七竃納の出逢い2
帰宅。
チャーハンを作る。
納はチャーハン以外作れない。
父親は何も作らない。
父親は外出している。
書き置きも何もない。どこに行っているのか分からない。
たぶん、サウナに行って酒を飲んでいる。
父親はギャンブルをしない事を誇りにしている。
空腹。
チャーハンは食べられない。
納には、二人分作ったチャーハンをどのくらいの量、自分が食べていいか分からないから、父親が帰ってきて先に食べたいだけ食べるまで食べられない。
どのくらいなら先に食べていて良いのか聞いた時、父親は怒り狂った。
「マトモなヤツはそんな事自分でわかるんだ! お前は普通なんだから、ちゃんとわかれ!」
わからない。
わからないから、夜八時現在、何も食べられない。
止まった時を思い出す。
メフェイスト・フェレス。
「時を止めたくはないよ……」
停止していたくない。
停止したいほど、現状は幸福じゃない。
戻りたい時代も無い。
進みたい時代も無い。
「あれが……悪魔……」
ぽつりと呟く。
「嫌な感じはしなかったけどな」
郵便受けを見やる。
手紙が多数落ちている。
六畳のワンルームマンション。
手紙は全部父親あてだ。
某政党支援者友の会。某男女差別撤廃の会。某国籍差別撤廃の会。某地域差別撤廃の会。
すべて、父親が該当者という訳では無い。
しかし、父親はこれらの反差別を掲げる団体の活動員である。
唯一無いものは、発達障碍者支援の会。
活動費は生活保護から出ている。
だから納は、夕食にチャーハンを食べる以外、何も食べられない。
思考を紛らわせる為に、外を散歩する事にした。
また倒れるかもしれなかった。
別に、道に倒れて誰が助ける訳じゃなし。
何より、あのメフィストという女が、外にいないか気になった。
扉を開ける。
メフェイストはいなかった。
当たり前だ。
いてもメリットがある訳じゃなし。
外を歩きだす。
月光。
四月の桜は散っている。
学ランの前をきつく締める。
気が付くと隣町に来ていた。
見知らぬマンションの下で、納は呟いた。
「帰るか」
その瞬間、金切り声が聞こえた。
「ママのバカ! あたしもう死んでやる!」
見上げた五階のベランダ。
女がベランダに足をかけていた。
「うるさい! どうせ死にもしないくせに!」
母親らしき女の金切り声が聞こえた。
「ホントに死ぬもん! 死んでやる!」
ベランダの縁に跨って、女は叫び返す。
親子喧嘩か。
あれは死ぬ気なんてない。
父親もよく死んでやると騒ぐが、死ぬ気なんてない。
しかし、普通に危ないな。
納が見上げていると、女の体がぐらりと傾いだ。
バランスを崩した!
納ははっと女の下の地面に走った。
落ちかけた女は叫んだ。
「たすけてっ」
五階。受け止められない。女が死ぬ。死ぬ気も無いのに。
『私と契約したくなったら、私の名を呼ぶといい』
無駄かもしれないけど、無理かもしれないけど。
しなくて後悔するよりマシだ!
「メフィストっ!」
納の声に、昼間の声が呼応した。
「時よ止まれ」
落下している女の体が、地面から一メートルのところで停止した。
背後にゴシックドレスの女が立っていた。
「メフィスト……」
メフェイストは肩を竦めた。
「呼んでしもたか」
納は息を吐いた。
「ありがとう……助けてくれて」
「助けたのは君や」
メフェイストはため息を吐いた。
「契約が、成り立ってしもたからな」
「え?」
「心臓の上を見てみい」
納は慌てて上着をはだけた、浮いた肋骨の上、心臓の真上に。
666の刻印があった。
「これで、私は君の下僕となり、君は私の下僕となった。私が死んだら、君も死ぬようになってしまった。そして、君は今後、齢を取れない。悪魔と契約した”呪い持ち”は契約した年齢の儘、死ぬまで過ごす。もう、マトモな生活は望めまい」
納は返答した。
「僕が今後マトモな生活を送るために、誰かを見殺しにしたら、それは正しい事じゃないと思う」
動揺していた。
今後の人生はどうなるのかと恐怖していた。
しかし、納の中では。
『正しい事』の前では、納の心など些事だった。
「正しければ、何をやったってええんか君は」
「僕は、じゃない。それが人間というものだろう」
メフェイストの表情が悲しげに曇った。
「悲しい人生を送って来たんやなあ。誰一人、君の為にはほかの事なんてどうだっていいって言うてくれへんかったんやなあ」
「みんなそうじゃないか」
「みんなそうじゃない。まあ、議論はしまいや。時を動かす。その女の子を受け止めたげ」
納は落下してきた女を抱きとめた。
「なんでこんなヤツの為に、この子が犠牲にならなあかんねや」
メフェイストはそう言って姿を消した。
落下してきていたのは、桐岡遊子だった。
時が動き出した。
「ゆずちゃん!」
母親の悲鳴が聞こえた。
桐岡遊子は気を失っていた。
納は大声をあげた。
「娘さんは無事です!」
母親はベランダから納に抱きとめられた娘を見て、泣きながら下まで降りてきた。
「ありがとうございます! つまらない喧嘩をしたせいで……! あら……その制服……同じ学校……? あの、名前を……!」
納は桐岡遊子を母親に渡しながら返答した。
「七竃納です」
母親は重みでよろけ、それでも娘を抱きしめて泣いた。
「なんてお礼を言ったらいいか……! 明日娘にもお礼を言いに行かせます。ありがとうございます。ありがとうございます」
その場を立ち去る時、何とも言えぬ喜びと、何とも言えぬ苦い気持ちがあった。
帰宅すると、父親は酒臭いいびきをかいて寝ていた。
納はチャーハンを食べた。
翌日登校し、教室に入る。
その瞬間、男子の大声が響いた。
「殺人未遂が来たぞ!」
クラス中が、楽しげにニヤニヤ笑っていた。
その中で、桐岡遊子が俯いて、無理やり作ったような笑みを浮かべていた。
「七竃、桐岡さんを五階から突き落としたんだって?」
もう一人の男子も笑いながら言った。
殺人未遂! 殺人未遂!
歓喜の声が響いた。
何を言っているのか分からなかった。
「桐岡さんのお母さんがさあ、七竃に五階から落ちたところを助けて貰ったって、職員室に来てたんだよ」
説明が始められる。
「でもさ、桐岡さんが本当の事をクラスで教えてくれたんだよな、本当は七竃が五階から突き落としたんだよな!」
桐岡遊子は曖昧に頷いた。
「ほらー、殺人未遂だよ! やっぱりクズはやる事が違うな! 犯罪じゃん!」
担任教師が入ってきた。
納は担任教師に問うた。
「先生、先生は、僕が桐岡さんを突き落としたって聞いたんですか?」
担任教師は動揺した表情をしたが、すぐに作り笑いを浮かべた。
「みんな、静かにしなさい。七竃君は確かに間違いをしましたが、間違いは誰にでもある事です」
納は怒鳴った。
「なんで嘘をつくんですか! 桐岡も、なんで嘘をつくんだ!」
担任教師は言った。
「嘘なんてついてないわ。だけど、別に罪に問われることもないんだから、いいじゃない。さあ、みんな、この話はこれでおしまい」
これは、正しくない。
僕は、間違っていない。
ならば。
正さねばならない。
納は傍の机に出しっぱなしだった携帯電話をひったくった。
「何するのよ!」
素早く110番を押す。
『はい、緊急でしょうか?』
納は電話口で言った。
「うちのクラスの七竃納君が、同じクラスの桐岡遊子さんをマンションの五階から突き落としたそうです。学校の名前は――」
すらすらと学校名を告げる納に、クラスは唖然として見ていた。
納は宣告した。
「これで警察が、真実を調べてくれるよ」