墜ちる㕶星、拾う百萬星。 〜58
合衆国、フロリダ州、セバスティア付近の地下施設。
施設の実験室内に、更に多面がガラス張りの板で区切られている小部屋まである。
地下施設規模はそこそこ大きい。付属の施設の容積も合わせれば、おそらく、一般的なサイズの戦闘機のエンジン換装作業くらいならば対応可能そうな広さだ。
また、それを搬入する経路も確保されてもいた。
大掛かりな研究を個人レベルで行う為には、最低限でもこの程度の規模は不可欠だった。
だから、流石に、二人が居住する自宅の地下に、これほどに大きな施設を建設する事は憚られた。
その地下施設内では、いや、二人が居る、航空管制室や戦闘司令所にも見える小部屋は薄暗い。ほとんどが間接照明方式が採られているせいか、アジア人の瞳を持つ者には室内照明があまりにも控え目に感じられる。
おそらく、それは、液晶だか有機ELだが、或いは違う方式なのかの見分けの付かないモニター面への反射を抑える為か、モニターに映し出された情報の詳細を見落とさない事を目的としているのだろう。
正面にある一際大きな、更に分厚いガラスの向こう側には、剥き出しになった電子基盤と傷一つ無いゲル装填ケースに閉じ込められた有機物が見える。それらを取り囲む様に膨大な接続機器が配置されている。
剥き出しになった電子基盤には、いくつかの亀裂の痕跡、それらを根気よく修繕・修復した痕が見える。
どうやら、肉眼レベルでは判別出来ない、分子レベルの精細な修理が行われている。何かしらに事情で、分子レベルであっても欠落してしまった部位については、人工知能を使った推測法でキチンとギャップを埋められているらしい。
何と偏執的で、周到。しかし、量子的な振る舞いまでの完璧な修復を望むのであれば、やって損はない選択だった。何故なら、このさして大きくない電子基盤は、人間が作った道具でありながら、人間同様に「業」を発生させるキャパシティーを獲得している可能性が濃厚であったからだ。
津田沼博士は、「発生させた「業」を使って、「宿命」を連鎖させる」と言う条件は、生物にだけ当てはまるキャパシティーであると感じていた。それは、行動を支える動機と言うものを、使用者に全面的に頼っている道具には、どうやっても「宿命」は道具ではなく使用者の方へと継がれてしまうからだ。
だから、津田沼博士が見詰めている、さして大きくない電子基盤が以前に、朝間ナヲミが使用している時限定でチラ見せした、「業」を発生させた可能性を、実証実験を通じて調査したかった。持ち前の、容赦の無い知的好奇心を満足させたくて仕方なかったのだ。
あくまでも好奇心だった。「業」を発生させた可能性の有無に対する、自身による推測の成否はどうでも良かった。ただ、白か黒かと着けたかっただけなのだ。
彼にとって、人間の手で作ったモノが「「業」を発生させる」と言う条件に叶って欲しいとか、欲しくないとか言うどうでも良い。そう言う雑念は、研究を極める上で、余計で余分であるだけでなく有害ですらあった。
否定したいとも肯定したいと言うのは、自尊心の問題に過ぎない。本物の好奇心が、ワクワク感が、マックス状態へと至るのは、好奇心の結果が自身の推測を大きく上回ったり、意下回ったりする。予測を大きく越えた時である。
純粋に未知を既知とする過程を精一杯愉しみたいだけなのだ。
津田沼博士が日本国を引き払って、合衆国へやって来てから長い年月を掛けて個人的に学んだ事の一つ。それは、合衆国人も日本人と等しく、社会的な道徳の精神をきつく締め上げられていて、「こうであるべき」的な雑念を払った真理の追究が出来ていないと言う事だった。
雑念から自由そうに見えて、ぜんぜんそんな事はなかった。また、覚悟を決めて肝が据わっていると言う事もまったくなかった。両国は、何だかんだで、襲って来る方向は異なっても、社会モラル的な同調圧力の強さに関してなら似た様なものだった。そうでなければ、合衆国の方が強そうにも感じられた。
日本国ではお天道様が、合衆国では神様とか言う社会的な強制力が人間の自由な思考を阻んでいる。
しかし、実際にお天道様や神様とか言う社会的な強制力を発生させる「装置」が暴走したら、社会はどうなると言うのか。
実は、お天道様や神様は、実際に人間の行動に不愉快を示したり、止めに走ったり、罰を与える事はない。歴史上、そんな奇跡が起こった試しは一度たりともない。正直、実績は甚だしいまでにゼロだ。
このように、人間が自分自身の行動を制御する責任を負わなても良い社会は、極めて危険である。ちょっと過去を振り返るだけで、そんな社会では人間がこれ以上ないくらいに極端な愚行へ走り易い事が立証されている。そして、取り返しが付かなくなってから、(謙虚な人間に限れば、)後悔で終わったイベントを思い出す度に地団駄を繰り返し踏むのだ。
例えば。
日本国は、明治維新以後に無理ゲーを次々とクリアーしてしまったばかりに、出口のない迷路へと突進してしまった。
興隆期最後の戦いがあまりにも神懸かっていたが為に、「神がそれを望んでおられる」が勝因であったのではないかと不安になってしまっても仕方がないくらいに、見事な勝利だった。しかし、その見事さが、今後は足を引っ張る事となる。
神懸かった圧倒的な勝利を、常識的な勝利の程度であると誤解した。そして、「神がそれを望んでおられる」なら、次も絶対に勝てると妄信して、結果的に絶対にクリアー不可能な劇ヤバゲームに嵌まってしまった。結果、有り得ない規模の高課金を繰り返した末に、完全な経済的な破綻=強制ゲームオーバーを体験した。
西ヨーロッパは、「神がそれを望んでおられる」とか言う妄想を積み重ねて、イスラム勢力が支配する中東のエルサレムまで侵略軍を送った。どう考えても、無理ゲー状態だったに関わらず、何かの間違いで「エルサレム王国と諸連合国」を成立させてしまった。
当事者であったタンクレディーの兄貴やボードワン一世には、かなり申し訳ない描き様である事が分かっている。
番狂わせを引き起こしてしまったばかりに、それからの未来に繰り返しで間違いとしか言えない大勝利を起こし続ける必要が生じるなんて言う無理ゲー状態へと追い込まれてしまった。
「エルサレム王国と諸連合国」は、イスラム教勢力のど真ん中に咲いた一輪の花であった。四方の中の陸側三方をイスラム教勢力に完全に包囲されていた。辛うじて開いている一面も地中海と言う海であり、徒歩による脱出は不可能という背水の陣であった(物資の大量補給と言う面では幸運であったが)。
多勢に無勢な状況下で「エルサレム王国と諸連合国」を中東で永続させるなんて言う達成目標は、どう考えてもクリアー不可能な劇ヤバゲームである。しかし、それに嵌まってしまった以上は、最後まで、有り得ない規模の高課金が不能になるまで注ぎ込むしかなくなる。
だから、クルド人の英雄サラディーンが歴史に登場した途端に、中核であった「エルサレム王国」はあっさりと、100年も続かずに滅亡させられた。
嵌まると言うのは恐ろしい。西ヨーロッパは、それでもまだ諦められなかった。日本国にとってのミッドウェー海戦以上の極大被害を受けながら、中東で辛うじて存続していた「諸連合国」の方への有り得ない規模の高課金へとシフトする。
それでも、力一杯足掻いた末に、結局はゲーム・サーバーの強制初期化=強制ゲームオーバーとなった。西ヨーロッパ人は、最後の一人まで地中海へと叩き落とされて、キリスト教勢力は中東から完全に消滅した。そして、現在に至る。
西ヨーロッパ人も我々の祖先と等しく、有り得ない規模の無駄な努力を繰り返した末に、強制ゲームオーバーを体験した。別にそれで親近感を持ったりはしない。ただ、共に、無駄な努力の行く末を嫌と言う程に見せ付けられた事だけは事実である。
津田沼博士には、その辺りに付いて、少し違った見方があった。
日本国による明治維新以後の国際情勢が斯様に熾烈な無理ゲーであっても、西ヨーロッパによる十字軍による聖地奪還運動が奇跡の連発が無理な状態へと落ちたとしても、「こうであるべき」的な観念=雑念を持たずに挑み続ければ、もう少し違った終わり方があったのではないかと考えていた。
「こうであるべき」的な雑念は、固定観念の形態に一つである。それは自由自在な決断を鈍らせる。攻め時と退き時を取り違えさせる。攻め方と退き方誤らせる。更に、相手が賢い人間であれば、競争の主導権を常に失いかねない弱点となる。
だから、今、自分が再建し様としている日本国が捨てた技術。旧知の仲である朝間ナヲミが心血を注いで育てていた、一般的な人工知能を越える「人工知性」。それが特異点であるのか。生物としての条件を満たして欲しいとか、満たして欲しくないとか、いずれの結果も望まずに研究に没頭した。
生物としての条件を、単純に、満たすのか満たさないのか。その問の答えを知る事だけを望んだ。願ったのではなく。
もし、本当に、朝間ナヲミによって特殊な教育によって誕生した「人工知性」が、バイナリー・コードとトライナリー・コードで描かれたプログラムが導き出す答えの差の様なものでなく、生物=「天然知性」としての条件を完全に満たしているのならば・・・。
ーーー既に魂と言う現象を引き起こに成功しているのかも知れない。
津田沼博士は、「魂の有無」や「魂の条件」を知る手掛かりを、どんな手段を行使しても手繰り寄せたかったのだ。その為に、可能な限りの政治力とコネを利用して、観測衛星を利用して、ラオス上空で破壊された五柱の「人工知性」、五機の三菱・F-3の行方、破片の落下地点を捜索した。
その結果、一機だけが核爆発が引き起こした直接破壊円から脱出に成功している事を突き止めた。だが、その代償して、持て余した慣性力と空気抵抗を一身に受けた為に空中分解してしまい、バラバラになった沢山のパーツの一部が地表へとばらまかれている状態を発見した。
そこで、「人工知性」のコア・パーツ(の可能性)があると覚しい地点を割り出し、隠密部隊を仕立てて、回収作戦を立案・実行したのだ。
そして、回収に成功して、修復を終えた、「魂」の片鱗が津田沼博士の目前に置かれている。端的な通電状態だけであれば、すべてが開通済み出ると確信していた。
「F9エンジン用ジェネレータ−、回転開始」
この試験の為だけに、個人的な資金を投じて日本国から直接に買い取った、IHI製・低バイパス比ターボファン・エンジン。そこからバラして取り出したジェネレータ−(スターターも一体化されている)を、そこら辺に転がっていた電気モーターの動力で回転させる。
ジェネレータ−が生み出す電力を、F-3系で利用されていものと同系列の民生品のインバーターでDC電力へと変換する。
こんな一連の作業を経過して、二次的な発電の利用が可能となる。
ーーー規定電力の360kWへと到達。
津田沼博士の妻であるシャノン・ツダヌマが、"剥き出しになった電子基盤"が見せる微細な反応も見逃すまいサイバー・ボディーへの情報線の有線接続で入り口と出口の全力の状態をチェックしようと待ち構えている(通信速度は、ハイエンド環境では有線接続より無線接続の方が速い)。
発電能力が、三菱・F-3系が戦闘を行えるレベルで安定する。電圧、電流、周波数までも、"剥き出しになった電子基盤"が以前に利用されていた環境を再現している。
過去二回の起動テストでの失敗は、引き起こする「魂」の負っている「心の傷」への配慮不足の可能性を疑った。だから、「魂」を支えていた状態に可能な限り近い環境を贈る事で、自閉状態と言う殻を破る動機を導き出せないかと思い付いての対策だった。
非科学的である事は承知の上だ。従来の科学で説明出来ない何かを解明するのに、そもそも、旧来の科学の常識が通用するとは限らない。そんな可能性、道への謙虚さの表現でもあった。
自らの研究姿勢においての謙虚さを表現する為だけに、中古のF9エンジンを買い取ってバラして、ジェネレーターだけをこの施設へ運び込んだのだ(さすがに、専用施設以外でジェット・エンジン本体を回したら、強烈な排気が周辺環境の全てを破壊したり、室内の酸素を燃やし尽くしてしまったり、エンジン本体が固定具から外れてどこかへ飛んで行ってしまうかも知れない)。
「第3回、起動テストを開始する」
津田沼博士が、過去に本試験が2回ほど失敗して、万全の体制を整えた後の再挑戦の開始を告げる。
ーーーYou have a control.(何時でもどうぞ)
津田沼博士の人生史中で、最初で最後のパートナーであったと書き残されるべき女性、シャノン・ツダヌマがその想いを受け取る。
「通電開始」
津田沼博士が、HI製・低バイパス比ターボファンエンジンのジェネレータ−で作った電力を"剥き出しになった電子基盤"へと流し込む。
ーーー回路上の短絡見られず。
シャノン・ツダヌマは、祈る様な視線を"剥き出しになった電子基盤"へと向ける。
ーーー出力はノイズ以外検出出来ず。
"剥き出しになった電子基盤"の状況は、仮想現実経由で、視線で表示される情報を負うよりも遙かに速く、大量にシャノン・ツダヌマの表層式へと書き込まれて行く。
それでも、それほどに有利な条件下であっても、彼女の"察し力"は身体を一切サイバー化していない津田沼博士の"直感力"には到底及ばなかった。
"察し"の大小や深い浅いは、後天的な努力の積み重ねに負う所が大きい。一方で、"直感"の当たり外れは、先天的な才能の有無にに負う所が大きい。
彼女は知っている。自分は努力の人であって、旦那とは根本的に違う事を。
旦那の方は才能の人である。
努力は積み重ねで増す事が出来る。しかし、才能は開花させるかさせないかの二択でしかない事を。
そして、悲しいことに、最大限の努力を重ね続けても、才能を開花させた者には決して太刀打ち出来ない事も知っていた。
津田沼博士には見えている未来が、残念ながらシャノン・ツダヌマにはどうやっても見えない。
仮に、スペックで並び立つ事が出来ても、背伸びしているのと自然体なのでは、余裕の有無やその後の発展性の長短は決定的に違う。
天才と言う、凡人とは明らかに一線を画す人種は確かに存在している。凡人には天才には逆立ちしても叶わないのだから、こうでも定義しないとどうにも納得がいかない。
ただし、しかし、である。天才と呼ばれる人達には、足りない素養が必ず存在する。平凡な人間には、才能は広く浅く与えられる。しかし、天才と言われる人間には、才能は一点に集中する形で与えられる。
その意味で、精神面のバランスにおいては、多くの天才は溢れる凡人の足下にも及ばない。
彼女は知っている。天才のそれは一種の才能バランスにおける「奇形」である。パラメーターの設定ミスとも言い換えられる。
だから、多くの天才は多種多様な至らぬ点を抱えているのは当然である。中には、才能がカバーする範疇以外の日常生活、まともな生活すらままならない様な、駄目人間であると言うのが、本物の天才の一面でもある。最大限まで努力を尽くした秀才との違いでもある。
実際、津田沼博士は、自分が興味のあるモノ以外には大した判断力を発揮しない。また、他人との共感能力が、全く存在しないんじゃないかと言う程に薄い。低いのではなく薄いのだ。
だから、彼女は夫である津田沼博士が抱えている膨大な至らぬ点々を補う事が、自らに与えられた役目であると信じていた。或いは、それ叶えるに足りる才能が与えられているとも。
一般的な評価基準を当てはめれば、津田沼博士はただ一人で居ればただの奇人、或いは変人だ。だが、シャノン・ツダヌマが並び立っていれば、溢れ出る才能が止まらない面白い人と言う枠へと収める事が出来る。
もちろん、それは飽くまでも一般人による評価であり、津田沼博士の本質を変化させるモノではない。シャノン・ツダヌマもその点は重々承知している。しかし、それでも、そうし続ける事に自分の存在価値を見出していた。だから、稀代の才能の持ち主と並び立つ事に対して、一切の負い目は感じなかったし、あらゆる種類の劣等感に苛まれる事はなかった。
そして、言葉通りのマッド・サイエンティストと生身以上に生身らしいサイボーグと言う二つのユニット同士で構成されるこの「夫婦」に対して、世間一般は「割れ鍋に綴じ蓋」であると評価していた。同時に、タイ語の諺で言うところの「ข้าว ใหม่ ปลา ใหม่(新米と新鮮な魚)」であるとも。更に、それが永続する気配すらあると。
ーーー来い!! 来い!! 立ち上がれ!!
シャノン・ツダヌマはそう願って止まない。この死者を蘇らせる様な、叶うかどうか、結果に何の保証もない挑戦へと払われる努力の成就を願う。これで本試験は通算で3回目である。さっさと旦那の呼びかけに応えてやって欲しい。そして、夢の実現の為に次の段階へと進ませてやって欲しい。
だが、今までの挑戦結果は芳しくない。
ラオスに山中から回収された電子基盤と有機物。前者は完全に修復され、後者の徹底的な洗浄と不純物の除去はナイン・イレブンの精度で完了していた。しかし、電子基盤と有機物が過去に有していた機能の再現がどうしても叶わない。
朝間ナヲミが長年掛けて、手塩に掛けて育てた「人工知性」を黄泉の世界から呼び戻せない。
それで、給電の特性、周波数の微妙な違いやインバーターの変換具合などで三菱・F-3の環境を再現する為に、F9エンジン用ジェネレータ−までこの施設内へと運び込んだのだ。
ーーーこれで何も起こらなければ、さすがに製造責任者である朝間ナヲミに文句の一つでも言ってやりたい。
シャノン・ツダヌマは本気でそう考えていた。