水無月3
鏑木一刀斎は怒声か悲鳴かわからぬ声を上げた。
「何なんじゃあのガキは!」
メフィスト・フェレスは呆れと叱責が混じった返答をした。
「君こそ何なんや。まだ半日しか教えとらんで」
七竈納が鏑木流抜刀術に入門した夜。祇園の一室にての会話である。
いつもならば芸子が酌をするところだが、今日は手酌だ。
春鹿をぐいとあおる。メフィストは品よく杯を干す。
縹色の単に武道袴。紅葉を散らした透けるようなショールだけが季節外れな男。
黒一色のゴシック調ドレス。袖部分を広くレースにしているのが季節に合う女。
上座から女は問う。
「で、何があったんや」
バツが悪い一刀斎は、塩味のおかきをばりりと噛む。
酒で流し込み、話し始める。
出会いが出会いであったのは認める。しかし、こうも無表情に不服なツラができるものか。
目の前の少年を見上げて、内心舌打ちする。
他に弟子がいないと知ったときから、露骨なツラになっている。
もっといいのが良かったとでも言いたいのか貴様。
座右の銘。武人は単純であれ。
かくして、一刀斎は即座にヤキを入れてやることにした。なめられたら二度となめられぬようにビビらせるのだ。武人は単純であれ。
まだ詰め襟のガキを睨みつける。
「斬られた痛みを教えてやる。今から貴様をたたっ斬る故、貴様はまっすぐ突っ込んで来い」
抜刀。次の瞬間、傍らの梅の木を両断する。
どさりと木の半分が地に落ちる。少し惜しく思ったが、口には出さない。代わりに嘲る。
「どうした? 早く来い」
無銘ながら白々とした秋水を見せつける。さすがに恐れたであろうと口角を上げる。
ガキはじいっとその日本刀を見つめている。そして確認する。
「まっすぐ突っ込んで斬られるだけでいいんですね?」
相変わらず表情がない。
「うむ。早うやれ」
「わかりました」
一刀斎はドンと畳を叩く。
「儂でなくばあやうく首をはねるところであったわ!」
「ほほう。流石。どこまで刃を迫らせたんや?」
「詰め襟の首のホックまでは斬った」
「流石流石」
にやにやと刺身をつまむ。対して一刀斎ははあ、と大きくため息を吐く。
儂でなくばは誇張ではない。そこまで刃を近づけて、どこも斬らぬなど他にできる者はない。物理学者が「まあ、いないと見なしてもいいでしょう」と素人向けに言う確率の存在だ。
あの十五や十六のガキも承知で、「……斬らないんですか?」ときょとんとしていた。承知するものが多すぎる。
うすのろめ。
「あれは儂の思うままにしてよいのか」
メフィストは一刀斎の杯に春鹿を注ぐ。
「どのように育てるつもりなん?」
一刀斎は朱塗りの杯を一気に干す。
「生き延びさせるように」
「ふむ」
メフィストは己の杯にも酒を注ぐ。そして、口調を戻した。
「やりたまえ」
一刀斎はまた手酌をする。
「具体的に何をするかは聞かんのか?」
メフィストは小さく杯に唇を寄せる。
「上からごちゃごちゃ口出ししなくていい教官を選ぶのが、将のすることだ」
少し、微笑。
「あれが気に入ったかね」
一刀斎は刺身のつまをたいらげる。
「気に食わんのだ。あれはあのままではすぐに死ぬ」
いつまでたってもつまらん時代だ。
そうぼやき、また杯を空にする。
メフィストは高野豆腐を食べる。
隣室から三味の音が聞こえた。
14日後。
「何なんじゃあのガキは!」
「君ね。前回の同じ台詞から二週間しかたってへんで。語彙力か? 語彙力の問題なんか?」
「やかましいわ!」
奇しくも部屋も同じである。肴のメインが鱧なことだけが違う。
「で、何があったん?」
「懐きおった」
「ええことやん」
苦虫を噛み潰し切った顔で、杯を一気にあおる。
メフィストはやはり、品よく唇をつける。
「いいわけなかろう! 「せんせい、せんせい」と纏わりつきおって! 新聞読んでるだけで背中にべったりじゃぞ! でかい図体で! 儂を父親とでも思っておるのか、あのアホは!」
「君は16のころ父親にそんな風に接してたんか?」
静まる。
冷や汗が落ちる。
「……おぬし、あの山狩りのことをどこで……?」
「いや、初耳やなそれは。どんな反抗期や、山狩りて」
言えない反抗期だ。知られていなかったか。よかったよかった。
安堵の息と対照的なため息を吐かれる。
「父親やと思ってたら、そんな風には接しへんよ。あの子は。君がなんかもっとええもんみたいなこと言うたんやろ。自業自得。因果応報。嘆くなら草葉の陰に行き」
「くっ」
呻くしかない。鱧の湯引きを一口で食う。まだ旬ではない。
「どんな教え方してるん?」
「ふん。生きられるように、じゃ」
指についた梅の汁を舐める。
「あやつ、見たもんを全部覚えおる」
「全部? どこまで全部だ?」
口調が戻る。
「どこまでも全部じゃ。録画と同じく、目に映ったものすべて。取捨選択なく記憶する」
しばし黙。
「それは厄介だな」
頷く。
「ああ、常に集中しすぎておる。あれではいずれ体力が尽きる。さもなくば発狂する。壊れるのが早いか死ぬのが早いか、どちらかしかない」
細い指を唇に寄せ、メフィストはまた黙す。
「思うままにしてよいと言うたな」
「ああ。違えるつもりはない」
メフィストから徳利を奪う。
「お主が気に食わんようにする。百ぺん殺しても飽き足らぬと儂を恨むであろうよ」
ラッパで呑む。
酒が畳に滴り落ちる。
五月二十日
日記がけっこうあいた。書きたいときに書けばいいってメフィストが言ってたのでいいと思う。一刀斎先生はやさしい。
弟子になった日に背を測ったら186センチで、目方を量るって先生に片手で持ち上げられた。「刹那的な体じゃな」って言って「とにかくでっかくせねばならん」って言った。
僕は動きがおそいから、力を強くする方がいいって言った。
それで、たまごやきとおにぎりとおみそ汁いっしょに作って。その前に先生がたたっ斬るからつっこんで来いって言ったけどなぜか斬られなかった。制服がだめになっちゃったから道着着てる。ぶかぶかだけど合うくらい大きくするって言ってた。最初におにぎり食べてたら、「お前、まずしい生まれか」って聞かれて、なんでわかるんですかって聞いたら、口に詰め込めるだけ詰め込んで長々と味わってるのと、箸が使えんのを恥じて物欲しそうにひたすらたまごやきとみそ汁を見ておるのでわかるって。その後、「お前は気を張り詰めすぎじゃ。めしくらい気を抜いて食え」って言ったけど、僕は気を抜くってどうするのかわかんない。先生がごはんは別々に食べることにしてくれた。
それから、何かせいと言われてないときは好きにせいって言ってくれた。好きにもよくわかんなかったけど、映画でくつろいでるシーンみたいな風って教えてくれた。うれしかった。ぎゅっとしてもいい大人の人ができた。うれしい。
えーと、後、鉄の入った木刀振ったり、走ったり、筋トレしたり、ヤクザの人たちがたくさんいるところにかちこんだりしてる。先生の普段のお仕事はかちこむこととかちこみ方を教えることだって聞いた。先生はすごく強い。ねむくなったねる。
≪空六六六ぷらす! じゅうはち!≫
納「先生、お塩だけの卵焼き作っていいですか? 本に出てきました」
一刀斎「構わんが。それは酒のつまみじゃぞ。呑めんヤツが食ってものう」
納「ダメですか?」
一刀斎「まあ、貰い物の塩があることじゃしの。作りたくばやってみい」
完成
納「……?」(微妙な顔)
一刀斎「ほれみろ。酒の味がわからんガキにこの味はわからん」
その夜。
(そういう意味で)仲良しの女「こないだあげたん使ってくれたー?」
一刀斎「ああ。なかなかうまかったぞ」
(そういう意味で)仲良しの女「食うたんかアレ!?」
一刀斎「塩じゃろ?」
(そういう意味で)仲良しの女「塩いうたかて……バスソルトやで!? 入浴剤やで!? えー……うまかったって……うわ……」
翌朝。
納「先生が朝ごはんおうちで食べるの珍しいですね」
一刀斎「うむ。納よ、女とは思いきりがよいものじゃぞ」
納(察した)




