水無月12
「儂の言う通りにせよ」
七竈納は理解する。泣きそうに歪んでいた顔が、すっと静かになる。同時、彼は腕を伸ばす。
空間にひび割れが生ずる。
鏑木一刀斎の手元にも同じひび割れが生まれる。
このひび割れは時の狭間だと、メフィストは言っていた。廃棄された武器を狭間から引き出すのだと。
つまり、一度は存在し、さらに廃棄されねば引き出せへんのや。
まるで僕らみたいだ、と納は思う。先生も廃棄されたのだろうか、とも思う。
思うだけで思考はしない。
一刀斎先生から学んだことだ。
己を一振りの鋼とせよ。
相手がお前の敵だと解すれば、ブチ殺す以外のことを考えるな。
脳みそは如何にすれば殺せるかという、それのみに使え。
お前は生涯一番槍だ。将も策もお前の器ではない。
なれど、まっしぐらに敵に突っ込んでいくことただそれだけが、お前ほど向いている者はいない。
「人は払うたぞ」
人だけではない。
周囲の風景がまるで違う。
円形の空白に二人は対峙している。
半径約三メートル。
地面は乾いた土。
木々がぐるりと二人を閉じ込める。
木だけが元の三輪山と同じ木だ。
ぞわぞわ、ぞわぞわ、騒いでいる。
「これは先生が作ったのですか?」
一刀斎は口角をつり上げる。
「然様。メフィストの呪い持ちは、皆このように業を持つ。儂はこのように何重もの結界を張れる。泣こうがわめこうが出してやらん」
納は理解したことを確認する。
「僕は先生を殺さなくちゃだめなのですね」
「然様」
ひび割れから、同時に刀を引っ張り出す。
納の黒漆仕上げの鞘。縞皮菱巻。繁打の下緒。
一刀斎の青漆氷砕文石目地塗の鞘。燻皮菱巻。水色組糸の下緒。
鉄地・菊・蜻蛉文透鐔。
鉄地桔梗文鐔。
雲切丸。
備前長船清光。
なぜ殺さねばならないか。納は考えない。ただ、一刀斎先生の素振りから、何か腹をくくったことは勘づいていた。
かがり火の死を、一刀斎に伝えたその日から。
なぜ殺さねばならないか。納は考えない。
名乗りを上げる。一刀斎も同時に上げる。
「鏑木流抜刀術」
なぜ殺さねばならないかは、考えない。ただ、大事な人がまた死ぬのは悲しいと思う。
「推参」
思いも消える。
2を、正しく0に。
あってはならない数字を0に。
納の世界は0と1だ。2があってはならない。正しく0に。正しく。正しく。
最初に目玉を抉り潰す。
短刀を抜き、まっしぐらに目玉に向かう。
鋼の音。
一刀斎は刀身で払い上げる。
男なら金的を蹴り潰す。
片足を上げた瞬間。
「そして足払いをかける」
軸足に衝撃。無様なる転倒。背中に痛み。
上から覗きこむ一刀斎。
「相手が倒れたら、上から刺す」
悲鳴。自分が上げたもの。腹部に突き刺さった師の刃。
これを回されれば血管に空気が入り、死ぬ。
左手で刃を掴む。裂ける皮膚。肉。
骨に到達する前に、刃を腹部から抜く。
そのまま、這うように走る。
間合いから逃れる。
荒い息。己のもののみ。
左手、使用不可能化。
「殺しにこんか!」
一刀斎の怒声。
「お前が本気で殺しにくれば、こんな程度で臆するものか!」
殺しにいかねばならない。
一刀斎先生が大好きだからといって。
お前には怒りが足りん。侮辱を受ければ拳を振るえ。慰みものとなるなら追剥となれ。お前の魂をいたぶるものはことごとく、怒れ、殴れ、殺せ。誰でも殺せ。一兵卒の銃剣よ。女王の振るう弾丸よ。殺せと解せばすぐに斬れ。お前の魂はお前のものだ。
殺さねばならないと言われれば、殺さねばならない。そうしないと、死ぬ。
「まだ、本気にならんか。まさか、殺さずして生きて帰れるつもりではあるまい」
諭す言葉。直後。
剣気!
一刀斎は納刀する。
あれは……!
「儂にしかできんこと」と一度だけ見せてもらった……。
居合抜きの構え。
抜刀。
記憶及び意識の消失。
光。太陽光。目を開く。激痛。全身から滴る血。
あまりに疾く。
あまりにたくさんのことをするため。
脳が処理しきれなくなる!
脳が動いたときには、既に倒れている。伏した地に、思い出したように血が噴き出す。
一刀斎は元の姿勢に戻っている。
前のときと同じ。自然な姿勢で。
「気絶もせんか」
見下ろす男。
「憐れなヤツじゃ」
ぐらぐらと起き上がる。
痛い。痛い。痛い。
「先生」
納は、一刀斎の瞳を見る。
よく見ると、少し青が入っているように見える。青色……瑠璃色? メフィストの瞳の破片みたいだ。
そうだ。呼吸をしなくちゃ、生きられない。
「もう一度、お願いします」
青が濃くなる。
「これは稽古ではない」
「わかっています」
「もう一度喰らえば死ぬぞ」
納の真っ黒い瞳。ぶれない。
「生きます」
一刀斎の表情が変わる。
挑発が消え、嘲笑が消え、訓導が消え。
「ならば」
再びの構え。
「儂はお前を叩っ斬る」
疾。
裏鬼門、乱菊、夕霞、露霞、龍門、十字路、弱筋、大門、朝霞、星、鬼門、禁穴、八葉、五輪月影、五輪稲妻、左谷、右谷。
計十七か所の急所が再び斬られる。
地面のざらざらとした感触。
呼吸すら激痛。
なんだか膝がぬめぬめする。
自らの血でできた血溜まりと気づく。
打刀の鞘を杖がわりにしようとしたが、なぜか握れない。そういえば左手はもう使えないのだった。肉の下、骨も覗いている。
もうどこが痛いのかわからないほどに痛いのだ。
肉体が叫ぶ、もうやめてくれ!
精神が訴える。
「せんせ……え……もう……いっか……い」
一刀斎は返事をしない。
「せん……せえ……」
右手の刀を地面に突き刺し、震えながら立ち上がる。
立ち上がった瞬間、大きく血を吐く。
まずいや。
やっとおいしく作れるようになった味噌汁を思い出す。
血はまずい。
「生きたいか」
頷く。その仕草だけでまた血を吐く。
一刀斎も頷く。
それだけで充分。
鯉口が切られる。
裏鬼門、乱菊、夕霞、露霞、龍門、十字路、弱筋、大門、朝霞、星、鬼門。
停止。
「納……」
一刀斎が微笑む。
「お前、どうやった?」
呼吸が苦しい。
「見てた……ので、覚えました」
腹部に刃が突き刺さっている。
先生の腹部に、短刀を突き刺している。
「貫け。お前は儂を殺さねばならん」
そうだ。殺さねばならない。
納は先生の瞳を見る。
瑠璃色がチカチカ点滅している。
納に思考が戻りつつある。
僕はなぜ先生を殺すのですか?
先生はいつも乱暴で、女たらしで、ぎゅうってしても怒らなくて、でもすぐ「黙っとれ」って面倒になって、僕に怒れって言ってくれて。
「せんせえ、だいすきなのに」
「それがどうした」
パリンと結界が砕けた。
森森森。
森ばかりの場所に変わる。
【それ】は森を見下ろし、さらに師弟を見下ろした。
巨大な白蛇。
おそろしいもの。
白蛇は繰り返す。
「それがどうした」
納は白蛇を見つめる。目を大きく見開き、まばたきもせず。問う。
「あなたは……三輪山?」
白蛇は答える。
「いかにも吾は三輪山。すなわち神なり。古き神なり。屈せよ」
三輪山。近づくにつれて怖くなった。今、わかった。三輪山の山そのものが神様だったんだ。
短刀から血が滴る。
「僕は……先生を殺したくない……」
「ならぬ!」
三輪山が猛る。
「知ってるよ! でも、先生まで亡くしたくない!」
「汝の心などわれわれは知らぬ! 汝が殺さねばならぬと解せば、われわれは降りられるのだ。汝は人間ではない。われわれが降りるためのものだ。われわれのものだ」
納は懇願する。
「やめて……やめてよ……」
三輪山が入ってくる。
納の体は容れ物らしくなる。
肌が硬く強張り。白き鱗となる。びっしりと鱗に覆われる。落ちた髪が銀に光る。
異形。おそろしい。化け物の姿。
叫。
「殺すのなら僕が殺すの! お願い、やめてえッ!」
切っ先から光が破裂する。
一刀斎もろとも、周囲一体を爆砕する。
ふふふ。
ははは。
あちこちから笑い声が響く。
憑代が、起きよったぞ。
三輪山よ、流石々々。
我らはこれで降りられようぞ。
ふふふ。
ははは。
神下ろしじゃ。
「先生……このこと……知ってて……」
鱗まみれの化け物に、先生は微笑む。
肩から上しか残っていない先生。
それでも、微笑む。
「儂を誰だと思っておる」
その頬に触れる。
「このために、先生は殺されたの……?」
微笑みがいつもの粗暴な笑みに変わる。
「やかましい。どっかに行っとれ」
「だって!」
一喝。
「阿呆! カッコよく死なせろ!」
はっとする。
先生を大事に寝かせる。
「ありがとうございました」
涙を飲み込む。
「先生、さよなら」
化け物は、憑代は、異形は、怪物は、七竈納は、森に入っていく。
ぱらぱらと鱗が落ちていく。
ふふふ。
ははは。
神々の笑い声が響く。
絶叫。
「笑うなッ!」
吠える。
「お前たちなんか大嫌いだ! 卑怯なことをしてやる、利用してやる、利用し尽くして殺してやるッ!」
納は哭く。
神々は笑う。
結界が壊れていく。
「時よ止まれ」
黒いドレスの悪魔が現れる。
「残念だったな、メフィスト。せっかく裏切り者を殺しに来たのにのう」
メフィスト・フェレスは嘆息する。
「本当に残念だよ、鏑木一刀斎」
(白紙)




