妙高蛍の出逢い1
蛍はカレンダーを見る。
ガリ版刷りのそれは、昭和二十八年四月と誇らしげに示している。
その前は昭和二十八年三月だった。その前は昭和二十八年二月だった。その前は昭和二十八年一月だった。その前は昭和二十七年十二月だった。
この村には空襲はこなかったが、蛍は八歳の八月に玉音放送を聞いた。
この春、村は祭りの支度にと紙の花作りに忙しい。
なのに。
掌の中の、小さな箱状のものは、こんな事を言う女の姿を映していた。
「新入社員が平成生まればかりになりましたが、昭和世代との意識の差はあるのか!? ここ、渋谷にてご意見を覗ってみました!」
「なに……これ……」
蛍は口元に手をおし当てた。心臓がばくばくと鳴った。吐き気がこみ上げてきた。
土間から駆け出し、田んぼの端で吐いた。
「意味わかんねえ……」
野良着の五十がらみの男が慌てて駆け寄ってくる。
「ホォたる様! どないしなさっただね!」
この男は村では二人いる三郎であることと、蛍を呼ぶときにみょうに伸ばしてホォたる様と発音するので「ホォちゃん」と呼ばれている。
野良着は擦り切れ、もう何年も買い換えていないことがわかる。
「ホォちゃん!」
蛍はホォちゃんの胸元に縋るように掴む。
「俺にさ……隠してることない……?」
ホォちゃんはにっこと笑った。
「蛍様もそんなお歳になったんだね」
「は……?」
にこにことほたるの長く伸ばした髪を撫でる。
「もう十六だもの。大人のいう事なんか嘘ばっかりに思えるでね。おらもそうだったよ。なんつったかなー、しーしー、ああ、思春期っつたかなあ」
「思春期……?」
「誰でもそうなんだあ。気にするこたあねえ」
のっぽのホォちゃんは、蛍の頭を二度撫でると、「ああ、福をもらった」と言って去って行った。
北陸新幹線の中。
「次で乗り換えや」
窓際の席のメフェイストは、膝に置いていたシルクハットをかぶった。
「随分と山の中だな」
「こっから更に山の中に電車で行って、それから更に山深くバスで行って、それからはたぶん歩く」
「わかった」
納は手元の文庫本を閉じた。文庫の表紙には「蜜のあわれ 室生犀星」の表記。
「だけどメフィスト、地図に存在しない村、なんて存在できるのか?」
メフェイストは細い指を顎にあてる。
「法律上は不可能。心理的には可能や」
「どういう意味?」
「たとえばな、あるところにA村とB村があって、それが合併してC町、という町ができたとする」
「うん」
「法律的には、もうA村もB村もあらへんわな」
「うん」
「だけど、住んでるもんが、C町の中で「お前さん、どこに行くねん」って聞かれた時、「ナカニシの家や」「どっちのナカニシや」「A村の郵便局の前の方のナカニシや」って言い方をするのは誰も止められへんわな。行政上も法律上もA村は存在せえへんが、人々の意識の中にはきっちりA村は存在する。これが心理的に存在するいうことや」
「なるほど。薔薇菩薩村もそういうことか」
「せや。市町村合併の際、A市の一部となっている」
「だけど、住んでいる人はずっと薔薇菩薩村に住んでいる、という心理で生活している訳か」
「せや。せやけど、奇妙なことに、昭和二十八年の合併以降、薔薇菩薩村は周囲の行政等とのかかわりを一切絶っている。電話、ガス、水道の配線も断り、電気も町長が村全体の分を月に一度、まとめて振り込みに来る」
「なるほど。奇妙だね」
「なおも奇妙なことがある。昭和二十八年以降、薔薇菩薩村で出生した人間はいないことになっている」
「……それだと、老人しかいないはずだ」
「ああ、だが、電気代を払いに来る町長はどう見ても五十代後半らしいわ」
「おかしい」
「出生しても届けを出してない。まあでも、村民の現金収入はどうしたかて生存している、とされている老人の年金にかかってくるわな」
「うん」
「そんなん、後三十年も経たへん内に死んでまう年齢やろ。しかし、昭和二十八年以降に生まれた人間は出生届が出てへん。現金収入どないする?」
納は車内のアナウンスの中、答える。
「不正受給か」
「将来あると見込まれる多額の不正受給。これを阻止するために、お鉢が回ってきたわけや」
「メフィストは行政の仕事をしているのか?」
「うん? 行政っちゃ行政やけどな。政府の表ざたにできない仕事をやるのが基本や。悪魔殺しとかな」
「僕はそれを手伝えばいい?」
メフェイストはぐっと身を乗り出し、納の顔を見つめた。
「手足となって、刃を振るえばいい」
蛍は村長の家に上がった。
フランネルのシャツの裾をズボンに仕舞、正座する。
「なあ、村長様」
「なんじゃい。こんな夜中に」
「昔はこの村にも若い人がいっぱいいたんだよね?」
後二年で還暦、が口癖の村長は目を細めた。
「戦争でなあ、みんな軍隊に行ってしもうてなあ……。蛍様は覚えとらんじゃろうなあ」
ランプの灯がゆらゆら揺れた。
「じゃあさ、なんで女もいないの?」
「おんなじじゃ。若い娘も村を出て、工場へ働きに行かされてな。全員空襲で死んでもうた」
「子供は、子どもは一人もいないのはなんで?」
「今日の蛍様は知りたがりじゃのう。村の小学校にはな、弟妹を子守しながら通っとったんじゃが……。そこにだけ焼夷弾が落ちてな。全員亡うなってしもた。蛍様はお家にいたからの」
「じゃあ……じゃあさ……母さんは……なんで突然死んだの?」
「去年のことか」
悲しげに村長は紙たばこを巻き始めた。
「突然じゃと思ったのは蛍様が幼かったからよ。いや、わしらも気づかんかったじゃがのう。母様は病にかかっちょったが、誰も気づかんかったんじゃよ。本人もな」
「じゃあさ……最後にさ」
「なんじゃあ」
「母さんが俺に言ったんだ……死ぬ前に。「あたし東京のギャルだったんだよね」って。あれ……どういう意味?」
村長はかっと目を見開いた。
しかし、すぐに元の悲しげな目に戻った。
「かわいそうに気付いてやれなんだわ」
「どういうこと?」
「病じゃ。病でうわ言を言うたんじゃ。母様は村の娘じゃ。神様の子を孕んだ……村の娘じゃ」
「ねえ……俺ってさ……」
ランプの灯が揺らめいた。
「ホントに神様なの……?」
灯りが消えた。
村長はただ黙っていた。
真っ暗闇だった。
「ごめん、俺、帰るね」
一人で住む小さな家。
壁土と床の隙間が少しだけ剥がれるようになっている。
その隙間から取り出す。
「母さん……この……テレビっていうの……いったい何?」
遠くからフクロウの声が聞こえた。