待ち合わせtwenty four
鳴田るなさん主催「雨水ラブコメ企画」参加作品です。
恋愛要素はかなり薄いです……。
あぁ、やってしまった。私はもう戦いに負けたと言っていいかも知れない。こんな大事な日にこんなことがあっていいんだろうか。
まずはじめに、私、霧島彩子には好きな人がいる。高専を出てから仕事に打ち込んでばかりでこれといった趣味も特にない。31年間ずっと彼氏も出来なかったつまらない女だと分かってはいる。そんなことを考えていたときに、彼が現れた。24歳の木曽くんは昨年、中途入社でうちの会社に入って来て、仕事の覚えも早く、そして礼儀正しい男の子だった。それに、他に仕事が出来る人はいくらでもいるのに、雛鳥のように私についてくる彼が可愛く見えた。一緒に仕事をしていくうちに彼に惹かれている自分がいた。周りによく気がついて、気が利くところとか、「お疲れ様」と言ったらへにゃりと笑うところとか、仕事にもいくらか慣れたはずなのに未だに「せんぱいせんぱい」とついて来るところとか。
木曽くんがコーヒー好きと知った私は思い切って実家近くにある珈琲店に誘った。木曽くんは「行きたいです!」と喜んでくれて、今月末の土曜日に電車で行こうということになった。
えぇ、今日はその土曜日。指定した待ち合わせ時間は9時半、現在時刻は9時3分。
「なんで!? なんでなんでなんで!!? ちゃんと8時に起きてたのにー!!!」
えっと、8時に起きて私は、すぐにシャワーを浴びて、朝ごはんを食べて、テレビをつけたらしま●ろうがやってたからそれを見て―――
「し●じろーーーーーー!!!!!!!」
久しぶりに見たしまじろ●に夢中で時間を忘れていた。しかも着るものも決めていないし、メイクも全くしていない。人生で初めてかもしれない。こんなに焦るのは。
「お、落ち着け彩子……。バッグは準備した、火の元も電気も大丈夫……。ここから駅まで徒歩12分……約15分で支度を済ませれば……」
もう一度時計を見る。現在時刻は……
9:06
待ち合わせまで、残り24分
私はクローゼットに駆けこんだ。動きやすくて、着替えが楽で、見苦しくないものを10秒で探さなくてはならない。本当はもう少しゆっくり選ぶはずだった。でも待ち合わせに間に合うためには仕方ない。買ったばかりでまだ着ていないネイビーのカットソーと濃い色のデニムを引っ張り出す。そしてアウターにはグレーのMA-1ブルゾンを選んだ。木曽くんが気になりだしてから、服にいくらか気を遣うようになり、着られれば何でもいいと適当に選んでいたものが今では小綺麗で縫製がしっかりしたものを選ぶようになった。恋の力とは偉大である。いつもの3倍くらいの速さで上半身を着替えてデニムパンツに手を伸ばした。
「ああっ! なんでスキニー取っちゃったの!? 急いでるのにぃ!」
しかしカリカリしている暇はない。急いでデニムを履いて次はメイクだ。
9:10
待ち合わせまで、残り20分
普段なら気にしないが、今日は好きな人と出かける。しかも相手は20代の男の子。
『9時半って先輩が言ったんですよね……。それに仮にも異性と出かけるのにすっぴんなんて……』
木曽くんにこんなこと言われるのは死んでも避けたい。本当は時間をかけてフルメイクしたかったが、ベースと眉をきちんとすれば仕上がっている風にはなる。8分でメイクとヘアセット。髪は落ち着いているから30秒あればヘアセットが出来る。ショートカットで良かった。というわけで7分30秒でメイク。
化粧水で保湿したらBBクリームを満遍なく塗る。これを塗ればだいたい仕上がる。BB最強。
「いやBB最強とかドヤってる場合じゃない!」
急がないと本当にマズいことになる。木曽くんはそうは思ってないかも知れないけど私にとっては想い人とデートなのだ。遅刻はアウトすぎる。
肌全体をパウダーで仕上げたら次に優先すべきはアイブロウ。これが一番時間がかかる。最低でも2分必要だろう。眉を整えればメイクが出来ている風にはなるのだ、ここは手を抜いてはいけない。パウダーとペンシルとマスカラを駆使して仕上げる。
9:16
待ち合わせまで、残り14分
「えっ!? 嘘でしょ!?」
やばい、これはアイメイクの優先順位が下がる。チークは絶対に入れたいので急いでチークを発掘し、ブラシで両頬を一撫でずつ。あ、ハイライトとシェーディングも入れたい。この際アイメイクは諦めようと思ったが鏡を見たら目だけすっぴんなのが気になってアイシャドウとマスカラまでしっかり入れてしまった。リップを仕上げたところで時計を見る。
9:20
待ち合わせまで、残り10分
「ああああああああ! やーばーいーよーーーー!!!」
ポーチに必要なコスメを入れて、いらないものは片付けて、髪をセットしなくちゃいけない。先に髪をワックスでセットする。
「よし完成! 30秒でセット出来た!」
急いでコスメポーチを完成させてバッグに放り込んだ。
「あっ! キーケースがないっ!」
あったあった! キッチンテーブルに! 時計も着けてなんとか身の回りは片付いたのでもう出よう。
「行ってきます!」
9:23
待ち合わせまで、残り7分
こういう時の為ではなかったけどフラットな靴を選んでおいて良かった。普段歩くスピードでここから駅まで12分くらいだから、ダッシュで行けば間に合う。
3……2……1……
私は左足で地面を蹴った。
交差点までの一本道をダッシュで走り抜ける。運動部の経験がない文化部系の女の全力疾走だ。腕の振り方も正しい姿勢も分からないまま効率の悪い走り方で駆け抜ける。交差点は駅までおよそ半分の地点だ。そこまで全力で走れば間に合う可能性が上がる。
「はっ……はっ……」
無我夢中で走って交差点に着いた。信号は赤。
9:26
待ち合わせまで、残り4分
信号が青になってまた全力で駆け抜ける。なんだか一瞬一瞬視線を感じるけどそれどころではない。私は彼とのデートに間に合わないといけないのだから。交差点に着く前よりスピードが落ちて来た。これ以上落としたら遅刻必至。五体が千切れて吹っ飛んでもスピードは維持していなければ。
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!
私は9時半に着くんだあああああああああああああ!!!!!!
足が痛い。心臓が破裂しそうだ。けど、駅までおよそ100メートル地点の横断歩道に着いた。
「え……? うそでしょ……!?」
横断歩道の前には人が解放される前のサイボーグ軍団のようにびっしりと並んでいる。こんな中走り抜けるなんて無理に決まってる。
9:29
待ち合わせまで、残り1分
いや、諦めるな! まだ終わりじゃない! よし、信号が青になった! 横断する人を避けつつ早歩きで渡る。しかし時計の秒針は待ってくれない。
残り30秒……
待って、待って……! もう少しなの……!
残り18秒……
お願い! あとは全力疾走すれば……!
10、9、8、7……
ああああああああああ
やめてええええええええええ!!!!!
5、
4、
3、
2、
1……
9:30
待ち合わせ時間
間に合わなかった……。もうダメだ……。でも木曽くんを待たせたくない。
「はっ……はっ……はっ……」
なんとか体力を振り絞って出せる限りのスピードで早歩きする。駅の出入口が近づいてきた。出入口の端っこにいるのは、見慣れた黒フレームの眼鏡、お気に入りらしいボーダーシャツを着た、若い男の子。
「木曽くんっ……!」
名前を呼べば、彼―――木曽くんは振り向いた。そして、私を見て目を見開いた。
「彩子先輩……。走って来たんですか……?」
「ごめん……待たせちゃって……」
私が遅れたことを謝ると、木曽くんはスマホの時計を見て笑った。
「大丈夫ですよ、たかだか2分じゃないですかぁ! それに男なんかちょっとくらい待たせたっていいんですよ?」
あぁ、お願いだからそんなおおらかな事を正直な笑顔で言わないで欲しい。この感情が溢れて、気持ちがバレるんじゃないかって怖くなるから。
「木曽くん……ありがとう」
「?」
「行こう。電車40分着なんだ」
木曽くんは素直に頷いた。私が追い込まれた理由を話したら、木曽くんはどんな顔をするだろう。そんなことを考えながら改札を通った。
「……えっ? じゃあ着替えとメイクとヘアセットまでして、20分足らずだったってことですか?」
数十分前の私のドタバタを聞いて、木曽くんが驚いた顔をしていた。
「ほんとはね、もっと余裕持ってやるつもりだったんだけど」
「先輩が慌てるの珍しいですね。納期迫っても割と冷静ですし」
木曽くんが口をすぼめてふんふん、と相槌を打つ。珍しいどころか初めてだと思う。学生時代は寝坊で遅刻なんかしたことなかったし。社会人になったら周りに迷惑かけるから尚更だ。
「でも、先輩が大慌てするのを一番最初に知ったの、多分俺になるんだよな……」
「え?」
木曽くんは口元をスマホで隠して笑っていた。
「普段頼られてる人の抜けたところって、魅力的だと思いませんか?」
あ、空席ありそうです。
木曽くんは到着した電車を見て言った。電車が着くと、案の定彼は私を座らせた。珈琲店に着いたら何を勧めよう。マスターのオリジナルブレンドと、それからあの店はフードペアリングもやっている。マスターのお嬢さん特製ケーキが美味しいからそれも試してみないか聞いてみよう。
車窓の景色が流れていく中で、私の心はふわふわと上下に揺れていた。
お付き合いいただき、ありがとうございました。