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空六六六  作者: 浮草堂美奈
第二章 修行ノ語リ
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水無月8

 空気はしんなり湿っていて、うすら寒い日だ。季節悪し。

 下の弟は机に向かい、数字やらなにやらごちゃごちゃ書いている。

 机の下には足りない子供が、歯車さんを回している。

 下の弟が宿題を終わらせぬうちは、足りない子供は決して遊べと言わぬ。分をわきまえたことだ。それは猫の特権である。

 おれもたいがい年寄りなので、下の弟の仕事が雑なのに気付いている。足りない子供はちっとも気づかぬ。二人とも阿呆である。

 歯車さんというのは、下の弟が母者の兄からもらった……いや、父だったか? 思い出せんがどうでもよい。とにかく、産まれた祝いにもらったものだ。

 木製の枠の中に歯車が二つ組み込まれていて、ハンドルを回せばその二つがくるくる回るおもちゃである。母者の兄だか父だかが遠い海の上でこしらえたそうだ。

 赤ん坊ならば喜ぶだろうが、16にもなってそんなものに夢中になっているのだから、この子供は本当に足りない子供だ。

 歯車は回る。くるくるくるくる。噛み合って噛み合って離れて離れて。

 昔と同じ光景だ。

 歯車さんも机も変わらぬ。阿呆な二人の図体が大きくなっただけだ。おれはうとうと目を閉じる。あの頃のように若くはないのだ。


 下の弟が足りない子供を拾ってきたのは、春の暖かい日だった。

 いきなりおれの尻尾を握ったものだから、思いっきりうなってやったものだ。えらく怯えて神妙に謝ったので許してやったが。

 どこで拾ってきたのか、足りない子供はいつもびくびくしていた。自分で拾ってきたくせに下の弟は毎日捨ててしまい。そして翌日の昼過ぎにまた拾ってくるのだった。

 下の弟は足りない子供を懐かせようと、いろいろ小賢しい知恵を働かせていた。労は報われ、足りない子供は少しずつ少しずつ懐いていった。しかしながら、雌だと見誤ってのご機嫌とりなのだから、滑稽極まりないことだ。

 梅に青い実がつき始めたころ、下の弟はこそこそ帰ってきて、えんじのリボンを取り出した。それを足りない子供におどおど渡して、「大人になったら結婚してください」と言った。

 足りない子供は不思議そうな顔をして、「できないよ」と答えた。下の弟はますますおどおどしながら、「結婚したらここでずっと一緒やで」となおもかき口説いた。本人は恰好かっこうをつけているつもりなのが見て取れるだけに、一層必死さが露見していた。

 これが雌に求愛しているなら、おれも少しは応援してやったものだが。

 実際は雄に間違えて求愛していて、雄に当たり前に断られているのだから、おれも呆れて昼寝に戻った。

 しかし、足りない子供はそれきりびくびくしなくなり、リボンを首に巻いて毎日拾われてくるようになった。

 この家で暮らすのは良いと思ったらしい。母者の餌に釣られたのやもしれぬが、一応は下の弟を少し見直してやったものだ。

 

「なんや、来とったんか」

 上の弟の白々しい声で、おれはうたた寝から起こされた。敬老精神が足りんヤツだ。足りない子供が来ているときしか、二階には上がって来ぬくせに。わざわざ年寄りを起こす不届き者め、反省せい。

「陽炎お兄ちゃん、おかえりなさい」

 足りない子供の言葉が終わらぬうちに、ああと返事かどうかはっきりせぬ声を出して行ってしまう。

 この不愛想な上の弟に、足りない子供はえらく懐いていた。おれの腕(当時はかなり逞しい青年だった)より分厚い本を借り、己の腕にも余る辞書を引いて読みふけり、それでもわからぬことを聞きに行った。

 あんまりそうして袖にするので、下の弟は悋気りんきを起こした。

 ううむ、もう筋はあらかたぼんやりしている。とにかく、下の弟は足りない子供を怖がらせようと、「お蔵のおばけ」の話をした。

「昔、お蔵に閉じ込められてしもたおじさんがな。何十年もお蔵にいるうちにおばけになってしもて。それから何百年もお蔵の中で、子供が入ってくるのを待ってるんや」

「おばけに見つかったらどうなっちゃうの?」

「ずっと出してもらえへんねん。おばけが扉に鍵をかけて何百年も真っ暗なお蔵におらなあかんようになる。何百年も何百年もずっとずっと」

 あの後、騒動ははっきりと覚えている。

 足りない子供の息がひゅうひゅうとと荒くか細くなり、両目を見開き、畳の上で胸を押さえて悶え苦しむ。

 下の弟は泡を食って母者を呼ぶ。

「おかん、糸が、糸が!」

 母者はバタバタ上がってきて、「過呼吸や」と確認するように呟いた。

 そして足りない子供をぎゅうと抱きしめ「大丈夫やで。大きく息を吸ってみい、吐いてみい、怖いことあらへんよ。ほらまた吸ってみい、吐いてみい」とささやき続けた。

 息はだんだん落ち着いてきて、最後にはうつらうつらしたものになった。

 下の弟は泣きっ面で「ごめん、ごめんな」と謝って。

 ほうっと母者も安堵の息を吐き。そして下の弟をきっと睨みつけ。

「七竈ちゃんいじめたら、あんたのこと嫌いになるからね」

 と叱った。あれほど厳しい叱責は知らぬ。後にも先にも。

 そのせいか、足りない子供が姿を消してから、下の弟は雌に少しモテるようになった。

 足りない子供以外もいじめないからだ。

 こんな程度の男ぶりと猫から見ても思う弟が。人間の雄は皆種無しなのか。

 それでも下の弟は歯車さんに油を差し続けた。歯車がくるくる回り、下の弟は安心した顔をしていた。この噛み合いはすべて思い出なのだと、そういう喜びと安心だ。

 ああ、いやなこと。

 まだ血の臭いがどろどろ残っている。

 上の弟が残した臭いだ。

 そうせねば救えぬ者もいる。お前にはそれが可能である。

 だが、上の弟よ。あの頃はお前も若かったのだ。

 こんなに厭な臭いが染みついてしまえば、年寄りの説教など無意味だろう。

 けれど、説教したくてたまらぬのが年寄りだ。敬老精神を持って聞け。

 お前に罪はない。お前はおれの知らぬ誰かを救っている。故に、罪を勝手に背負うでない。大人の雄が何をするのも勝手。ごちゃごちゃとした理由などいらぬ。罪もいらぬ。あの時はまだ若すぎたのだ。罪をすすごうと生きるより、何も考えず救えばよい。手のひらを見よ。血糊以外も残っているだろう。

「七竈は将来、何になりたいん?」

 ついに教科書を閉じてしまった下の弟。

 阿呆め。

 将来などと子供のような口を。

 雌を孕ませられるようになれば、雄はもう若いだけで大人なのだ。猫なら生まれて半年で知ることだ。阿呆め。

 足りない子供は歯車さんを手にしたまま、「進路相談?」などと聞き返す。

 こいつは孕みも孕ませもできぬ。そういう印がついている。昔にはなかった印だ。つまりはこいつは大人になれぬ。

 おれも仔猫のころにそういう猫になったが、印をつけてそうなったのではない。大人になれぬのは印をつけた者、それも自ら印をつけることを望んだ者だけだ。

 猫にはつがいなどわからぬ。雄は孕ませるだけである。しかしな、下の弟よ。昔、お前はこいつと番になるのを望んだ。

 雄とわかれば番にいらぬ。それは道理というものだが。この足りない子供はずっと子供なのだ。

 お前が番に選ぶなら、このくらいがちょうどよいのではないか。お前もかなり難のある雄。贅沢を望まず、年寄りを安心させてくれぬか。

「いや、もっと漠然ばくぜんとした……。将来の夢とかそういうん」

 すぐの回答。

「誰にも迷惑かけない、ちゃんとした大人」

 回答に対し、陰のある笑み。

「かがり火は何になりたいの?」

「笑わんでくれる?」

「うん。笑わない」

「正義のヒーローになりたかった」

 もうじき雨だ。においでわかる。

 とんとんとんと階段を上がる音。

「にゃんにゃんちゃんこっち来てる?」

 母者がそばぼうろを持ってきた。

「にゃんにゃんちゃんこっち来てますよ」

 足りない子供はオウム返しに答えて、はっとし

「ニボシさんはこっちに来てますよ」

 と言い直した。

 はじけるように母子は笑った。

 足りない子供は赤面した。


六月二十九日

(日付のみ)

≪空六六六ぷらす! にじゅうさん!≫


納「干支の交代式?」

篝火「うん。年末に通天閣でその年の干支の動物から次の干支の動物にバトンタッチする……まあイベントやな。それの牛から寅のときがめっちゃ笑えるってクラスのヤツが言うねん」

(スマホ画面:「ぼくのごはーん! これぼくのごはんだよね!? ごはん! ごはん!」と大はしゃぎする仔虎を必死に止める飼育員。それを座ったままぽーっと眺めている仔牛)

納「ちっちゃい虎、猫みたいでかわいいねぇ」

篝火「……」(画面の仔牛を見返す)

納「どうしたのー?」

篝火「……似てる!」

納「何がー?」

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