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空六六六  作者: 浮草堂美奈
第一章 出逢ノ語リ
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近田珠の出逢い2

 悪魔を退治する人を連れて来たら、喜ばれると思っていた。

 だけど、おばさんは嫌そうな顔をした。

「別にうちは悪魔にそれほど困っている訳じゃありませんし」

 珠は思わず言った。

「無理しないでおばさん。毎晩、悪魔に向かって一人で戦ってくれてるの、おばさんじゃない!」

 おばさんはぐっと詰まった。

 それを、ゴシックドレスのお姉さんは感心したように言った。

「おや、素人さんやのに、悪魔と戦ってはるんですか」

 お姉さんは二十代後半くらいで、身長は高いのに、体はとてつもなくスレンダーな人だ。

 羨ましい、と珠は思う。彼女はデブとまではいかないと自負しているが、ぽっちゃりしているのは否めない。合唱部でみんなで一列に並ぶの時、なるべく端っこにいきたいと願う。

「それはえらい事ですな。めったにできる事やないですわ。我々プロが悪魔を殺せるのは当然ですが、素人さんなんて逆です。殺されて当然ってなもんです。それを戦えるとは」

 明るい調子に褒められて、おばさんの警戒が少し薄らぐ。

「こちらとしても、今後の仕事に役立てたいんでお聞きしますが。悪魔とどんなふうに戦ってはるんですか?」

 お姉さんはにこにこと明るく、時折身振り手振りを加えて話す。一方、納は表情を出さずにずっと黙ったままだ。

 おばさんはぼそぼそと話し始めた。

「夕方くらいになると……いつも悪魔の声が聞こえるんです……。私はそれに対して、ずっと出て行けとか黙れとか怒鳴ってるだけで……でも、出て行く様子はないんですけど」

「おばさんが悪魔の声を聞くと、一階の……ほら、あのリビングの横の部屋、あそこからガタガタ物音がするんです。物をひっくり返してるような音が」

 お姉さんは納得したようにおばさんに問う。

「悪魔はどれくらいの時間、話しています?」

「30分くらいのこともあれば、朝まで話し続けることもあります」

「内容としては?」

「主に……私の悪口を……後、この家に災いを起こしてやる、という内容の事も」

「それと戦い続けているんだから、さぞ大変でしょう」

 そして、お姉さんは珠に向き直った。

「物音と、悪魔の声が聞こえだすのはどっちが先?」

「悪魔の声が先だと思いますけど……私には霊感が無くて聞こえないんです。でも、物音ははっきり聞こえます」

「その物音がする部屋に入った事は?」

「危険だからと止められています。私も、もし悪魔がもっと何かしてきたら、と思うと……怖くて……」

 お姉さんはふむ、と軽く口角を釣り上げた。

「今夜中に片がつくかもしれませんな。空いている部屋がもしあらへんねやったら、待機させてもろてよろしですやろか? 悪魔の声が聞こえるまで」

「主人の部屋が空いております。埃っぽいですけど、お使いになってください」

「それはおおきに。ご主人は怒らはらしませんか?」

 おばさんはいつもの暗い顔で言った。彼女は体が弱く、よく昼間から寝ている。

「ずっと前に、家を出て行ってしまいました」

 お姉さんは深く頭を下げた。

「それは失礼しました。娘さんも出ていかはったそうですのに、気遣いが足らへんで」

「娘は……悪魔のせいで」

「え?」

 その「え?」はお姉さんがわざと発したものに聞こえた。おばさんは答えなかった。

 

 夕方4時頃、私はカレーライスを二皿お盆に抱えて、二人がいる部屋にいった。二階に上がり扉を開けると、納は文庫本を読んでいて、お姉さんはスマートホンを弄っていた。

 二人でいるのに、会話とかしてないんだな、と思う。

「おや、ごはん持ってきてくれたん? ありがとうー」

「ありがとう」

 明るい調子のお姉さんと、何を考えているのか分からない納。

 文庫本には、「桜の園・三人姉妹 チェーホフ」とある。

「いつもこの時間なん? 晩ごはん」

「早い、ですよね。でも、このくらいに食べとかないと悪魔の声が聞こえだすのは夕方くらいからなんで……」

 納が文庫本をスーツのポケットにしまった。

「今日はもう聞こえているらしい」

「え? 何も聞こえないですよ?」

 そう言った瞬間だった。

「なんでそんな事ばっかりするの! お前なんかどっかにいっちまえ!」

 おばさんの怒声が聞こえた。

 納は言った。

「ちょっと音に敏感なんだ。下に下りよう」

 そして、私に囁いた。

「あっさり上げて貰った僕らが言うのもなんだけど、人間はほとんどが悪い人間なんだから今後は気を付けて」

 階段を駆け下りた。

 カレーライスに手もつけず、おばさんはリビングで怒鳴っていた。

「出て行け! お前なんか出て行け!」

 私達に気付かないようだった。

 ガターン!

 すごい音がした。

 リビング横のあの部屋からした。

 納がその扉を開けようとした。

「駄目! まだ駄目!」

 おばさんがようやく私達に気付いて絶叫した。

 お姉さんが言った。

「現実をブチ込んでやれ」

 扉が開いた。

 中から、何かが飛び出してきた。

 何が飛び出してきたか見えた。

 毛むくじゃらの体、顔の真ん中に20センチくらいの口があり、他はのっぺらぼう。

食人鬼グールだ」

 お姉さんが言った。

 おばさんに向けて言った。

「貴様が、召喚したのだろう」

 口調が標準語だった。

 おばさんは魂が抜けたように笑った。

「そうよ。ほら、悪魔はいたでしょ。私は病気なんかじゃないでしょ」

 病気、何を言っている?

 珠は棒立ちになった食人鬼から、一瞬目を離した。

 出てきた部屋の中を見た。

 ざあっと血の気が引いた。

 部屋の中に、どす黒い飛沫がいっぱいかかっていた。

 あれは……まさか……血痕!

「いいや。貴様は病気だ。精神を病んでいる。幻聴が聞こえている」

 おばさんはへらへら笑いながら言った。

「あの子やお父さんと同じ事を言うのね。そこに悪魔がいるんだから、それが確たる証拠じゃないの」

 お姉さんは言った。宣告した。

「順序が逆だ。悪魔の声が聞こえだしてから、貴様は悪魔を召喚したんだ。そこに居る悪魔は存在する。だから、貴様が怒鳴り出すと同時に、部屋の中でモノを実際に引っ繰り返していた。実在するから、モノに触れられる」

 食人鬼の口が開いた。

「その女は危険だ。俺の敵う相手じゃない」

 酷くしわがれた声だった。

 悪魔の、声が珠にも聞こえた。

「実在するものが声を発して、聞こえない訳がない。実在するものが目視できる大きさで、目に見えない訳がない。なのに、貴様にしか悪魔の声は聞こえなかった。当たり前だ。誰も声など発していないからだ。声など実在していないからだ。食人鬼は一言も喋っていないからだ。全て貴様の幻聴だ」

 おばさんは突然絶叫した。

「なんで私を病人扱いするのッ! あの子もお父さんも同じ事を言った! 私を病院に連れて行こうとしたッ! 私は病人なんかじゃないッ! 精神病の患者なんて、人間のクズじゃないのッ!」

「精神病とは関係なく、お前はクズだ」

 その言葉を発したのは、納だった。

「僕は、生まれつきの障碍者だよ。精神のね」

 あの、神を殺すと言った時に似た、怒りに満ちた声だった。

「病人がクズなんじゃない。自分は病気じゃないと駄々をこねて、現実と向き合わないで」

 右目しかない瞳が鋭くなる。

「家族を食人鬼に食わせるヤツがクズなんだ」

 え? え?

 おばさんは、幻聴が聞こえて。

 それを家族に病気だと言われて。

 だから、悪魔の存在を本当にする為に、悪魔を召喚して。

「だって! 悪魔を実際に見たのに! あの子言ったもの!」

 おばさんも怒りに満ちた声をあげる。

「「こんな事をしてまで、逃げたいなんて、お母さんの弱虫」って言ったもの!」

 食人鬼も絶叫した。

「この女はッ! 最上級悪魔『鉄の女王』メフェスト・フェレスだッ!」

 お姉さんは、メフィストは言った。

「納」

 人差し指を向けて。

「殺してしまえ」

 納の手の中に、突然刀が出現する。

 白々とした日本刀だ。

「鏑木流抜刀術 推参」

 そう呟いた瞬間、刀は閃き。

「エイーッ」

 気合い一声、今までとは別人のような大声。

「こいつ、呪い持ちだッ! 俺を助けろ!」

 食人鬼の悲鳴と同時に。

 納は刀で、食人鬼の左わき腹から、斜めに、肩まで、真っ二つに。

 斬り上げた。

 どうっと音を立てて、食人鬼体が、リビングに落下する。

「メフィスト、鞘。後、紙」

 べっとりとタールのような血に濡れた刀を持ったまま、納は振り返った。

 その全身は、やっぱりタールのようなものでべとべとだ。

「納」

「どうせ死ぬよ」

 そのやり取りをした直後、おばさんが納に飛びかかった。

 黒くなったワイシャツに手をかけ、力任せに引っ張る。

「何もかもおしまいだろうがッ! せっかく次の餌を見つけられたのにッ!」

 スーツの釦が飛び、ワイシャツが引き裂かれた。

 彼の左胸、心臓の真上には。

「666」の刻印があった。

 おばさんはそのまま泣き崩れた。

「あんただって患者なら分かるでしょぉ……精神病だって言われるのが、どんだけ恥ずかしくて、情けないことか……」

 納は、告げた。いつもの、抑揚のない口調で。そうだ。きっと、彼は、障碍の為に抑揚がつけられないんだ。

「分かるよ。でも、それが乗り越えられないのは分からない」

 おばさんは唖然とした。

「恥ずかしい、情けない、辛い、だから認めないなんて理解できない。心が折れるのは分かっても折れたまま立ち直れないのは理解できない。一生治らない病気でも、それと向き合えないのは理解できない。頑張って、自分自身と向き合えばいい」

 くっくっく。

 メフェイストは笑い声を上げる。。

「人格が歪んでるんだよ、こいつは」

 とても皮肉な笑い。

「生まれた時から出来損ないで、ドブみたいな母親に生き別れ、ゴミみたいな父親と生活し、出会う人間はクズばかり。努力と苦労は違う。達成感が残るのが努力、恨みが残るのが苦労。人間を成長させるのが努力、人間を歪ませるのが苦労。子どものうちは努力は盛大にやったらいいが、苦労はしちゃあいけない。こいつは苦労ばかりの人生だった。苦労に苦労を重ねた結果、納には弱者の気持ちが一切分からなくなった。立場が弱いとかじゃなく、心が弱い人間の気持ちが、一切分からなくなった。ただただ強い、どんな状況でも歯を食い縛ってでも這いつくばってでも先へ進む、そういう人間だからこそ、行き倒れてしまう人間の気持ちが一切分からなくなってしまった。人格が歪んでしまった」

 納は笑いもせずに返す。

「そうだね、僕はこの人が今から死ぬ事に、一切同情できない」

「死ぬ!?」

 珠に向かって、メフィストは関西弁に戻る。

「悪魔と契約したものを”呪い持ち”と呼ぶ。呪い持ちが死んでも悪魔は死なへんけど、悪魔が死んだら呪い持ちは死ぬ。それが、悪魔の契約や」

 珠は、おばさん泣き崩れるおばさんの前にしゃがんだ。

「おばさん、私を悪魔の餌にするつもりだったの?」

 泣きながら、おばさんは答えた。

「最初はそのつもりだったの……」

 でも

「でも……今度は私の事、信じてくれるんだって思ったら……」

 手を握る。おばさんの手は、灰のように崩れてきた。

「おばさん、おばさんの娘さんも、おばさんの事を信じてたんだよ。いつか現実を認めてくれるって信じてたんだよ。だから、弱虫って怒ったんだ。それまで信じてたから、怒ったんだ。病気のお母さんでも、嫌いじゃなかったんだよ。嫌いだったら、お父さんと一緒に出て行っちゃえば良かったんだもの。ずっと待ってたんだよ、お母さんが好きだからずっと信じて待ってたんだよ」

 ぎゅっと手が握り返される。そこに、ぽたぽた雫が落ちる。

「信じて……くれてたんだ……私自身を……信じてくれてたんだ……」

 おばさんは、今度はへらへらとではなく、しっかり微笑んだ。

「赦してくれないだろうけど、分かってるけど、あの子たちに謝ってくるね……」

 ぱあん。

 元はおばさんだった灰が弾けた。

 桜吹雪のように舞って、消えた。


 タクシーの運転手にメフィストは行先を告げる。

「十三番町へ」

 運転手は露骨に嫌な顔をする。

「結構遠いですよ」

「かまへん。連れが今、電車に乗れる状態やないんや」

 隣の納はそわそわとした様子、と分かる程度だが、実質は疲労と予定としていた目的地が急にキャンセルになった事で、パニックを起こしているのが分かる。

 精神の障碍の特性だ。予定が変更されると情緒不安定になる。本来の彼は、メフィストに同行してある取引のボディガードをして一日を終えるはずだった。それが大いに狂った。結果、情緒不安定・パニックを起こしている。彼の本心は、ここで叫んで暴れたいところだろう。

 だけど、彼は我慢する。脳内で濁流の渦巻きのようになっている、記憶や思考を我慢する。じっと我慢する。

 悪いこと、嫌なことで溢れ返っている思考。それを我慢する。

「だって、十三番町がなんて言われてるか知ってますか? 悪の巣窟ですよ」

 メフェストはひょいっと、一万円札を運転手の脇に置く。運転手は黙ってタクシーを発車させる。

「よう頑張ったやないか、納」

 メフェイストは言う。返事は帰ったらだ。そして返事は分かっている。

「こっちの勝手な都合に巻き込んでごめん。助けてくれてありがとう」

 そういう当たり前の返事が、花火のように銃声が鳴る町であるだろう。

「花火か。あんな長い夏休み、学生さんはええなあ」

 納は無言で氾濫する思考に耐えている。

「そんなにボロボロになって、なんであの子を助けたんや」

 納は必死にパニックを押し殺した口調で言った。

「目の前で困っている人を、できる範囲で助けるのは当たり前の事だから」

 メフェイストはふうん、と言った。

「なんでそない思えるん? 別に君は助けて貰うのが当たり前の人生やなかったやん」

「うん。だからさ、助けて貰えない苦しさもよく知ってるし」

 記憶の氾濫の中、それも思い出したのだろう。彼は、”忘れる”ことができない特性も持っている。写真に写したように、人生の全てが脳にごちゃごちゃに突っ込まれている。たくさんの悪いことも。

「助けて貰った時の嬉しさもよく知ってるよ」

 ちょっぴりの良い事も。

 彼はメフィストの目を見て

「ありがとう、メフィスト」

 メフェイストは軽く目を閉じた。

「私が死んだら君も死ぬ。利用してんねや。そない正面からプラスの感情をぶつけてこんといて」

「ごめん」

「……本気で謝らんといて。こっちこそ、悪かったな」


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