銀座に行こう
23区内には、ほとんど行ったことがない。
「いや、都内出身だろ!?」
「八王子だし」
「八王子がなんの言いわけになるんだよ!?」
「八王子の中でも多摩ニュータウンのあたりだし」
「だからなんの言いわけ!?」
「言いわけじゃないよぅ。最低限生活に必要なものは徒歩圏内で手に入るから、わざわざ23区内まで行く必要なかったの」
ああ、なるほど。と蛍は納得したが――。
「納の徒歩圏内ってめちゃくちゃ広くないデスカ?」
「……。歩いていけるんだから徒歩圏内だもん」
「京都で蹴上から堀川今出川まで、毎日徒歩で通ってましたヨネ?」
「歩いて通えるとこは徒歩圏内だもん」
「実際の距離を検索ダー」
約5.5キロ。徒歩1時間8分。
「お前、ホントに都内出身か? 家に電気通ってたか?」
「いやいや、これは都内出身デスヨ。だって納デスヨ? 目を離したら消えているのが標準装備の納デスヨ?」
「ああ。なるほどね。まっすぐ行ってるわけないもんな。気になるものを発見して追っかける時間込みだもんな。都内じゃないと遭難して死んでるよな」
「わあああん、蛍とユキがいじめるぅ」
と、笑顔が崩れそうになったので慌てて直す。口角を上げて目じりを下げて。
「笑顔の練習を頑張ってるのはわかるんだけどさ……」
「笑う以外の感情を消失したひとみたいになってるから、ついつい崩したくなるんデスヨー」
ブランクが長いと、取り戻すのに苦労する。
銀座。東京駅から狭義の意味で徒歩圏内。現在は観光地としての側面が大きいが、高級な店が立ち並ぶ地区として全国的に有名である。
「納ー、停めるときはなんもせんでええから。早よおいで」
え、これ、何もしない料金なんだ……。
看板を再度見る。やはり、ゼロの数が多い。
銀座って……コインパーキング高い!
「納ー?」
はっとメフィストの元に戻る。そうだった。もう納はメフィストの一方的な下僕なのだ。なんでも言うことを聞かなくちゃならないのだ。ちゃんとした下僕にならなければならない。銀座にお供だぁと、ウキウキしている場合ではない。冷や水をぶっかけてもらってよかったと言える。
「トランクの開け方、こうな。はい、荷物持って」
「うん」
ひょっとして……この車、ベンツじゃないだろうか。黒塗りのベンツ。ヤクザが乗る車。今、エンブレムに気づいた。
「……これ、中津さんが乗ってるのと同じ車?」
「ああ、あれはクラウン。あいつ日本車しか乗らんへんねよな。それより行くで」
新知識、クラウンは日本車。大きな紙袋を抱え、メフィストの後ろを着いていく。彼女が連れていても、恥ずかしくない男にならなくては。
30分後。
「メフィスト! 見るだけって! 見るだけってええええ!」
「見て良かったら買うに決まってるやろ! 女の人に勝手に触ったらあかんのんちゃうかったんか!?」
「だって! だって! それ高い! すごく高いよぅううう!」
主の腰にしがみついてすがる下僕に落ちぶれていた。
女性の店員さんが困った笑顔で見ている。こういうお化粧する人、メフィストと女優さんだけじゃなかったんだ。手にはハンドバッグがある。ハンドバッグにはシャネルのタグがついている。「ちょっと見るだけ」が15分で「これ包んで」に急変してしまった。15分でこの値段の物を! 衝動買い!
「主人の買い物に口を出さへんの! 放しなさい!」
うう……と、引き下がる。ショーウィンドウに映った自分の顔を見る。半泣きである。
しまった。
慌てて後ろを向く。会計中の女性たちの声。「本日は会員カードはお持ちですか?」シャネルもポイントカードってあるのか。「いや、今日は寄るだけのつもりやったから」せめてポイント貯めてよぅ……。
「では、こちら商品でございます」
笑顔を作り、振り向く。紙袋を受け取ろうとする。
「えっ……」
店員さんが納の顔を見上げ、目を見張る。
「ド、ドアまでお持ちいたしますのでっ」
ドアまで持ってきてくれるの!? なんで!?
増えた荷物を大事に抱え、納はまたメフィストの後ろを歩く。
溶け込むかと思っていたが、メフィストは銀座でも目立っている。
黒のゴシック調ドレス。シルクハット。自然と周囲が道を作り、そこを颯爽と歩く貴婦人。
生粋の貴族。
「ねえ、メフィスト」
「んー?」
「なんでメフィストはヒールの音がしないの?」
「え、気づいてたんか」
「うん」
ふむ、と何かを頭に入れる声。
「ハイヒールってな、歩きにくいねん」
「うん」
「せやから、いつも地面より何ミリか上を浮いて移動してんねよ。ぱっと見、歩いてるっぽく見えるけどな」
「……すごい」
記憶展開。
「一刀斎先生と初めて会ったときは、ヒールの音してたよね?」
「怒ってるときはほんまに歩くの。威嚇音になるやろ?」
「確かに」
ハイヒールはメフィスト・フェレスの軍靴。ルブタンが特に適している。
周囲はいつしか雰囲気を変え、オフィス街のような街並みに。
「あれ? 東京駅が見える」
「今いるの、丸の内のあたりやからな」
「そんなに近いの?」
「近いよ。仕事するとこ飲むとこ買うとこ、近い方が便利やん」
「そっかあ……」
えらいひとたちの徒歩範囲は、狭くて大きくてこわい。と、ビルを見上げる。
「キョロキョロせんで。ここ入るで」
証券会社。
「今度は、おとなしく、騒がないように」
「……はい」
ここ、貴賓室っていうものじゃないかな?
騒がないように、どころではない。緊張のあまり呼吸が止まりかけている。
メフィストは渡された書類をパラパラめくっている。
「あ、今日は何も買わんよ? 今の資産状況のチェックやからね」
納が緊張しているので気を使ってくれたんだろうが……。何も買わないのに、なんでコーヒー出してもらえるんだろう。と、ますます緊張する。
「七竈さん」
目の前の重役っぽいおじさんが、納に笑いかける。慌てて納もまた笑顔を作る。
「何かあったら、先ほどの名刺の番号にお電話ください。私につながりますので」
「はい」
「弊社に直接お電話いただけるのでしたら、フェレス様からのお問い合わせとお伝えいただければ助かります」
「はい」
返事をし、覚えてはいるが……。何かあったらの「何か」が何かわからない。
見終わった書類のファイルが納に渡される。
「お昼はお済みですか?」
おじさんが笑顔で問う。メフィストは「ああ、もうそんな時間か」と呟く。最上級悪魔には新陳代謝がない。食事は必要なものではないのだ。否。食事だけではない。衣食住のすべてが娯楽。
「せやな……」
納を見る。
「今日は天ぷら行こか」
「わかりました」
てっきりさっきのおじさんも一緒に食べるのだと思っていた。
が、京都のかがり火の家みたいな建物の前で、おじさんは車に乗って行ってしまった。
どうやら銀座に戻ってきたらしい、と納は判断する。え、近いじゃん。なんで送ってくれたの?
しかもここは民家ではないのか。メフィストのお友達の家だろうか。と、瓦を眺めている間に、メフィストは小さい木戸を開け、中に入ってしまった。
「ちゃんと着いてきぃ」
叱られてばっかりである。木戸の中はさっきの建物の敷地でなく、砂利を敷き詰めた中に飛び石がある細い道だった。奥にある建物の地下にメフィストは入っていく。隠れ家みたい。
地下入り口に小さいのれんがかかっている。文字も書いてあるが、崩し字なので読めない。
階段を下りるにつれ、いい匂いがしてくる。おなかがきゅうと鳴る。小さくぴちぴちという音。油が跳ねる音だ。
「らっしゃい。メフィストさん、久しぶりですね」
板前さんだー! 本物の板前さんだー!
前掛けをしたおばさんが座敷におしぼりを並べながら
「今日は男前をお連れですね」
と笑顔を上手に作った。納も笑顔を作ったが、かなり下手な出来になってしまう。
座った(掘りごたつだった)とたん、背筋をぞっと寒気が走る。
このお店、値段がどこにも書いてない!
こわいこわいこわいすごくこわいすごくすごくこわい。
金のことになると突然しっかりすると言われる納である。が、自分が払う気はまったくない。
女性相手と一緒に入った店なら会計別々で払える店に入るし、払えない店に相談なしで女性が入ったのなら抵抗なくおごってもらう。ましてや年上男性と一緒なら、財布を出そうとすらしない。
「意外とそういうとこある」と言われる。「だって払ってもらえるもん」と返す人生。おごられなれている。
おごられなれているからこそ、こわい。
高いものをおごってやったという自覚がある人間が、どれほど残酷に振る舞うかを知っている。
しかし、高いものをおごったてやったという自覚がなく高いものをおごってくれるひとは、手の届かない場所にいることが自然なひとだ。
「今日は何になさいます?」
「私はなんか適当にちょいちょいっと。この子はぎょうさん食べんねん」
「はい。苦手なものやアレルギーはあります?」
「ある?」
目を見張り、首を横に振る。そんなことを聞くお店あるんだ!?
「天丼と天茶、どっちにしましょう?」
「テンチャ……?」
首をかしげていると。
「じゃ、小さいサイズにして両方にしましょうか」
「そうして。今日は日本酒、何入ってる?」
「今日はいつも通りです。冷やですか?」
「獺祭を冷やで」
白子というものにポン酢をかけたものが運ばれてきて、ようやくさっきのやり取りが注文だったと知った。
他のお客さんも少しずつ入り始めるが、見るからにお金持ちの大人ばかりである。
向かいのテーブルに男女が座る。仕事の合間らしきサラリーマン。さらっと注文。「彼女、ベジタリアンなんだ」
納は白子がすべってつかめない。メフィストは品よくお酒を飲む。高級な大人。白子を落とした拍子に箸まで落としてしまう。慌てて拾おうとすると、店員さんがフォークを持ってきてくれる。赤面。現在、店内に異物混入。
「メフィスト……、あの……」
「ん?」
「僕を連れてて恥ずかしくない……?」
メフィストは切り子のグラスを置く。瑠璃色。
「そりゃ、恥ずかしいよ。わりとよく」
瑠璃色のグラス。メフィストの瞳も瑠璃色。
「でも、君が一所懸命なんわかってるから」
微笑。
「わかってるから、ええよ」
黒い隻眼が瑠璃色でいっぱいになった。
「メフィスト、僕、大人になりたい」
「うん?」
「大人になれるように、がんばる」
天ぷらが運ばれてきた。
<<空六六六ぷらす!>>
ユキ「中津さんの車に乗ったときの話なんですけどネ。珍しく中津さんが自分で運転してて、「自販機でコーヒー買ってきてくれるかい?」って聞いたんデス」
マリュースク「はい」
ユキ「納は「わかったー。ごちそうさま」ってもうおごってもらう前提で返事してテ。蛍はめんどくさそうにしながらも、缶の蓋開けてから渡してたんですヨ」
マリュースク「はあ」
ユキ「でも、荷物は全部納が持つんですよネ。蛍の買い物まで、自分から全部」
マリュースク「……性格の後見ができますね」
ユキ「後見は日本語が違うケド、それナ」
令和元年7月7日
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