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大切な物

作者: 黒尾 夏

今回も三題噺です。

今回のお題は『財布』『ヒョウ』『宝物』になります。

「まずい、まずいぞ」


 太陽は地平線に姿を隠し、点々と街に明かりが灯る頃。

 ニュースキャスターが真夏日と称した今日は確かに猛暑ではあったが、夜は冷える。だからだろうか、すれ違う人の顔も次第に少なくなっていき、終いには私一人になってしまった。

 ああ、こんなことならばせめて名前を書いておけば良かった。後になって悔やんでも仕方がないが、それでも後悔せずにはいられなかった。

 昨日が私の誕生日で、娘も盛大に祝ってくれたのだが、その余韻が全て抜けきってしまうほど、私の気は動転していた。


 一番、気に入っていたのだ。


 娘が、私の誕生日のプレゼントにと選んでくれた。初めて見た時は怪訝に眉を顰めたヒョウのキャラクターも、暫らくを一緒に過ごせば愛嬌があっていいと思えたくらいには、お気に入りだった。赤い色も、初めは血のようで気味が悪かったが、最近では気にならなくなってきたところだ。

 大の大人が使うような物ではなかったが、私にはむしろそれが良かった。


 革靴の音が寂しく響く。音が反響し、一歩一歩がまるで大層な意味を持った何かのように感じられる。

 改札を出ようと思った時までは──つまり、ポケットに手を入れて取り出そうとした時までは、確かにあった気がしていた。ただ、いつも入れていた筈の右ポケットには無くて、慌てて反対のポケットに手を入れてみたが、その手は何かを掴むことは無かった。


 幸いにも、電車はまだ何本か残っている。私は暫く考え込むと、また彷徨う亡霊の如く歩き出すのであった。


 あれには全財産……というのは少し誇張だが、現段階での全ての持ち金が入っている。当たり前だが、定期券もアレに入れていた。あれが無いと、私は永遠に囚われの身になってしまう。


 こつ、こつ。靴音を響かせながら駅のホームを右往左往する。終いにはベンチに腰を掛けて、頭を抱えるのだ。


 前の駅かもしれない。先の駅では、少し大柄な男にぶつかって思わずよろめいてしまったのだ。その時に落としたのかもしれない。いや、最悪であればあの男に盗まれてしまったことも考えられる。

 そう言えばあの男とぶつかったのは右側だった。私がいつもアレをポケットに入れるのも右側だ。盗むことも容易いのではないか。


 途端、言い表せない恐怖が身体を襲った。


 あれは私の唯一といって良いほどの宝物なのである。中に入っているのは、所詮安月給のサラリーマンが持ち歩く程度のはした金だ。私は計画を立てて行動するのは得意ではないが、それでも計画的に貯金もしてある。カードの類も使っていないので“中身”を抜き取られたとしても大した損失にはならない。

 だが“外”は別だ。アレは私の宝物なのだ。世界に一つしかない、税込みで千円も下らない、私の唯一無二の宝物なのだ。


 ああ、娘の泣いている顔が目に浮かぶようだ。

 無くした、と言ったら悲しむだろう。目に溢れんばかりの涙を溜めて、不注意だった私を責めるだろう。もしかしたら、土日は口を利いてくれなくなるかもしれない。

 盗まれた、と言ったら怒るだろう。アレは娘が、少ない小遣いをやり繰りして買ってくれたものだ。つまり、その小遣いを丸ごと知らない男に盗まれたことになる。盗んだ相手にぶつけられない感情の矛先を私に向け、「お父さんなんて大嫌い」の一言でも投げつけてくるのではないだろうか。これも、土日には到底口を利いてくれそうにない。


 今週の土日には、家族でディズニー・ランドへ行く予定がある。娘が日頃から行きたいと強く主張していたので、私が連れて行ってやることになったのだ。


 鞄の中から財布を取り出して開く。中に入っているチケットを確認する。二人分。ちゃんとある。

 朝は早いだろうから、今日は急いで帰って早めに寝なければならないのに、私はまだ、この駅の中に囚われている。もういっそ、駅員の人に事情を話して改札を通してもらおうか。何、ひたすらに謝ればなんとかしてくれるだろう。そんな考えも頭を過った。


「……あれ?」


 私は手元を見た。

 そこには、黄色を背景にした真新しいヒョウの、おどけたような笑顔が光っていた。


 ああ。


 なんだ、そんな事か。

 昨日は私の誕生日だったのだ。


 そんな間抜けな私に呆れたように、娘が待っている家の最寄り駅へ停まる、今日最後の電車がやってきた。

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