あたらしいかぞく。 〜その伍
「血の日曜日事件」として長く語り継がれる、初めてではあるが決して終わりではない重大なテロ事件が発生した同日、PM9:00を回った頃。
田原航空警備保障の本拠地である馬毛島に刻まれたX字型滑走路に、一機の軍用輸送機・C-130Rがランディング・ギアを接地させた。
普段よりもやたらに光り輝いている。誘導灯以外も敢えて焚かれているらしい。それは、おそらく、そのC-130Rに対する重大な意思表示であると思われた。
滑走路のエンドで引き返して、誘導路へと入ったC-130Rは、最優先でエプロンの一番奥、基地塔にもっと近い位置へと誘導された。
ターボプロップで回転するプロペラを止めると同時に、後部ハッチが静かに開放された。すぐに、ほとんど出動する事の無い田原航空警備保障の特別儀仗隊が集合して、配置へと付く。
豊和工業株製の儀じよう銃を掲げて、無言でを道を作る。後部ハッチから現れて、特別儀仗隊の間を進むのは、何一つの装飾の施されていない棺桶が一つだった。
その棺桶はフォークリフトなどは一切利用されず、最初から最後まで人間の手で機外へと運び出された。そして、基地塔の、キチンと空調が働いている事が確認されている会議室の一つへと運び込まれた。
特別儀仗隊は、ただ無言で棺桶が通り過ぎるのを見守った。
続いて、赤ん坊を胸に抱いた朝間ナヲミ一尉が降りて来た。特別儀仗隊に敬礼をして間を通過する。そして、最後に敬礼を贈ってその場で棺桶が運ばれて行くのを見送った。
朝間ナヲミ一尉の足取りは、妙にシャッキリした歩み。つまり、完全に第二小脳と擬体側に身体運動の制御を委ねている事が一目で分かってしまうほどだった。
ーーー深過ぎる落胆が、誰の目にも明らかだった。
機長の鴨田一佐が、朝間ナヲミ一尉を追い掛けて機体から走り降りた。後ろから一尉の肩を掴んで、二言三言だけ話し合った後、通りかかったワンボックス軽自動車を無理矢理に停車させて、朝間ナヲミの宿舎へと向かって言った。
鴨田一佐は、航空自衛軍を延長プログラム無し、つまり一般的な定年で完全に勇退した。その直後に、田原航空警備保障へ入社していた。
これは、航空自衛軍と民間軍事会社の新しい世代のパイプ役として活躍する事が期待されての事だ。田原航空警備保障では、社内の幹部メンバーの高齢化の顕著化が問題となっていた。社史がまだ浅い為、社内で人材育成すると言う文化が成立していなかったせいだ。
現在の幹部達の後を継ぐには、高度な政治的判断と軍事的判断を両立可能である資質と能力が要求される。しかし、そんな高度な人材の育成・発掘の進捗状況はゼロだ。やり方すら確立されていないのだから仕方がない。
航空自衛軍から田原航空警備保障へやって来る人材のほとんどは、飛行技術や整備技術は高い。その一方で、大人に成り切れていない=問題児タイプが圧倒的大多数を占めている。かと言って、航空自衛軍以外に、空での実戦経験は愚か、極限状況での飛行や飛行機の運用を経験を有する人材は生まれていなかった。
民間航空会社からヘッドハント組ですら、大人に成り切れていない=問題児タイプが圧倒的大多数を占めていたのだから仕方がない。
ある意味、あぶれ者達の最後のセーフティー・ネットとなっていたのだ。御陰で、日本国国内で獲得された高度な技能や機密度の高い情報に接した問題児を国外流出させずに済んでいると言う、国防効果ならば最高のパフォーマンスを発揮出来ているのだが。
しかし、将来的に、高度な政治的判断と軍事的判断を両立可能出来ていない人材が、馬毛島の馬毛党を率いることになる事を想像すると・・・。恐怖しか思い付かない。暴れ馬にはそれを乗り熟せる、本物のライダーが不可欠である。
そう言う備えを忘れると、軍事力を備える組織の暴走なんて未来が到来する。シヴィリアン・コントロールは、文民の虚栄心や自己顕示欲を満たすための風習ではない。
政治と政治家の責任は極めて重いのだ。果たして、今の日本国でその簡単な理を理解出来てる国民が、いったいどれだけ存在しているか・・・。先人の知恵を無視して、先人の悪知恵だけを学んで世代を重ねた我々。事態は極めて怪しくなって来ている。
そんな込み入った事情で、田原航空警備保障は航空自衛軍を退任する優秀な人材であれば、本当に漏れなく全員に勧誘の声を掛けていた。
「キミ、イイカラダシテルネ。ジエイタイニハイラナイカ?」
ちょうど、上野駅から降りて来た若者に担当者が声を掛ける要領で。
朝間ナヲミは、C-130Rのエンジンから流れてくる生暖かい風を受けながら、棺桶の後を追って会議室へと向かった。
棺桶の中には、万条 菖蒲の夫である万条 十治が収められている。瓦礫の下から掘り起こされた時には「心肺停止状態」とされていた。だが、現在では検死作業が完了していて、「全身を強く打った事と裂傷による多量の出血を原因とする死亡状態」が確認されていた。
「ご遺体」となった父親だが、娘である朝顔を守り切った。母親の元へ、本当に傷一つ負わせずに娘を送り届けると言う、男の意地を最後まで貫き通した。
男の意地の代償は、検死官が現場で手に入るあらゆる物質を使って、人間の形に整えるのを諦めるほどに酷い損傷状況だった。
検死官は、形の上だけ司法解剖を行った。今回のテロを刑事事件として立証する証拠を集めた後は、この被害者の破れた皮膚を縫い合わせる努力を完全に放棄した。代わりに、粘土、プラスチック、ビニールを使って頭蓋骨の形状を復元し、それらをテーピングでガッチリと固定した後で、仕上げとして弾力包帯を何重にも巻いた。
四肢の方は損傷で足りなくなっている部位は、硬化ギブスで覆って見えない様にした。それでも、右手の先はどうにもならなかったので、医療者用のゴム手袋の固定で代用する有様だった。
これでも福岡の現場では出来るだけの事をしてくれたのだ。偶然だが、最初に掘り起こされたのが、十治と朝顔であった為に、最優先で処置が施された。
その後、馬毛島から福岡空港へ出向いた鴨田一佐と朝間ナヲミによって回収された。そして、たった今、妻である万条 菖蒲が無事を祈って待っていた馬毛島へ到着した所なのだ。
それから5分後、万条 菖蒲が、臨時で遺体安置室として使用されている第三会議室へと到着した。ここまで送り届けてくれた鴨田一佐が開けてくれた扉を潜って現れた万条 菖蒲は、朝間ナヲミが知っている彼女とは、完全に別人へと様変わりしていた。
どうしようもない窶れ具合で、髪が落ち武者よりも酷いことになっているのが全く気にならない程の乱れ様だった。
ただ、立ち尽くし、真っ青な顔を虚ろな瞳を朝間ナヲミと自分が産んだ娘へと向けている。
状況の説明は終わっている。明晰な万条 菖蒲であのだから、惨状の程度は十分に知っているだろう。しかし、それを理解し、納得出来ているのかどうか。それだけは、また別の問題である。
鴨田一佐は遺体安置室内へは入らずに、静かに扉を閉めた。今後、朝間ナヲミがしばらく使い物にならない事は分かってる。だから、テロ現場の上空で起こった朝間ナヲミの体験を、彼が報告書に纏めて上に提出しなければならない。
鴨田一佐は大人だった。そう言う気配りが出来る賢者だった。だから、これから起こる嘆きの嵐からは一歩下がった位置にポジションを取るつもりだったのだ。
ーーー何のことはない。被害者に掛ける言葉を知らなかったので、現場を朝間ナヲミに押し付けて逃げ出したのだ。
鴨田一佐の深淵にまで及ぶ深い配慮よって、遺体安置室は完全に外界とは閉ざされた。ここは順軍事施設なので、ハイエナよりも下劣なマスコミが無断侵入出来るほど甘いセキュリティーではない。それでも、基地のセキュリティーは実弾を込めた連発式ライフルを、安全装置を解除した状態で手にしていた。
可能性は低いとは言え、テロによる暗殺対象であった万条 菖蒲を狙ったコマンド部隊の島への上陸するかも知れないのだ。事実、海上保安庁ではなく、海上自衛軍の艦艇が、種子島でH3ロケットが打ち上げられる時の配備で近海を警備中だ。
半潜行式不審船や特攻漁船による侵入者があれば、警告無しで当てていく心構えで展開中だ。ハリー・ブライアント少佐率いる海兵隊部隊が配備される合衆国海軍の艦艇も、東シナ海へ向けて航行中だった。
朝間ナヲミは、そんな針地獄の様な世界にたった一人で取り残されてしまった。本当なら、直ちに走って逃げ出したい気分だった。ただ、今、ここまで追い詰められた親友を支えられるのが自分一人であると言う、どうにもならない最悪の状況とその正確無比な認識力だけが彼女を遺体安置室内へと留めていた。
朝間ナヲミは、森 葉子と違って今ひとつ根性が座っていない。それは決して悪いにではない。ただ、生まれ持った"器"がその程度であったと言うだけの事だ。人間は、生まれ持った以上に大きな"器"を獲得しようがない。だから、仕方のない事なのだ。
だから、せめて、生まれ持った"器"の限りを尽くすのだ。それが、分別であり、分相応を弁えると言う事になる。泳げない人間が、夏の浜辺でセーフ・ガードとして働く事を自重する義務があるのと全く同じ理屈である。
勿論、朝間ナヲミは、生まれ持った"器"を限界まで酷使して最大パフォーマンスをたった今も発揮し続けている。彼女は知っていた。他人の死と身近な人の死の違い。さらに身近な人を失った人の絶望がどれほどに大きいかを。
それを知らなければ、朝間ナヲミであってもここまで精神的に追い詰められたりはしなかった。「知らぬが仏」とは、もしかしたらこう言う状況を指す言葉なのかも知れない。
両足の震えが止まらない勇者「朝間ナヲミ」は、万条 菖蒲に掛ける言葉を知らなかった。森 葉子に相談したくもあったが、今自分が感じている絶望を伴侶に強制的に共有させたくはないと考えて、ギリギリの所で踏み止まっていた。
何故なら、自分程度の絶望では大した事がない筈だから。そう、本物の絶望を抱える親友が今も自分の目前に立ち尽くしているのだ。
ーーーここで踏み止まれなければ、自分は人間ではなく単なる機械人形だと認める事になる。
万条 菖蒲は、魂が擦り切れて、人格が見事にへし折られている様に見えた。
朝間ナヲミは、長い付き合いの中で、こんな親友がボロボロになった姿を目にした事がなかった。会津大震災で学校施設が全て瓦礫と化した時でも、会津大震災で多数の同級生や上級生が死傷した時でも、追い詰められて自分が守り通した高校から自主退学するまで追い詰められた時でも、父親の突然の死亡によって人間として未熟なままに国会議員としての地盤を引き継いだ時も、その苦労して纏め上げた地盤を突然に妹へ譲った時も、もっと凜としていた。
万条 菖蒲は精神的に殺害された。そう言って差し支えない状態だった。
朝間ナヲミは、声を振り絞って大切な役目を果たそうとした。
「万条さん。十治さんはこの娘を護り終えて、その後にお亡くなりになられました。お悔やみ申し上げます」
これは第二小脳や擬体任せではなく、朝間ナヲミの生体脳が絞り出した言葉だった。
朝間ナヲミは、自分の腕に抱いていた親友の娘、朝顔を母親の腕へと渡そうとした。
するとそれまでスヤスヤと眠っていた朝顔が目を覚ます。どういう訳か、自分の母の腕へ渡されるのを大泣きで拒んだ。朝間ナヲミの飛行服を握って放さない。
そのせいか、万条 菖蒲の意識が現世へと戻って来た。
「主人と対面する。終わるまで朝顔をお願い」
「分かった」
万条 菖蒲は、突然に何か大切な事を思い出した様に身体をピクリと動かした。
「ここに鏡はあるかしら?」
「後ろの洗面台の所に・・・」
万条 菖蒲は、無言のまま洗面台の鏡の前に立った。無言で髪を整え、涙の跡が焼き付けられたファンデーションを慣れた手付きで整える。最後に、ポケットの中から取り出したリップに赤を入れた。
ーーーそれは、夫から贈られたものだった。
ここぞと言う、ハレの日にだけ使用すると決めていた、大切なものだった。
鏡の前にで振り返った時、万条 菖蒲は、先ほどまでの窶れた尽くした女ではなかった。自信に満ちあふれる、もっとも万条 菖蒲らしい女へと生まれ変わっていた。
朝間ナヲミは、度肝を抜かれた。万条 菖蒲と言う政治家の底力を見せ付けられた。絶対に自分には出来ない芸当だ。
「あんな顔、夫には見せられないから・・・」
声まで普段の万条 菖蒲へ戻っていた。もし、朝間ナヲミでなければこの演技に完全に騙されてしまっただろう。完全に立ち直ったと誤解させられていたかも知れない。
朝間ナヲミの義眼によるモニタリングでは、全身の体温は完全に貧血状態と言える程に低かった。でありながら、心臓の脈拍は危険領域まで高まっていた。目蓋の奥にある白目は真っ赤に充血したままだ。
ーーー人間とはここまで強く在れるのか。
朝間ナヲミは、この女を今まで支えていた「十治」と言う人間の大きさを初めて悟らされた。それまでは、万条 菖蒲の野望に巻き込まれた人の良い旦那くらいにしか認識してなかった。しかし、それは明らかに間違いだった。
万条 菖蒲と言う"日向"を成立させていたのは、実は十治と言う揺るぎない"日陰"だったのだ。決して妻の前には出ず、常に裏方に徹する。
そのせいで、多くの者達は間違った印象を与えられていた。おそらく、本人もそれを願って徹底していたのだろう。
ーーー良い視線の全てを妻へと集中させる為に。
万条 菖蒲と言う"日向"は、十治と言う"日陰"を失った。いや、不当に奪われた。
朝間ナヲミは、親友がこれからの人生を"日陰"なしで、今まで通りに"日向"を歩んで生きて行けるのだろうか? そんな事を心配している自分に気付いた。
ーーー紐を失った凧。箍の外れた力。制御棒なしの原子炉。
万条 菖蒲は、革靴の低いヒールを勇ましい勢いで床に踏み付ける事で、景気良いリズムを刻みながら棺桶に近付いていった。
朝間ナヲミは朝顔を抱えながら、部屋の壁を背にしてその様子を見守っている。
万条 菖蒲は、棺桶の覗き窓から透明プラスチック越しに夫の姿を確認する。
口の周辺以外は弾力包帯で何重にも巻かれていて、目元や鼻筋を目にする事は出来ない。頭蓋骨の足りない部分を防水材で覆っているにも拘わらず、弾力包帯は滲み出た血で赤黒く染まり始めている。
朝間ナヲミの方向からは、万条 菖蒲の後頭部しか見えない。だから、今の彼女が一体どんな表情をしているのかは分からない。ただし、容易に予想は付く。
きっと、優しく微笑んでいるのだろう。妻が自分達の子を護って逝った夫に対して贈る最後の表情として、それ以上に相応しいものはないと感じたからだ。
万条 菖蒲は、大小ツーピースに別けられた棺桶の蓋の両方を力業で、勢い良く開けて朝間ナヲミを驚かせた。そして、覗き窓からは窺い知れなかった夫の"壮絶な最期"の全貌を目にした。
遺体の足りない部分を一つ一つ検証し、夫を襲った経験を追体験を試みて自分のものとして行く。
そのまま目を細めて観察を続ける。決して目を反らしたりはない。目前にある遺体を通して、こんな悲劇を起こした憎むべき誰かを見据える勢いで目詰め続けたのだ。
そして、最後に、何とか傷が少ない状態で保たれていた十治の唇と自分のそれを重ねた。
塗ったばかりの赤の跡が、十治の唇に刻まれた。
朝間ナヲミは知っている。十治の下唇は裂けていた部分を無理矢理に医療用糸と接着剤で縫合されて形を整えられている事を。
万条 菖蒲も、唇の感触越しにそれを悟っただろう。
朝間ナヲミには、親友がそれをどう感じるか想像出来なかった。正確には、恐ろしくて想像する勇気を持てなかったのだ。
しばらくして、万条 菖蒲は棺桶の蓋を閉じた。そして、朝間ナヲミに問い掛けた。
「朝間さん。貴女も十治の遺体を見たの?」
「はい。ご遺体の引き取り作業の一貫として・・・」
万条 菖蒲は、後ろを向いたまま溜息を付いた。
「この光景を見るのは、私達二人でお終いにしましょう。私達二人だけの秘密にしてしまいたい」
「分かりました」
万条 菖蒲は、満面の笑みで振り返った。
「何を畏まっているのよ。私達は・・・」
朝間ナヲミは、その微笑みを生涯を通じてもっとも恐ろしい何かであると感じた。足が竦む。笑っている。この状況下で笑っているのは明らかに異常だ。
それでいて、その微笑みが偽物である事が本能的に分かる。それは微笑みの形をした、人の域では懐くことも難しい程に巨大な欲望が込められている。しかも、その巨大な欲望が自分に向けて放たれている。
しかし、それでも目を反らせない。逃げ出すと言う選択を思い付かない。まるで、金縛り似合っているかの様な異常体験だ。
ーーー悪魔に魅入られると言うのは、こういう状態を指すのか。
朝間ナヲミは、自分の親友が、絶対に見えていけない、世界でもっとも不条理な力学を、自分に向けて行使していると知った。
「・・・友達。・・・いいえ」
万条 菖蒲が朝間ナヲミに近付いて来る。朝間ナヲミは思わず後ずさる。しかし、すぐ後ろにあった壁に背が当たってしまう。追い込まれた。もうこれ以上逃げようがない。百獣の王に追い詰められた、サバンナの草食獣達の気持ちが直感的に理解出来てしまった。
万条 菖蒲は、完全に追い詰めた朝間ナヲミに壁ドンした。そして、一瞬だけ唇を重ねた。朝間ナヲミの唇には、十治のそれに残されたのと同じ跡が残された。
「夫を守ってくれると約束した。それなのに夫は死んだ。どうしてかしら? だから、貴女は私との約束を違えた。だから、私から罰を受けなければいけない・・・」
万条 菖蒲は、僅かに唇に残されていた赤を右腕で完全にぬぐい去った。見えてはいけないのに、見えてしまう何か振り切るかの様に。
「これからは、貴女が十治の代わりにならなければならない」
「・・・え?」
混乱する朝間ナヲミを、蛙を睨め付ける大蛇の視線で押さえ付ける。口答えすれば、このまま噛み砕いて腹の中で消化してみせようと言う恐喝を覆い被せる。
「ナヲミ。私を支えなさい」
「・・・」
「私はここで止まる訳にはいかない。十治との約束を守る為に、十治との誓いを違う」
「・・・」
「貴女には期待している。でも、もし、貴女がもう一度約束を違えたら・・・」
「・・・」
「言わなくても解るでしょう?」
「・・・」
「これから末永くよろしくね」
朝間ナヲミは、万条 菖蒲の目に狂気の類いは一切の見えなかった。極めて冷徹な分析に裏付けされた、正義も道徳も吹っ飛ばした自分だけの解答に沿った行動をしている様にしか見えなかった。
ーーーただし、その"自分だけの解答"が一体どんなものであるのかは検討も付かないが。
ただ、今まで万条 十治が封じ続けて来た本物の悪魔がこの世界へと解き放たれた事だけは間違いなかった。
おそらく、稀代の革命家が、たった今覚醒してしまったのだ。もし、十治が横に立ち続けたならば、万条 菖蒲はこんな新しい自分に目覚める事はなかっただろう。
その意味で、テロリスト達は知らずの中に本物の地獄の釜の蓋を開けてしまったのだ。
そして、最後に出て来た"エルピス"こそが、この大悪魔であるに違いない。
今までは十治がブレーキを踏み続ける事で、この女は有能な政治家の範疇に収まっていた。しかし、これからは、この獰猛な肉食獣の食欲を抑制する者はいない。いなくなってしまったのだ。
いや。
朝間ナヲミは、もっとも最悪の恐怖をもっとも卑猥な形で悟ってしまった。
ーーー自分がブレーキになれと言うのか!! 十治さんの代わりに!!
朝間ナヲミは、腰砕けになって床へと下半身が崩れた。擬体側の安全機能が働いて抱いていた朝顔を落とさずに済んだ。
「それと・・・今日、私は夫と娘をテロによって失った」
「えっ?」
「私はこれからも、第二第三のテロに遭遇する事になる。朝顔が私の娘である限り命の危険に曝される事になる」
「うん」
「残念な事に、私には朝顔の身をテロから守る力がない」
「・・・」
「だから、今日、朝顔も夫と一緒に死んだ事にして欲しいの」
「書類上別人にする事は可能だと思うけれど・・・」
「娘にとって一番安全なところは何処だと思う?」
「わからないよ」
困惑する朝間ナヲミに、万条 菖蒲は「馬鹿ねえ」と、軽口でも叩く様な軽妙さで解答を与える。
「貴女の元よ。合衆国も人民共和国も一目を置く。神懸かり的存在」
「・・・」
朝間ナヲミには、万条 菖蒲が言っている事をキチンと理解出来ない。これでは、まるで母が娘を捨てようとしている様に誤解してしまうではないかと。
「朝顔は、貴女が実子として育て欲しい」
「そんな!!」
誤解ではなかった。万条 菖蒲は、全てを捨てようとしている。来たるべき戦いで散る為に。櫻の花の様に、潔く咲いて散る準備を始めたのだ。
「独身に戻れば、どんな危険も避けずに歩める。だから、お願い」
万条 菖蒲の場違いな笑顔。それには何故か人間を意のままに従わせる力がある。朝間ナヲミいは、残念ながら、悪魔の技に抗える強さはない。
悪魔と女神が同居する女。それが万条 菖蒲らしい。
ーーー十治さんもうこうやって魅入られてしまったのか・・・。
朝間ナヲミは、自分の前任者の事を、誰よりも、おそらく彼が死ぬまで思慕を懐いた女以上に深く理解してしまった。
「十治に続いて、朝顔まで失いたくない」
「うん」
「ナヲミ、お願い。私達の朝顔を守って」
「・・・」
朝間ナヲミは、かつての親友が口にする言葉が、その要求に従うが、まるでこの宇宙の法則の一端であるのかも知れない。そんな気分に陥るほどに追い込まれてしまった。
「ハコちゃんに相談させて欲しい」
この一言を告げるのが、朝間ナヲミに出来たせいぜいだった。
「よろしく頼むわ」
万条 菖蒲が、やっと朝間ナヲミが離れて会議室の端にあったパイプ椅子に座った。
「貴女は出来るだけ早く、朝顔を連れて福島に帰って。出来れば明日の早朝までに。それから、十治の遺体はどこでも良いから、一秒でも早く火葬して欲しい。もう、誰にも彼の遺体を曝したくないの」
「対岸の種子島の火葬場が一番近いと思う」
「それで良い。私が立ち会ってお骨を持って帰るから。貴女はそれに付き合う必要はない。重ねて言うけど、すぐに朝顔を貴女の戸籍に入れて、安全な東北地方に移動させて」
「わかった」
「じゃあ。後はよろしく」
その一言を残して、万条 菖蒲は、腰掛けていたパイプ椅子の上で気絶した。
全ての気力を使い果たしたのだ。
人間の域を超える胆力を酷使した代償なのだろう。
残された朝間ナヲミは、会社の医療部に万条 菖蒲の状況を伝えて対処を求めた。そして、朝顔の飲ませる為の粉ミルクとお湯とほ乳瓶を探しに、基地内を彷徨い始めた。
途中、窓ガラスに写った自分の顔に真っ赤な口紅の跡がある事に気付いて、大急ぎで飛行服の袖でぬぐい去った。
朝間ナヲミは、万条 菖蒲の変容を思い出す。
万条 十治と言う男は、万条 菖蒲にとって、とてもとても大きな存在だった。
誰もが思っていたよりも遙かに、万条 菖蒲にとって、とてもとてもとても大きな存在だったのだ。
人間は永遠に失って初めて、失ったものの価値を知る。これこそ、人間が愚かである証明済みの特性である。おそらく、この傾向は我々が人間である限り、何度世代を重ねても改められる事はないだろう。もしかしたら、その傾向を失ってしまえば、我々がもう人間ですらない可能性もある。そのくらいに、鉄核的な根本に関わる矛盾である。
しかし。失ったものは取り戻せなくても、失う前に失ったら困るものを探す努力ならば有効であるかも知れない。全てを護る事はできないだろう。それでも、失うものの割合を減らすだけならば、それは人間の域を超えずに出来る努力であるのかも知れない。
琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army(RRA)は、ある一人の、とても幸福だった女から、その心の要石を奪った。だから、その報いは必ず受けなければならないだろう。
そして、琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army(RRA)の後ろに控える、極東アジアの隣国の三つの全てとも、武力を交えるかどうかは解らないが、全面的な抗争へと発展するかも知れない。
それは、日本国にとって、とても辛い戦いになるのかも知れない。でも・・・。
ーーー仕方が無いじゃないか。
朝間ナヲミは、万条 菖蒲が、自分に事を「嘘吐き!!」と叫んで八つ当たりして暴れるくらいは覚悟していた。しかし、彼女がそうしなかった。敢えてそうしないで堪え通した。我が儘をではなく、道徳的な正しさの方を追求したのだ。
それは人間として正しい。同時に正しくもない。間違っているとも言える。
そのくらい、誰かに甘えたら良いのだ。しかし、そうしない。それが万条 菖蒲の生き方なのだ。何と堅苦しく、惨めで、美しい生き方だろうか。しかし、そんな賞賛を集める生き方は、一周回って何と不幸な事だろうか。
暴れても良い。見苦しくても良い。醜態を晒しても良い。友達であればそれらを咎める筈もない。そこら辺は持ちつ持たれつなのだから、見ない振りをしても良いし、積極的に受け入れてやっても良い。
でありながら、敢えて、万条 菖蒲は、そう言う"人間らしさ"を拒否した。だったら、彼女が公に訴えられない程に深すぎる嘆きを、誰かが然るべきところへ出来る限りハデ目にぶつけてやらなければならない。
悪意とは「出たところに必ず戻って終わる」と言う、人道上の性質を備えている。「人を呪わば穴二つ」とはそう言う事である。
まずは、「テロでは時代の流れは変えられない」と言う真理を証明する所から始めなければならない。
朝間ナヲミは、意外にも、今になって初めて、琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army(RRA)の、そのまた後ろに控えるクソ野郎共に対する敵意を懐いた。
これまでは、見えない所で何かやってる分には無関心だった。しかし、これからは、夏の夜に家の中で不意に出会す"G"の様に、機会があればその都度、ホイホイさんして、コンバットさん(※)しなければならなくなった。
しかし、朝間ナヲミには、極東アジアの"G"の叩く前に、まずやらなければならない大きな試練があった。
ーーーハコちゃんに何て良い訳しよう。
腕に抱える、万条 菖蒲の娘、朝顔。この娘を新しい家族とする事を、どう説明したら解ってくれるだろうか。
朝間ナヲミは、朝顔の顔を覗き込む。すると、親でもない彼女に向かって素敵な笑顔を返してくれた。
ーーーまあ、何とかなるか。
朝間ナヲミは、とりあえず、楽観で当たって砕けてみれば良いと感じた。
ーーー向日葵に妹が出来るのか・・・。
そう考えると、今日起こった惨劇がもたらす心の痛みが、ほんの少し和らいだ。
子供の存在とは、実に偉大である。
そんな偉大な子供はやがて普通の大人になる。で、偉大な子供をまた作る。
これの繰り返して来た。有史以前から延々と。
なるほど。地球はそうやって回って来たのだ。
朝間ナヲミは、ふと自問する。
琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army(RRA)の闘士達や、彼等を支援する極東アジアの三カ国の指導者達は、そんな簡単な理を知っているのだろうか。と。
自答は、どうにも出て来そうになかった。
少なくとも、今は。
※ = ホイホイさんとコンバットさん。まさか、知らぬ間に超合金が出ていたとは!! 買いそびれました。知らなかった。何てこった。メーカーさん、次のロットを出しませんか? ゴケントウノホドヨロシクオネガイシマス。




