七竃納の出逢い5
精神病院に来るのは二度目だ。
最初は、小学生の頃。
広汎性発達障害の診断に、父親は二度と病院に連れて来なくなり。
「お前は普通の子だ」が口癖になった。
白とベージュで固められた病棟を歩く。
「なあ、メフィスト」
納は問いかける。
「僕ら、前に逢った事がないかな?」
返事は無い。メフィストはゲヘナに潜ったっきりだ。
ゲヘナから現世には、声をかける程度の干渉すらできない。
納は学ランの前を軽くひっぱる。
相変わらず、第一ホックまできっちり締められている。
面会室の透明なドアから、患者たちの写真が見える。
ひなまつりの写真。
折り紙でお雛様を折る患者の写真。
どれが母親なのかは―。
わからなかった。
透明な扉の向こう。
小さな女が見えた。
誰かはわからなかった。
ただ、看護師が乱れた服を懸命に整えていた。
表情は欠けている女だ。
扉が開いて、それが母だとわかった。
看護師が優しく告げた。
「面会を終えられたら、こちらに声をかけてください。何かあったら何でもいいので、ナースコールを押してくださいね。ほら、座って、関さん」
彼女は目の前に座った。
精神に疾患があるもの特有の、荒い息遣いをしていた。
ひどく、耳障りにそのブフー、ブフー、という息が聞こえた。
記憶にある母とは、まるで違っていた。
記憶にある母は、常に幻聴に怒鳴り散らしているか、父親に怒鳴られて小さくなっているかだったからだ。
目の前の女性は、ただ、荒い息を吐き散らしているだけで、何も喋ろうとしなかった。
納は言った。
「七竃納です」
母はオウムのように返答した。
「関真耶子です」
ただの名前の確認をするように。薬を飲む時の看護師との点検のように。
「僕は、あなたの息子です」
納は息を止めるように切り出した。
真耶子は、初めて表情を見せた。
へらり、と笑って。
「知らん。忘れた」
納は本当に息を止めた。
しかし、それでも続けた。
「僕の父は、死にました。自殺でした」
「ふうん」
真耶子は椅子から下りると、フローリングに床にごろりと寝そべった。
こちらには、尻を向けて。
「今は大事な話をしてるんです」
ぐうたらと寝そべったまま、真耶子は言った。
「なんでもな、憑き物が全部したんや」
真耶子の関西なまりを聞いて、彼女の出身を思い出した。
「憑き物が全部するんや。あいつらは無茶苦茶しよるんや」
納はナースコールを押した。
医師は初老の男性だった。
白いものが混じった髪を丁寧に整えている。
「お母さんの、説明をして大丈夫ですか?」
固い声を無理やり柔らかくしたような口調だった。
「大丈夫です」
「ええと、まず……」
医師はカルテを見た。
「お母さんの病名は統合失調症です。それから、ごく重要なことをお伝えします」
す、と納を見た。
「お母さんは、常にあなたのことを忘れている訳ではありません。ただ、時折、考えられなくなってしまうんです。あなたの記憶を、考えられなくなってしまうんです」
納は俯いて問うた。
「母は、ずっとああなんですか?」
医師は一瞬黙った。
逆に問い返した。
「お母さんの症状はいつからだか、ご存じですか?」
納は医師と目を合わせた。
「僕の記憶にある限りでは、ずっと怒鳴ったり泣いたりしていました。何もない空間に向かって。七歳の時、夜中に突然家からいなくなりました。警察が来て、翌朝、父が言いました。「お母さんは、「今からあなたは死になさい」って声を聞いて出て行ったんだ。警察が見つけてくれて、今は病院にいる」と。それから会っていません。ただ、父が「家事をやらない」と離婚したのは覚えています」
医師は納得したように頷いた。
「お母さんが病院にかかったのは、去年からです」
納は思わず大声を出した。
「何故ですか! あんなに悪かったのに、なんでずっと病院に行っていないんです!」
そして、口を噤んだ。
「……すみません」
医師は「気にすることないよ」と少し砕けた口調になった。
そして口調を戻した。
「あなたには少し難しい話かもしれませんが、病人の中には、自分が病気であることを認めたくない人もいます。特に、精神科の方は多いです」
「僕にはわかりません」
納は言った。
「認めなければ、病気と闘えないじゃありませんか」
医師は頷いた。
「あなたは、そうなのです。あなたは、闘える人なのです。逆境も、ハンディも、非人情な世界も、乗り越えるために闘える人なのです。あなたは強い人です。剛毅と言っていい。だけど、世界中が剛毅な人という訳ではないのです」
医師は一笑した。
「強くおありなさい。若く、幼く、美しいあなた。たくさんのものと闘いなさい。そして、いつかここに来る気になったら、いつでもおいでなさい。ここは弱い人ばかりです。いつでもおいでなさい」
納は、深々と一礼した。
「ありがとうございます」
去り際に、医師はそっと言った。
「あなたにできるアドバイスはこの程度です。私も大した人間じゃないから。ただ、これだけは私の経験からの絶対の法則としてお伝えします」
「何ですか?」
「宗教だけは信じてはいけませんよ。あれは決して人を救いません。麻薬です」
納が病院を出ると、門の前で待ち構えていたかのように、新興宗教の信者たちが祝詞まがいのものを唱えていた。
「ああ、こういうことか」
納は吐き捨てるように言った。
「まったく、麻薬とはよう言うたもんや」
「メフィスト!」
ひょいっとメフェイストが黒いゴシック調のドレス姿を現した。
「さあさあ、これからどないするかやな」
にこにことしているメフィストに、納は言った。
「どうしようもないよ。母さんの着ている服、新品だっただろう? 病院服じゃなかっただろう?」
「せやな」
「つまり、母さんの世話をする誰かが存在しているけど、僕には関わりたくないってことだ。働くしかないんだよ。当たり前のことだ」
メフェイストはにこにこからけらけらに変わった。
「歳を取らないその体で? マトモな仕事ができると?」
「マトモじゃない仕事をするしかない」
その返答に、がばっとメフェイストは後ろから納を抱きしめた。
「な、何だよ」
「マトモじゃない仕事、あるでえ。住み込みで三食保証。ただし、命の保証はない」
被っていたシルクハットを片手に持つ。
「日本の掃き溜め、十三番町にて、メフィスト・フェレスの使いとなる! 人間、人外を問わず、ありとあらゆるアウトサイダーと交流、商売、戦闘し、十三番町の支配者、鉄の女王たる悪魔、メフィスト・フェレスを守るべし!」
納は暫し沈黙したが、すぐに問い返した。
「行くあてがあるってこと?」
「ポジティブに考えればそうやな」
「なんでそこまでしてくれるの?」
メフェイストは大笑した。
「君がそれを聞くんか? 他人一人助けるために、人生を棒に振った君が? それよりは理由を明確に答えられるわ。契約を結んだから、君は私の下僕であり、私は君の下僕だからや!」