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命を継ぐ者。 〜 Inherit the Life. 〜  作者: すにた
第五章 綿津見の随に
26/143

はじまりがおわる。 〜その参

〜インドネシア共和国領海、バリ海、ロンボク海峡北部

 不審潜行船。その名の通り、海面上(水上)に姿を現さず潜行したままで自国領海内へ侵入中の不審船を指す。


 その正体はインドネシア海軍と日本国・自衛軍の誰にとっても分かり切っていた。だが、それでも、九割方間違いないと分かっていても、未だに目視確認(視認)出来ていない。


 また、関係性疑われる相手に問い合わせて、「そうだ」と明確に答えてもらえた訳でもない。


 ーーーベトナム戦争時に、合衆国空軍と海軍航空隊の思い描いていた勝利の方程式「ミサイルによるアウトレンジ(視界外)攻撃(戦闘)」を禁じた、とても理不尽な何か。みたいなーーー


 だから、仕方なく、それ(・・)に遭遇してしまった「たいげい」は、それ(・・)を「不審船」と認めて密かな追跡作業に移っていた。


 それ(・・)は、領海内を長時間も潜行したまま、それなりに高速で移動し続けている。それだけで、十分に戦闘艦レベルの完成度を誇る船である事を証明していた。


 だから、それ(・・)は、インドネシア海軍にとっては、大変な脅威を(はら)んでいると判定せざる得なかった。


 それほどに高い能力を有する潜水船であるならば、どう考えても民間組織が運用する船ではない。


 公的組織でなければ、それほどに高度な能力を持つ船の建造、運用、整備など出来る筈がない。技術的な話でなく、そんな船の商用運用は、特に経済的なコストに耐え切れる道理がないからである。


 民間組織にとっては、更に、そんな高コストな船をキチンと使い熟せる質の高い乗組員の確保や訓練もままならない。


 機材調達費と人件費の両面で、軍事組織が運用する船、いや艦である事を示唆している。


 日本国・海上自衛軍・通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」のパッシブ・ソーナーシステムとソーナー・マンは、その不審潜行船の正体をほぼ特定を終えていた。


 キャビテーションだけでなく、船体から発生しているノイズの質から、原子力動力の船でない事は明らかだ。


 ディーゼル・スターリング・エレクトリック方式。


 船体は涙滴型。


 ポンプジェット推進ではない。


 当然、1軸推進方式。


 周波数から7翼のスキュード・プロペラと分かる。


 それは、日本国、合衆国、台湾民国にとっても馴染み(・・・)のある不審潜行船。


 南海艦隊所属、元型(039A)潜水艦。


 遠征33号。


 本来は、原子力潜水艦に不得手な、西沙諸島から南沙諸島の西南海域の海中に潜んでいる戦闘艦である。


 具体的には、台湾海峡に身を潜ませて、不逞な帝国主義者が差し向ける空母中心の打撃艦隊とその腰巾着共を待ち構えている。


 しかし、今日はその通常動力しか持ち合わせていない全長約70mの攻撃型潜水艦は、縄張りである筈の西南海域から遠く離れて、不慣れなインドネシア領海深くへの侵入を果たしていた。


 遠征33号によるイレギュラーなインドネシア領海への不法侵入は、つい先ほど人民共和国と人民解放軍・海軍が一方的に被った損害に事を発していた。


 人民共和国は、大好きな戦浪外交(国家間の恫喝交渉)に不可欠な実行力を伴う海中戦力の象徴として、弾道ミサイル搭載型の原子力潜水艦を平時からインド太平洋全域に送り出している。


 にも関わらず、手持ちの恫喝の道具の全てが同時多発的な機能不全状態に陥ってしまった。


 人民解放軍・海軍としては唖然としたに違いない。彼等としては、自国の戦力はどれも世界最高レベルにあり、特に原子力潜水艦の隠密性は群を抜いていると信じ切っていた。


 しかし、その高い自己評価は、合衆国を中心とする民主主義勢力が保有する機材との直接的な比較をして(膨大な経験を蓄積した)下した(うえで下した)ものではなかった。長らく、民主主義勢力に軍隊が集う軍事演習やイベントにご招待(お呼ばれ)されて(を受けて)いなかったので、運用面で切磋琢磨で競い合う機会にまったく恵まれていなかったからだ。


 だから、新式装備は自国の旧式となった従来機材との単純比較に留まり、それを根拠に保有している科学技術が世界最高レベルにあると判断していたのだ。実際は、井の中の蛙だったのだが、その不都合な事実を率直に認められる程に、西側、或いは民主主義国家群と呼ばれる勢力の科学技術を高く評価していなかった。


 きっと、自らが「世界の中心に咲いた華」であると叫ぶ快感への抗いがたい誘惑に負けてしまったせいに違いない。


 世界最高レベルの科学技術の集大成である軍用兵器であるにも関わらず、全く不明の手法で、最強の原子力潜水艦がまとめて撃沈されてしまった。いや、確認は取れていないのだが、そうとしか考えられない状況に陥っていた。


「ボクの考えた最強の潜水艦」とそのクルー達の運命は、果たしてどの様な帰結を迎えてしまったのだろうか?


 しかも、行方不明となったそれらの艦は、本当に撃沈させられていた場合、全艦が発見やサルページが困難な、海面から1,000mを軽く越える深度の海底で横たわっているか、大きく別れた破片に分散した残骸を曝しているものと思われた。


 そうなると、彼等にとっての下手人の特定は不可能となる。早急な、どころか永遠に。


 人民共和国としても後ろめたい所はたくさんあった。実際、現地エージェントを使って日本国の首相を暗殺に成功していた手前、日本国とその同盟国による報復が行われるだろうと言う予想は脳裏の片隅にくらいは無いわけでも無かった。


 だが、まさか虎の子の原子力潜水艦のすべてが、鮮やかに一斉にまとめて無力化されるとは想定していなかった。せいぜい、一隻か二隻が軽微な被害をもたらさせるくらいとしか考えていなかった(返り討ちに出来るだろうという楽観もあった)。


 だが、実際のところは違っていた。人民共和国の、特に海中戦力=潜水艦群は20世紀末から根本的なところで技術革新が達成されていなかった。ただ、小改良を積み重ねて、技術的に枯れるほどに煮詰めて来ただけなのだ。


 ホップステップジャンプの、ホップステップをパスしてジャンプだけすると言う、誰もが唖然とするような超短期間で技術先進国を追い付いて見せる。しかし、その実は、見た目は熟しているが、その実はとても未熟。そんな国家であれば、科学技術の罠に陥る事が確実だ。


 基礎技術を軽視して、応用技術だけを尊ぶ文化。それ故に、コピーと改良は得意でも、新機軸を閃く事が出来なかったのだ。


 彼等としても、自国の原子力潜水艦の沈没の原因を探れない様では困る。攻撃で破壊されたのならば、原因を特定した後に報復と言う責任追及しなければならない(攻撃を避けられずに、撃沈させられてしまった理由の追求の方は取り敢えずは後回しだ)。


 1,000m超えの水深では、まず沈没艦の正確な位置を特定してと海流を将来に把握する為の探査から始めなければならない。発見した後に、水中ドローンか何かで調査しなければならない。


 一連の作業には、最低でも一カ月を費やす必要があるだろう。


 だが、問題は時間だけではない。自国の原子力潜水艦が沈んだと覚しき場所。多くのケースで、それらが他国の領海内や、接続水域であったのだ。


 公海であれば直ちに捜索を開始する事もできる。だが、他国の領海内では、自国艦の行方不明であるとの事情を話して、無断で行った領海侵犯を謝罪して、その上で活動許可を当事国から得る必要がある。


 そうなると、「謝ったら絶対に死ぬ病」を長く煩っている人民共和国の指導者達が、まともな手段で対応出来る筈がない。つまり、大っぴらに沈没艦の捜索やサルページを出来る筈もない。


 人民共和国にとっての最大の懸念は、原子力潜水艦と弾道ミサイルが醸し出すプレッシャーによる他国への恫喝が出来なくなった事にある。


 また、彼等としては、武力圧力の空白地帯の誕生を喜べない。直ちに、空白地帯に新たな武力圧力を送り込まなければならない。


 ーーーそうでないと、貢ぎ物が少ない弱小国(朝貢対象)に舐められる。


 恩恵として返礼品を持たせて帰国させるどころか、冊封すらしていないに関わらずだ。


 そこで白羽の矢が立てられたのが最も南の海域にいた「遠征33号」だった。不幸な事に、出航したばかりで、燃料や食料などの物資も豊富に残っている事が確実だった。


「遠征33号」の行き先は、オーストラリア・パース沖のインド洋南部のステーションだった。そこには、ついさっきまで自国の原子力潜水艦が潜んでいたが消滅した。だから、その穴を何らかの方法で早急に塞ぐ必要があったのだ。


 つまり、乾ドック・クイーンとなっているハズレの原子力潜水艦の中でもマシな個体を選んで、インド洋南部のステーションへ送り込むまでの代役となる事を求められた。


 これは、人民共和国の国是である戦浪外交(国家間の恫喝交渉)に不可欠なプレゼンスを示す為にはどうしてもやらなければならない対応だった。


「遠征33号」は目的海域への航海を急いでいた。艦内に生息する共産党特別委員会からも強く突き上げを喰らっていた。だから、指定の海域を目指すための最短ルートを採る為に、インドネシア共和国の領海であるロンボク海峡の手前、バリ島手前から西進する予定だった。


 ロンボク海峡とは、多数の人間が居住するほどの大きな島と島の間に横たわる地理にありながら、大型タンカーも通過可能なほどの大深度を擁する航海路である。


 インド洋とバリ海を結ぶ、大幹線と言って差し支えないだろう。中東で石油を満載して喫水の下がった日本国の大型タンカーであれば、復路では漏れなくこちらを通過する。その後は、セレベス海峡を北上した後に、沖縄本島の喜屋武岬のシー・バース(係留荷役施設)を目指す。往路で利用したマラッカ海峡の水深の浅さが問題で、船底を海底にぶつけてしまう可能性があるからだ。


 位置的には、バリ島(とスンダ島/小スンダ列島)とロンボク島の隙間となる海峡だ。横幅は狭いところでたった18Kmしかない。だから、いずれかの海岸線付近で高い所に登れば、対岸までしっかりと視界に収める事が出来る。


 でありながら、水深は1,300m以上に達している。これは極めて細い感覚の水路を、沢山の温度と圧縮(圧迫)率が異なる海流が、何層にも積み重なっていることを意味する。


 この暴れ海流は、海上を小型船舶で通過する事は極めて危険だ。実際、生き物も長い間この海流に阻まれて交流出来ていなかった。故に、動物地理学上の境界線が出来上がっている。海峡の東西で、まったく異なる陸上動物の生態系が出来上がっているほどである。


 人間同士の極めて頻繁な交流が可能となったのも、産業革命がもたらした動力付きの大型船舶の中古のそのまた中古がインドネシアに流れ着いた後である。


 未だに、ペニダ島とロンボク島の間の海域は危険地帯と認識されている。だから、民間の定期航路は、すべてがペニダ島北部の、ロンボク海峡の北の端っこを通過する事が定められている。


 そのロンボク海峡へ近付いた頃、本国にいらっしゃる偉大なる指導者達が不意に癇癪を爆発させた。艦内で蠢く、共産党特別委員会は、全ての責任は「遠征33号」の乗組員にあると糾弾し、このままでは"陸に残された家族達の生活に影が落ちる"と艦長以下全員を脅迫した。


 それで艦長は、「遠征33号」の役割が大きく変更される運命を受諾した。


 新しい任務は、日本国南西部の軍事施設を狙った攻撃で始まった紛争で、自国だけが一方的に損害を被った訳では無いと自分達に言い訳をする為には不可欠なミッションだった。事実、日本国と合衆国は、それぞれの軍事施設の防衛に成功していた。人民共和国が手にした勝利は、日本国首相を卑劣な手段で暗殺したと言う、不名誉な戦果だけだった。


 そうなると、敵勢力またはそれに追従する国家の中で、比較的に攻め易い対象を見付けて、共に損害を分かち合いたくなってしまう。


 ーーーオレだけでなく、敵方もそれなりの大きな被害を被った。


 いわゆる、"精神的勝利"である。


 あるいは、"江戸の敵を長崎で討つ"である。


 相関関係に因果関係の根拠を求める愚行。


 詐欺師の常套手段。


 この場合、詐欺の対象は自分自身。


 つまり、自分で自分を騙すのだ。


 もちろん、敵方をも騙せるものなら騙したい。


 インドネシア共和国は、人民共和国にとって比較的に攻め易い対象の中から、今回に限っての攻撃対象として選ばれた。それは、ここ10年間何かと偉大なる祖国を苛つかせ続けたせいだろう。


 しかし、ここでも詐欺師は自分で自分を騙していた。


 果たして、インドネシア共和国を自分達の陣営に取り込もうとしている民主主義国家群が、人民共和国の暴挙を見過ごすだろうか?


 その辺りの見解を、自分に対して一方的に都合良く解釈する様に、自分の価値観を欺いていたのだ。実際、日本国海上自衛軍の海中艦が、詐欺師達にとっては極めて想定外(遺憾)にも「遠征33号」の行動を完全に把握していた訳だし。


 兎にも角にも、「遠征33号」は偉大なる党から(たまわ)った"御聖務"は、そのインドネシア共和国に対して、不意を突く、いわゆる"国際政治の不条理"を味合わせる事となった。


 具体的には、バリ島北部から予定通り西進して「首都のジャカルタを目標として、官民を差別しない本当に平等な対地攻撃を実行しろ」と言う内容だった。


 ジャワ海(ジャボデタベック圏沖)の至近距離から、ジャワ島の北側から首都とその周辺を狙って攻撃を実行しろと言う命令である。冗談ではない。そっちは軍事的には行き止まりの進路だ。通過は事実上不可能。早々に空から発見されて、投下爆雷や空中発射魚雷で沈没確実。運が良くて自艦に航行不能の損傷を負う。だからと言って、来た海路(往路)を引き返した(を復路とした)所で、それもまた棘の道である事に違いはない。


 自国を攻撃された後であれば、復讐の誓いを立てたインドネシア海軍が、自艦の無害航行を見逃してくれる筈もない。だから、攻撃後の生存性を上げる為にジャワ島の南側、インド洋側(山越えの南側)からの攻撃と言うオプションが許された。


 ただし、「遠征33号」に搭載された対地攻撃に転用が可能な装備は、過去にインドネシア海軍も水上艦用(SSM)装備として運用して経験のある、魚雷艦発射型(USM)YJ-83型(サッケード)対艦ミサイルが4本だけだった。だから、彼等が行おうとしている攻撃は、残念な事に象徴的な空襲にしか成り得なかった。


 ジャカルタに着弾すれば、何人かの死傷者が生じるだろう。しかし、それだけである。インドネシアと言う国家が揺らぐほどのインパクトは与えられる筈もない。


「遠征33号」の艦長とその乗組員的には、この冒険要素満載の軍事行動はやるべき価値の見出せない無駄な行為としか思えなかった。


 だが、彼等が形の上では信望する偉大なる指導者達間では、「遠征33号」が適切な報復を行わなければ、これから幾晩かに繰り返す酒や女と言う娯楽が、強く色褪せてしまう。そんな不愉快を避ける事が、巨大な自国領土の隅々まで広まった巨大単一民族の未来をより明るく照らす行為であると言う想いは、指導層の間では広く共有されていた。


 だから、艦内で動き回る共産党特別委員会としても労働貴族様達のお気持ちには十二分に配慮して、自分達が乗り込んでいる「遠征33号」に無茶をやらせる以外に選択は無かった。


「遠征33号」の艦長は、ちょっと前から自分のお尻の穴の付近がどうにも落ち着きが悪かった。いわゆる、サブマリナー特有の"嫌な予感"に苛まれ続けているに関わらず。


 にも関わらず、「遠征33号」と言う運命共同体には、他の選択を行う余地はまったくなかった。権威主義国家は自国の国民にとても優しい。全国民を無駄な悩みから開放する為に、選択の自由を最初から与えないのだ。


 ただ、国家が賜う最適解に徹底的に従う事だけを要求して来るのだ。そして、何だかんだ不満があったとしても、下々は上から下って来た命令には結局の所従うのだ。それが、権威の強さであり、権威主義国家の強みでもあるのだから。


 なお、全体主義国家とも呼べる権威主義国家で育った人間の多くは、多様な選択肢を前にすると極度の緊張に襲われるそうだ。国家に従順(・・・・・)になっていれば、何も考えずに人生を全う出来る。


 一応、「上有政策,下有對策(上有政策、下有対策)」と言う習慣に乗っ取って、攻撃ポイントの変更までは承認させた。しかし、攻撃を実行すると言う命令の大筋に関しては異を唱えなかった。生還の見込みがそれなりに低く見積もられているに関わらず。


 国家に従順(・・・・・)であれば、詰まらない人生しか経験しないままで生涯は終わるかも知れない。しかし、国家に従順(・・・・・)であれば。人生の岐路に立った時に、どちらが正解かのか。果たして選択の内に正解はあるのか。どれが他人から賞賛される道なのか。どれを選べば後悔のない人生へ辿り着けるのか。それを迷う必要=選択する必然はない。最初から正解=命令と言う指示が与えてもらえているのだから。


"局面"としか言い様のないタイミングで、取り返しの付かない場面で選択を下す恐怖は、大人に成り切れない者達を耐られない幻痛(・・)をもって襲う。


 中世西欧では、神、またはそれを名乗った誰か、それの自称代理人が、人間(子羊)が人生の岐路に立った時に、どちらが正解かのか。果たして選択の内に正解はあるのか。どれが他人から賞賛される道なのか。どれを選べば後悔のない人生へ辿り着けるのか。それらを何の根拠もなしに『明解な回答』を与えてくれた。


 我々から見れば、権威(神とその腰巾着)が発する『明解な回答』は単なる押しつけであり、大変なお節介であり、余計なお世話である。しかし、不安を抱える悩める人間=善良で真っ当な人々からすれば、意外にもそうではないのかも知れない。


 現代の先進国では、神から開放(解放)された市民が相当な割合で存在している。彼等の悩みは、社会の近代化と現代化の途中に科学的な観測主義を取り込んで社会の中心へと据える過程で、神と言う名の権威の無謬性を自ら(自動的に)否定してしまった事によって、選択と言う苦境における『明解な回答』と言う安直ながら安定確実な救済を失ってしまったことだ。


 我々が住む太陽系の惑星軌道が、太陽を中心とする真円ではなく太陽を拠り所とする楕円であると判明した。この大発見は、数字を取り扱った計算によって、つまり人間の手によって、惑星軌道を過去を正確に語り、未来を詳細に予測する事を可能とした。


 その時点で、少なくとも人間の目で直接観測して肌で感じられる範囲の物理世界では、神の居場所(実在の必然性)がほぼ失われたと言って良い。


 ーーー残されている居場所(実在の必然性)は、せいぜい「神の最初の一撃くらい」の分野くらいかも。


『明解な回答』は、先にも書いたが何の根拠もなく与えられる。当たるも八卦当たらぬも八卦、である。しかし、人間とは可愛い存在なので、その適当な回答を至上の預言と妄信する。


『明解な回答』は、あからさまな間違いかも知れない。しかし、先入観が作用して間違いとは絶対に受け入れない。なお、マインド・コントロールとは先入観を標的とした人物に任意で植え付ける技術と言う側面もある。


 多くの人間は、本人は気付いていないが心の奥底では変哲のない人生を望んでいたりする。胸を裂くような幻痛から逃れて、誰かに保証された、冒険無き、安定している様に見える毎日の継続を望んだりする。だから、神の預言とか神託とかマインド・コントロールとか、何でも良いから煩わしい苦痛を取り去って欲しいと漠然と望んでいる。


 そこにこそ、権威主義者が無辜の個人の価値観に付け入る隙がある。煩わしい苦痛を肩代わりしてあげると言うと、「それじゃあ」くらいの気軽さで心を開いたりする。


 もう少し、現世社会を斜めに眺めて表現すれば、自分で自身の行動の責任を取りたくない。権威ある誰かに、責任と言う重みを丸投げしたい。権威ある誰かに、正解を選択したと保証して欲しい。余りに無責任じゃないかと思えるが、社会性昆虫が作り出した究極の滅私主義(真社会性)に救いを求めたいと言う選択(・・)をする人間もいると言う事だ。


『明解な回答』に支配される他人任せな人生をありがたいと思う(否定しない)人間。我々(マイノリティー)とは異なる価値観を持つ人間(マジョリティー)が、この地上で実は共存していると言う可能性を片時も忘れるべきでないのかも知れない。


 養豚場のブタとして人間に生かされるか、大自然の中でイノシシとして自力で生きるか。捕食獣や疫病から守ってもらえる養豚場は、それらの脅威から自力と運だけで逃げなければならない大自然よりも快適な環境である事は間違いない。ブタの方が、イノシシよりも遙かに地上で大繁栄している事は間違いない。理を解する知力を持たなかったとしても、イノシシよりもブタとして生きる方を好む個体がいたとしても何の不思議もない。


 人間の価値観は、物理の世界よりもきっと複雑で怪奇で厄介なのだ。だから、物理法則ほどに人間関係と言う社会性がスッキリしない。言い方を変えれば、より多様性が豊富と詠んでお茶を濁せるくらいに。


 全体主義国家で育った人間の多くは、"局面"としか言い様のないタイミングで、それらの選択を不可逆的に下す事に慣れていない。購入する冷蔵庫やTVを買う場面で、我々には想像も出来ない程のストレスと言うプレッシャーに襲われたりする。


 赤いTVを買うか、白いTVを買うか。祖国ではその選択を(自由を体験)して来なかったので、今もそれを出来ない。


 赤い全体主義国家では、TVの筐体は一色しかなかった。確かに、買うまでに2年待たされたり、凍てつく寒さの早朝から行列を作ったり、苦労して買ったら直ぐ壊れたり最初から不良品だったりした。


 しかし、赤いTVを買うか、白いTVを買うかの選択を強要される(自由から虐待を受ける)事はなかった。それこそが、彼等なりの穏やかな日々の原点であったと考えるに至る。


 そんな馬鹿なと言うなかれ。実際にそう言う人々がいたのだ。


 場所は西ドイツ。時代は東西冷戦華やかな世紀末真っ盛り。東ドイツから西ドイツへ、悪名高かったベルリンの壁を越えて、つまり背後を銃火に照らされながら命懸けで西側へと亡命した人々がたくさんいたことは、歴史の教科書に昔は書かれていた(今はどうか知らない)。


 それらの人々の中で、どうしても望んでやって来た西ドイツに馴染めないケースがそれなりの頻度で見られた。それは、毎日の生活の中で、繰り返し遭遇する「選択の自由」と言う名の地獄に追い詰められていると感じ、パニックに陥っているからだった。


 故に、西ドイツから東ドイツへ再亡命を希望する移民達が常に一定数存在していた。次から次へと現れるので、人数は決して少なくならない。だから、彼等を収容する専用キャンプが常設されていた。


 人生を選択出来る自由とは、実行する直前までは夢と希望しか見えないが、いざ実行してみると喜びよりも、面倒臭さと恐怖の方がはるかに勝った。つまり、思っていたのと違うものである場合が多かった様だ。


 人生を選択出来る自由を求めて西ドイツまで逃げて来た、気力が充実して幸運も持ち合わせていた東ドイツの人間であっても、いざ夢に手が届いてみると、それがとても自身の手に負えるものではなかったと言う事らしい。


 ーーー人生は、自由がもたらす複雑怪奇な日々を送るよりも、命令に従うだけの単純明快な日々を送る方が快適なのかも知れない。


 西側の人間には当然の"自由"が、東側の人間にとっては自害を選ばせるほどの"猛毒"にもなる。他人の価値観と言うものは、本当に理解困難で、更にその反応は完全に予測不能である。


 また、ジョージア出身の独裁者が支配した総勢約四億人の国民の内の大多数が、自主性を捨てて『明解な回答』に従って国家に従順(・・・・・)になった結果、世界の半分を支配していた巨大国家が一瞬で崩壊してしまったと言う大事件が20世紀末に記録されている。


 そして、「遠征33号」の艦長のお尻の付近を不快にしている日本国・海上自衛軍・通常動力型潜水艦・SS-513「たいげい」は、確実に襲撃準備を成功させつつあった。『明解な回答』として教科書ににも記述がある、勝利の方程式に忠実な待ち伏せ戦術ではなく、『不確定要素が(選択を繰り返し)豊富な(要求される)追尾戦術を敢えて実行中。


 知らずの中に追尾されている「遠征33号」のソーナーの死角、海中に生じる季節水温躍層や逆転層が作り出すシャドー・ゾーンを有効利用して、積極的に距離を詰めつつあった。


 日本側の作戦は期待した通りに上手く回っていた。今のところは。


 全ては、この季節特有に海中の状態を詳細に知る事が出来たからだ。海中に生じる混合層下端の予想(予報)深度など、一時的に副長に就いているインドネシア共和国海軍のイブン・タナカ中佐から戦闘を前提とした(機密開示の)精度での情報提供を受けていた。


 イブン・タナカ中佐としても、自艦を操艦しているつもりで潮目を読んでいた。一年を通じた、しかもそれが何年も積み重ねて集められたデータベースを持っているのは地元の組織に限られる。


 海図程度なら、水上航行中にある程度の測量をしてしまう事も出来る。荒い物ならば、有料で公式ルートから購入する事も可能である(※ 権威主義国家の海図を除く)。


 実際、「たいげい」はロンボク海峡を行き交う海流を機敏に捉えて、異音なく絶好調(スムーズ)な加速を続けていた。一方で、「遠征33号」は、激しく襲い掛かる(入れ替わる)海流に翻弄されて、相当に非効率的(龜速)な南進を実行中だった。

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