水無月9.5
私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑の色に
そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味しました。
(中原中也 羊の歌より)
七竈納はノートを広げてぼんやりしている。
蛍の寝息が聞こえる。その他にマンションの前を通る靴音(しおれたようなヒールの音)や、エアコンが湿気を吸い込む音(蛍は暑さより湿気が苦手)や、台所の冷蔵庫の音(晩ごはんの小鯵を甘辛く炊いたのが入ったまま)や、とにかく色々聞こえる。
共用の自室の机。カシオの時計が1時を指す。時計のベルトをいじくってやめる。一昨日の夕方から眠って、起きたら昨日の20時だったのだから、丸一日以上眠っていたことになる。「それは才能だぜ」とジョーイに言われた。机の上には弾丸の部品がある。蛍の弾丸はハンドメイドでなくてはダメらしい。蛍はジョーイによくツンケンする。一刀斎先生が「おぬしは楽じゃな」と言っていた。ジョーイは「これじゃ苦労が足りないよ」と答えていた。マリュースクには来ていることを口止めされている。なぜかは知らない。ユキが家庭内での学習をしていることは伝えた。「読み書きですか」と聞かれたので「もうちょっと難しいのです」と答えた。
ノートは日記帳である。
文房具屋にはたくさん商品があったので、納は蛍とユキに「選んで」と頼んだ。
蛍は嬉し気に選んでくれようとしたけれど、ユキは「それは納が自分で選ばなくちゃダメです」と止めてしまった。
そんなわけで一番安いノートとシャーペンを買った。蛍とユキが「それでいいの?」と聞いたので「ダメだったら別のにする」と答えたら二人とも黙ってしまった。
他にも黒い背表紙に金色の6B50という箔がおされたノートや、小学生のころ「子供らしいのにしろ」と買ってもらえなかったトンボのえんぴつや、ボールペンの替え芯や、薄墨の筆ペンの位置まで。納は写真のように覚えている。
この写真から上手く一部を抜き取れば、カッコいい日記になるかもしれないと思う。けれども、納の日記は「アルジャーノンに花束を」のチャーリィがばかなころにそっくりだ。
賢くなりたいなあ、といつものように考える。
一部を抜き取るどころか、納の写真はぜんぜんいうことをきかない。勝手に頭の中で氾濫する。
納は今、氾濫する写真を見ている。日記は空白である。
土御門かがり火は英雄だ。
ギリシャ神話で英雄とは、神様と人間の間に生まれた子という意味を持つ。
そういう意味も含めて、ヒーローという意味も籠めて、かがり火は納の中で英雄であり続けている。
京都に住み始めた8つ。3月で9つの納は、天国に来たと思っていた。神様が愛してくれるようになったと。
父親が毎日仕事に行く。だから生きるのが後ろめたくない。おばさんが毎日晩ごはんをくれる。だから飢え死にすることもない。
そして何より、学校に行かなくていい。
学校に行くと、まず朝の会でみんなで飛ぶ大きな縄跳びを納が飛べなかったと、クラスが怒り狂う。休み時間は先生にドッヂボールに連行されて「七竈集中狙い!」とボールで痛めつけられる。
一日中そんな風。そこに納がいるというだけで、なぜかみんなを怒らせる。
うるさいし、こわいし、痛いし、給食以外いいことなんか何もない。
給食は確かに惜しい。でも、この天国では晩ごはんがもらえるから、やっぱり行かない方がいい。
病院に行ってから、父親は「死んでもいいから学校へ行け」という態度をころりと変えた。
何か「しえんがっきゅう」がどうとかで先生と喧嘩をしたからだ。何の喧嘩かはよくわからないけれど、納は自分が劣等種であることをきちんと理解していたので、その「どうしようもない子が行くとこ」に入るべきなんだろうと思う。
でも、学校自体行かなくてよいのなら、それも関係ない。
天国だ。
しかし、みんなが学校にいる時間におばさんに見つからないようにしないといけない。
納の徘徊癖はそのころから始まった。
とにかく遠くまで歩く。疲れたらその場に座る。眠れそうな場所があれば眠る。起きたら帰る。目的地はない。遠くへ。遠くへ。遠くへ行けば行くほど、空気が澄んでいく。
英雄とはそんな初夏の始めに出逢った。
黒板に描かれるような星の神社。そこで眠っていたら、ランドセルを背負った子に起こされた。
おばさんに小学生になったのだから、名字を名乗りなさいと言われていたので「七竈」と名乗ったのに、なぜかかがり火は下の名前を名乗った。
変なの、と思ったが、すぐにどうでもよくなった。
かがり火がお友達になってくれたのだ。何度作りなさいと言われてもできなかったのに。かがり火は友達だと言ってくれた。その日から、かがり火は納の英雄だ。
かがり火はいつもやさしかった。初めて「友達の家」というものに行った。おやつを自分の分まで半分くれた。何より、叩いたり怒鳴ったりしなかった。それどころか、頭を撫でたりしてくれた。公園でたんぽぽの花輪をくれたので、納はありがたく持ち帰って食べた。
でも、やっぱり時々変なことを言った。
よく「糸が、糸が」と納から何かを払いのけようとした。
「大人になったら結婚してくれる?」と言われたときは、「なれないよ」と答えたけれど「うちでずっと一緒に暮らそう」というのはあまりに好条件で。
男同士で結婚できないことは知っていたが、内縁関係というものも知っていた。
だから「結婚する」と答えた。
翌日、かがり火は鉄錆色のリボンをくれた。近所のリボン屋で買ったそうだ。それを首に巻くとなんだかほっとした。寝るとき以外はちょっとだけ体をきゅっと締め付けると落ち着くと知った。
かがり火といるとおなかの中が暖かくなる。
英雄がいる。もっと天国になるはずだった。
なのに、逆に天国はひび割れていった。
そのひびは、かがり火が母に口答えをしたり、宿題をめんどうがったり、毎年夏休みに行く種子島の親戚の話をきいたり、そういうときにぴしりぴしりと入っていった。
そしてあの日、思い知らされた。「かがり火なんてきらい!」衝動的に叫んだ日、納は声を上げて泣けなかった。声を殺さねば、涙をこらえねば、英雄だって死んでしまうと。
神様は、納のことなんて忘れていた。
どれだけの距離走っていられたのかはわからない。息はすっかり上がっていた。かがり火なら母に抱きしめてもらえるのだと思った。無性にかがり火に謝りたかった。許してほしかった。母屋の扉を「こんにちは」と開けた瞬間、おじさんの怒鳴り声がした。何を言ってるのかわからなかった。おばさんも聞き取れないほどの大声を上げ、納のリボンをむしり取った。鉄錆色のリボンは、泥の中に落ちていった。拾いに行こうとした。しかし、父親の「そんならもう死んだるわ!」という悲鳴が響き渡った。慌てて父親に駆け寄った。死なないようにしないと死んでしまうから。手をぐいと引かれた。そのまま、納は父に手を引かれ、ひび割れた天国から電車に乗った。あのリボンを探しに行ったけれど、あの蔵も離れも家もマンションに変わっていた。
それから1年ほど、どこに住んでいたのかはわからない。どこに行ってもすぐに引っ越したからだ。
どこへ行ってもどこにも行けない納の灯りは、英雄との結婚の約束だった。
2018/5/30初稿




