The unexpected surprise to 朝間ナヲミ.
朝間ナヲミは、愛妻の愛車を積んで去る大型トレーラーを見送る。
朝間ナヲミが電話で老輩からの申し出を伝えると、森 葉子は、即答で「ダージリン・ラリー」への参加を表明した。
彼女に言わせれば、「エンジンのシリンダー・ブロックの話がなかったとしても出場したい」くらいに魅力的なイベントであるらしい。
何でも、過去にダージリンを訪れた時の記憶。あまりに厳しいカーブが続く山道を、自分がハンドルを握って登り降りしてみたいと感じるのだそうだ。
その後、愛妻の機嫌が物凄く良い事に面食らう。そして、異国で開催されるレースに参加出来る事を心から喜んでいるのだと理解した。
「ダージリン・ラリー」への参加を老輩へ伝えた2日後。早々に、フル・レストアの対象である愛妻の愛車を取り上げられた。中部地方まで運んで、メーカーの工場で全バラする所から整備を始めるのだそうだ。
そして、「車がないと困るでしょう」との配慮で、使いっ走りの配送お兄さんが、奇妙な乗用車を代車として置いて行ってくれた。
代車を降ろさないと、愛妻の愛車を積むスペースもがトレーラーには残されていなかった。
奇妙な代車は、とにかく小さい、二人乗りの真っ赤な乗用車だ。
シートはバケット風の、ドライバーを効果的にホールドする形状だ。
ネットで検索すると、トヨタ・MR2と言う自動車の正体が明らかになった。
形式は「AW11」。後輪駆動。1989年製であるらしい。
愛妻の愛車と比べればかなり若い。それでも、現在から顧みれば、十二分に「旧車」である。
2ドア・ミッドシップ・クーペ。ヨーロッパの自動車産業界の最大の輸出物が、今日の様な「規制」と成り果てる前は、具体的には1960年代までは、むしろ日本でよりもあちら様の方での方が、こう言う車を沢山作っていた様だ。
今となっては。本当に見る影もない。21世紀に入ってすぐ、ヨーロッパ製の自動車は、スイス製の時計の様な、道具の発展の正当性からは逸れる進化を始めた。コスト重視の技術革新を完全に放棄して、市場において「付加価値」とは言う謎の概念を纏った高級車へとステイタスをチェンジしたのだ。
そして、スイス製の時計の様ではなく、対象的にカシオ、それもチープ・カシオの様な進化を今でも続けている自動車勢の、ご先祖様的なAW11のお姿を、朝間ナヲミはじっくりと眺める。
側面に奇妙なスリットが開いているので「何かな?」と思って調べたら、過給器、スーパー・チャージャーの空気取り入れ口だった。
エンジンは4A-GZE。尻に付けられた「ZE」とは、過給器と纏めてエンジン形式を示す記号であるらしい。排気量は愛妻の愛車とほぼ同じ1,600ccクラス。こちらは正確には1,587ccだ。出力は145馬力。にも関わらず、車重はたった1,100kgくらいしかない。いや、これの前期型には1,000kg以下のモデルもあったらしい。
乗り出して直ぐに気付いた。
「こんな車を一般人に売っていたのか・・・(免許取り立てドライバーにはヤバイだろ)」
朝間ナヲミは呆れずにはいられない。
踏めば即座に加速して、パワーの出方は本当に奇麗なカーブを描いている。謝意の軽さも相まって、出力特性にダレが全く感じられない。
前輪と後輪の距離が近く、車幅も狭い。だから、ハンドル操作にもほとんど遊びらしい遊びがない。だから、十字路を自重して運転すればキレイに曲がれる。しかし、変にアクセルを噴かしたり、十分に減速せずにカーブに突っ込むと、すぐに旋回角度が足りなかったり、余ったりする。
そう言う運転特性は、運転技術が未熟であればあるほどに、乗り易いと誤解させられる気軽に危険走行に挑戦する蛮勇を与えてしまう。そして、その結果は、免許取得+新車納車の一年以内に派手な事故を起こしてしまうなんて言う、物凄く嫌な未来と言う予定調和だ。
通常の乗用車と今ハンドルを握っているトヨタ・MR2は、実際の所は、まるで、戦闘機とビジネスジェットくらいに仕様と用途が異なるとしか思えない。こんなに危ない自動車を、禄に電子制御もなかった時代に、掃いて捨てるほどいた若いドライバーが乗り回していたと考えると、どうにも気がどうかしているとしか思えない。
どう考えても、2010年代にはあまりに一般化してしまった、やる気を全て蒸発させてしまう、極めて安全な自動車とは対極を行く自動車である。これを、あの全面的な安定だけをドクトリンのど真ん中に置くトヨタが販売していたとは、とても信じられない。
朝間ナヲミは、キー・ボックスに刺しっぱなしの始動キーを捻ってエンジンを掛ける。とても素直に目覚める。力強いが酷い排気音はしない。つまり、少なくとも排気系は弄られていない。ノーマルのままだ。
エアコンも全開で付けてみる。21世紀の折り返し地点を越えて久しい現在の基準には、なかなか車内が涼しくならない。コンプレッサーも熱交換器も共に20世紀レベルの最新型であるせいだろう。
車検証に埋め込まれているチップを擬体経由で読み込む。「トヨタ・MR2 G Limitedスーパー・チャージャー」と言うのが正式名称らしい。
変速機は5速MT。日本国では、特別な申請をなければ、変速機の入れ替えが許可されない。少なくとも、車検証内容を変更しなければ公道は走れない。そう考えると、この自動車が納品されてからずっと5速MTであるのだろう。
ーーー取り敢えず、試乗してみよう。
ガソリンも半分くらいしか入っていない。おそらく、そのガソリンも新鮮なものではないだろう。だから、新鮮ばガソリンで満タンにしてから愛妻に代車を引き渡してあげよう。そんな配慮もあった。
運転席に座って、一速に入れて半クラッチでゆっくりと始動させ始める。車体がとても小さいので加速は良いし、軽いので曲がりやすいし、ホイール・ベースがとても短いのでキビキビと走る。逆にダルには走れない。
「葉子ちゃんが気に入りそうな車だな」
完全に運転者の手脚の延長として運転出来る素直すぎる車。そして、すべて運転結果をドライバーの技術にのみ求められる車。
朝間ナヲミは、愛妻に一度だけ尋ねてみた事がある。
「どうして、そんなに運転が面倒臭い車が好きなの?」
愛妻は即答した。
「人生の伴侶選びと同じ。自分と感性が重なる「人」や重ねられる「車」でなければ、自分の人生と同じで、運転にキチンと責任持てないじゃない?」
朝間ナヲミは、自分と自動車を同列に並べられた事に驚かされた。しかし、良く考えると共感出来る部分も多い。どう生きるか。どう運転するか。そう言う運命を支配するのは、自分一人だけであるべきだと言う気概の有無の話をしているのだと理解出来た。
自分の人生も運転も、電子知性とか何とかの判断に左右されたくないと言う信念。そして、それが擬体と言う全身を機械へと置換された自分の境遇と戦い、脳味噌と多少の神経系以外しか生まれたままの生態部位は残されていないに関わらず、自分が人間であるとアイデンティティー(あるいは尊厳)を勝ち取った高校時代の痛々しさが物凄く重なって感じられた。
会津若松市の白川街道経由で、猪苗代湖方面への登り道へ入る。尾根を越えるまではそれなりの登りとカーブが続く。朝間ナヲミは、そこで始めてしっかりとアクセルを踏む。
「ーーー!!」
AW11は、まるでケツを叩かれた馬の様な、溜が一切ない急加速を始める。坂道だと言うのにだ。
「なんだこりゃ!!」
カーブ前で減速して少し無理して曲がってみる。ハンドル操作そのままに、まったく遊び無し。
「応答性良過ぎだろ」
強烈な横Gを伴って曲がる。車の姿勢を整える為に、カーブの出口のあたりからアクセルを踏み込む。
「ーーー!!」
後輪が滑る気配がしない。タイヤが強力に路面を捉えている。と思ったら、突然にすっぽ抜けた。車があらぬ方向へ向いてしまう。
普通にカウンターを当て様とすると、カウンターが効き過ぎたり、効かなかったりする。オーバー・ステアでもない。アンダー・ステアとも違う。運転操作が効くか効かないかの境が、まるでカミソリの刃の様に薄い。
「あっぶねー」
後輪が再び路面を捉える。朝間ナヲミにとって、生涯初めてのミッドシップ車の体験である。面食らっても仕方がない。
ギアを一速落とさずに、アクセルを強く踏んでみる。
「・・・」
今度は、過給器が下から効いているので、まるで、一クラスでなく、二クラスに上のスポーツカーの様な、雨天で一日散歩に連れて行けなかった若い犬が、超やる気で引っ張る飼い主を引っ張るかの様な急加速を始める。
「穏やかな加速には不向きな車だな」
ミニカーの様に小さな代車は尾根を越えて。今度は下り道区間へと入る。登り道以上に、車の挙動が神経質になって行く。会津若松市側の様な急カーブの連続でなくて良かった。そのまま猪苗代湖沿いの平地を走って、野口英世記念館の駐車場でUターン。白川街道を逆側に進む。
若松ヘリポート(SNK)の駐車場に代車のAW11を突っ込んで、サイド・ブレーキを掛ける。エンジンを見ようと思って、前方をハッチを開ける。すると、そこに、ボンネットを開けてもエンジンはない。そこはスペア・タイヤを荷物を収めるトランクだ。
ーーーそうか。リア・ミッドシップ!! フェラーリと同じ!!
あ、そうか。確かに、運転中にうるさかったのは座席の背後だった。小さな後部ガラスの真下にある小さなカバーを上げる。すると、やっとエンジンの顔を拝めた。
「これ、整備性悪そうだな」
ストラット・バーと過給器用の熱交換器などがエンジン・ルームに入っているので、なおさらそういう印象になる。
エンジンの取り出し方も分からない。
アイドリング状態のエンジンは異音なく絶好調に見えるし、聞こえる。
エンジンを停止させる。屋根付きハンガーどころか、短期間でも駐機しておける様な余分なスペースもない、ただの非常用のヘリポートなので、エンジンの排気音が消えたらとても静かになった。
「いっそ、ダージリン・ラリーはこの車で走った方が良いんじゃないか?」
運転は難しいが、速い車である事は間違いない。しかも、既に整備済みだ。
ーーーまるで、玩具のミニカーみたいな車だ。
それが朝間ナヲミの運転して見ての印象だった。キビキビ走り過ぎる。それでいてタイヤを滑らせるのは避けたい。ギリギリまでは四つのタイヤで踏ん張るだろうが、ギリギリを越えたら直ちにデンジャー・ゾーンMAXまで行ってしまう様な気がしてならない。
一方で、運転の苦手な、或いは下手なことに自覚のない女性であっても、安全運転の低速で転がすなら、それはそれで運転し易そうだ。道幅の広いカーブで楽だろうし、すれ違いも簡単だろうし。ただし、パニックになってアクセスを不意に踏み込んでしまったら・・・。そも惨劇を想像するとちょっと恐い。
朝間ナヲミは、携帯電話を取り出す。それをブルートゥース的な無線接続で擬体と繋ぐ。そのまま、ワイアレスマイクを使用する感覚で、旧友の電話番号を呼び出す。
高校時代からの付き合いの元クラスメートは直ぐに、呼び出しに応えてくれた。
「ナヲミだけど。アーちゃん、今だいじょうぶ?」
呼び出したのは、自分と同じ境遇、国外から日本国へ流れ着いた元難民。現・日本国民。アーシュミラだ。彼女の旧姓は「タックリ」。元インド国籍、ダージリン出身者だ。今や二児の、いや、二人を育て上げた母親である。
「久しぶりにね、ナヲちゃん。帰国中?」
ここ暫く海の上の生活が長かった。だから、直接にあるどころか、機密保持の必要性から気軽に電話を掛ける事もできなかった。せいぜい、メッセンジャー・アプリで当たり障りのない挨拶を交わせるくらいであった。
そして、ニートになってから、あまりにも精神的にダレすぎて、旧友達にも「無職になりました」や「今後はずっと日本国でダラダラと生きて行きます」みたいな宣言をする事も忘れていた。
3分かけて、朝間ナヲミは現状をそれなりに丁寧にアーシュミラに対して説明した。それを聞いて、「葉子ちゃん、良くニート人生を許してくれたねえ」と驚いた。
「まあ、それは・・・その。愛されているからかなあ・・・」
朝間ナヲミは、二人の娘も出て行った自宅で久しぶりに二人きりで過ごしているパートナーとの新しい関係を惚気てみせた。
「それでね。10月に、ダージリンへ行く事になった」
朝間ナヲミは、アーシュミラに対して、彼女の故郷であるダージリンまで、夫婦揃って出向くと伝えた。
「え? もしかして、ラリーに参加するの?」
すると話が早い。きっと耳も速い。アーシュミラは、ダージリンの復興を世界に向かって伝える為のイベントである「ダージリン・ラリー」の開催を知っていた。
朝間ナヲミは、自分達を一緒に、帰郷しないかと誘うつもりだった。だが、そんな配慮は無駄だった。
「10月に、私達も家族総出でダージリンに行くんだよ」
アーシュミラの言葉に驚く。しかし、続けられた言葉はさらにももっと驚くべき話だった。
「ウチの長男、マルチ・スズキのワークス・チームのドライバーとしてラリーに参加するんだ」
世界は狭い。朝間ナヲミは自分達が競うべき相手が、想定以上に身近にいた事を知らされた。
「私達夫婦は、トヨタの参加枠で出場するんだ」
「あーーー。トヨタがシークレット枠を一つ確保してるって滉己が言ってた。それってナヲちゃん達だったんだね」
朝間ナヲミは、アーシュミラの長男が、有力なラリーストの一人にまで登り詰めている事を失念していた。
「まあ、参加が決まったのは一昨日なんだけどさ。参加の打診を受けたのも先週だし」
奇妙な偶然の重なりであると、何らかの思惑や修惑の存在が脳裏にチラ付く。
「多分、それはどうかな。シークレット枠はラリーの発表時には決まってた筈だよ」
しかし、国際政治の最前線=血を流す政治の現場から身を引いた今では、それは考え過ぎであるに違いない。
「じゃ、予定してた人が参加を辞退したのかも」
折角のお祭りである訳だし、滉己にとっての大舞台となるダージリン・ラリーに暗雲を立ち籠めさせたくもない。
「ま、そう言う事にしておこうか」
高校生の頃のアーシュミラは、妙な言葉選びとズレたアクセントが可愛い不思議なガイジンの女の子だった。しかし、出産と同時にガイジンらしい喋り言葉の特徴がメキメキと剥がされた。今となっては、電話の向こうにいる話相手がネイティブな日本語スピーカーでないとは、誰にも想定出来ないレベルにまで仕上がっている。
ただ、同時に、ネパール語のコミュニケーション能力が激しく落ちているらしい。どうやら、脳味噌の言語野を日本語で完全に上書きしてしまっているらしい。実際、20年前に漢字検定一級証書を取得したとか自慢していた。多分、漢字の使い手としては、朝間ナヲミはおろか、生まれながらの日本人である森 葉子よりも有能であるに違いない。
アーシュミラによれば、長男の滉己君はインド国籍を取得して、インド企業チームがインド人ドライバーを走らせると言う形式を取っているそうだ。マルチ・スズキとの長期契約を結んで、今後しばらくはインド国内での活動に切り替えるんだとか。
インドには北部に当たるヒマラヤ周辺とか、アッサムから東の辺境地区には日本人と見分けの付かないモンゴロイドのインド人が沢山いる。だから、少数民族出身(※)と考えれば、インド人のヒーローが必ずしもアーリア系でなくても良い。
ノーマークだった人が凄い業績を上げるとイロイロと起こるのよ。イロイロあるんじゃなくて、現在形で起こるのよ。
ほら、エヴェレストに最初に登頂した二人の片方、テムジン・ノルゲイ。彼はシェルパ族のモンゴロイドだ。だが、インド、ネパール、人民共和国などの国家が、彼は正真正銘の「自国民である」と強く主張している。
歴史に名を刻む様な業績さえ建てれば、出身民族など不問になると言う話だ。テムジン・ノルゲイは、エヴェレスト登頂に成功する前、果たしてどの国のパスポートを持っていたのだろうか? いや、多分、どこの国のソレも持ち合わせてはいなかっただろう。多分ね。
このあたりのへんちくりんな感覚は、我々日本人には理解しがたい。きっと大陸やそこから突き出た半島に住む人々だけが共有する価値観なのだろう。
ーーー日本人には、そう言う安直が過ぎて、その上で手のひら返しな主張をするのは、ちょっと・・・恥ずかしい。
もちろん、「恥」を重んじる文化であっても、大陸やそこから突き出た半島に住む人々のソレと島国・日本のソレは相当に異なる訳だし。
その後の話で、「ダージリンではウチに泊まれば良いよ」との提案を受けた。何でも、土砂崩れで消失した生家と同じ場所に、同じ規模の、4階建ての家を建てたんだとか。下の二階は賃貸にして、上の二階分、更に屋上に追加で"ペントハウス"なる木製の小屋まで建てたんだとか。実質5階建て。
朝間ナヲミは、「その時はよろしく」と返して、通話を終えた。
※= ネパールでは、最大人数を誇るマジョリティーな民族でも全国民の2%程度に過ぎない。だから、シェルパ族はネパールにおいては我々が考える少数民族ではない。また、インドや人民共和国では、正真正銘の少数民族出身者と言う扱いになる。こういう微妙さを、我々日本人は肌感覚で感じる事はとても難しい。