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空六六六  作者: 浮草堂美奈
第一章 出逢ノ語リ
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七竃納の出逢い5

 精神病院に来るのは二度目だ。

 最初は、小学生の頃。

 広汎性発達障害の診断に、父親は二度と病院に連れて来なくなり。

「お前は普通の子だ」が口癖になった。

 白とベージュで固められた病棟を歩く。

「なあ、メフィスト」

 納は問いかける。

「僕ら、前に逢った事がないかな?」

 返事は無い。メフィストはゲヘナに潜ったっきりだ。

 ゲヘナから現世には、声をかける程度の干渉すらできない。

 納は学ランの前を軽くひっぱる。

 相変わらず、第一ホックまできっちり締められている。

 面会室の透明なドアから、患者たちの写真が見える。

 ひなまつりの写真。

 折り紙でお雛様を折る患者の写真。

 どれが母親なのかは―。

 わからなかった。

 透明な扉の向こう。

 小さな女が見えた。

 誰かはわからなかった。

 ただ、看護師が乱れた服を懸命に整えていた。

 表情は欠けている女だ。

 扉が開いて、それが母だとわかった。

 看護師が優しく告げた。

「面会を終えられたら、こちらに声をかけてください。何かあったら何でもいいので、ナースコールを押してくださいね。ほら、座って、関さん」

 彼女は目の前に座った。

 精神に疾患があるもの特有の、荒い息遣いをしていた。

 ひどく、耳障りにそのブフー、ブフー、という息が聞こえた。

 記憶にある母とは、まるで違っていた。

 記憶にある母は、常に幻聴に怒鳴り散らしているか、父親に怒鳴られて小さくなっているかだったからだ。

 目の前の女性は、ただ、荒い息を吐き散らしているだけで、何も喋ろうとしなかった。

 納は言った。

「七竃納です」

 母はオウムのように返答した。

関真耶子せきまやこです」

 ただの名前の確認をするように。薬を飲む時の看護師との点検のように。

「僕は、あなたの息子です」

 納は息を止めるように切り出した。

 真耶子は、初めて表情を見せた。

 へらり、と笑って。

「知らん。忘れた」

 納は本当に息を止めた。

 しかし、それでも続けた。

「僕の父は、死にました。自殺でした」

「ふうん」

 真耶子は椅子から下りると、フローリングに床にごろりと寝そべった。

 こちらには、尻を向けて。

「今は大事な話をしてるんです」

 ぐうたらと寝そべったまま、真耶子は言った。

「なんでもな、憑き物が全部したんや」

 真耶子の関西なまりを聞いて、彼女の出身を思い出した。

「憑き物が全部するんや。あいつらは無茶苦茶しよるんや」

 納はナースコールを押した。


 医師は初老の男性だった。

 白いものが混じった髪を丁寧に整えている。

「お母さんの、説明をして大丈夫ですか?」

 固い声を無理やり柔らかくしたような口調だった。

「大丈夫です」

「ええと、まず……」

 医師はカルテを見た。

「お母さんの病名は統合失調症です。それから、ごく重要なことをお伝えします」

 す、と納を見た。

「お母さんは、常にあなたのことを忘れている訳ではありません。ただ、時折、考えられなくなってしまうんです。あなたの記憶を、考えられなくなってしまうんです」

 納は俯いて問うた。

「母は、ずっとああなんですか?」

 医師は一瞬黙った。

 逆に問い返した。

「お母さんの症状はいつからだか、ご存じですか?」

 納は医師と目を合わせた。

「僕の記憶にある限りでは、ずっと怒鳴ったり泣いたりしていました。何もない空間に向かって。七歳の時、夜中に突然家からいなくなりました。警察が来て、翌朝、父が言いました。「お母さんは、「今からあなたは死になさい」って声を聞いて出て行ったんだ。警察が見つけてくれて、今は病院にいる」と。それから会っていません。ただ、父が「家事をやらない」と離婚したのは覚えています」

 医師は納得したように頷いた。

「お母さんが病院にかかったのは、去年からです」

 納は思わず大声を出した。

「何故ですか! あんなに悪かったのに、なんでずっと病院に行っていないんです!」

 そして、口を噤んだ。

「……すみません」

 医師は「気にすることないよ」と少し砕けた口調になった。

 そして口調を戻した。

「あなたには少し難しい話かもしれませんが、病人の中には、自分が病気であることを認めたくない人もいます。特に、精神科の方は多いです」

「僕にはわかりません」

 納は言った。

「認めなければ、病気と闘えないじゃありませんか」

 医師は頷いた。

「あなたは、そうなのです。あなたは、闘える人なのです。逆境も、ハンディも、非人情な世界も、乗り越えるために闘える人なのです。あなたは強い人です。剛毅と言っていい。だけど、世界中が剛毅な人という訳ではないのです」

 医師は一笑した。

「強くおありなさい。若く、幼く、美しいあなた。たくさんのものと闘いなさい。そして、いつかここに来る気になったら、いつでもおいでなさい。ここは弱い人ばかりです。いつでもおいでなさい」

 納は、深々と一礼した。

「ありがとうございます」

 去り際に、医師はそっと言った。

「あなたにできるアドバイスはこの程度です。私も大した人間じゃないから。ただ、これだけは私の経験からの絶対の法則としてお伝えします」

「何ですか?」

「宗教だけは信じてはいけませんよ。あれは決して人を救いません。麻薬です」


 納が病院を出ると、門の前で待ち構えていたかのように、新興宗教の信者たちが祝詞まがいのものを唱えていた。

「ああ、こういうことか」

 納は吐き捨てるように言った。

「まったく、麻薬とはよう言うたもんや」

「メフィスト!」

 ひょいっとメフェイストが黒いゴシック調のドレス姿を現した。

「さあさあ、これからどないするかやな」

 にこにことしているメフィストに、納は言った。

「どうしようもないよ。母さんの着ている服、新品だっただろう? 病院服じゃなかっただろう?」

「せやな」

「つまり、母さんの世話をする誰かが存在しているけど、僕には関わりたくないってことだ。働くしかないんだよ。当たり前のことだ」

 メフェイストはにこにこからけらけらに変わった。

「歳を取らないその体で? マトモな仕事ができると?」

「マトモじゃない仕事をするしかない」

 その返答に、がばっとメフェイストは後ろから納を抱きしめた。

「な、何だよ」

「マトモじゃない仕事、あるでえ。住み込みで三食保証。ただし、命の保証はない」

 被っていたシルクハットを片手に持つ。

「日本の掃き溜め、十三番町にて、メフィスト・フェレスの使いとなる! 人間、人外を問わず、ありとあらゆるアウトサイダーと交流、商売、戦闘し、十三番町の支配者、鉄の女王たる悪魔、メフィスト・フェレスを守るべし!」

 納は暫し沈黙したが、すぐに問い返した。

「行くあてがあるってこと?」

「ポジティブに考えればそうやな」

「なんでそこまでしてくれるの?」

 メフェイストは大笑した。

「君がそれを聞くんか? 他人一人助けるために、人生を棒に振った君が? それよりは理由を明確に答えられるわ。契約を結んだから、君は私の下僕しもべであり、私は君の下僕だからや!」

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