しまいのしょうぞう。
万条 菖蒲とマヤの二人は、囲炉裏の角を挟んで、互いの右膝と左膝の一方ずつを突き合わせて正座していた。
ーーー敢えて、真正面で正対することを避けたのだ。
二人とも、極自然に両足の指を床に寝せて、二つの踵で確実にお尻を持ち上げて支えている。そのせいで、背骨はスラリと伸びて人目を引くほどキレイに見える。
それが姉と妹共々の育ちの良さを保証していた。
それもその筈だ。一回り年上の姉が、多忙な父親に代わって、二人の妹達の躾けを全面的に担当したのだから、抜け目はない。
妹は、姉が入れてくれた熱いお茶で冷えた身体を温めつつ、胸に秘める"想いを訴え"始めた。
つまり、"思いを語っている"のではない、陳情と同じ接近手段を選んでいる事は、姉にはお見通しだった。
一方の妹には、"想いを訴えて"いると言う自覚は全くなかった。ボタンの掛け違いは一切無かったに関わらず、無意識に礼を欠いていた。しかし、姉の方はそれをとやかく言うほど、敢えて指摘するほど、妹への歩み寄りを示してはくれなかった。
姉の方は、超然とした態度を貫き通した。役者が圧倒的に違うと言うところだ。
姉妹の遣り取りは、バラバラで不統一で取り留めのないコミュニケーションであった事は間違いない。しかし、姉としてはそれでも一向に構わなかった。
何故なら。
ーーー無造作に放り出された散文が、文豪の手に掛かっては、文末で見事に取り纏められるかの様に、予定調和が約束されている事は明らかだった。
からだ。
それが、片方には明白で、もう片方にはそうでなかったに関わらずだ。
ーーーここにいる二人は飽くまでも役者であり、演出や脚本への関与は許されない。
運命を覆す為に抵抗するなら、今のタイミングではない。姉は、自分の時を辛抱強く待ち続けていた。
姉の方だけには、それが良く分かっていた。潮目を読む。それは、人間を一塊にまとめて一定の方向へと誘導する職業へ従事するものには必須の能力であったからだ。
例えば、羊使い。或いは、政治家。または、指導者。
ライプニッツによる哲学の、「Things take place as if I expected.」的な生理的嫌悪感を引き起こす類いの厭味な面が垣間見える。何が厭味かと言えば。顔を拝んだ事もない「I = 私」とやらが、姉妹が繰り広げる人間ドラマをデバガメ的にどこかからか覗き見して興奮している、いわゆる「神の視点」の持ち主である可能性が濃厚であるからだ。
「お姉ちゃん、私ね・・・」
「うん」
「お父さんが亡くなった前日にね」
「うん」
「お母さんから受け継いだ"命"をね」
「うん」
「自分が子供を産んで継いでもらうって約束そしたの」
「うん」
「お父さんはとても喜んでくれた」
「うん」
「でもね。私は子供が産めない事が分かった」
「・・・」
「私はあの時に喜んでくれたお父さんに、大嘘を付いてしまった」
「それは違う」
「ううん。違わない。あの朝、私がお父さんが発作を起こして、苦しそうに目を閉じる前に目と目が合ったんだ」
「・・・」
「あれは、多分、昨夜の約束を果たしてくれれば、安心して逝けると言う訴えだったんじゃないかと思うんだ」
「・・・」
万条 菖蒲が知る父親像は、どう考えてもマヤが語る様な刹那的な男ではなかった。おそらく、「後は任す」とか「後は自由に生きろ」とか「悲しむな」とか、どちらかと言えば死を悟って、早々に覚悟を決めていたのだろうと感じていた。
ーーーあの歳になっても、子供らしいロマンを捨てきれない男だった。
何故なら、父なりに出来る事は「せいぜい死に際を整える事くらいしかない」と悟っていたに違いないからだ。自分でもそうするだろうし、祖母でもそうしただろう。父に倣うのではなく、三人とも個別で自発的にその道を選ぶだろう。
少なくとも、看取ってくれた家族に対して呪う様な想い残すなんて言う発想は、父には思いも及ばないだろう。
しかし、これで分かったのは、同じ万条の血を継ぐ者でも、マヤはこの考え方や価値観を共有出来る人間には生まれ付いていないと言う事だ。
同じ娘であっても、父を自分と同じ様に、弱い所もある一人の人間として見ていなかった。
万条 菖蒲は、その時に初めて自分の妹が、自分とは価値観を共有していない事に気付いた。行動規範が異なっていても、根の部分では繋がっていると考えていた。
それは希薄な根拠=希望的観測に基づく妄想に過ぎなかったのだ。
この確信は、万条 菖蒲にとって、強烈な衝撃を心にもたらした。
ーーー少なくとも、今となっては、自分を抜かせば、たった二人しか残されていない濃厚な血縁的家族の中の一人、マヤには自分自身を理解出来ない。
これは、今後に姉が故郷を守る為に清濁併せた政略を用いた場合、その意味を理解出来ずに表立って異を唱えるかも知れない事を示唆している。
反対陣営へと回る可能性が高い身内に潜在的脅威を抱える事は、獅子身中の虫に例えるまでもなく、政治家としての人生を全うしたければ事前に積んでおくべき事案である。
実際、その種の熾烈な戦いの末に今いるポジションに辛うじて立ったいる身としては、薄ら寒いものすら感じる。
とは言え、人間には出来る事と出来ない事がある。得手不得手があると言い換えても良い。
万条 菖蒲に、妹を精神的に"切る"事は絶対的に不可能だった。甘いと言われれば甘い。しかし、その甘さを捨てては、人間であるどころか、万条 菖蒲であり続ける事も不可能となる。
何故かと言えば、その断ち様のない強い愛への拘りこそが、彼女の行動原理の核であり、現在の行動規範をこうであるべきとたらしめているのだから。
万条 菖蒲は、空港からここに帰り着くまでの道すがら、妹との面会を"決戦"と定義していた。それは"本気で対面しなければならない"と言う意味での決戦だった。しかし、彼女は決戦よりも、決断の方をまず最初に要求されていた。ここで妹の心を確実に確保するべきか、あるがままに放っておくべきか。
今後の自分の生き方を決める"決戦"。愛故に、妹を人生チェスゲームの駒とするのか。それとも愛故に、ゲーム盤の外からパラシュート降下させられて、チェックメイト直前の自分前に立ち塞がる驚異を放置するのか。それをたった今選択すべき、自分との"決戦"であったのだ。
人道上許されない道を進むのか。人道上許される道に留まるのか。
おそらく、これが妹の処遇の取り扱いでなければ、赤の他人のそれであれば、遠慮なく、人道上許されない道を突き進む決断をしただろう。しかし、その政略原理を本物の身内に、自分が育てた妹にまで適応するのは苦しい。単純に苦しい。愛する妹の首に手を掛ける以上に辛い。自傷するよりずっと辛いのだ。
万条 菖蒲には、間もなく最愛の妹が口にするだろう言葉が容易に予想出来た。何とか、その言葉を思い留めさせたいが、それをさせると遅かれ早かれ、マヤは心を病む事になる。
客観的には嘘であるが、主観的に父と母との命の約束を裏切ってしまったと自分を責める妹。その無意味な罪悪感は、彼女を死ぬまでいたぶり続けるに違いない。主観的には本気の罪悪感であるが為に、真っ当な人間であるが為に、その純粋な想いは間違いなく自身の破壊へと至る。
精神疾患。或いは、強烈な信仰。または、荒唐無稽なイデオロギーへの傾倒。そうでもしないと、精神的なバランスが取れなくなってしまうからだ。罪悪感を忘れる程に気を取られる興味対象を獲得する以外に、現実逃避する手段が見当たらないからだ。
不妊。ある人にとっては絶望であり、またある人にとってはそうでもないかも知れない。しかし、一定数の女性にとっては間違いなく、文字通りの致命的な打撃となる宣告である事は間違いない。
ーーーマヤは絶望する方に、既に片足を突っ込み始めている。
それらの女性にとって、不妊がもたらす無力感。父と母との約束を果たせぬ罪悪感。自己評価の無限の墜落。それら喪失感がもたらす、生き甲斐の完全喪失は不幸に直面した女性達の世界観を、一偏に、一変させかねない。
何より、あの"影"としか思えない、"母"としか思えない何者かと妹達が交わしてしまったあの約束。マヤが看取った父と交わした約束。いずれも、マヤにとって、自らの命を次から次へと世代を重ねて継がせる事が自分の役目であると言う自負に繋がっていた。
しかし、それが実は最初から実現する見込みのない、約束の空手形の乱発に過ぎなかったと知らしめられた。
このまま、自身の運命に妹の心を押しつぶさせる訳にはいかない。
容易に自殺へ逃げ込みかねない程の憔悴振りだ。
夫の八十治は、これを予見し、今回の、鳥取までを巻き込む壮大な筋書きを描いていたのだろう。
最低最悪の結末を避ける為の段取り。
妹の緩やかな精神的な死と言う、飛び切りの悲劇を避ける為に採る道は、妹に自分対して、八十治が整えた理不尽な要求を追求させる以外にない。
失った夢に代わって、飛び切りにハードな現実の連続に見舞わせる。
もしかしたら、それ以外にも正解があるのかも知れない。だが、自分には思い付かない。おそらく、八十治も同様であろう。
だから、八十治はこれを仕組んだのだ。
八方丸く収めるために。
しかし、正確には八方ではなく七方だ。私一人が不幸になる。政治家へなる為の戦いに身を投じた段階で、既に畜生道に堕ちたと思っていたら、今いる下限の床の下にこそ本物の畜生道が広がっていた。その救いようのない事実を"発見"し、"創造"した気分だった。
ーーーそれでも、八十治は正しい。下劣な正しさであっても、清く爽やかな間違いよりは100倍はマシだろう。
万条 菖蒲は、この時、初めて八十治の事を恐ろしいと感じた。妻である自分自身の為であれば、率先して畜生道を突き進むあの男を、これから先も自分は御し続ける事が出来るのか分からなくなった。
それでも、夫の提示する圧倒的な正しさの前には膝を屈するしかない。自分もまた夫の様に畜生の一人となれば、全てが丸く収まる。
ーーー決心は付いた。
万条 菖蒲は、心の中で泣いて、顔で笑う事を選んだ。
ーーーさあ。マヤ、告げない。こちら側へ来る決断をしなさい。
万条 菖蒲は、もう迷わなかった。決断まではハデに揺らぐが、決断後はブレず曲げず。これは、おそらく、祖母や父が持ち合わせていた素養なのだろう。そう言う意味で、自分こそが万条 家の文化的遺伝子を継ぎ、体現する者だとの確信がやっと持てた。
「私は嘘吐きになりたくない」
「そう・・・」
万条 菖蒲は、唾を飲み込む。喉から音が出ない様に気を配る。決定的な想いが決定的に言語化されるのを待ち構える。
マヤは意外にも、姉が座っている座布団を指さして告げた。
「私は万条家のそこに座りたい」
マヤの指先には囲炉裏の横座があった。今、自分が座っている客座でなく、家の主人が座る囲炉裏の横座に座りたいと言ったのだ。
何とも詩的な反乱声明だろう。妹は姉に対して、今姉が保持している立ち位置を妹に譲れと告げたのだ。
「お姉ちゃんは、マヤの想いに出来る限り応えてあげたいと思う」
マヤの表情が少しだけ明るくなる。言いにくい事を、一言えば一〇理解する賢い姉が言わずとも悟ってくれたと喜んだのだ。
もちろん、賢い姉は妹の想いを十二分に理解していた。十分にではなく、十二分にだ。しかし、一言えば一〇理解するでなく、一言えば一〇〇理解する程に賢かったのだ。
だから、姉は妹にそこまで甘い顔は見せなかった。意地悪にも、無邪気に思い悩んでいる様な表情を良く分かるように示して、妹を限界まで追い込む事にした。ここで、十分に想いを吐かせておかないと、後でそれが妹に迷いを生じさせると分かり切っているからだ。
「少し説明を補足してくれないと分からない。あまりに抽象的過ぎて。具体的に、お姉ちゃんはマヤに何をしてあげれば良いのかしら?」
マヤは、あんぐりと、口を大きく開けて、呆然とした。残念な事に、それが姉の用意した、妹の新しい人生を歩み出す為の祝福の一貫であるとは察する事が出来なかった。
実際、姉のその想いを共有出来るのは、夫の八十治ただ一人だろうとも感じていた。
万条 菖蒲は、たった今、人生で二人目の共犯者をはるか以前に手に入れていた事実に、やっと気付いた。