水無月17
「ほーう、これはこれは」
ウィルヘルミナはしみじみと七竈納を眺める。
ベッドの上にぺたんと正座を崩して座り、腕にはブサイクなカッパのぬいぐるみを抱きしめている。
「ナイスなグラドルポーズだ、スイート」
「ちがう! 正座したら足がしびれるでしょ! いつでも戦いに移れるように座りやすい座り方をするの! 一刀斎先生に習ったの!」
「へえ。じゃあ、その座り方をその一刀斎先生もしていたのかい?」
「先生はいつもあぐら」
「だろうなあ」
むぅむぅと反論を考えているが、思いつかなかったらしい。箱の中のチョコレートに手を伸ばす。
京都から彼が帰って数日。この地下室書斎城にひょっこり顔を出してきた。土産を持ってきたのかと思ったら、そのブサイクなカッパを自慢しにきただけだった。しかしながら、わざわざ見せびらかしにきたブサイクをブサイクと単純に表現するのは作家の名折れである。「実にブサイク」と表現した。むくれた。
「でね、先生に質問があるの」
おっと、先走った。もう一つ用事があったらしい。
「なんだい? 神羅万象分け隔てなく隠しごとのないこの俺だ。存分に胸襟を開きたまえ」
こいつを信じて大丈夫か? という顔をしたな、とウィルヘルミナは観察する。お察しの通り大丈夫ではない。ネタにする気満々である。
「先生は小説家なんだよね?」
「いかにも」
「恋愛小説も書く?」
「書くともさ」
「恋愛についてくわしい?」
「さて、どうだろう。無知の知という言葉もある。逆にユリイカという言葉もある。だが、あえて言うならば。経験したことしか書けない小説家は少数派だ」
意味を考え込んでいる。いい加減なことを言った身としては心が躍る。
「んー、あのね、先生」
「なんだい、生徒」
「恋ってなあに?」
ほほう、と言って腕を組む。できれば脚も組みたいところだが、ベッドは取られてしまっているので諦める。
「衝動だよ、七竈ちゃん」
納ちゃんと呼んでいたが、今後は七竈ちゃんと呼ぼう。
「衝動?」
「イエス。その人を見ると、花束をあげたり、跪いたり、一緒にコーヒーを飲んだりしたくなる。あるいは服を引き裂いたり、ぐつぐつ煮込んで食べちゃったり、二度と会わないと失踪したりしたくなる。そういういろんな衝動さ」
カッパを抱きしめたままじーっと考えている。考えている。考えている。
「それはやっちゃだめなことも入ってない?」
「入ってるよ。その衝動を押しとどめて、その人が喜んでくれそうな行動をとる。そのコントロール作業が愛っていうもの」
またじーっと考えている。
ぺこりとおじぎ。
「ありがとうございました」
「ははは、よろしい。敬いたまえ!」
七竈納は三つ目のチョコレートをかじりだす。カカオでできたマリア像は、頭からぽきっと食べられてしまう。
「芥川龍之介を読んだことは?」
「地獄変の短編集一冊だけ」
「集英社文庫?」
「うん」
「巻末の著者略歴思い出せる?」
「うん」
紅茶の最後の一滴を舐める。
「芥川龍之介はカッパを愛し、追い詰められたときは歯車がつきまとった……」
カッパを指ではじく。
「親なし子っていうのは好みも似るのかな?」
七竈納は無言になる。
「いたたた、いたい、いたいって」
そしてぼすんぼすんウィルヘルミナを枕で殴る。慌てて逃げだしたウィルヘルミナに枕を投げつける。
「ウィルヘルミナ先生きらい!」
カッパをひっつかみ出ていく。ドアの音が反響する。
「きらい……きらいねえ」
にやにやしながらノートパソコンを開く。
一行目。
彼は殺人ドールから成長した。
「ウィルヘルミナ」
ぬっとノートパソコンから女が現れる。いや、正確にはノートパソコンを中心とする空間の裂け目。ゲヘナと呼ばれる異空間の出入り口を、今日はそこに開いたというだけだが。
「メフィストさん、今から大事なとこ入るんだけど」
「数分で済むから待ちなさい」
ゴシック調ドレスの女性が完全に姿を見せる。見かけだけは華奢。見かけだけは三十路に入りかけ。心身ともに最上級悪魔【鉄の女王】メフィスト・フェレス。
関西弁でないということは、まじめな話なんだろうなあ。とウィルヘルミナは面倒がる。
「おや、おねえさん、新しいブローチでございますな。よくお似合いでげすよ。鏡はお持ちで――」
「芥川龍之介は孤児ではない。生後すぐに母が発狂しただけだ」
肩をすくめる。
「おやおや、いじめっこに抗議しにママが出てくるのかい? 七竈ちゃんはいくつだい?」
「あの子の話だけではない」
頬杖をわざとつく。
「発狂した母は親に数えない。父はまず親として数えるという発想がない。子供らしからぬ発想だ。もうちょっと甘っちょろいきれいごとを言う年齢だよ、君は。本来なら」
瑠璃色の瞳から目をそらす。
「経験者しか出てこない発想だ」
芝居がけてため息を吐く。
「メフィストさん、感情や感性は鈍化しえるんだよ。元に戻すのが手間なだけでね。それでもこの街は執筆を可能とする刺激がある。別に悪かぁないじゃないか」
瑠璃色のは目をそらさない。
「麻酔は傷を癒さない。無駄に傷つけるのはやめたまえ」
「いやだと言ったら?」
メフィストもため息をつく。
「いやだと言えなくするのが戦争だ。私は二千年戦場を渡り歩いている。二千年、いやだをよろしゅうございますに変えさせてるんだよ。桁が違うぞ、歯向かうときは相手を選べ。話は終わりだ。許可する。君の命を綴れ」
一行目変更。
殺人ドールの次は、何に成長するや?
「なーんだろーねー?」
ウィルヘルミナは手元の千里レンズを弄ぶ。一見するとただの魚眼レンズだが、悪魔の間ではポピュラーな玩具だ。精度の極端に悪い千里眼になるレンズ。メフィスト・フェレスの贈り物。
「やーさしーねー?」
その深夜。明け方に近い時刻。
「これ、ベルゼブブのせいにできへんかな」
最上級悪魔にして【鉄の女王】たるメフィスト・フェレスは真面目に考えていた。
手にはコンビニのおにぎりがある。ツナマヨばかり6つ、ビニール袋に入っている。
時刻は数時前にさかのぼる。
リビングのソファで晩酌第一便を行っていたあの時間だ。
ユキの「あー、やっぱり凹みますネー」
という一言から始まった。
余談だが、メフィストは飲酒に関してはかなり寛容である。と、いうより未成年の飲酒が非合法になった感覚が薄い。喫煙に関しても実はそうである。単にたばこがおやつというのはあまりに貧しい食生活だと表立って許可しないだけだ。
よって、晩酌第一便はだいたいユキと蛍もご相伴にあずかっている(この言い回しを日本語の間違いと思わない)。納は22時近くになると眠くなるし、酒は舐めた程度で卒倒するので不参加だ。
蛍がつまみをこしらえるので、メフィストも少しありがたかったりする。「冷蔵庫にあるものでささっと」と。今日は冷ややっこにもずくとみょうがを乗せたものだ。
「そーねー。軽くねー」
いつになく素直にシェフが同意する。同時に一升瓶が空になっているのに気付く。一刀斎が馬鹿舌を発揮した酒なので、味見をしたら料理酒にしてしまうはずだったのだが……。
あえて肉体を劣化させないと、アルコールで酔わない悪魔の頑丈さが発揮されてしまったようだ。いや、日ごろから蛍もかなりいける口だし、ユキにいたっては鯨飲のたぐいなのは忘れる。今、みょうがを食べているから。民間信仰とは侮るものではない。
「納と仲良くなったと思ってたのニ―! 友だちとも思われてなかったデスヨー! だから私たちに黙って一人で行っちゃったんダー! 私たちのことなんて信頼してないんダー!」
「ほんっと! ほんっと! マジで! 土御門篝火殺す! てめえが死ぬから納が勝手に……マジ殺す!」
あの笑顔の裏にこんな感情がある。こういうところも、人間が好きな理由だ。
ふう、とメフィストは人差し指を立てる。
「君たち、何を保護者みたいなことを言っているのかね」
二人が目をぱちくりさせる。
「確かに納は幼い部分が多い。だが、君たちと同じ16歳だ。覚えておけ。君たちも16歳だ。君たちは保護者ではない。保護者はこの私だよ」
しばらく沈黙。
「……京都に行ってから毎日ごはん作ってくれるの蛍デスヨ?」
「うっ……。そこは共働き家庭と同じだ。家事分担は当然」
「……それ以外の家事、私と納でしてマスヨ? 蛍はそっちもしてマスヨ?」
「……いや……それはその……一番激務だから……しょうがないやん……蛍のお給料その分ちょっと高いし……」
「ユキ、叱られたからってそんな不貞腐れ方やめな。メフィストは忙しいんだからしょうがねえだろ」
逆にクリティカル!
逆にクリティカルだぞその流れは。家庭を顧みない親父がたまに早く帰ってきたと思ったら説教を始めたかのようではないか!
「ふっ、そ、そんなに私の手料理が食べたかったらそう言えばええのにー。いつでも作ったるのにー」
「えー、おいしくないじゃないデスカ」
「お前ね、せっかく作ってもらったもんにそういうこと言うんじゃないよ。おかずが一つできるためには、メフィストも含めいろんな人の力が必要なんだから」
だから逆にクリティカル!
ユキは素直に生きすぎだ! そしてなぜ素直になると攻撃力が上がるんだ蛍!
しかし、今どきの子供にはピンとこないだろう。メフィスト・フェレスは貴族であることが。それも上流貴族として二千年生きてきたのだ。料理など料理人を雇うのが当然であったし、それ以外の家事など召使や女中や奴隷がすべて行っていた。そもそも悪魔に飲食は必要ないのであるから――。
「納だって蛍が台所に行くと味見しに行くデスヨ」
「あれは味見って言って口開ければ一口もらえるって覚えちゃっただけ。別に必要なことじゃないの!」
待って待って、私、そんなんされたことない。
このようなやりとりの結果。
「ふむ。ならば明日の朝食で、大人の本気を見せてやろう。さあ、もう寝なさい!」
と宣言し、晩酌第二便第三便を一人行い。
さて、と米櫃を覗けば虫がわいていた。
これ以上の説明は不要であろう。
「……いや、あいつ蠅の王やしいけるんちゃう? いけるんちゃうかな、うん」
と、結論を出し、そーっと引き戸を開ける。わずかなガラス音ですら忌ま忌ましい。誰だこんな扉にしたのは。自分だ。
そのままそーっと玄関でヒールを脱ごうとして。
「うわっ」
思わず声を上げてしまった。
灯りひとつない真っ暗な玄関に、膝を抱えて座っているものがいる。
不気味なその影は顔を上げ。
「……メフィスト?」
「ああ、納か。びっくりするやん。電気くらいつけぇや」
ほっと安心した声がする。
「あ、いや、ちょっと目が覚めちゃっただけだから。びっくりさせてごめんね。おやすみ」
悪魔には飲食も睡眠も必要ない。だが、心臓だけは存在する。
「私を待ってた?」
「ちがうよ。ほんとうにたまたまだよ」
きっと、今の納は作り笑いをしているのだろう。不安を感じさせないように、心配させないように。
死なないように。
「納!」
行こうとする体を抱きしめる。
「本当のことを言ってごらん」
「僕は大丈夫だよ」
正面を向かせる。悪魔の視力では瞳が見える。真っ黒い海底のような瞳が見える。
「私は君より大丈夫だよ」
瞳を合わせる。
瑠璃色と黒色がまっすぐ結ばれる。
確かに納は幼い部分が多い。
幼いがため、崩れなくてはいけないものが多い。
今、ひとつ崩れた。
「一年生のころね、小学校のね、お母さんが夜中にどっか行っちゃったの。それきり帰ってこなかったの。朝になってお父さんだけ帰ってきて「お母さんはな、「今からあなたは死になさい」って声が聞こえて行ってしもたんや」って言ったの。それきりだったの。お父さんもよくいなくなったの。玄関で待ってることもあったし、探しに行くこともあったの。毎回酔っぱらってて、たまに死んじゃうとこで。メフィストと逢えてからはこんなことやってないよ。でも、かがり火も死んじゃって先生も死んじゃってユキと蛍は友だちになってくれて、いろんなことが頭をぐちゃぐちゃして、寝たいのに眠れなくて、それで、ごめんなさい」
彼の心臓の上には、メフィストの刻んだ印がある。
誰かに隷属することを望む者を、メフィストは人間と認めない。
「納、たとえばだけれど、私が君の下僕でなくなって、君だけが一方的に私の下僕になって――。それで、私の支配下におかれて、私から逃げ出すことも許されなくなって、私とずっと一緒に生きなきゃいけなくなったらどうする?」
「僕、そうなりたい。メフィストとずっと一緒にいたい」
「私の言うことをなんでも聞かないといけないよ」
「うん」
「私たちは対等でなくなるよ」
「うん」
「君は人間でなくなるよ」
「それでもいい」
ぎゅうとしがみつく、アンバランスに大きくなった体。
「人間じゃなくてもいい。僕、メフィストと離れたくない」
この子を人間とは認めない。
メフィストはその小さな頭をぎゅうとする。
心臓の音は聞こえているだろうか。
「じゃあ、今日はもう寝なさい。いろんなことがたくさんあったね。でも、大きくおなり。ゆっくりでもいい。私たちはずっと一緒だ」
心臓の音が聞こえている。
メフィストは紙片を指で弾く。彼女が普段絶対飲まない安酒をグラスに注ぐ。青い空のようなベチネアングラスが二つ。
傍らのベッドでは納がぐっすり眠っている。これが使用されたのは初めてである。こんなものはインテリアにすぎない。びろうどのベッドカバーはあっても掛布団はない。そのベッドカバーで丸くなって、ぐっすり眠りこけている。
次に紙片をつまみ上げる。
「悪魔に性欲は存在しない。そもそも私にそういう器官すらない。だがね、君の教え子は女の肌より母の腕の方が良いようだよ」
紙片を灰皿に入れ、マッチをする。
「ざまあないんじゃないか? え? 女ったらし」
紙片はチラチラ燃えていく。一行の「マカセタ」という走り書きとともに、燃えて、燃えて、昇っていく。
ええ、憎らしい。
彼女は餅粉を練り続けている。
水無月を作ろうとしているのだ。
三角のういろうのような生地に、甘いあずきをのせた菓子。
夏越の祓も終わったというのに、夏越の祓の菓子を作ろうとしているのだ。
作ろうとしているが作り方は知らない。
そもそも菓子作りなどほとんどしたことがない。
それなのに水無月を作ろうとしている。
怒っているのだ。
彼女の怒りを受けて、餅粉は黒く焦げてしまう。
それをゴミ箱に捨てる。
彼女は胸の中で怨嗟を吐き散らす。
ええ、憎らしい。
私は「お父ちゃん」に怒っているのではない。
土御門不知火という男に怒っているのだ。
我が子が死ぬと知っていれば、誰がこんな家に嫁いでくるものか。
しかもそれを私に教えず、勝手に死におって。
憎らしい、憎らしい。地獄で焼かれよ。
彼女は寝間着のままである。
病人のように浴衣に裸足という姿である。
上の息子が玄関に出ていく。
「お母んは……ちょっとまだ体の調子がな」
「すごく悪い?」
「いや……大したことあらへん」
「そう……」
ええ、憎らしい。
あの子供が私の息子の首を抱えてきたのだ。
哀れに思って情けをかけて、それでもおめおめ首を抱えてきたのだ。
その後などどうでもよい。
私は篝火の母なのだ。土御門の母ではない。
あの子はもう骨壺で、頭蓋骨のかけらになっている。
「陽炎お兄ちゃん、あの……」
「七竈納」
上の息子が土御門陽炎の言葉を使う。
「土御門に千年続いた因果。断ち切ったこと、感謝の極み。我ら土御門の一族は、最後の一人が絶えるまで、貴殿の命に従おう」
「……お兄ちゃん、僕はかがり火にもお兄ちゃんにもおばさんにも、たくさん助けてもらったんだよ。でも、かがり火を助けられなかったんだよ」
「それは別の話や。俺は土御門の火家当主。土御門陽炎やからな。なんかあったら言え。慣れてる」
「……うん」
「お母んには言うなよ」
「うん」
ええ、憎らしい。息子はそろって馬鹿息子。
私がなんにも知らないと思っておる。
誰の腹から生まれたつもりか。誰の腕で育ったつもりか。
陽炎。お前が救われぬ子供を救うため、あまたの親を殺戮していることなど、知らぬふりをしているに決まっている。
それのきっかけもお前だ七竈。
陽炎が生きる道をそれと選んだのは、お前が消えたからなのだ。
他のあまたの理由も知っている。けれど、みんなお前が悪いのだ。
男というのはどいつもこいつも、女を置いて戦に夢中になるか、戦に出る前に死んでしまう。
いつもいつもつまらぬ意地から、刃を振り回してそればかり。
「七竈、篝火の部屋にな、これ」
「歯車さん?」
「お前にやってくれってメモがあった」
「いいの?」
「ええんや」
ええ、憎らしい。
あの馬鹿息子。
骨壺に入った馬鹿息子。
お前が最期に助けを乞うたのが、この母であったなら、私はどれだけ救われただろう。
憎い。憎い。憎い。みんなみんなみんな憎い。
「もう、帰るんか?」
「うん。11時代の新幹線」
「気ぃつけてな」
刹那、彼女は木べらを放り出す。
鍋が床に落っこちる。振り向きもせず裸足で走る。
「七竈ちゃん!」
ぎゅうぎゅうとその体を抱きしめる。
若武者の体になっている。
「七竈ちゃん! 死んだらあかんよ! 絶対死んだらあかんよ!」
ええ、憎らしい。
なぜあのとき私は勇気を振り絞って。
少女のように小さいこの子を攫って閉じ込めて。
三番目の息子にしてしまわなかったのだ。
「君たち、考え違いをしてはいけない。料理というのは料理人の本気。大人全般の本気とは財力だ」
「はいはい、言い訳どーも」
「めっちゃ落とした痕がありますケド、酔ってました?」
「ええいうるさい! ありがたがらんか!」
「おはよう……なんで朝から喧嘩してるの?」
七月十六日
いろんなことがあったからいっぱい書いたらノートがおしまいになった。明日とんぼのえんぴつと金色で6B50ってかいてあるノート買いに行く。おやすみ。




