーーー前兆なしで、大きく艦体が揺れる事がない。
これほどに見事な操艦を、よりによってこの海域に不慣れなサブマリナー達に見せ付けられてしまった。だから、そうりゅう型潜水艦から日本製潜水艦のアイコンとなって久しい、見た目に以上の効果をもたらすX字型の舵の効用は、思った以上に高いのではないかとの考えを思い巡らさずにはいられなかった。
でありながら、イブン・タナカ中佐の好印象は実のところで約3割ほど外れていた。
「たいげい」の艦体形状とX字型舵の協業だけでは、このシビアな操艦は不可能だった。
その残りの約3割とは、艦体に張られた防音タイルの隙間に効果的に設置された、水中航行用電子的空気抵抗操作技術「シー・ドルフィン・スキン」の効果であった。
航空自衛軍と富士見重工が、航空機に搭載する事を前提に長い年月を掛けた末に完成させた謎技術。実のところ、動作原理の全てが解明されてはいない。更に、正体不明の女性パイロットが開発作業の最後に登場しなければ、実用化はさらに10年以上遅れたと言われている。そんな曰く付きの技術革命の一端だ。
2030年度以降に計画された新型艦であれば、「シー・ドルフィン・スキン」の搭載を前提で設計されている。だが、近代化改装のついでに増設された「たいげい」のそれの効果は、とても限定的ではあったが。
本来は大気中の空気への抵抗値を自在に調整してくれる技術「ドルフィン・スキン」。その派生技術である、空気の代わりに海水への抵抗値をある程度調整してくれる「シー・ドルフィン・スキン」が、上下左右から推したり退いたりする水圧を人工知能が事前に予期して、効果的に受け流してくれているのだ。
なお、潜水艦に搭載される航行支援用人工知能には、困った事に出来の善し悪しがあり、それが艦そのものの個性となりつつあった。
その見知から語れば、何故か「たいげい」は、同じく改装時に追加装備された同級艦の中で、もっとも「シー・ドルフィン・スキン」との相性が良いと評価されていた。
とは言え、限られた電力供給力しか持ち合わせていないリチウムイオン電池推進潜水艦では、小型モジュール炉を搭載する水上艦ほど気ままに使用出来ない。
「シー・ドルフィン・スキン」は、「ドルフィン・スキン」と同様に電気を大食いするのだ。
だから、限られた使用条件に縛られながらも、最大限の効果を出している操舵手の手腕によるところが大きいとも言える。
イブン・タナカ中佐は頻繁に更新される、「たいげい」周辺の海水のイレギュラーな情報が増加に気付いた。
そして、その中に二つの増大率に関連性がある事を本能的に読み取った。
水温の低下速度が増大中。
塩分濃度がが増大中。
これは、南極海を起源に持つ深層海流が、深度300m程度と言う海中表層まで漏れ出して来ている証拠であるに違いない。
問題は、漏れ出して来る深層海流がどちらの方向から上がって来ているのかだ。
深度300m程度から深海で始まっている、ロンボク海峡を太平洋からバリ海へ向けて流れている海流に目立った変化はない。
そうなると、深層海流を膨大な水圧で覆い切れずに漏れ出して来る水域は「たいげい」の前方、ロンボク海峡南部であると見当が付いた。
塩分濃度が高く、水温の低い海水は「重い」。遅かれ早かれ上昇水流が限界を迎える。必ず限界点を迎えて、重力に引かれて、「軽い」海水を押し分けて、海水表層から海水深層へと雪崩れ落ちて行く。
問題は、重い海水が上昇から下降に転じる際、どの程度の勢い(速度)で落ちて行くのかだ。何故かと言えば、「たいげい」が航行中の水深200m、「遠征33号」が航行中の水深100mに充満している海水を支えているのが重い海水であり、それが急下降に転じれば底が抜けたのと同じ現象が引き起こされる。
地震の様に海流が乱れるだけなら、艦体が引っ繰り返るとか、有り得ない角度まで傾斜するとか、構造物にダメージを負うくらいで済む。だが、最悪の場合、重い海水に引きずられる軽い海水が引き起こす海流に巻き込まれて、艦体が海中深くまで引き込まれてしまう。
ロンボク海峡付近やジブラルタル海峡周辺などでは、水中からでは予測不能なタイミングで確実に内部孤立波(水中波)が発生する事が知られている。
内部孤立波(水中波)は、重い海水と軽い海水の急激なエネルギー交換(位置・運動の両方)が引き起こす自然現象だ。それは、水中潜航船にとって、もっとも恐ろしい自然の驚異として数える事が出来る現象だ。
唯一の歓迎すべき点は、内部孤立波(水中波)が発生する海域は、ある程度特定されている事だ。だったら、その危険な海域に最初から近寄らなければ良い。しかし、インドネシア共和国の場合、自国領海内の、さらに水上艦にとってとても重要な幹線が存在する海域に、内部孤立波(水中波)発生水域を抱えている。だから、危険を承知していても近付かないと言う選択はない。
実際、過去に領海を知り尽くしている筈のインドネシア海軍に所属する潜水艦「KRIナンガラ402(ナンガラII)」が、魚雷実弾発射訓練を実施した直後にバリ島北方で内部孤立波(水中波)に出会した。不幸にも、一瞬で耐圧深度を遙かに超える水深にまで引きずり込まれてしまった。
結果は、水圧による耐水殻と艦体その物の圧壊。
事故が発生してから、たった数秒後には艦全体の完全圧壊と分解が終了。
三つの大きな破片に別れて、海底へと沈んだ。
これではどれほどに優秀なサブマリナーであっても、事故後の対処は不可能だ。
奈落の底に引き釣り込まれると言うのは、まさにこの様である。
しかし、優秀なサブマリナーであれば、事後には無理でも、逆に事前に対処する事ならば可能だ。
イブン・タナカ中佐と直接に会った記憶もない彼の父親は、共に、星空の模様を頼りに、イカダやアウトリガー舟で島伝いに東南アジアの島々からイースター島へまで生存圏を拡大した海洋民族の末裔でもあった。
また、かつて、イブン・タナカ中佐は東部にあるロンブレン島出身の部下を従えていた経験を持つ。その際、そのキリスト教徒だった部下が何気なく語った彼等の言い伝え、「マリア様は、良いことでも悪いことでも、起こる前に必ず兆しを与えて下さる」と言う海人の知恵を忘れていなかった。
ラマレラ村で行われている、かつて白人のクソ共がお情けで偉そうに認めあそばされた、トワンタナ族の伝統であり、ロンブレン島における他民族との結束の絆の象徴でもある"生存捕鯨"の最前線、ラマファー役の父を持つ海兵だった。当然ながら、バハサ・インドネシア(共通語)を第二言語として学んだ男だった。
きっと今頃、父親と同じ様に、カポの木を紡いだ寄せ木細工の様な小舟で海で鯨猟をしているに違いない。もしかしたら、ラマファー役に就く栄誉を手にしているかも知れない。
生身の捕鯨は命懸けの狩りだ。鯨の尾っぽで叩かれれば即死も十分にありえる。咬まれても重傷を負う。そんな自然の驚異を前にして、一歩も退かずに生身一つを武器として戦う男達の一人。
元部下であるその男の、海を心から愛し、怖れ、そして敬う生き方に、イブン・タナカ中佐は、深い共感を持ち続けていた。急に、既に故郷へ帰った自分よりもはるかに年上だった部下が披露してくれた海の知恵がチラリと脳裏に浮かんだ。
だからかも知れない。彼は、海の男の本能に忠実に従って、兆しを無視せず、事前の対処を始めた。
「艦長。意見具申」
「どうした中佐?」
イブン・タナカ中佐は、強い印象を与える事を意識して、艦長の菊池 敬吾二佐の二つの瞳から目を一瞬も反らさずに語った。
「進路の変更を提案します。民間航路であるバリ島とペニダ島の間へ迂回して、ロンボク海峡の出口で待ち構える形で不審潜行船「イー」と合流するのが適当と考えます」
「理由は?」
「当艦が搭載する多数のセンサー類が集めた数値に寄れば、今、ロンボク海峡の海中では、私も経験していない非日常的な環境が形成されつつあります。おそらく、深層海流の突発的な上昇が始まっています。そうなると、次は何かのタイミングで急激な下降海流に巻き込まれるかも知れません」
菊池 敬吾二佐は、すぐに2021年に発生した潜水艦事故の詳細を思い出した。同時に、サラダ用のドレッシングの瓶を逆さまにした時に、上下の位置が急激に入れ替わる水分と油分が作り出す模様を思い浮かべる。
イブン・タナカ中佐は、水分と油分の様に、重い海水と軽い海水が急激に入れ替わる事で起こされた悲劇の再来を感じ取ってると理解した。
通常動力潜水艦の中でもトップクラスの実力を発揮出来る「たいげい」であっても、強力な流れに巻き込まれれば、サラダ用のドレッシングの瓶の中に含まれる固形物の様に為す術もなく破壊されてしまうだろう。
「また孤立波が急崩壊するのか? 艦の人工知能はそれを想定していない様だが」
イブン・タナカ中佐は、冷静に自分が感じている違和感を伝えようと、努めて静かに話し続けた。
「ご存知の通り、ロンボク海峡では月に2度程度の頻度で内部孤立波が発生しています。しかし、今起こってる現象は、それとは別の理屈で想定外の自然現象をもたらすと感じます」
菊池 敬吾二佐は、鋭い感受性がもたらす予言じみた直感をかなり重視していた。実際、水中でギリギリの操艦を要求されう場面では、神懸かり的な感知能力を示す艦長が存在する事実を知っていた。
艦長に就いたばかりの頃、合衆国海軍が誇るコロンビア級と言う、核ミサイルを大量に艦体内に抱える超巨大原子力潜水艦に、北極海で行われた演習で、言い訳の出来ないレベルでカモられていた。その経験が今でも忘れられないトラウマとなっていた。
ーーー艦長はジェームス・ウエイトとか言う"星付き"だったな・・・。
「地元民の直感と言うヤツか?」
「潮流の変化でこの艦を支えている水圧が、今にも一瞬でに抜けてしまうかも知れません。我が軍のKRI「ナンガラ402(ナンガラII)」の二の舞に挑戦する必要はないでしょう」
「予防策か」
「はい。また、一時的に距離を取れば、不審潜行船に発見される可能性も下がります」
菊池 敬吾二佐は、見失う様な事があれば、それは不審潜行船「イー」がインド洋を目指して西進しなかったと言う事になると考えた。もし、このままオーストラリア方面の珊瑚海へと姿を消してくれるのならば、敢えて自艦で対処する必要はないと言う戦略目的を忘れている訳でもなかった。
ーーーオーストラリア海軍が実用化に漕ぎ着けたばかりの"ヴァージニア改級"だって、活躍の場を求めているに違いない。
「確かにな。バリ島とペニダ島の間の水路を採っても作戦継続は可能か」
「はい。おそらく、何事も起こらず、潮流に踊らされている不審潜行船「イー」が海峡を通過する頃には、先回りして我々が太平洋側で待ち受ける事も可能です」
こちらには、イブン・タナカ中佐が提供してくれた最新の海中データがある。海中地形に潜みながら、不審潜行船が自艦の正面を横断するのを街待ち構えても良い。
艦体真横からアクティブ・ソーナーを打ってやれば大慌てするだろう。しかし、それよりも事前に注水済みの魚雷管から、デカイのをまとめて数発お見舞いしてやる方が軍人として正しい行動である事も十分に理解出来ていた。
ーーー不審潜行船「イー」がインド洋方面へと西進するならば、空かさず攻撃を実行するつもりだった。
「分かった」
艦長の菊池 敬吾二佐は、発令室全体に伝わるように新たな命令を大声で伝えた。
「進路変更。バリ島とペニダ島の海峡へ向かう」
副長が復唱する。航海長が直ちに新たな進路の確定作業に入った。
「ソーナー、不審潜行船「イー」がペニダ島の影に入ったら報告」
ソーナーマンが復唱する。
「その後に通信深度まで浮上。通信長、短時間でも良い。ブイ・アンテナを伸ばせ。無線通信や情報システムをパッシブで開放」
すべての命令が完全に行き届いた事を確認してから、艦長の菊池 敬吾二佐は意外な命令を発した。
「副長のタナカ中佐に操艦を預ける」
「は?」
イブン・タナカ中佐は、あまりに意外な言葉に自分の耳を疑った。発令室に居合わせたクルーも同じ思いだった。だが、菊池 敬吾二佐は容赦なく声を一段大きくする。
「副長、タナカ中佐に操艦を預ける。復唱せよ」
「はい。操艦を預かります」
菊池 敬吾二佐は満足そうに微笑んだ。そして、当惑したままのイブン・タナカ中佐の肩を叩いた。
「ちょっと艦内を回って来る」
「分かりました」
ーーー艦長、発令室から退室!!
「たいげい」の先任伍長が声を上げた。
「チャンスがあったら、あのクソ船に貴官の判断でデカイの一発食らわせてやっても良いぞ」
「しばらく頼む」とだけ言い残して、本物の艦長は発令室から消えてしまった。
イブン・タナカ中佐は、たった日本国・海上自衛軍・通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」を預かった。
日本へ派遣されるまでは、インドネシア初の国産潜水艦であるKRI405「アルゴロ(ナーガパーサ級)」の艦長職に就いていた。
だが、キリキリと胃が痛くなる様な、祖国防衛の第一戦線に立つと言う実戦の経験は未だになかった。しかし、今は、ジャカルタの街並みを守れるのは、自分一人であると言う自負があった。
やるしかないと悟り、すでに肝は据え終えていた。
航海長からもたらされた新航路の承認をして、操舵手がそれを実行する。「たいげい」はそれまで乗っていた南進する海流から逸脱した。
水面の上には、小型船舶、おそらく島嶼フェリーや国内流通向けの軽貨物船などが航行中である事がソーナーによりキャッチされる。それぞれの位置や速度を元に、時間経過による相対位置の変化の把握に努める。
最悪、緊急浮上で水面に顔を出す事も考慮して、浮上時に民間船に衝突しない様に注意を怠るべきではないと自分に言い聞かせる。
そのまま、進路を西側の沿岸から切り落とされたように深くなっている水域に「たいげい」を寄せてい行く。そして、ペニダ島の岸に当たって跳ね返って来る離岸流を確実に予言して、良いタイミングで「たいげい」を難なく誘導すると言う見事な操艦を見せた。
舵をほとんど使い事なく、小さな推力の断続的な調整だけで、とてもスムーズに不審潜行船と重なっていた航路から、「たいげい」を引き剥がした。
これならば、不審潜行船が外部ソーナーを後方へ伸ばしていたとしても、「たいげい」の痕跡は海流のノイズに完全に紛れ込めていただろう。
御陰で、発令室全体の雰囲気が柔らいだ。
峠道をスポーツ・カーで攻めるのと同じ理屈で、一般的航路から外れた航海を行うならば地元スペシャルならではの強みがある。
周辺海域の地形や海流を嫌と言う程に知り尽くしている異邦の男・イブン・タナカ中佐。今、彼は、「たいげい」の生存の継続と襲撃の成功する上で、極めて優秀な存在であると言う評価の獲得に成功していた。
少なくとも、発令室の中では。
※= 合衆国の領海のみは除く。理由は、国連海洋法条約には、何と発案国である合衆国そのものが署名していないから。




