弱虫
小林小五郎は臆病である。
平穏無事を願うあまり、冷血漢であることすら認められない。
勇敢には人並みに憧れるが、実物を目にすれば人並み以上にみじめになる。
しかし、この物語で彼はヒーローとなる。
クールでやさしい、ヒーローとなる。
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泥酔醒める。ひび割れた鏡をのぞき込む。
裸の男が立っている。三十路の体はTシャツの痕がくっきり出、青白い部分には骨が浮いている。
左胸を直視。嘔吐感。小林はトイレに駆け込んだ。
心臓の真上に刻まれた、666の文字。
胃の中のものを全部出す。トイレの壁にくずおれる。
「なんで、あんなことしちゃったかなあ……」
回答なし。仕方なく自力で回想する。
一週間前の昼下がりを、記憶はぐるぐる回転する。
「納君……あの……」
「何?」
ほとんど「なぁにー」に近い発音だ。しかし、目の前に座っているのは身長188センチの大男である。
しかしの連続。
大男と言い切るには、年齢が足りない。
図体のデカい少年である。
四月に出逢ったころは、折れそうに華奢な美少年だったのだが……。
ひと月と少し京都に行き。帰ってきたら、たくましく華麗な美青年になっていた。
結局どうでもうつくしい。筋肉をしっかりと纏った肉体だが、その顔立ちにむくつけた雰囲気はない。左目を医療用眼帯で隠し、その上からさらに眼鏡を隠す。それでも隠し切れない美貌の持ち主である。どこか異国的な華やかさ。
小林はどちらを問おうか迷った。
「ええと、そのね……」
当たり障りのない方を問うた。
「その姿勢、つらくない?」
七竈納はこてんと首を傾げた。
「つらくないよ」
「そっか……」
納の姿勢は、正座の脚を八の字にして、お尻をぺたんと地面につける座り方だ。グラビアアイドルがよくしているポーズである。
小林がやるとつらい。まず、そこまで脚が長くない。股関節も硬い。見目も苦しい。
だが、納がその姿勢をしているのは地べただ。一目で高級品とわかるスーツが砂だらけだ。ああ、もったいない。しかし、その言葉は出せない。小林は車除けのコンクリートを椅子替わりにしている。申し訳なくなる。
「でね、前のが擦り切れちゃったからね。蛍が作ってくれたんだけどね。ちゃんと男らしい?」
そう言って差し出されたブックカバーは、金太郎飴が散らばった模様だ。金太郎飴。判断が難しいチョイスである。そもそも、もう文庫本が挟んである。広げる。「どくとるマンボウ航海記」北杜夫。聞いたことがあるような、ないような。
「ねえ、男らしい?」
小林は答えにつまり、納の後方を見る。屈強な男たちがベンチの下敷きにされている。生きては……いる。
「ねえー、ねえー」
なんで彼はこんなに、男らしさにこだわるのだろう。男の方が優れていると信じているのならわかるが、彼が下僕として仕えているのは女性である。
メフィスト・フェレス。
京都から帰ってすぐ。とある重要な話を、とある違法なご職業の皆様としに行った彼女。その彼女に無礼な言葉を吐いた男の首が、七竈納によって刎ね飛ばされたニュース。現在、この十三番街でホットな話題だ。
おい、俺は見たんだよ。あの”気球男”ジョセフが「なめやがって、このブスアマ」って言った口が閉じきる前にもう飛び出してさ。白刃一閃スパーンだよ。マジだってマジマジ。マジで転がった首の口が、閉じ切ってなかったんだぜ。言い終わってねえんだよ。言い終わる前にスパーン、だよ。だがよ、マジマジマジにふるってるのはそれを止めたメフィスト・フェレスだよ。血まみれの刀の血を払い飛ばして、”次”に向かおうとするのにぴしゃりと
「ストップ! ステイ! ハウス!」
だぜ? その命令一つであの化け物、ピタッと動きを止めたんだよ。ありゃあ、あの女も化け物って噂はマジだ。化け物が化け物飼ってんだよ。おっそろしい。
「おっそろしいねえ……」
小林は納の後方を見つめる。
ベンチの下敷きになったボクサー崩れが気絶している。曰く、人を殴るのは好きだが減量は嫌いだ。プロだったころはジュースなんて夢のまた夢だった。それなのに、てめえはレモネードなんぞ売ってやがる! 死ね!
納がたまたま買いに来てなかったら、この超俺ルールで死んでいたかもしれない。だけど……。
「タマタマを蹴り潰すのに、あそこまで心理的抵抗がないのは……」
「男らしい?」
「いや……どうだろう」
男の方が躊躇する行為だと思う。しかも、その上にベンチを叩きつけてる。先に殺されかけたのは小林だが、やりすぎだとも思う小林である。
「ええと、ほら、よく五月人形に金太郎があるじゃないか。男の子の日だよ」
「そっかー。男らしいんなら、僕が持っててもヘンじゃないね!」
うん。もっとヘンなことしてるからね、今。ほら、あそこの二人連れ、すごくこっち見てる。地べたにグラドルポーズで座ってるの見てる。
小林の思考は方向を変える。こっちを見ている二人の服装。あれは神父とか牧師が着る服じゃないかな? おかしいな。まともな宗教関係者は決してこの街に入らないんだけど。なんでかは知らないけど。
金髪の巻き毛に碧眼の壮年。茶と灰の中間色の髪にパープルアイの青年。西洋人。
壮年が青年に話しかける。
「何をやっているんだろうね、アレ」
「気にすることはありません。そういう生業なんですよ」
生業……。
いやいや! 違いますよ!
胸中で叫んだが、神父だか牧師だかはさっさと行ってしまった。冗談じゃない。買春じゃない。変態的趣味じゃない。誤解だ。それでも聖職者か。ひどいぞ。
「どうしたのー?」
納は気にせず、レモネードを飲んでいる。小林はぐったりと車除けにくずおれる。
「いや……。別に。納君、それ、おいしい?」
「うん! すごくおいしい!」
笑顔。
顔だけで絢爛。
それ、ただの黄色くて甘い水なんだよ……。
さっきから言わないでおくことばかりの自分がつくづく嫌になる。
「ごちそうさまー」
「まいどありー」
紙コップを受け取り、ごみ袋に入れる。日が落ちるまでの速度はやや上がったが、時間だけは夕方といった雰囲気。まだ商売は始まったばかりだ。
「納君、そろそろ帰らなくて大丈夫? 蛍君が晩ごはん作ってくれてるんじゃない?」
「うん! 今日はお魚! 焼いたの!」
「焼き魚好きだねえ……」
ワゴンに積んだ氷の溶け具合が気になってきた。
その時
「ねえ、小林さん」
納が公園の反対側を指さす。
「あの人たち、さっきもいなかった?」
「ああ、うん。さっきから何度か見るね。新しく来た人かな」
若い男と、イスラム教の女性がかぶってるアレで全身を覆った女。男の伸ばしたひげは、長く手入れされていないようだ。全体的に薄汚れている。難民だろう。この街には多い。その中に滞在許可を持っている者は、一人もいない。
「なんか、メモみたいなのを何度も見てる。迷子かな?」
「そうかもしれないね」
若い男が何度もボロボロの紙片を見ている。女は祈るように両手をぎゅっと胸の上で組んでいる。二人とも一言も話さない。
ずきり、と胸が痛む。しかし、小林はアラビア語どころか英語もろくに話せない。彼らの行き先を知っているとも限らない。そもそも、彼らは道に迷ってなんかいないかもしれない。そうだったら恥ずかしい。危険な連中かもしれない。そうだったら自分の身が危ない。面倒ごとに巻き込まれるかもしれない。いや、話しかけた段階でもう面倒ごとだ。
「そっか。やっぱりそうかもしれないんだ」
オウム返しじみた確認をし、納はワイシャツのポケットに手を突っ込む。金属製のピルケースを取り出す。ごくん。錠剤を一粒、水なしで飲み込む。立ち上がる。すたすたと二人の元に向かう。
「え、ちょっと」
動揺。背中に声をかける。が、そのころにはもう話しかけている。まさか、語学にまで堪能なのか。
「メイアイ、ヘルプ、ユー」
驚。小林よりカタカナ英語である。たどたどしい。リスニングも苦手らしく。男が話すのを何度か「ソーリー。リピートプリーズ」と聞き返している。
こちらを振り向く。大声で手まで振って問う。
「小林さーん! オアシスってハラールサンドイッチのお店知ってるー?」
「し、知ってるけど」
場所も知らないで話しかけたのか! 恐れを知らなすぎる。こちらの驚きは気づかれない。納は笑顔で二人に言う。
「ヒー、イズ、ノウ、ディス、ショップ」
もぐもぐ。
夕焼けの気配が漂い始めた公園で、サンドイッチを頬張る。
「おいしいねー」
「うん……」
鶏肉に大量の野菜。それにたっぷりのスパイス。それらがぎゅうとパンに挟まれている。サンドイッチはおいしい。最後の一口を飲み込む。納はまだ半分も食べ終わっていない。口に詰め込みすぎるせいで、かなりこぼしている。
小林はワゴンをまた開店させる。「冷たいレモネードあります」黄色くて甘い水。酔っ払い向けのバッタモン。
オアシスは、小林の自宅近所にあった。
ビルの3階にあり、錆の浮いたらせん階段に看板がかかっているだけ。かなりわかりにくい立地である。同じ場所をぐるぐる巡るのもムリはない。
この街唯一のコンビニの、向かいにある店。
納はもう英語を使う気もなくして、「こっちこっちー」と手招きで道案内をして行った。
一番道にくわしい小林が、一番後ろである。女は何度も振り返って、様子をうかがうそぶりをする。
怖かったんだろうなあ……。
とてもよくわかる。小林自身がボクサー崩れと同じ場所にいるのが怖くて、一緒に連れて行ったのだから。
体調も悪いらしい。納の方を何度も見るが、足取りがかなり遅い。
脳内を探って適切な言葉を探し。本当に適切か確認し。大きく深呼吸して問う。
「ハウワーユー?」
彼女はしばらく黙って。
アラビア語で「何を言っているかわからないわ」という意味の音声を発した。
彼女の顔は隠されているが。
小林は自分の方が全身を隠してほしいと思っていた。
いつも素通りしていた看板。そこにマジックで書かれたアラビア語。
歓声。若い男は女の手を引き、らせん階段を駆け上った。
階段の途中で、店からも店主が飛び出してきた。吹き出すスパイスのいい香り。若い男そっくりの壮年。
女は店主に抱き着き、激しく泣いた。
そしてこちらに手を向けて、何事かをかすれ声で言い、また激しく泣いた。
店主は早口で何か言い。店に飛び込み。サンドイッチを2つ持ってきて、小林たちに渡した。
やたらに肩をどんどん叩かれた。
ずっと早口のアラビア語でまくしたてるように喋っているのだが、何を言っているのかはさっぱりわからなかった。
ただ、彼らは親子で、お互いに探しあっていたのだ。
公園に戻ると、ボクサー崩れはもういなかった。
小林はゴミ袋に、サンドイッチの包み紙を入れた。
太陽はやっと、濃いオレンジに変わった。
オレンジ色に染まった手のひらを見た。
別れ際、オアシスの娘は小林の手をぎゅっと握った。
お礼を言ったらしかった。
声はあまりにかすれていて、ほとんど声になっておらず。手のひらはカサカサで熱すぎた。
風邪だったのかもしれない。
小林は、自分がつくづく嫌になった。
納のことを、自分よりさらに憎らしく感じた。
<<空六六六ぷらす!>>
マリュースク「何故、七竈は私たちのことを呼び捨てにするのですか? それからいつの間にか数字がなくなっています」
ジョーイ「周囲の大人でって意味ね? メフィストは別として。ぷらす! の数字はかなり前からなくなってるのに今気づいたから、もうなしでいくみたいだ」
メフィスト「せやな。君ら、納に「お友達になってくれる?」って聞かれたとき、なんて答えた?」
マリュースク「私はあなたより目上です、だったような……」
ジョーイ「そこまでストレートではないけど、敬ってよ、的なことは言ったかな?」
メフィスト「せやろ。しかし、「さん」をつけられてる人の回答は」
小林『うーん、別にいいけど……』
中津『坊ちゃんが友だちか。いいねえ、俺も若返る」
コルメガ『いいよー。じゃ、まず僕のことは呼び捨てねー、あはは」
メフィスト「親しい大人の中で、そういう「大人の対応」をできる人は呼び捨てにしてへんのよ」
令和元年7月7日
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