水無月15
千年生きた。
その間に土蜘蛛の感情面は擦り切れ、もはや悦楽以外ほとんど残っていない。
目の前の小僧と会話する気になってしまったのは、そのせいだ。
己以外に目を向けている存在を、己しか見えないようにする悦楽。
「貴様、なぜ土御門に俺がこだわると思う?」
脚がへし折れたくせに、刀を持ち直している。その眼が初めて、土蜘蛛以外見なくなる。
初めて?
わずかな違和感。
こいつは俺以外の何を見ていたのだ?
しかし、今は土蜘蛛以外見ていない。よって悦楽の前に違和感は排除される。
「優秀な一族だからだ。平安の世においては貴族であり、幾たびの戦乱に日の本が揺れようと陰陽寮を統べ続け、維新の動乱が起きれば新政府の隠し玉となり、太平洋戦争が終われば気象庁の星読みとなる。まあ、この体の男の兄のように暗殺陰陽師となる脱落者もいないこともないが……。おおむね、このおおむねは全てに近いおおむねだ、優秀な人間として生まれる血筋なのだ」
くっくと喉を鳴らす。
「痛快であろう。そのような優秀な血筋に、劣等な遺伝子が紛れ込むのだ。繁殖欲を抑えられぬなど、獣以下。え? たとえ我が子が俺の餌となる可能性がなくてもだ。繁殖欲性欲はただの欲だぞ? 不都合があれば止めるものだ。理性で性欲を止められぬなど、腹が減ったら他人の菜を奪って喰らうに等しい。俺は今の世でいう平等にしてやっているのだよ。優秀な血筋など不公平だ。貴様のようなものなら理解できるはずだ。不公平を平等に。素晴らしいことではないか。なあ?」
小僧はもう片方の手に、ひび割れから短刀を引き出す。
それを抜かずにつっかえ棒にして体を起こす。
土蜘蛛はその顔を見て意外に思う。
「貴様、なんだそのツラは!」
驚き、きょとんとした顔。土蜘蛛の悦楽を寄越さない顔。
「だって、もっと賢いと思ってたんだ」
「は、理解できなかっただけか。予想以上に愚劣だな貴様」
「うん、そうだけど」
短刀に力をこめて姿勢を維持。
「お前だってバカだよ」
カッと土蜘蛛の頭に血がのぼる。折って殺すなど手ぬるかった。四肢をもぎ、生きた内臓を喰らってやらねば。そうせねば。身の程を理解できぬ。
この哀れな虫けらを理解できぬ!
「恵まれた環境に産まれることはある。だけど」
いいや、口だ。口を糸で塞ぎ、哀訴を封じてから――。
「人格と技術は遺伝しない。優秀な血筋なんてない。優秀な人間が羨ましいなら、相手を貶めるより自分を鍛えればいい。その人だって優秀になるためになにかしらしてる。鍛える時間や量はその人より多いかもしれないけれど、ひがんで何もしないなら永遠に自分は0だ」
まっすぐに土蜘蛛を見つめる。
「八つ当たりは悪いことだ。僕もかがり火にしちゃったから、ずっと後悔してた。やっちゃだめなことなんだよ」
土蜘蛛は全身から糸を噴き出す。
「愚者愚者愚者愚者愚者アアアアッ! もう全部やめだ! 今すぐ死ねえッ!」
納は右手に刀、左手に短刀を構える。
糸が来る。
はっきりと見据える。
正面からくる。
かがり火の体はもう見えない。
糸しか見えない。
でも
「殺してやる」
報復しなければ、怒りは決して鎮まらない。
両足がやっと感覚を取り戻し、痛みを訴える。
しかし、いかなる苦痛も快楽も等しく前進を止める理由にならない。
「殺してやる」
瞬間、目の前が光で遮られる。
光、いや、星、五芒星。
「この時代ではお前のようなものをなんと呼ぶのだったか」
五芒星のさらに上空。
狩衣に烏帽子の男が立っている。
釣りあがった目と口角。白い顔。
「鬼、妖、物の怪、いやいや、違う」
ぴんと人差し指を立てる。
「怪物。うむ。そうだ。かいぶつだ。のう、かいぶつ。我々をいくら脅しても無駄だ。神というのはな、どいつもこいつもみぃんな脅すのに慣れているのだ。我々をその身に下ろしたくば、気に入られるようにふるまうことだ」
「ふざけるな! 俺を見ろ! 安倍晴明!」
土蜘蛛が怒鳴る。
この狩衣の男が安倍晴明か、と納は見上げる。晴明神社に祭られている神。安倍晴明。
「俺を見ろ安倍晴明! お前の一族を千年呪ったのはこの俺だ! お前の愛し子を殺し続けたのはこの土蜘蛛だ!」
土蜘蛛が怒鳴り続けている。まるで寂しい人みたいだ、と思う。
面倒気に安倍晴明は振り返る。
「ああ、うむ、それそれ。千年も一族を渡り歩いていたな、お前」
あっさりと言う。
「ゆえにもう飽きた。どうでもいい。それよりこのかいぶつ、な。呪い持ち……まあこれも見飽きた。面白いのはな、お前の精神が完全に非人間であることだ。のう、怪物、お前が土御門篝火と遊んでおったころ、我はずっと見ておったぞ。あのような育ちで、どうやってそんな「正しさ」を保てる? ふふふ、ふふふ」
広い袖で口元を隠す。
「お前が悪魔と契約しようとしていなかろうと、肉体が人の子であろうとなかろうと、お前はかいぶつなのだ。正しく、かいぶつなのだよ」
ふふ、ふふふ。
「我々が憎いか? 神が憎いか?」
納は即答する。
「憎いよ。僕を勝手にこの世に生み出して、勝手に見捨てて、僕の力で先生を殺すのを邪魔した」
ふふふははははは。
「おもしろい! 憎め、憎め! それでもお前は神から離れられぬ! お前は神が力を振るうために必要なのだ! 憑代よ! かいぶつよ! 我は貴様に下りよう! さあ、振るえ正義を! 正義とはことごとく暴力である!」
ユキは戻り橋の上に跳ね上がったモノを再度確認する。
「あれは納ですか……?」
マリュースクはその首根っこを引っ張る。
「なんであろうと。頭を引っ込めなさい」
伝令は完全に灰化し、今は制服しか残っていない。元の制服の持ち主は血だまりしか残っていない。
ユキとマリュースクはコンビニのレジ下に潜り込んでいる。
『マリュースク、君はあれが何なのか知ってるのかい?』
インカムからジョーイの声。
『知りません。ただ、危険のにおいがしているだけです』
『実は僕も感じ始めた。今、近づいたら死にそうな気がする。カンってヤツだ』
納の口で知らない男が喋る。
「我は魑魅魍魎の類が好きなのだ」
直後、納の声に変わる。
「僕が何であろうと、今はどうでもいい。土蜘蛛を殺すんだ」
土蜘蛛――。土御門篝火の姿をしているのに、一切のためらいがない。
ならば
あの戻り橋の上にいるモノは
白い狩衣から大きな白い狐尾を伸ばし、白い髪の中には狐の耳が生え、眼鏡も眼帯もなく、左目を潰された痕がはっきり見え。その両目の上下に細い金色の目があり。六つの眦に朱を引いた、あの生き物は。
「納ですね」
七竈納以外ありえない。
両足が折れていたはずなのに、今はすっくと立ちあがり。
正面に雲切丸を現し。
右手は柄に左手は鞘に。
刀身が姿を見せる。
抜かれた刀を振りかぶり。
「鏑木流抜刀術、推参」
振り下ろす。
五芒星が強く光る。
「流星……?」
流星。またの名をアマキツネ。空を疾る星。
星が、降る!
光と熱の塊が、雲間から、土蜘蛛めがけて降り注ぐ。
炸裂音か風切音かあるいは土蜘蛛の悲鳴か、すべての大音量がごじゃまぜになって無音に変わり。視界は光でくらむ。
視力を取り戻したとき、土御門篝火の肉体はどこにもなかった。
堀川から吹き飛ばされ、川沿いの公園で焼き潰されたのだろう。
クレーターの傍らに、ベンチだったらしき破片が散らばっていた。
納の体から、納ではないものの言葉が発せられた。
「神下ろし 陰陽ノ理」
とたん、ふいっと白い髪や尾や狩衣が抜けていった。
元の血みどろの道着姿に戻る。そのまま納は倒れていく。
「納!」
ユキはコンビニを飛び出す。反対側から蛍が走ってくるのが見える。
「納! 生きてる!?」
殺気はいまだに満ちている。
「うん。僕は生きてる。……あれ? ユキと蛍がなんでいるんだろう。……後でいいや。土蜘蛛は死んだよね?」
「死にました! それより、今のは」
ぱすん、と殺気が消える。
かってベンチがあったらしきところに、ころんと転がり。
「眠くなった。寝る。おやすみ」
安らかに寝息を立て始めた。
「ちょっと、今のは? 今のは!?」
「っていうか、こんなデカい図体担いで帰るのやダヨ!? 起きてヨー!」
シェルターに入らず、こちらの声にも気づかず。
七竈納という怪物は、くうくうくうくう眠ってしまった。
メフィスト・フェレスは電話をかける。かってから使い慣れたラテン語で。
「ご機嫌よう、法王。ローマの天気はどうだね」
相手の狼狽が少し治まるのを待つ。少しでいい。あえて少しだ。
「はは、こちらの用件をよくお察しだ。ありがたいよ。そう、ベルゼブブがとうとう動き出したわけだが……。私と友好的関係を築く気持ちはまだ湧かないか? ふむ。そうか。いやいや、怒ってなどいない。では」
ぐるりと周囲を見渡す。
死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。生存者。
わずかに呼吸するのが精いっぱいの生存者の胸倉をつかみ、強制的に立たせる。
「気の毒だが……ヴァチカンは再度の交渉をお望みだ」
銃口を向ける。生存者が両手を胸の前で組む。メフィストの口角が釣りあがり、犬歯が覗く。
「殉教したまえ。Amen.」
(一度何かを書きかけたが消しゴムで消した痕。その上に「何も書かない」とだけ書かれている)
≪空六六六ぷらす! ≫
納「ちがうよぅ。あのガソリン盗んでないもん。もらったのだもん」
ユキ「通りすがりの石油王でもいたト?」
納「ううん。ちゃんとガソリンスタンド行ってー、ドラム缶いっぱいあるとこから店員さんがいるとこまで運んでー、いくらですかって聞いたら「金はいらん! 助けてくれ!」って言ってくれたから、もらった」
ユキ「晴明神社着く途中で?」
納「うん。セルフじゃないとこがあったから。でもやっぱり高いものもらったから、ちゃんとお礼言いに行こうと思う」
ユキ「あの時助けていただいた闘牛用ホルスタインですっテ?」
2018/5/30初稿




