さばくのくにへ。
人を転がす。他人を転がす。
別に、蹴っ飛ばして地面の上を転がらせると言う主旨ではない。転倒とは違う。這いつくばらせたいと言う訳でもない。
自分以外の誰かの行動傾向を、自分が意図する方向へと誘導する行為の方を指している。
誘導行為そのものは、直接的な指導から、深層心理へと働きかける暗示までと手段は多用で豊富だ。
必ずしも、転がされた人にとって不利益ばかりと言う訳でもない。もし、目的が搾取、蹂躙、奴隷化などに固定化されている様であれば、それはそれは誘導と言うよりも、単なる詐欺の範疇だろう。
実際、転がされた人にとって利益が発生する場合は多々存在する。場合によっては、誘導された本人の実力以上の結果を示す事もあるかも知れない。それも、本人としては、自分が誘導されていたと言う自覚も一切なしにだ。
上手で上等な転がし方とは、対象者を何事にも自発的に、つまり自己選択の結果として行動する様に仕向けることだ。行動そのものよりも、その前段階である判断の方を誘導してしまう事が望ましい。
この手段なら転がす対象を長期間、転がされる人の主観としてはとても自然な形で誘導出来るし、転がしている方も、アドバイスしただけと言う言い訳が立つので、ものすごい罪悪感に駆られたりもしない。
しかし、転がされる人に対して十分な利益を還元可能だとしても、やはり人を転がすと言う行為は、本来は賞賛される社会的関係ではない。人道的な観点からではなく、あくまで生活の知恵としてだが。
あまりに激しく他人を転がし過ぎると、転がされた人物から試練=挫折=成長する機会を不当に奪ってしまうと言う弊害が発生するからだ。
難しい判断を飛び越して、大正解な行動だけと取ると、失敗した経験の蓄積が不足する。何故失敗したのか。失敗するとどんな被害を被るのか。そのあたりの痛い部分を弁えられないのは、大変に危険であると言える。
自分で考えた経験のない、使われる事に慣れ切っていたナンバー2が後継者となった組織に約束された悲劇を想像してみれば、分かるんじゃないだろうか。
貴方が部下を持つ場合、自分で考える駒と自分で一切考えない言いなりの駒、果たしてどちらの駒がより有用だろうか? 部下の転職後に潰しがより利くだろうか?
また、問題はもう一つ生じる。激しく転がされ過ぎた成功者の多くは、自己評価が不必要なまでに高くなってしまっているケースが多いと言う喜悲劇だ。いわゆる、自惚れである。
図らずも実力以上の結果を示した場合、すべてが自分の実力を考えるのは人間の常だ。そうなると転がしてくれる人間なしで=孤立して一人になった時に、事実上一人では碌な成果が出せなくなってしまう。それどころか、自分の実力以上のタスクを軽々しく請け負って、一発で自滅してしまうかも知れない。
仮に自滅する様な間違いを経験せずとも、誰一人も被害を受けずに終わったとしても、客観的且つ哲学的な疑問が常に付きまとう。終わりよければすべてよし、とは言えまい。
例えば、儲かる投資話だけを一生与え続ければ、情報の施しを受けた人物は経済的に何自由ない生活だけを繰り返して死を迎える。客観的には幸せな人生と評価されるだろう。しかし、果たして、主観的にはそれはその人物にとって、その人物の人生であったと言えるのだろうか? おそらく、有益な投資話を与えられて転がされていた人ではなく、転がしていた人の人生だったのではないだろうか?
泥に塗れて、泥を啜りながら、苦境に耐える事を学び、その末に偶然のチャンスをものにして成功してこその人生なのではないだろうか?
仮に、偶然のチャンスをものに出来ずに成功とは無縁で人生を終えたとしても、その方が本物の人生なのではないだろうか?
全力で足掻く。そこにこそ、人間の魂の輝きが生じるのではないだろうか。
無難な人生には、人間の魂の輝きが垣間見える事はない。
ジュリア・ロバーツ主演のハリウッド映画「エリン・ブロコビッチ」の日本版CMで用いられたキャッチ・コピー。
ーーー最近、いつ輝いた? (気が付いたらいつの間にか"最近、いつ燃えた?"に変更されているのは何故?)
映画の内容はどうでも良い。CV:土井美加と言う点は見逃せないが、争点は飽くまでキャッチだ。この満ち足りた文明社会では、ハリウッド映画のヒロインのモデルくらいに張っちゃけた人生に挑戦しないと、人間の魂の輝きを生じさせられないと言う可能性。
綺麗事ではあるが、生涯一度も足掻かないと言うのは、実際それはそれで相当に辛い拷問と同じだ。だから、エリン・ブロコビッチ氏と言うコンテンツに、全米がスカっとした感動をもたらされたのだろう。
富で解決出来ない問題は少ない。富が足りずに人生に苦しむ人は多い。しかし、富が絶対的に足りてしまうと、今度はそれ故に心が病む場合もあるのだ。
幸福も不幸も、いずれも適量が好ましい。いずれか片方だけでは、人間は健康的に生きていけない。
ここから先は、綺麗事ばかりでは済まないと言う話に入る。
十分に足掻いた後であれば、そこまでやっても輝けないのであれば、哲学的な疑問を無視しても構わないだろう。
何をやっても上手くいかない人と言うのはいる。理由は人それぞれだ。事情は多様性の極みでもある。どこかで人々が挫折の繰り返しで絶望している様ならば、人転がしによる能力の底上げを受けるのもやむを得ないのではないだろうか?
足掻いた末に心が病むほどの傷を負い兼ねないのならば、その苦しみを直視せずに済む様に誘導してあげるのも人間の優しさなのかも知れない。
緊急避難的であれば、転がす事が救済ともなりえる成立要件を満たすと言う考えもある筈だ。しかし、それでも、その手の誘導は軽々と始めるべきではないと言う根拠を提示する事も出来る。
何故なら、何をやっても上手く行かなくなっている人を誘導して、見た目だけでも自立させるべく転がすと言うならば、それはその人物が死を迎えるまで長々と継続して行う必要があるからだ。一度始めたら中途半端では止められなくなる。飽きたからと言って、人転がし作業を途中で放り出してしまっては、捨てられた人が遅かれ早かれ暴走を始めてしまう。
古典的表現では糸の切れた凧。
現代的表現ではリモートの糸が切れたラジコン飛行機。
誘導を失って自由になってしまうと、直ぐにどこかへ飛んでいってしまい、自身の意思が気迫な為にやがて墜落して自壊してしまう。
これを人間関係に置き換えると大変な事になる。
元の木阿弥どころか、むしろ誘導してあげなかった方がよっぽどマシな悲劇を迎えると言う事だ。
つまり、捨て猫や捨て犬を拾うのと同じ類いの、厳格な責任感が不可欠となるのだ。
或いは、"理解ある彼氏君"なる名誉職に就任するのと同じ類いの、厳格な責任感が不可欠となるのだ。
そうでないと、優しさが仇となる。「気の迷いだった」とかは言い訳にならない。だから、始める場合はしっかりとした覚悟と長期の運用計画が必要となるのだ。
ーーー妊娠から子育てと言う"奪われた夢"が作る、ぽっかりと出来上がった妹の"心に空白"の部分に、自分の代理人として福島四区の代議士になると言う新しい生き甲斐を無理矢理に当て込んで押し込む。
到底、楽な道とは言えないが、現在の絶望をもっともっと巨大な苦しみで押しつぶす他には、妹の心を護る手段を思い付けなかった。
万条 菖蒲は、妹の不幸を自らが背負うと言う決意をした。
自らが子供の頃から当然に実現すると信じていた夢が、完膚無きまでに破綻した妹を眺めていると、それ以外の選択を思い付けなかった。
視線や振る舞いが奇妙な程にズレ始めている。既に、心のバランスを崩し始めているのが分かる。
ーーー正気を見失いつつある。
そうでなければ、妹が、姉が一生を費やして実現しようと言う夢に手が届いた途端に、今から直後に述べるだろう言葉を思い付ける筈がない。
ストレスの最も手っ取り早い解決法は、他の誰かにそれを押し付ける=気が済むまで八つ当たりを繰り返す事である。
つまり、世に蔓延するパワハラの源泉はきっと投資家である。そこから→取締役→社長→部長→課長→正社員→契約社員(または下請け)→バイトへと、最初は小さかったストレスが沢を作り、集められて小川となり、大河へと流れ着き、最後に海で巨大なストレスへと熟成し、社会その物を破壊して、最後に源泉である→投資家へと帰って行く、いわゆる輪廻を形成している。
小規模ではあるが、それと同じシステムが姉妹の間でも生じている。
姉はそれに気付いているが、妹はその限りではない。二人の間に愛と言う絆が存在しているなら、この場合は、気付いている側の敗北である。甘んじて、それを受け止めてやらなければならない。そして、輪廻の形勢を止める為に、災いの種である不条理感を自分の所で堰き止めてやらなければならない。
負の連鎖と言う、最悪のチェーン・リアクションを止めるのは、だから難しい。ウラン235の核分裂連鎖を止める制御棒と同じ程度の試練を覚悟する器の大きさが不可欠なのだ。
姉は知っている。妹に悪気はまったくない。それに気付けない程に追い詰められているだけなのだ。そして、苦しみから逃れる為でなく、ただ苦しみを軽減させたいが為に、藁をも縋る想いで、失った夢に相当する自分以外の誰かの夢を奪わずにはいられないのだ。
そうでなければ、自分を捨てて、姉そのものに生まれ変わりたいのだ。妹にして見れば、姉はあらゆる障害を易々と乗り越えて来たと感じているに違いない。そこに、運命の不平等を見出しているのかも知れない。
姉からしてみれば、そんな馬鹿な。である。しかし、そんな一言で妹の固定観念を砕ける筈もない。仮に砕いてしまっては、固定観念だけでなく人格まで砕いてしまい兼ねない。
八十治も、妹の絶望の深さを知り、アクロバティックな落とし所を見出すしかないと判断したのだろう。おそらく、幾万通りの状況シミュレートを行い、一見無茶苦茶な私的な世界の再構成を行う決断をしたのだろう。
この企みで傷を負わない者は一人もいない。
万条 菖蒲も八十治も、今までそれこそ命懸けで築いて来た"基盤"を失い、他所で同じものを築き直さなければならなくなる。一時的には、いくらかの信用も損なう事になるだろう。
妹のマヤにしても、万条 菖蒲の跡を継ぐ事が容易いとは考えていない。姉が苦労して手に入れた國を、妹が棚からぼた餅で手に入れる。そのケースでは、「國のすべてを自分の手の内に取り込むべく、我武者羅な努力を継続しなければならない」。ニート哲学者「マキャヴェリさん」がその点は何百年も前に指摘しているし、その真理の正しさは現在でも1mmも変化してはいない。
例え、世襲であっても、棚ぼた式の権力の継承は難しい。後継者が先人の期待を裏切らない実力を持っていると知らしめられなければ、遅かれ早かれ統治活動は破綻してしまう。
誰もが招かれざる苦労を抱え込む事になる。
だが、妙な事に、この企みで利益を全く得ないと言う者も一人もいない。
案外、この企みの全てが上手く行けば、現在のここに登場する全員だけでなく、会津地方が抱えている問題の根本的な解決にも繋がる可能性も高い。切っ掛けにくらいはなるだろう、と八十治の辺りは期待している。
だから、悪い事ばかりではない。と思うしかない。どうにならない事なら、せめて心持ちくらいは楽天的にだ。
ただし、このかなりヤバイ賭けに勝利する事が大前提となる。しかし、困った事にこの賭け以外に、会津地方の経済の底上げを可能とする"本州南北地方経済特区構想"へ繋がる未来は生じそうにない。
ーーー何と言う危険な"瓢箪から駒"だ。
万条 菖蒲は、八十治ではなく、更に更に上から俯瞰する不謹慎な視線を感じずにはいられなかった。
あまりに出来過ぎている。八十治は実際にこう考えていた。
ーーーまるで、何者かが、万条 菖蒲が、もっとも困難な運命的選択に直面する場面を力業で作り出したかの様だ。
そう言う、誰かの意図に基づいてクライマックス的局面を構成したかの様な、出来過ぎたピンチ。もちろん、この針の穴を立て続けに通す様な狭い突破口を思い付ける人間は多くない筈だ。そして、八十治がそれを見出せたと言うこと自体が不自然の極みだった。
実際、鳥取の因幡 陽葵がこの戯言に乗って来た。あれほどに政略に関しては冷徹な男が、こんなに不安定な条件でありながら、鳥取の未来を賭ける気になった。おそらく、未熟な八十治には計り知れないピンチを、鳥取を始めする周辺エリアの経済は抱えているのだ。
ーーーきっと、鳥取の内情は、玉手箱やパンドラの箱の様に、開けてみたらビックリなのだろう。
くわばらくわばら。雷には打たれたくないものである。
万条 菖蒲は、完全に八十治の視点に追い付いた。会って話し合った訳でもないのに、たった今、お互いに同じ位置から同じ未来を見ていると確信出来た。
朝間ナヲミと森 葉子の間にある共感。自分には割り込む隙のない、強烈な結び付きの正体が何であるのかを、今更ながらやっと理解出来た気がした。
妹のマヤ座布団を退けて、両膝を床に押し付けて立ち上がった。姉はその様子を正座したまま、敢えて冷ややかな視線で眺めていた。それは、妹に、自分が今しようとしている申し出が、どれほどに人の道から外れているかを悟らせる為だった。
これが、姉として妹に与えてあげることが出来る、最後の躾けであるからだ。
妹は、その視線を真っ直ぐに受け止めて、それから土下座をして見せた。
「お姉ちゃん。私に万条の家督を。いえ、全てを継がせてください」
ーーーああ、妹が言ってしまった。姉が言わせてしまった。
万条 菖蒲は、もうこれで引き返せなくなった事を悟っていた。自分の手で育てた妹を、幸せになれる筈だった妹を、たった今から、せめて政界から引退するまでずっと転がしてやらねばならなくなった。
自分が失った夢に相当する誰かの希望を奪う。
自分が陥った絶望に見合う不条理を姉に与える。
無情感は下から下へ流れる。低きにしか流れない。妹は姉に自分の無情感を受ける川下に、風下へ立てと願った。
「衆議院議員としての議席、後援会などの集票システムなど。つまり、私と夫が死力を尽くして取り戻した権力基盤すべて根刮ぎ寄こせ。そう言う話なのね?」
妹は姉に対して顔を伏せたまま、続けた。
「はい。その通りです。私に父の跡目を継がせて下さい」
姉は、妹の為に尋ねてやった。
「どうして?」
妹は、姉の心知らずで淀みなく答えた。
「私は子供を残せない。私が母からもらった命はここで行き止まりなの。だったら、父と母が私を産んでくれた故郷に身を捧げて埋めたい。残りの一生を、父との約束を果たせない償いの為に費やしたい」
一字一句とは言わないが、大筋では万条 菖蒲が想定した通りの回答だった。政治家として生き残る為には、もうちょっと捻りを効かせたアプローチが欲しかったとも感じた。
「貴女は、もう万条姓ではないでしょう。旦那さんはどうするつもりなの? 貴女が一人で決めて良い事なの?」
姉は、答えについては、だいたい見当は付けていた。しかし、妹に自分の口で、自身のやってしまった愚行と、これからやろうとしている野望の最初の犠牲者が誰なのかを言語化させる事で、自分がこの先死ぬまでに一体何を成し遂げようとしているのか理解させようとした。また、これが、本当に、引き返しが効くギリギリ。自分の言葉に怖れをなして、尻尾を巻いて逃げ出す最後のチャンスだった。
しかし、妹は引き返さなかった。
「昨日、離婚が成立しました。私の名字は万条へと戻っています」
ーーーこの娘は馬鹿だ!! 大馬鹿だ!!
万条 菖蒲は、床を拳で殴り付けたい気持ちで一杯だった。しかし、妹の為に今は耐えなければならない。
最後の仕上げをしなければならない。本当に、妹が引き返せない所まで追い込まなければならない。そうでなければ、妹から地元を代表する政治家として踏ん張る覚悟を引き出せない。失わなければ得られないものが、この世には多過ぎるのだ。
「貴女はこの会津を手に入れる。その代償として、私は何を得るの? 貴女は何を引き替えに差し出してくれるの?」
人間として当然の疑問である。与えて欲しいなら、等価の何かを差し出さなければならない。取引とはそう言うものだ。一方的な付与ではこの関係は収まらないのだ。
万条 菖蒲は、言ってはならない事を言ってしまったと自覚していた。もちろん、言わずに済ませた方が将来的により大きな禍根を残す。それでも、言いたくなかった。何故なら、妹がこれからどうやって「誠意を示す」のかは容易に予想出来たからだ。
妹は伏していた顔を挙げた。表情は毅然としたものだった。この家を訪れた時の様な、今にも崩れ落ちそうだった妹はもうそこにはいなかった。
ーーー言い面構えになった。
妹はハンカチを床に広げた。右手の薬指から銀製のリングを一つ。首から銀製のリングがぶら下がったネックレスを一本外した。
それらをハンカチの上に並べて置くことで、永遠に手放すと宣言するつもりなのだ。
ーーー今の今まで、妹のアイデンティティーそのものであった母と父の遺品だった。
それらを手放す事で、自らの決意の固さを示した。
「母から受け継いだ母の結婚指輪。それと父から受け継いだイミテーションの方の結婚指輪。これらを収めて下さい。今の私に差し出せるすべてです」
これで、姉が必要だと考えていた儀式は全て終了した。
姉は、妹から、妹の心を縛る元凶を取り除きたかった。こうでもしないと、この二つの超特級としか評し様のない"呪器"による心の縛りから抜け出せない。やっているのは、結果的に正しい事だ。しかし、正しい事を貫く事は、稀にとてつもなく心を抉って大きな傷を負わせる。
父も母も、マヤに対して無意識に酷な仕打ちをしたものだ。自分達が出来た事を、自分達の娘でも出来て当然と考えていたのだから。善意で始まったことでも、この様な終わり方は悲劇だ。
万条 菖蒲は、無表情のままマヤを見詰め続けた。マヤは、今度はもう目を反らさない。
これが、自分の夫が引いた筋書きの通りであると、万条 菖蒲には分かっていた。自分が求められた悪女役を、期待通りに演じ切ったのだと言う自覚があった。しかし、達成感はゼロだ。むしろ、凄まじい疲労感がどっと出て来た。
しかし、今、崩れる訳にはいかなかった。悪役とは最後まで悪役であり続けなければならない生き物なのだ。
「相分かった」
万条 菖蒲は、澄んだ声で告げた。
「八十治は連れて行く。それ以外はすべて引き継ぎなさい」
「お姉ちゃん!!」
マヤが驚きの声を上げる。彼女としては、申し出が受け入れられるとは予想していなかったのだ。姉に適当にあしらわれて、怒られて放り出されるものと信じ切っていたからだ。
「私の政策はそのまま進めなさい。それが引き渡しの条件。それ以外は全て貴女に任せる」
「良いの?」
「良いも悪いもない。たった今、決まった事なんだから」
万条 菖蒲は、妹の存在を完全に無視して、突然にスマホを取り出して夫を呼び出した。
「近くにいるんでしょう?」
ーーーどうして分かったんだろう?
八十治はボケて見せた。彼は彼なりに、妻に対して悪い事をしたと感じていた。罪悪感から完全に自由な人間であれば、妻はこの男をパートナーとして選ばなかっただろう。
「マヤを会津若松の家まで送ってあげて」
ーーー鍵も渡すんだろう?
「そうしてあげて。あれはもう私のものではない」
ーーーわかった。
そこで、万条 菖蒲は一方的に通話を切った。そしてマヤに語りかける。
「会津若松の家も貴女の自由に使いなさい。今は運転をするべきではない。八十治の運転で帰りなさい」
姉は、一方的な離婚によって、帰る家のなくなった妹に帰る場所を与えた。
妹の本音は、元パートナーに自身の子供を産んでくれる新しい女を探すチャンスを与えたかった。姉には、そう言う妹の心遣いは良く分かっていた。共感すらしていた。自分が同じ立場にあったとしても身を退くだろう、と。
妹が口を開く前に、八十治の運転する自動車が表に停車した事が分かった。エンジンを切る音がした。姉は、夫の空気を読む力が並みではないと実感した。
ーーー八十治に、マヤの自動車を運転して帰って欲しかったのだ。
一言もそう告げていないのに、あの男はそれが当然とばかりに彼女の意のままに動いてくれる。
姉は妹一人だけを床の上から立たせる。そして、妹に帰宅する時間であると宣告した。妹としては、もう少し話したかった。だが、姉はそれを許さなかった。
妹は、姉の指示に従順に従った。姉は、これから本人がそうとは気付かずに、自分の引いた筋書きにそって政治家として生きて行く事になった妹を見送らなかった。
姉は、退室する際に、妹が長く深々を頭を下げている事に気付いてはいた。しかし、注意を払っていない振りを貫いた。ただ、自分の背中を見せただけだった。
すぐに、妹の自動車のエンジンが掛かる音が聞こえた。ジャリを踏みしめながら離れて行く音に切り替わる。
自分の家に誰もなくなった頃合いを見計らって、万条 菖蒲は遠慮なく泣いた。
一人で思い切り泣き続けた。
マヤが残して行った、両親の結婚指輪には目もくれなかった。
この日、生涯を通じて、初めて父の跡を継いで政治家となる人生を選んだ事を後悔した。
そして、妹が失ったものに相当する価値ある未来を故郷にもたらしたいと決意を新たにした。
何故か、自分が失ったものに相当する、ではなく。
しばらくしてから・・・。
万条 マヤは、姉の後を継いで衆議院議員選挙(小選挙区)で福島四区から出馬して見事初当選を果たした。
一方、万条 菖蒲は衆議院議員選挙(小選挙区)の鳥取二区へと鞍替えして出馬し、一度は落選の憂き目を見た。しかし、二カ月後に繰上補充による当選を果たした。
これによって、福島と鳥取の二人に万条と言う二人三脚によって、"本州南北地方経済特区構想"の実現へ向けた地下工作が始まる事になる。
ただ残念な事は、万条 菖蒲と言う政治家は、鳥取二区への鞍替えが切っ掛けで、生涯を通じて敵対する事となる不倶戴天の敵=破防法適用の非合法団体との因縁を持つ事となってしまう。
ーーー琉球共和軍暫定派=Ryuukyuu Republican Army。
略称、R.R.A.。
高度な訓練を定期的に施されたコマンド部隊を擁する、日本国に巣くう、軍や公安が危機感を懐いている唯一の巨大テロ組織である。
※※※ 次章「二つの蕾」は来月中旬からの公開となります。 すにた。 ※※※




