七竃納の出逢い4
この家は停滞している。
納のアパートに着いたメフェイストは
「じゃ、私はゲヘナに潜るわな」
とあっさり言った。
「ゲヘナ? 聖書に出てくるあれか?」
メフェイストは、目を丸くする。
「わあ、物知りやなあ。あれとはちょっと違う。悪魔が世界で身を潜めるために作る異空間みたいなものやな」
「なるほど。普段はそこに潜っている訳か」
「そう。せやから。普段から人間に干渉する悪魔はほとんどおらへん」
「?」
首を傾げる納に、メフィストは人差し指を立てる。
「姿も見せずに干渉なんてできるかいな。この世に干渉するためには、必ず物理的にこの世に存在することが必要なんや。せやから、ゲヘナに潜ったまんまやったら、人間には声一つかけられへん」
「教室に現れたのは、そのゲヘナから出てきたのか?」
「せや」
「じゃあ、悪いんだけど、今回も父さんと話し合っている間は出てきてくれないでくれるかな。何があっても」
「まあ、そうやわな。それにしてもなんでこない散らかってるんや?」
周囲をくるりと見渡す。
「父さんがいる場所から、部屋は散らかって行くんだ。片付けろと言っても、片付けは女の仕事だと言う。うちに女性はいない。勝手に片づけると」
「怒るんか?」
「気付かない。そして一日で元の状態に戻す。繰り返し。繰り返し」
「辛い?」
「散らかっているのは見ていて辛いよ」
「ふうん、視界的にストレスを覚えるということか」
「まあ、そうだね」
「お父さんは病気してるん?」
「病気ということになっているよ。肝硬変だ。アルコールが原因のね」
はあ、とメフェイストはため息を吐き、ほなね、と言って部屋の中に、暗い狭間を作り出した。
否、突然部屋に狭間ができた、と納には見えた。
そこにメフェイストが体を躍らせると、姿が消える。狭間も消える。
納は本棚の引き出しを開ける。
何年も何年も開かれていないそこには、原稿用紙が詰まっている。
今までは、いつか父が小説家になるのだと思っていた。
ほこりの溜まった原稿用紙。
パソコンはない。
ガチャリ、と玄関の扉が開く。
「おかえり、父さん」
父親は黄疸の浮き出た顔をしばたたかせ、部屋に入ってくる。
「今日は飯はいらん。会の連中と食ってきた。日本国憲法のために意義ある話し合いをしてきたんだ。平和国家として重要な話だ」
納はその黄色くなった目を正面から見た。
「なんだ。お前のその癖は相変わらず気持ち悪い」
「父さん、そういう活動は働いている人間にのみ許される娯楽だ。そんな事をしている暇があったら、働いたらどうなんだ」
父の顔がすっと蒼ざめた。
怒りのために引きつった。
「娯楽ってなんだ! そんな意識の低い事だから、憲法が改悪されるんだッ!」
納の表情は変わらなかった。
「自分自身の事もきちんとできない人間が、国家をきちんとできる訳がないだろう」
「俺はちゃんとしてる! 差別や戦争と戦ってるんだ!」
「働きもせず、家事もせず、体調管理もせず、いったい何をちゃんとしてるのか言ってみろ」
「家事は女がやるもんだ!」
「その理論を振りかざすためには、家事をする女性を全面的に養っていく経済力と、それを稼ぐ労働が必要だろう。家事以外一切何もやらなくていいという環境で満足できる女性がいない事には話にならない。要するに、家事を職業とする女性だ。家政婦を雇える男性だけが言える言葉だよ、それは」
父親のこめかみがぴくぴくと震えた。
納の表情にも、怒りが浮かび始めた。
「俺はいずれ名作を発表するんだ! その為には働いてる暇なんてないんだ!」
「暇しかない今だって、一文字も書いていないんだから、働こうが働くまいが一生名作なんて書けないよ。くだらない事ばかり言ってないで、ハローワークに行ったらどうなんだ」
「体調が悪いんだよ!」
「酒をやめれば治る。意思の強さが足りないだけだ」
父親の声に涙が混じり始めた。
「人間はなあ、誰しも弱いところを持っているものなんだよ。酒に逃げなきゃ死んじゃうんだ。でも、そんな事言われるんなら、俺はもう死ぬ。死んでやる」
「父さん。今まで、そう言って死んでやるって言う父さんを止めてきたのが僕の間違いだったんだ」
納は父親の胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
「酒に逃げないと死んでしまうんなら死ね! そこまで弱い人間は生きている必要が無い!」
父親はぶつぶつと、じゃあ、もう死ぬ。死ぬ。と呟いていたが、ぴくりとも動かなかった。
そして、涙声で言った。
「なあ、納、お前は働く事がどれだけ辛い事か知らないだろう?」
納はきっぱりと返した。
「辛い事をやらない人間が、家庭を持つ資格は無い。家庭を持った地点で、辛いからやらないという選択肢は消える。辛いことをやりたくないなら、家庭なんて最初から持つな。自分で家庭を持つ事を選んだんだから、責任を取れ」
父親は絶叫した。
顔を殴りつけられて眼鏡が落ちる。
しかし、手は放さない。
「こんな冷たいヤツを作ったのが間違いだった!」
納に胸倉を掴まれながら、シンクの上の果物ナイフを握る。
まずい。
「明るい家庭がほしかったんだ俺はッ!」
そのまま、ナイフを振りかぶり、突きだした。
よけられなかった。
納の左目に、ナイフが突き立てられた。
「ひいッ」
父親の方が情けない悲鳴を上げた。
「血、血が、違う、カっとなっただけで……」
納は床に蹲り。
「グウッ」
声を上げてナイフを引き抜いた。
そして左目から血を流しながら、立ち上がった。
咆哮した。
「明るい家庭が欲しいならッ! 自分で努力しろッ!」
ナイフを投げ捨てて、父親の顔面を殴りつけた。
「働け」
左目から激痛が走った。
「働け」
それでも父親を殴る手を止めなかった」
「働け働け働け働け働け働けえッ!」
「うわあああッ」
父親は、拳から逃げ出した。
そのままアパートを飛び出していった。
逆にメフェイストが、弾けるように飛び出してきた。
「納! 今すぐ傷を治すから!」
「納は冷や汗をかきながら手で制した」
「いい」
「いいやあらへんわ! その傷はほっといたら失明すんで!」
納は床に座り込みながらまだ制した。
「いいんだ。父さんが、救急車を呼んでくれるはずだから」
「そんなん……ッ」
納は荒い息を発した。
「流石に呼んでくれるよ。親子だもの」
メフェイストは何も言えなくなったように、タオルを取ってきて流れる血に当てた。
納の唇がありがとうと動いた。
夜は更けて行った。
納はいつの間にか失神した。
そして、時折覚醒した。
最後の覚醒の時、父親が残した携帯電話が鳴った。
夜が明けているのを、ヤニで黄色くなったカーテン越しに確認した。
這いつくばって携帯電話を取ろうとするのを、メフィストは慌てて取ってやった。
通話ボタンを押した。
「七竃さんのご親族ですか?」
納は答えた。
「息子です」
聞いたことのない男性の声は、一瞬止まった。
「お母さんはいないかな? いや、君以外の誰か大人は」
メフェイストは手を出そうとした。
納は答えた。
「誰もいません」
電話先の男性は、なるべく感情を抑えようとしている声で言った。
「いいね。落ち着いて聞くんだよ。お父さんは、昨夜電車に飛び込んで亡くなった。誰か保護者の方に言うんだよ。遺体は―」
父親の葬式には誰も来なかった。
父親の携帯電話には何十人も登録されていて、納は一人一人に父親の死を伝えたが、お悔やみの言葉を言う者はいても、葬式には誰もこなかった。
正確にはきちんと葬式はしていない。
焼き場で焼いて、骨を持って帰って来ただけだ。
それでも、誰も来なかった。
骨壺に収められた段階になって、父の伯母だという姉妹が来た。
二人は納の左目を見て言った。
「その目、どうしたの?」
医療用ガーゼに覆われた左目。
納は答えた。
「見えなくなりました」
二人の老女は、ああ、ああ、と言った。
「身よりも失くした上に、めくらだなんて、こんな可哀想な」
別の返答をした。
「遺骨の事、よろしくお願いします」
「分かっているわ。うちのお墓に入れますからね。それじゃあね。元気でね」
10分にも満たない来訪だった。
ゲヘナから、メフィストが姿を現した。
「その目、元通りに見えるようにできるんやで? ほんまにええの?」
納は片目だけで正面から見た。
「いいんだ。これは信じるべきでないものを信じた証だから。僕の間違いの証だから。こうして刻み込んでおく」
はー、とメフェイストはまたため息を吐いた。
まったくこの子は、と呟いて頭を掻く。
そしてそのまま台所に向かった。
「うわ、トースターもあらへんやん」
立ったままの納にウインクして。
「ちょっとまっとり。こっち見たらあかんで」
軽い卵を割る音、かき混ぜる音、こうばしい香り。
「はい、お待たせー」
目の前に置かれたのは、フレンチトーストが二枚。ウインナーと目玉焼き。思わず腹がきゅうと鳴る。
「食べてもいいの?」
「ええよ、遅い朝ごはん。君はもっと肉つけなー。どんどん食べ。食べさせるために買うてきたんやから」
「いただきます……」
納はフレンチトーストにかぶりついた。
「おいしい……」
ウインナーと目玉焼きをつぎつぎたいらげる。
フレンチトーストの優しい甘さ。
ウインナーの歯ごたえ。
目玉焼のカリッとした焦げ目。
ふいに、ぽろり、と涙が零れた。
メフェイストが顔を上げた。
「どうしたん」
「初めてなんだ……朝ごはんを食べるの……」
メフェイストがにっこり笑う。ぐりぐりと頭をなでくり回す。
「朝は朝ごはんから始まるもんや。朝がやってきたんやで、納」