水無月11
「56、57、58、59、50、51」
「戻っておるぞ」
ハっと気付く。
体の下には汗の水たまりができている。
納は顔を上げる。
「先生」
鏑木一刀斎は納を見下ろす。
七竈納は逆立ちと片手腕立て伏せを同時にしている。垂直のまま見上げる姿勢である。
「今日はもう帰れ」
「でも」
「儂の言う通りにせよと何度言わせる」
納は渋々床に下りる。
足に括り付けた鉄板を外す。20キロの鉄がごとりと鳴る。
「おい」
「はい」
一刀斎はまだ見下ろしている。
「髪を切ってこい」
「……髪?」
「視界が悪い」
腕を組んだまま、不器用な調子で言う。
「敵ができたな」
「はい」
納は肯定する。
一刀斎先生は背を向ける。
ユキ・クリコワはハサミの音を聞く。
じょきん、じょきん、じょきん。
「お前、癖が多いね」
「そう?」
「わりと。はい、おしまい」
妙高蛍はバスタオルを剥がす。
「ありがとう」
「どーも」
長身を見送る。
「蛍、髪切るの上手いデスネ」
「お上手ですこと」
「私も今度切ってくだサイ」
「お前は美容院行け」
「女の子だかラ?」
「女の子だから」
「でも、あの美容院はもう行かないデス」
ユキには愛想よくしていた美容院。
嫌がる納を連れて行ったら、「養護学校の子?」と。
「確かにあの頃は表情もなかったし、喋り方も棒読みみたいだっタ」
怒らないで、ユキ。しょうがないんだよ。僕みたいなのはいちゃダメなところがいっぱいあるんだよ。
「確かに私たちはあの美容院がきっかけで、メフィストを問い詰めタ。でも、ゆるさない」
白い髪も少しだけ伸びた。
「潰れるいいです」
蛍は無言で、バスタオルをゴミ袋に放り込んだ。
その奇妙な二人を尾けたのは、完全なる偶然であった。
しかし、野々原傑の人生は、たったそれだけで大きく転換する。
見つけたのはJR奈良駅バス停。市内循環から降りたとき。
和服の男が二人、ベンチに座っていた。手元の何かをのぞき込んでいる。
最初に思ったのは、きれいな男たちだという感想。
三十路半ばほどの男の方は、髪を腰まで伸ばしており、それが日に透けて金色と錯覚させる。青い着物。袴姿だ。紅葉を散らした薄いショールをしている。声をきかねば女と間違える。
連れは男というより少年である。校則通りのような黒髪。しかし、癖があり量も多い。道着姿。その下の筋肉質な体が見てとれる。眼鏡の下、左目に医療用眼帯。
次の感情は不快感。
学校をサボらせるなら、もっと目立たない恰好をすればよいのに。平日の昼間からぶらぶらしている大人と、そんな人間と付き合いがある高校生。
ろくなものではない。
道行く人もたびたび振り返っている。
ふいにスマホが鳴る。
発信者「奈良教育大学学生課」
急ぎではないと無視する。留守電に用件が入る。やはり急ぎではない。
「お前、えらく静かじゃな」
慌てて顔を上げる。話しかけられたのは自分ではなかった。ベンチの少年の方だ。
「いつもうるさいですか?」
「うむ」
「黙った方がいいですか?」
「今、黙れと言っているわけではない」
二人の手元にあるのが路線図だと気付く。
不快感が消える。
外国人観光客か。どこの国かはわからないが、少年の方の言葉遣いが幼すぎる。なんだ。それなら文句はない。
この段階では野々原に尾行の意思はなかった。
しかし、乗る電車は同じだった。
普通 和歌山行き。2両しかない。古い車体。いまだに窓が開けられる車体。
がらがらにもかかわらず、二人は立っている。
男は少年に路線図を見せる。
「京阪で京橋まで乗って、京橋で乗り換えて鶴橋から近鉄に乗った」
「はい」
この二人の関係が気になりだした。男の口調は教え諭すようであり、甘やかすようでもあった。
「学園前という駅は覚えているか?」
「はい」
「そこから近鉄奈良駅で降りて、三条通りを歩いて、今は三輪駅に向かっている」
「はい」
「お前が生まれたのはそのあたりのどこかじゃ」
空気がぶるりと震えた。
「なんで……わかるんですか?」
先生。そういわれて男は視線を窓の外に移した。
「生まれた土地と、ガキのころ共に暮らした者。それらの訛りはなかなか消えぬ」
少年は黙っている。
「アクセントは関西。だが、ゆるゆるとした速度で話す。語尾を若干伸ばす癖がある。しかし、発音ははっきりしている。その訛りはそのあたりのもの」
少年も窓の外を見る。
「お前は確かに生まれた。誰も覚えていなくとも、お前は生まれた。今日までずっと生きてきた」
少年はぎゅっと”先生”の手を握った。
その右手は握り返された。
「お前は確かにやかましい。だが、その言葉は悪くない」
三輪駅、三輪駅、とアナウンスが流れた。
二人を追って電車を降りる。偶然からくる衝動的行動。
「少し歩くか」
「はい」
少年は”先生”の後を、とことこついていく。
”先生”の背中しか見ないで歩いている。
商店街の人はまばらである。
”先生”は店の前で止まる。
「お前、甘いものが好きじゃったな」
「あ、はい、でも、先生は」
きらい、という終いまで聞かず、”先生”は店に入る。「みむろ最中」ののれん。「自動ドア故障中」の貼り紙。わずかにドアを開ける。
中年増の店員が最中を2つ渡している。
「お父さん?」
少年は”先生”の方を見る。
「だったら良かったか?」
少年の大きな呼吸。
しかし、返答の前に”先生”は後ろのベンチに座ってしまう。
「食え」
「いただきます」
少年は両手で大事そうに最中をかじっている。
”先生”はかっかっと二口で飲み込んでしまう。
「そう悪くもないの」
もぐもぐと頬張ったまま、少年は頷く。
どちらも奪われまいという食べ方をしているように見えた。
少年がやっと食べ終える。
二人は大神神社の方へ歩いていく。
野々原はずるずるついていく。
三輪山が近づく。大神神社のご神体はこの三輪山である。
鳥居をくぐる直前、少年は「先生、ざわざわする」と言った。
「ならぬ」
”先生”は少年の手をぐいと引き、鳥居をくぐる。
参道の真ん中を歩いていく。野鳥が甲高い声を立てる。何羽も何羽も。参拝客はそこそいるのに、鳥の声だけがやたら大きい。
あちこちの社に酒が供えてある。老人がそのうちの1つに大きく礼をする。
少年は怯えた様子で何度も立ち止まろうとする。そのたび、”先生”は無言でぐいと手を引く。
磐座の前にきたとき、少年はとうとう「先生」と泣き声に近い声を上げる。
しかし、振り返った”先生”は、厳しく告げる。
「ならぬ」
三輪山が近づいてくる。
あの狭井神社向こうはもう三輪山だ。
「先生、こわい、いやだよぅ」
少年は懇願する。
「ならぬ。お前は」
その先を聞いた瞬間、野々原は走り出した。
逃げ出した。
走って走って逃げて逃げて、どこをどう来たのかわからぬまま、自宅の玄関につっぷしていた。
「傑! どうしたん!」
母親の声。
驚いた顔でこちらを見ている。
野々原はその丸々した腕にすがりついた。
「俺、もう教員なんかならへん。やめる。できへん」
「どうしたん急に、なあ、どうしたん」
感情のまま泣き叫ぶ。
「人にものを教えるいうんが、どういうことかわかったんや。あんなんできへん。俺は子供の重みなんか知らんかったんや」
先生は告げたのだ。
「お前は――」
日記には記載されていないこと。
「僕は先生を殺したかった」
2018/5/30




