あたらしいかぞく。 〜その参
筑紫洲大学、伊都キャンパス、椎木講堂。
ここが椎木講堂内のいったい何処の辺りであるのかは、今となってはもう分からない。
多分、誰にも分からない。
多くの内壁がコンクリートの張りっぱなしと言うデザインで統一されていたせいで、堂内を頻繁に行き交う習慣がない者には、自分の位置を見失い易かったのだろう。
ーーーいや、私と最愛の妻が過ごした大学の施設と比べれば、方向を見失うほどに大きくはないか。
万条 八十治は、自らの過去を振り返る。
会津に生まれた男が運命の女性と出会ったのは、高校へ通っていた時代にである。自らの優秀性を疑わなかった自分に、「本物の優秀性とは何であるか」と「自分はどうであるべきか」と言う人生の指針を悟らせてくれたのが、将来に妻となる女子高生だった。
万条 菖蒲。学力の面だけであれば、一点突破で部分的に上回る事は難しくない存在だった。おそらく、知能指数や学力成績と言う単純なスペック比較であれば、自分と互角か、または自分がそれを上回っていてもおかしくないと察していた。
しかし。
結局のところ、肝心なところで必ず勝てない。
負けた。と述べたくないのは、男心の妙とでも解釈して欲しい。
兎にも角にも、重要な局面での連敗続きが原因で、並び立つ事すらままならない。
これらは人生で初めての挫折だった。
何故、勝てなかったのか。
今なら明確に分かる。
我々二人の勝敗を分けた要因は、魂の大きさの差とでも言うべきか、その魂を収める"器"のサイズの違いだった(もっとも後に尋ねてみたところ、自分が妻に対して一生懸命に張り合っていた事実を、妻はまったく気付いていなかった節があるのだが・・・)。
頭の回転の速い人間、記憶力に勝る人間、力の強い人間、反射神経に優れる人間、足の速い人間など、優秀性を発揮する優れた人間の傾向は多岐に渡る。
果たして、それら何かしらの能力に優れると言う条件は、本当に優秀性とその優劣を測るべき注視すべきポイントなのだろうか?
中学校までなら、確実にそれらの才能の持ち主の一人がクラスをリードする「中心人物」に収まるのが自然だ。ガキ大将と言う役職と言い換えても良いだろう。
しかし、一定以上の社会的影響力を持つ大学であれば、教養課程が終わる辺りで、遅くとも卒業や就職に向けて準備を始める辺りで、彼等の小さな社会、例えばゼミとか、サークルとか、いろいろでのリードする「中心人物」が入れ替わっている事に気付くかも知れない。
気付く事はそれだけではない。人間の優秀性の内容、つまり指導的立場に立つ人間達に求められる能力傾向が一変している事に驚く筈だ。
それに、茶髪だった奴は髪を黒く染め、涙目で開けたピアスを外し、奇抜なファッションを捨ててコンサバな衣装を纏い、言動の端々まで気を使う様になっている事実をも発見するかも知れない。
生存環境の激変に対応する為に、生存戦略を一変させているだけの事である。
粋がる事で活きの良さをひけらかす事を止め、社会に対して自分が如何に従順であるかをひけらかし始める
何故なら、学業を修めた後の世界、大人が生きている世界では、自分が所属する世界の価値観に従順である事が何よりも必要とされるからだ。
企業、組織、官庁などの直属の上司の言葉は、神の言葉と認める必要がある。社則や社内の不文律は、聖書とその解釈指南書に相当する程に敬う必要がある。そうでなければ、自分の力で生きていかなければならない世界では、真っ当なポジションが与えられないからだ(上級コネ入社にケースは除く)。
日本国出身の指導者達が、国際社会で今ひとつ強い立場を示せないのは、子供の頃にガキ大将と言う役職にあったやんちゃな人材を同調圧力を通じて社会の上澄みから積極的に排除するせいだと言う説がある。
つまり、日本国の企業や組織や官庁は、ガキ大将と言う役職に就けなかった、大人にとって御し易いタイプの優等生だけを社会の上澄みへと迎え入れる傾向が強い事への皮肉だ。日本社会の構造的弊害が、思わぬ所で致命的な問題を引き起こしていると主張したいのだろう。
一理ある(とは言え、旧・大人しかった子供による元・ガキ大将への復讐的排除と言う側面が、皆無という訳でもないだろう)。
大人にとって御し易い子供達ばかりを選んで配下に収めれば、御し易い人材ばかりが大量に育つのは必然だ。そして、日本国が誇るそれらの優秀な人材は、国際社会の第一線で活躍している者達の中に紛れて込んでいる、ガキ大将上がりの者達にとって、極めて転がし易い交渉相手として目に映る事は避けられない。
元・ガキ大将であれば、勝ち気で強気で支配欲も大きいだろう。"勝ち気で強気で支配欲も大きい元・ガキ大将 VS 御し易いタイプの優等生"の2者による身を削るようなガチンコ対決では、後者が一方的に相性が不利となる。
ここに一つの認めがたい法則を提示する。
陰キャは陽キャには絶対に叶わない。
仮に陰キャ人類が陽キャ人類を殴り倒せても、後から全ての勝因は無効と判定される。勝負する前から陰キャ人類の敗北は確定している。
無茶苦茶で矛盾だらけの比喩である事は承知している。しかし、これこそが小賢しい秀才の嵌まる落とし穴である。厄介な事に生活規範が一新される。そして、比喩の無茶苦茶な矛盾ぶりは。ここから更に加速する。
ーーー切ない話であるが。
どこかで読んだ事がある。ローマ時代の哲学者「キケロ(※1)」はとにかく弁が立つ男だったそうだ。キケロの友人は、彼の事を以下の様に評したそうだ。
"もし、今、私が公衆の面前でキケロとのレスリングで勝利したとしても、その後にキケロが私達の勝負の一部始終を観戦していた者達とちょっとでも会話してしまえば、どう言う訳か私がキケロに敗北したと納得して帰宅するだろう。"
口の巧さ。これが一目瞭然の正しさすら容易にひっくり返せる奇跡のツールである。
このツールを使うなら、陽キャほど巧みな者達はいないだろう。
根拠は、陽キャと陰キャの殴り合いの勝敗を判断する審判が、常に標準的な人間である点に集約される。地球上で生まれた大多数の標準的な人間達は、退屈が死ぬよりも嫌いで、自分を退屈させないスキルを持った陽キャの肩を常に持つ。
日々の退屈な生活で鬱屈した気分を紛らわしてくれるのは、陽キャの巧みな口説きである。一方、陰キャにはそんな器用な事は逆立ちしても出来る筈もない(しても、していると認識してもらえない)。
それは種族的な本能の問題であり、本能に逆らえる知力を持つ人間が極めて稀少であるせいだ。仮に、
"陰キャとの安寧だが退屈極まりない生活"と
"陽キャとの遠からぬ未来に破滅が約束されているが、ジェットコースターの様な目眩く愉快な生活"
の二択であれば、驚くほどに一定数の標準的な人間が後者を好んだり、選ぶだろう。本能の罠、ここに極まるだ。
真実よりも虚像。真実よりも虚像の方が、創造するならば圧倒的に容易だ。
しかし、真実と違って虚像の乱用は危険だ。次から次へと新しい虚像を産み出し、それらを破綻なく両立させ続ける事は容易な業ではなく、だからこそ「知力」と言う源泉が不可欠である。
例えば、「知力」と良く似て見える「知性」を源泉して虚像を産み出し続けると、最初の何回かは上手く行くが、遅かれ早かれ酷い形で破綻する。
「知性」とは、集めた知恵の総量を測る言葉である。「知力」とは集めた知恵を利用する力である。それは「知性」で劣っても「知力」で勝っていれば、競争では互角以上どころか勝利すら収められる事を意味する。
ある一定以上のレベルでも競争では、その傾向は顕著に現れる。頭でっかちよりも、現場での実務経験の方が遙かに役立つと言い換えれば広く納得が行くかも知れない。扱いきれない知恵を集めるよりも、集めた知恵の扱いに精通する方が社会の役に立つ訳だし(ただし例外はある。非現実的な価値観に支配されるアカデミックな世界ではそっちの方向に向かいやすい。
詐欺犯罪(※2)の終焉は、分=自分の実力を弁えずに虚像を多用し過ぎた結果である事が多い。そして、虚像は乱用すればするほど、詐欺の終焉の状況はより悲惨化する。
既に、極論の限界を超えて久しい感があるが、上の方でさらっと述べた感じの、何とも悲惨か陰鬱な体験を記憶しているか、そんな実体験の蓄積すら許されなかった方々がこの世界には多そうである雰囲気から鑑みるに、さして見当外れな推察ではないだろう。
そうでなければ、陰キャが陽キャに後から復讐すると言うテーマのエンターテインメントがこれほどに巨大な市場を形成する筈もないだろう。
日本国以外の指導者達は、漏れなく陽キャと考えて良い(多少の例外は認める)。
一方、日本国の指導者達は、漏れなく陰キャと考えて良い(多少の例外は認める)。
間違った事を行なう陽キャの方が、正しい事を行なう陰キャよりも多くの支持を受ける。
陽キャにはコミュニケーションのすれ違いを減らす効果があるのだろう。少なくとも、陰キャよりもコミュニケーション効率が高い事だけは否定出来ないだろう。
一般社会におけるコミュニケーションとは、確実な情報の交換・応酬ではなく、共感の求め合いである。だから、共感をより広く募るならば、陽キャのルートの方が便利。万人向けだと言う視点で語れば。
一例として。
荒唐無稽な理想を掲げる欧州を、世界中の意識の高い標準的な人間達が無条件で支持し続けるのを不思議には思わないか?
面白みや際だった要素は皆無だが手堅く実直な選択を保持する日本の政府や企業を、日本国の標準的な人間ですら、さして高く評価しないのを不思議には思わないか?
派手に見える冒険主義を尊いとし、堅実な現実主義を軽蔑する風潮。なお、前者は社会情勢の一変で完全に瓦解し、後者は何とか持ち堪えられている。
しかし、前者が楽しげな祭りに見えて、後者は退屈そうな日常にしか見えない。前者が選ばれ、後者が選ばれない最大の理由はそこにこそある。多分ね。
日本国が文化的に好むタイプの指導者達では、日本国内ではそれなりに有能で多才であるのかも知れない。しかし、実際、日本国から一歩でも外へと出ると今ひとつ通用しなくなる、いわゆる"内弁慶"タイプが多く含まれていると考えた方が良さそうなのだ。
しかし、日本国が文化は陽キャ指導者を好まない。不思議な事に陰キャ指導者を好む。おそらく、この傾向は先進国内ではかなり希有な価値観だろう。
狼に率いられた羊の群は、羊に率いられた狼の群を駆逐するみたいな格言もあるらしい。これが正しいならば、日本的組織が海外へと打って出るのには無理がある。少なくとも、競争する前から勝っている圧倒的優位な状況でなければ、鴨が葱を背負って来てくれたと言う側の感謝を受ける結果はほぼ確定している。
ーーーブルース・ウィリスがロサンゼルスにあるナカトミ・コーポレーションで初めて暴れた時は、まさに"競争する前から勝っている圧倒的優位な状況"だった。
もちろん、院政したい前任者や後援会の立場からすれば、次世代の現場担当者=組織代表者や責任ある企業の経営者は、御し易いタイプの優等生アガリの人材以外に選択はない。欲しいのは、暴走する危険性のある優秀な人材ではなく、あくまでも確実にリモート・コントロール出来るドローンだ。
彼等は、自分達とは異なる価値観を持つ新人に組織の改良・改変を期待しているのではなく、安定路線の追求による確実な業績の確保である。それ以外は何も期待していないので、それはそれで目的に見合った正しい選択とも言える。
以上の、日本国固有(とも言い切れない)の事情で、指導者とは絶対的に、老人達の声に徹底的に耳を傾ける=民主的である事が要求される。
これを数世代に渡って繰り返した結果、日本国の文化下では人の話ばかり聞いている指導者以外は登場し難くなって来ている。
温和しめな"狼"を選んだ交配を数世代に渡って続けたら・・・人間に絶対に逆らわない"子羊"に進化したみたいな話だ。自然選択がもたらした精神的な去勢行為だ。
頭の回転の速い没個性。記憶力に優れた没個性。体力的に群を抜いて優れた没個性。これらが日本に於ける優秀な人材や優秀な指導者のステレオ・タイプだ。仮に、「没個性」と言う定義から外れる者が指導者に就くと、強力な社会的排除力が働き始める。
果たして、それら何かしらの能力的に優れると言う条件は、本当に優秀性とその優劣を測るべき注視すべきポイントは本当に「没個性」なのだろうか?
日本国と言う局地的な状況を語る上であれば、それは必ずしも誤解ではない気がする。しかし、人類社会の規模で判断すれば、間違いである。
それを間違いであると見抜けないのは、日本人の悪い癖が原因だ。
しかし、今ではそれが間違いであると自分には見抜けている。
日本国では間違った指導者像を理想としている。
奇譚なく放言すれば、欧米で良く見掛ける元・ガキ大将と言う経歴ですら、優秀な指導者となる資質の一つでしない。場合によっては、元・ガキ大将と言う資質は優秀な指導者となる上において妨げとなる場合もあるくらいだ。
ーーー元・ガキ大将と言う資質は、さほど重要な要素ではないのだ。
自身の挫折と言う経験を通じた結論では、日本人は人材の優劣の判断方法を誤解していると言う話に尽きる。つまり、評価のやり方を心得ていないと言っているのだ。
何故か。それは日本人は、謙虚であると同時に、傲慢でもあり過ぎるからだろう。
しかし。
違うのだ。
すべての優秀性の頂点。それは指導者へと登り詰める競争の先にある。
すべての優秀性の頂点。それはリーダーシップを発揮出来る指導者としての社会的役割を任される事である。
リーダーシップを発揮出来る指導者へと至れない優秀性や才能は、指導者が放つ輝きと見比べれば、一瞬で色を失うレベルの寂しいものだ。
自分自身も含めて、指導者へと至れない優秀性や才能の持ち主は、"有象無象"とか、"十把一絡げ"として取り扱われる程度の人材でしかない。
自分の事を、「掛け替えのない」とか「唯一無二な」とか「何かしらの星の下に生まれた」などと勝手に確信していたりすると、この過酷な現実を突きつけられても認める事が難しくなる。この挫折感が、一定数の反社会的な人材を生み出したりもする。
怨むなら自分を。社会や自分よりも優秀な者達をではなく。自分を主役だと思っていたら、群衆の一人だった。別に珍しい事ではないのだから、それを認めて分相応な人生の構築に取り掛かった方が建設的だ。
指導者の資質とは、不可欠とされる優秀性とは何だろうか? "有象無象"とか、"十把一絡げ"の人材とは、どこで一線を画すのだろうか?
誤解され易いのは、"有象無象"とか、"十把一絡げ"の人材を手脚として使い倒す能力であると言う点だ。この風潮は間違いである。
従来の日本型指導者には、極限まで秀でたマネージング能力の保持者が多い。この風潮は間違いである。
敏腕マネージャー型指導者とは、本当に優秀な指導者が不在の場合に珍重される代替型指導者の一種に過ぎない。
指導者に要求される点は、上の方でもちょっとだけ述べたがたった一つ。
「知力」の保有の有無である。
「知性」ではなく「知力」を極めた人物であると認められる事である。
「知性」と「知力」。似ている様で全く別物。
素人には瓜二つに見えるかも知れないが、実はいずれも異なる山の頂上である。
ーーー自分は妻と同じ山のクライミングを競い合っていると、凄まじい思い違いをしていた愚か者だったのだ。
知性の山の頂上の標高は3,000mあれは高い方だ。しかし、知力の山の頂上の標高は軽く8,000mを超える。
同じ山でも登頂ルートの質は異なる。故に、まったく違う覚悟が必要だ。
自分が登っていた知性の山であれば、登頂に失敗しても生還は難しくない。失敗しても何度かは再挑戦を繰り返せる。
しかし、妻が登ってた知力の山は頂上へ辿り着けても無事に生還出来る保証はない。一生に一度の大遠征の様にハードルが高いので、運良く失敗して生還出来ても再挑戦の機会はほとんど訪れない。
何故、知性ではなく知力の方が重要かと言えば、人々に希望を与える理想を掲げ、楽天的な未来展望へ向かう手段と必要性を自分自身の言葉で語る必要があるからだ。
多くの人々に希望を与え、理想を共有する気分へと導くには、知性によって引き出した過去の偉人の言葉の流用ではなく、知力で想像したオリジナルな言葉で語りかける事が不可欠なのだ。
私が思うに。
良く見掛ける、日本型指導者の特色とされる、有象無象で十把一絡げに取り扱われる程度の優れた才能の持ち主達を手脚としてトコトンまで使い倒す、極限まで秀でたマネージング能力を駆使する人材は、仮に指導者であったとしても、簡単に取り替えが利く暫定的な指導者であるに過ぎない。
仮に、その人物が指導者を自称する輩であるならば、その曲芸は優秀な指導者である事の証明にはなっていないとしか言えない。何故なら、その程度の曲芸は、優秀な指導者にとっては、雑作も無く実行出来なければならない初歩的な技能であるからだ。
ーーーそうでなければ、箸にも棒にもかからないくらいに。
指導者とは、有象無象で十把一絡げな才能の持ち主を、知力で紡ぎ出した巧みな言葉で唆して、広く束ねられる"ある種の理想"を掲げる。その理想を実現する未来を到来させる為に、更に、見た事も聞いた事もない不特定多数の、志を持ち合わせない部外者達をも巻き込んで群を形成する。そして、その群を飴と鞭でいなしながら、社会的に前進させる能力の保持者なのだ。
指導者は、そうやって纏め上げた他人が持つ特技を縦横無尽に使い尽くし、使い倒す事で新しい基軸を創造する事に"快"を得る。
実際、新しい基軸を創造するシステムは、他力包含が前提である事は否定出来ない。しかし、指導者が膨大な些事ひとつひとつに関わっていては、大事は成し遂げられない。全体を見渡す作業を疎かにしては、大局を見失ってしまうかも知れない。
指導者もまた、心身を削りながら自らの責務に耐えている。だが、指導者の資質を持たない者には、間近で眺めていてもその事実を十分に理解出来ない。
仲間達だけに仕事をさせる一方で、指導者だけ怠けていると誤解してしまう。
搾取される者と搾取される者に、指導者と仲間を分断せずにはいられないのだ。
これは、能力の上位互換の法則の弊害だ。能力の高い者は能力の低い者を理解出来るが、その逆は有り得ない。
それが、日本国で指導者が嫌われる仕組みだ。
日本国では、何も労力も搾取されていない部外者がその流れを見て、聞いて、読んで、知った気になって「他人の功績を盗んだ」と断定して、指導者を攻撃し、貶め、権威を失墜させる傾向が強い。
だから、指導者不在のまま、適当な調整者を指導者の代替として、「場の空気」を読んで、いい加減で適当な落とし所を見付けて、全員で忖度し合う事を決断作業だと誤解する。
そんな事情で、指導者の資質の持ち主は、保守・リベラル陣営のどちらでも大いに嫌われて排除されてしまうの。
そこにあるのは、ただの徹底的な無責任であるにと言うに関わらず。
失敗した場合の責任追及は、立場の弱い者や目立った者を、新たな「場の空気」を読んで残りの全員で吊り仕上げてお終いになるに関わらず。
それによって、失敗した原因の解明は疎かとなり、その経験が次回に活かされない。故に、同じ失敗を繰り返す。
そう言った無責任な組織運営は、社会的大損失である。失敗経験と言う、とても貴重な財産を無駄に捨てる神経が理解出来ない。
「場の空気」ではなく、指導者の言葉による決断であれば、責任の所在が明白であり、遠慮なく失敗した原因の解明出来る。何故なら、失敗した指導者の吊り仕上げそのものが、失敗した原因の解明作業であるからだ。
多数による一人の吊り仕上げほど、千差万別な多数派の心に"快"を与える娯楽はない。古今東西、この倒錯した嗜好だけは全人類に共有されている(どうして、寛容とか寛大の嗜好ではなく、拷問嗜好を共有してしまったのか。人類と言う種は極めて残念さんである)。
日本国の文化では、本物の指導者の誕生を本能的に怖れる。そのせいで、指導者として頭角を現し始めた者を見付けると、「独裁者」とレッテルを貼って、寄って集って小さな芽の中に潰し切ってしまう。
これでは指導者が現れる余地がないではないか!!。
また、仮に資質の持ち主が存在したとしても、指導者と成る事に自己満足以外のメリットを見出せず、指導者を成る人生選択を躊躇してしまうだろう。
そう言う事情で、日本国は歴史的に指導者が長期間に渡って不在であると言いたい。
だが、それはそれで仕方がない。民意は絶対だ。民意は、長期的視野に立てば、指導者よりも圧倒的に強大なパワーを普遍的に行使して来た事は明らかだ。
ーーー少なくとも"民主主義社会"のケースであれば、最終的に全ての指導者が、例外なく民衆にその地位から引きずり落とされている。
特に、指導者が求められた懸案解消を成し遂げた後に。平和的手段となるか、暴力的手段となるかは、指導者が過去に蓄積した印象の具合によって決まる。
重ねて言う。民意は絶対だ。
ただし、絶対と言うなら、国家組織が民意によって自滅する権利も確保されるべきだからだ。
国家組織の危機に際して、民主的にゆっくりと対処方向を検討し、検討中に時間切れとなって、何の対策も採らずに滅亡したとしても、民意である。生き長らえるも滅亡するも、その選択は当人達の自由であるからだ(自由意思でないところがミソだ)。
ーーー誰であっても、独立した個人や個別の社会に対して「救済」の受け入れを強制・強要出来ないからだ。
もし、その一線を越えてしまえば、それは民衆の賛同を得ないクーデターであったり、歴史的に批判され兼ねない侵略行為と見做されてしまう。
国家の危機に際して、「自分達が好まない手段によって救われるのは嫌だ」と言う主張は、「何の対策も採らずに滅亡したい」と言う主張とは同異義ではないだろう。しかし、多くの場合、矛盾した主張が両立する状況であるのだから、当事者達はどちらかのいずれを選ぶ事を、人によってではなく運命によって強要される。嫌だとごねても、時間切れが来れば必ずどちらかに割り振られる。
これに例外はない。万人がいずれは死ぬのと同じくらい確固たる法則だ。
振られた賽子は、いつか必ずいずれかの面を上に向けて転ぶのを止めるのと同じ理屈だ。
過去、日本国は幾度のなく国家の危機=社会構造の危機を迎えて来た。昨今だと、明治維新から太平洋戦争までの戦いの時代、バブル経済崩壊後の長く続く不況の時代、そして現在の出生率の低下や地方経済の沈滞など・・・思い当たる事実を挙げ続けても切りがない。
残念ながら、それらの危機を前にして、日本国は常に指導者の誕生を拒絶し続けた。ゆるふわな議会システムの維持に拘った。そして、現在に至る。
我々の価値観は、指導者と言う存在や概念を余程に嫌っているらしい。
しかし、少なくとも国外では、我々が忌み嫌う指導者が度々登場して、救国の英雄とかの二つ名を与えられて固有の歴史に刻まれている。
日本の非常識は、国外での常識であるらしい。
国の外を眺めていると、指導者にキチンと仕事を任せさえすれば、配下の国民に希望を与えつつ、社会の再構成=大改革=リストラを行ってくれる。日本国企業の悪習のリストラではなく、再構成と言う意味でのリストラだ。
そして、後から歴史として過去の指導者達の手腕を検証して見ると、采配の妙に度肝を抜かれる事になる。そして、有象無象で十把一絡げな才能の持ち主は、その高い効率性を見せ付けられて黙る事しか出来なくなる。
ーーー器の違いだけは如何ともし難い。
もちろん、多くの指導者達は、使い倒す者達の才能=有象無象で十把一絡げに取り扱われる程度の才能なら十分にカバー可能であった。それぞれの有象無象で十把一絡げな才能の持ち主と、ほぼ同等のパフォーマンスを発揮出来る程度に優秀なのだ。
だが、指導者達の真価はそこにない。有象無象で十把一絡げに取り扱われる程度の才能の持ち主になら、いくらでも換えが存在する。一方で、人々に理想と希望を別け与えて、有象無象を束ねて仲間を作り、しっかりとゴールの方向へと誘導出来る指導者の資質の持ち主は、大変に稀少で換えが効かない。
しかし、日本人にはその希少性が理解出来ない。日本国では、指導者の才能の持ち主は、単なる「何でも出来る便利屋」としてしか評価されなかった。
悲しいかな。真の指導者を持つと言う体験を文化レベルで持ち合わせなかった民族の性向だ。もちろん、それには立派な理由がある。それは、日本人は、世界でも珍しい、指導者を必要としない組織構築を得意とする国民性を持っているからだ。
先にも述べたが、有象無象で十把一絡げな才能の持ち主ならば以外と豊富で掃いて捨てるほどにいる。一方、指導者の資質の持ち主は常に不足気味だ。
だから、指導者が、有象無象で十把一絡げな才能の持ち主と役割を入れ替わる事は容易い。
しかし、有象無象で十把一絡げな才能の持ち主が、指導者と役割を入れ替わる事は不可能だ。
軍隊組織において、良い将軍は十中八九が良い軍曹にもなれるが、良い軍曹は十中八九で良い将軍にはなれない。それと同じだ。上位互換と言う言葉あるが、下位互換と言う言葉をあまり耳にしないのは、そう言う事だからだ。
そんな人間社会の真理の一面を理解する過程で、私個人は、自分が指導者としての器はなく、指導者に従う有象無象で十把一絡げな才能の持ち主の器であると悟らされた。
それが不愉快な経験でなかった筈がない。自分を不甲斐なく思う代わりに、それを教えてくれた恩人を怨んだ事もある。
それでも、優れた指導者とは素晴らしい魂の輝きを放つ。
やがて、自分もまたその輝きに魅了されてしまった。
そして、教えられる事となる。
人は指導者の言葉で動く。人は自分の言葉では動かない。
ーーー自分の妻の言葉があれば人が動くのだ。
悔しかったが、それは誤解する余地もない程にあからさまな事実だった。
とは言え、万条 菖蒲は社会的な暴力よって一度叩き潰された経験を持つ。
今考えれば、自分は生き残り、彼女が潰された理由は明白だ。何故かと言えば、彼女は「指導者の苗」であったからだ。仮に大成したとしても大した事を成さないだろう自分と違って、彼女の方は将来的に社会的な脅威となりかねない異分子であるとして、一度は社会の外へと弾き出されてしまったのだ。
しかし、その苗は強かった。踏みつぶされても、再び新しい根を張り、芽を再生し、枝を伸ばし続けた。
真に、大樹となるべく生まれた貴重な苗だ。今はまだ雑草よりも背が小さい苗木かも知れないが、長く生き抜けば森林を突き抜ける巨大な高木となるべき運命を授けられている筈だ。
ーーー形ち各々異にして、或は戟を取り釼を持ち、頭に大樹を戴けり。
妻と自分との決定的な違いはそこにこそあったのだ。
ーーー月は自分が太陽と同等であると勘違いしてはならない。
それを自覚してからは、胸の閊えが取れた。
とにかく、心が楽になった。
自分の役割は、自らが指導者となる事ではなく、指導者の苗を大嵐や大地震よりも大きな脅威である社会的排除力から守り抜く事だと納得出来たからだ。
認識を更新するだけで、あらゆる葛藤から開放された。
御陰で、彼女が高校から自主退学をするその日まで、片時も側から離れずに、生徒会の副会長として会長を補佐し続ける栄誉に授かれた。
ーーー振り返ってみても、一生の中でもっとも幸せだった時期だ。多の期間とは比べるまでない程に。
だからかも知れない。彼女が、高校から去って行く日、この先も彼女を補佐し続けたいと願ってしまった。そして、彼女は、その願いを叶えてくれた。
剰え、自分を交配の相手として選んでくれた。
でありながら、自分が彼女の生涯を通じた伴侶であるとは、今ひとつ"確かな実感"と言うものを得られなかった。
まるで、宙に浮いているかの様な・・・。
本命が据えられるまでの、あくまでも暫定的な采配であるかの様な気がしてならなかったのだ、
最初は、"幸せ過ぎて恐い"的な譫妄の一種と考えていた。
妻もまた、それを大事としては捉えず、ゆっくりと実感を積み重ねて生きて行けば良いと答えてくれた。
しかし。
残念ながら、その予感は正しかった。
そう、おそらく、今日、間もなくこの身に起こるだろう、私的な大事件の発生を、きっと何となく察していたのだろう。
ーーー人生、そんなに上手く行くわけがない。
彼女が腹を痛めて産んでくれた娘。朝顔と名付けられた長女。
父親である自分の面影を一切を持ち合わせずに生まれて来た。
これ見よがしなまでに、妻の外観的な特徴の全てを継承して生まれて来た。
運命ってヤツは本当に人間って生き物を良く分かっている。
妻そっくりの長女。自分にとって、これほどに素晴らしい贈り物は思い付かない。
幸運な事に、朝顔は腹を痛めた母親よりも自分の方へと懐いてくれた。
寛大な妻は、その状況を許してくれた。
だから、第二次性徴期が始まるまでのとてもとても短い時間を、一秒も無駄にする事なく娘との思い出作りに費やせるだろうと、勝手に信じ込んでいた。
幸せな時間とは。
朝顔の笑顔を見る時。
朝顔が自分の腕で抱かれて寝顔を見る時。
朝顔グスって真っ赤にする泣き顔を見る時。
・・・・・・そろそろ時間切れか。
自分は、妻と出会えた運命を授けてくれた何者に感謝せずにはいられない。
ああ、静かだ。そして、暗くもある。
もう、周辺に振動も感じない。
騒動は全て終わってしまったのだろうか?
もう、頭が動かない。意識を保てなくなって来た。
あの公安刑事はちゃんと逃げられただろうか?
私達親子の為に命を賭けてくれた。
彼はここで死ぬべき人間ではない筈だ。
ああ、最後にもう一度だけ朝顔の顔を目にしたい。
しかし、目がまだ残されているのか、あってもまだ機能が保たれているのか確かめる手段がない。
手も足も折れたか、千切れたか・・・。分からない。
ただ、この腹の下にある柱と柱の間に見付けた凹みに押し込んで朝顔だけは無事であって欲しい。
神様。お願いだ。初めて祈いるんだ。
娘を妻と引き合わせてやってくれ。
アンタに祈る事しか出来なくなった、哀れな子羊の最初で最後の祈りだ。
ん・・・光か?
真上に飛行機が飛んでいる? すごい速度で近付いて来る。
ああ、同じ高校を卒業した、あの朝間ナヲミさんが乗っているのか。
助けに来てくれたんだな。
頼む。娘を・・・。
そして、妻の事を頼む。
妻は、貴女の事を今も忘れていないんだ。
ーーーーーー。
万条 八十治は、万条 菖蒲の真横に立ち続ける栄誉を、たった今失った。
それも、永遠に。
思考にまとまりと取り留めがないのは、大量出血が原因の死を直前に控えて、生体脳がじょじょに機能を失いつつあったからだ。
万条 八十治が栄誉を惜別する約10分前。
筑紫洲大学・椎木講堂が完全倒壊した。
琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army(RRA)によるテロ犯罪が原因だった。彼等は、筑紫洲大学・椎木講堂を占拠し、爆破解体の要領で支柱などの構造を支える要の部分に十分過ぎる量の爆薬を仕掛けた。
そして、突入作成を担当したコマンド部隊の華々しく猛々しい最後を完成させる為に、武力で集めた人質達と共に、椎木講堂全体を崩落させた。
ーーー爆弾を利用したモンロー/ノイマン効果。
まずは上部構造がクシャッと折れて崩れた。発生した瓦礫が落下し、そのタイミングで下部構造でも適切な箇所に設置されていた爆破物が仕事をした。それによって、建物の全ての質量が地表に向かって崩落し尽くした。
万条 八十治と万条 朝顔は、その自滅テロに巻き込まれたのだ。
椎木講堂の完全崩落から二時間後、万条 八十治と万条 朝顔は、コンクリートや構造物が混ざった瓦礫の下から掘り起こされた。
万条 八十治の身体は既に遺体へと変わり果て、残念な事に魂は今やそこに留められてはいなかった。また、遺体そのものも残念な程に五体満足とは言い難い損壊具合だった。
しかし、現場でトリアージを担当した軍医は、敢えて「心肺停止状態」と診断報告書に書き留めた。それは、遺族にとってせめてもの慰めになれば・・・と言う配慮だった。
万条 朝顔は、父親の身体に守られて無傷で救助された。その代償として、父親が命を失った時に最も間近にいた遺族となってしまった。
だから、せめて、同時に二人が救出された時に、二人が共に生存していた可能性を、父親から将来を託された娘の元に残してやりたかったのだ。
公安・外事二課の刑事「山田」も、遺体として瓦礫の下から発見された。それは翌日の事だった。胸部から腹部を複数箇所撃ち抜かれていた。だが、遺体の損壊状態は「葬式の棺桶の中で横たわらせるくらいならば問題ない」程度に軽度だった。
遺体の直ぐ側からは、全弾を撃ち尽くしてスライドが開かれた状態のワルサーPPKも発見された。
後に、「血の日曜日事件」として、多様な価値観に基づいて、異なる表現で歴史書に記述されるテロ事件は多数の無辜の人々の犠牲の下に集結した。
テロ組織RRAの実働部隊は、たった一人を残して瓦礫に潰されて死亡した。生き残った一人も、自爆時に仲間と共に死ぬ予定であったのだが、瓦礫に潰されずに済んでしまった不運に見舞われた。
琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army(RRA)は、この日は最大の目標である万条 菖蒲の殺害には失敗した。しかし、それ以上の成果も手に入れた。
彼等が本当に「非人道である」と言う決定的な印象を、世界の良識ある人々の心に焼き付ける事に成功した。
我々には、その評価は屑の頂点を指す。
しかし、彼等にとっては何よりの僥倖だった。
多様な価値観の持ち主達が共存する社会とは、本当に度し難い一面を持つものである。
多彩で多災と言う意味で。
※1= マルクス・トゥッリウス・キケロ。共和政ローマ末期に生まれ、帝政ローマ移行以前に暗殺される。暗殺の理由は、"口は災いの元"であった。巧みな話術や文章力を駆使しても、暗殺を回避出来なかったらしい。死後、首と一緒に右手も晒された事でも有名。リゾート地の酒場で、飲み友達として出会うならウエルカムけれど、上司には絶対に持ちたくないタイプじゃね。個人的感想だけど。
※2= 大抵の詐欺は、目的は悲惨ではなく金銭や何らかのメリットを引き出す事であるに関わらず、その終焉はだいたい悲惨である。これが虚像の誤った使用方法の末路である。広く浅い少額詐欺であれば、悲惨ではなく人生勉強で済むかも知れない(もっとも、詐欺に引っかかるタイプの人は繰り返し引っ掛かる傾向もあるので、詐欺被害の総額(生涯被害額)は少額では済まないかも知れない。しかし、一定期間中に許容される無駄遣いの範疇に収まるなら被害の繰り返しならば悲惨だけは避けられる。社会の統治機構も被害者が少額被害しか被っていない様ならば、大人の事情で犯罪のを見て見ぬふりしてもらえて、犯罪者側にとってのSDGs(=Sustainable Development Gains)な搾取も可能かも知れない。目立つ詐欺師が短期間で逮捕されてしまうのは、継続不能なほどにやり過ぎる=大きな被害を与え過ぎるからですね)。虚像は用法・用量を守って正しく使いましょう。計画はご利用者的に。劇薬だからね。