前日譚 あたしが好きな人に殺されるまで
ただひたすらヤンデレる前日譚です。おまけ的な話。ほぼ恋愛というか狂愛です。当たり前の話ですが、未成年は煙草吸っちゃいかんよ。煙草吸う高校生は二次元だからよいものなのよ。
きれいすぎるのあなた。あたしのノートのラクガキは遺言になった。
高校に進学したら孤独になった。
だから入学式で背の高い女子に声をかけまくって、バスケ部の見学に行った。
合計四人。あたし以外全員が未経験。元バレー部。元なぎなた部。元ソフトボール部。あたし以外全員がレギュラーになったことはない。
そのままあたしたちは入部して、グループを設立した。
この間に三日とかからず。
こういうのがコミュニケーションだと思ってた。
大学受験が人間力を合格条件の視野に入れると聞いて喜んだフリ。
経営が厳しいからバカでも妥協するって本音が透けてるのは誰も口に出さない。
だって人間力って何?
人間だったら誰でも入れますってことじゃん。
「あれ入れなくない?」
バレー部が一番前の席の男子を指差す。
「ナイス! そうだわ。あれ人間じゃないもん」
なぎなた部が背をのけぞらせて爆笑する。
「あ、逆じゃない? 人間の生活を学ぶために平凡な公立高校に入学」
ゾフトボール部にヲタクすぎーとげらげら笑う。
知ってる。ソフトボール部。この四人の中ではヲタクキャラで通ってるけど、漫画を違法ダウンロードで読むだけなんでしょ。
入学直後、彼はスーパードルフィーと呼ばれていた。
感情らしいものを全く表情にも態度にも出さないし、抑揚をほとんどつけずに喋るくせに、手振り身振りはやけに多い。
自分が扉を開けた後ろに女子がいたら、扉を支えて待っててくれたりするけど、ろくにお礼も聞かずに言ってしまう。
体の使い方がヘタなのか、しょっちゅうどこかにぶつかったり、段差から落ちたりしてる。
バサバサまつげの下にでっかいお目目。
その眼鏡あんた以外誰が似合うの? って言う理由で逆に安そうな眼鏡。
ふざけて眼鏡を取り上げたら、三重瞼と凹凸の激しさが判明した顔立ち。
細い体に白い肌。
それを学ランの一番上のホックまできっちり止めている。
大人のためのお人形。スーパードルフィー。
だけどあたしは知っている。彼が嬉しそうにしていた時のことを。
入学式の日、来年で定年の担任のスーツの裾を引っ張って話しかけようとしていた。
「何」
年中眠そうなジジイは眠そうに振り向いた。
「あ、あの……。あ、もういいです」
「何がしたいんだね君は」
「入学の直前にちゃんと声変りしたので、誰かに話しかけたかったのです」
「ふうん。良かったね」
「ありがとうございました」
あたし以外誰も見ていなかった光景。
何がしたいのかもよくわからない。
だけど、その時、確かにスーパードルフィーは嬉しそうで。
私は男の色気のある声というのを初めて聞いて、背骨のあたりがぞくっとした。
スーパードルフィーは僅か二か月後にはもう誰もが本名の「七竃」と呼ぶようになっていた。
ななかまど。季語の類かと思いきや、樹木の名前らしい。それが下の名前なら自分を越えるキラキラネームでシャレになるレベルのヤツがいた、とひっそり喜んだが、名字だった。
下の名前は納。おさむ。こんなに平凡な名前なのに、ちょくちょく治と書れて訂正している。怒った風ではないが、小声で「僕、人間失格じゃないのに」と呟いていたのは笑ってしまった。
逆に私が不審がられたので、今聞いたしょんぼりしたセリフを披露すると、グループが爆笑の渦に包まれた。
「人間失格じゃん、十分」
「え?」
思ったより低い声が出てしまったのに自分でも驚いて誤魔化す。
「あの小説面白いんだよ?」
そっちかよ、とまた爆笑。
二か月で、彼はそういうポジションになっていた。
いや、ポジションにいると彼がわかっていたかどうかはわからない。
ただ、もう梅雨に入ったというのに、学ランの黒を一番上まで止め続けていて。
僅か二か月で十センチ以上背が伸びたのに、それに見合う栄養を摂っていないらしく、時々倒れるようになっていた。
そして昼休みは教室にいない。
我が校は漫画でよく見る屋上や芝生でランチなんて許されないどころか、昼休みでも教室以外での飲食禁止だ。
ずっとグループでランチタイムを過ごしている私たちは、いつもペアの子が休みで臨時参加の女子から聞いた。
「あいつ、ナマポなんだって」
「ナマポ?」
耳慣れない言葉に暫く考えて気づく。
「生活保護?」
「うん」
得意げに彼女は言う。
「ブタ子のパパが医者なんだけどさ、あいつの親父、しょっちゅう夜に救急車で運ばれてくるって」
ブタ子とは体重がトンの十分の一キログラムありそうな女子のあだ名。それも本人に直接言わず、におわすあだ名だ。
「え? 病気?」
なぎなた部が眉をひそめる。こいつはありとあらゆる病気は不摂生からくるもので、病人はさげずむものと信じている。
「ううん、自殺未遂」
なぎなた部の顔がゆがむ。
「こころの病気なんだあ」
「さあ。毎回薬を大量に飲んでるけど、市販薬ばっかりでアルコールと一緒に飲んでるらしいよ。アル中なんだよたぶん」
「薬ってそんなにしょっちゅう大量に飲んで死なないモンなの?」
ソフトボール部の質問に、うーんとうなり。
「ブタ子のパパ名医なんじゃない? 後、全部溶ける前に救急車呼んでるのかもしれないし」
「えー、マジ迷惑。死んでほしいんですけど!」
バレー部の言葉に正義の味方! と囃しながら思う。
七竃君も、そう思ってるんじゃない?
「後、父子家庭。絶対母親が男と逃げたパターン」
「わかるー」
わからない。何が絶対なの。あんたたち誰もろくに男と付き合ったことないくせに。
「え、じゃあさ。あの、ほら、よくあるさ。妻にそっくりの姿に育った息子にさ」
げらげら笑っている周囲に黙り込む。
「どしたの? 遊子」
「ごめん、トイレ。ヤバい」
「顔必死! どんだけ漏れそうなんだよ!」
笑い声を背にトイレに走る。
花嫁みたいにシーツをかぶって全身を隠して、薄化粧をして、あの男の声でしなだれかかる彼。
バカバカ! 濡れちゃったじゃない!
何の憤りかわからないまま、手洗い場で顔を洗うと頭が冷えた。
化粧してなくて良かった、とこういうとき思う。
まったくしないわけじゃない。だけど、校則を破ってバスケ部のレギュラーから外されると困る。
一年がほぼ全員未経験だから、わざとミスして反感買わないレギュラー。
帰りづらくて、適当に時間を潰す場所として図書室に入る。
この学校の図書室は誰も入らない。文芸部員しか読書の習慣がなく、文芸部員は「こんなの品揃え酷過ぎる!」と吠える図書室。
ライトノベルはすべて禁止。ハリー・ポッターも児童書なので禁止。狭くて三分の一が岩波文庫。逆に頭悪そう。
長期休み以外は自習も実質禁止らしい。司書のオバサンが「本を読む人の場所がなくなるでしょ!」と怒るんだそうだ。じゃああんた結局ここで何してんの?
その長テーブルの隅に彼がいた。
昼休みどこかに消えていると思っていたら、我が校が特殊なだけでわりと普通の高校生の昼休みを過ごしていたらしい。
なにか集中しているらしく、あたしにリアクションをしない。
「七竃君」
声をかけると、彼は顔をあげじーっとあたしの顔を凝視して。
暫く考えて。
「すみません。以前お世話になったことは覚えているのですが、生憎バタバタしておりまして名前を失念しました」
「全然覚えてないでしょ!」
「すみません……」
完全に名前や顔どころか学年すら知らない人と会話している雰囲気だ。後、失念しましたってリアルで初めて聞いた。
「同じクラスなんだけど」
「あっ……」
無表情なのにやってしまったという顔をするな。
「……え、ええと、僕、女子の友達いなくて……」
男子もいないだろう。
「……」
「桐岡遊子」
「あ、あの変わった名前の」
キラキラネームだけ覚えてるのか。遊子と書いてゆず。漢字変換では一発変換できる中途半端さ。
「……用事?」
……用事ではないけれど、ヘタな用事より言えない。
「七竃君、お母さん似?」
「……?」
こてん、と首を傾げられる。
「いや、男子ってお母さん似が多いらしいから」
理由になっていないぞあたし。
「……全身が父親のクローンみたいにそっくりらしいけど」
色々な尊厳を返せ。
「……僕、何かしちゃった?」
「何も」
実際にされていたらそれはそれでどうしようかという話だったけど。
「何読んでるの」
「聖書」
関わるととてもまずい宗教の数々が頭に浮かぶ。
「岩波文庫の新約聖書三巻」
安心。
「クリスチャンなの?」
「わかんない」
なんか哲学的なこと言いだすのだろうか。
「ミサとか行ったことないんだけど、仏壇や神棚も見たことないんだよ」
こちらが勝手に盛り上がった後に、一瞬で鎮めるのやめてもらいたい。
「お墓見ればわかるでしょ」
「行ったことない」
「おじいちゃんおばあちゃん家にはなんかあったでしょ」
「会ったことない」
「亡くなったの?」
「知らない。母方の方はたぶんどっちか生きてるんじゃないかな」
「お母さんに聞いてないの?」
「小一の頃に入院したっきり会ってない。離婚したって聞いた」
「離婚? いつ?」
「よくわかんない」
複雑な家庭環境というものを生で見た。そして不審な目で見られている。当然だ。なんで知りたいんだろう、と思うに決まっている。なんせ、向こうの脳内では私は初対面だ。
「いや……なんで聖書なんか読んでるのか気になって……」
「一般教養かと思ってしかたなく」
法事を学校休める日としか認識してない仏教徒にはその一般教養のハードルは高い。そして仏教徒でも聖書を「しかたなく」とか言われるとバチが当たらないか不安になる。
「面白い?」
「つらい」
「面白くもないのに、三巻まで読んだの?」
「旧約も読んだ」
「そう……」
「まだ四巻が残ってる」
「そうなんだ……」
キリストが可哀想になるいやいや読んでますという口調だ。
「なにか印象に残ったところあった?」
「ヨブ記」
「……わかんない」
七竃は暫く考え。
「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。……の第38章からの一連の問答」
沈黙。
「……どうしたの?」
聖書をそらんじてる間だけ抑揚がついたのにも驚いたし、それがどこの役者かと思ったし、それから
「暗記してるの?」
「読んだら覚えないかな?」
「覚えない……かな」
「えっ」
そっちがびっくりするな。
「みんなそうだと思ってた……」
「江戸時代ならそれ仕事にできたんじゃないかな……」
「琵琶法師?」
「わかんない」
嬉しそうにするようなかっこいい職業なのだろうか。
「耳なし芳一とかが有名人」
「ふうん」
わかったけど、かっこよくないというか……怪談の被害者だ。
アンバランスな幼さと艶めかしさを持っている同級生。
「昼休み終わるから帰るね」
「え、あ、あたしも」
「うん」
扉開けた上で、先に通してくれるのに、通したあとは声もかけずに追い抜いて行ってしまう。
あれはスーパードルフィーかもしれない。
「ありえないよねー、あれは笑う雰囲気だったよ完璧に。空気読めっての」
夏休みが終わり、新学期が始まって。
七竃納は身体測定で百八十センチというスコアを叩きだし、制服を買い替えることになった。一方あたしは身長その他すべてのサイズの変化がなくなり、生理周期が安定しだした。
バスケ選手としては、長身どころかチビに分類されることが決定したわけだ。
三年生は次の試合で引退。受験勉強に入る。
なのに、していることは対戦相手の高校にいるモデルの男子のプロフィールチェック。
高卒資格以外にこの学校の存在価値はないのではないだろうか。
バレー部はちらりと視線を見えるように動かす。
今日もブタ子が菓子パンを五つも貪っている。
テレビなどのデブタレントはおいしそうにごはんを食べるのがウリだが、ブタ子は一度もモノをおいしそうに食べたことがない。
いやいや口に突っ込んで飲みこんでいるカンジ。しかもああいう炭水化物の加工品ばかり食べている。
入学したばかりの頃に「料理上手そうだよね」と言ったら「あー、そんなエネルギーないわー」と言われた。いや、大量に貯め込んでるだろ、全身に、エネルギー。と内心思った。
いやいや聖書を読んでいたヤツは、暗記していたというのに、同じいやいやでもこの差は何か。
周りがクスクスと笑ったので、慌ててクスクスと笑う。
世界史の授業で、その中年教師がブタ子を指名して立たせ、質問した。
「こうしてイスラム教が広まり出したわけだが、この経典であるコーランで食べることを禁じられているものは何だ?」
ブタ子はしばらく考えて答えた。
「豚肉です」
教師は決まりました親父ギャグと言った顔で言った。
「その通り! だからお前はイスラム教徒に食べられる心配はない!」
どっと教室中が笑った。
笑い倒した。
ブタ子は真っ赤な顔で震えていた。
教師は一番前の席で、一人だけ笑わないでいるコミュニケーションが苦手な子を仲間にいれてあげよう、と親切心を出した。
「おい、七竃面白くないのか?」
七竃納ははっきりと答えた。
「はい。失礼なだけです」
静まり返った教室。教師は急に喉が渇いた声を出した。
「おっと悪かった。先生、お前の片思いの相手をうっかり暴いちゃったな」
笑えのジェスチャー。生徒たちは口を開く。
「別にそういった好意を抱いていなくとも、女性の容姿について相手に非がなく更に衆人環視の中で侮蔑するのは、男のやることではないと思います」
ここで七竃が怒りなどの態度を見せれば、ここまで空気が凍りつきはしなかっただろう。
だが、彼はあくまで抑揚なく言う。感情めいたものを出さず、それでいて。完膚なきまでにまっとうな正論で叩き潰している。
教師は、は……はは……と笑い声をひねり出した。
「おいおい、王子様か騎士様みたいなフェミニストのセリフが出たぞ。じゃあ、男の容姿は何を言ってもいいのか?」
彼は以前にもあったわからないことがあった時のくせらしい、こてんと首を傾げる仕草をした。
「男が容姿にこだわる必要があるんですか?」
やっと教師が勢いよく笑え、のジェスチャーをした。
「お前の容姿でこだわられたら、俺たち平凡な男どもは一人残らず自殺するな! 助かったぞ諸君! 七竃、お願いだからその調子でいろんなものをドブに捨ててくれよ!」
全員が笑っているのに、空気は冷え切っていた。教師は必死に笑い声を扇動し続けた。
化け物。
周囲の感想はそんなところらしい。
七竃納は化け物にしか見えない。
「コミュ力皆無! ヤバいわあれは。ガチモンだわ」
「他の人からどう見えるのかとか考えないのかなー。考えらんないんだろうね」
「本人は優等生のつもりか知らんけど、人間として劣等生だよ、あれは」
だけど、どう取り繕おうとも、あれは正論だ。
反論の余地もない。少なくとも現代では。
おかしなところは男女のジェンダー観の方だろう。
男性だって容姿は問題になったり話題になったりするものだ。
それはコミュニケーションより、知識や経験の問題。
そもそも、何の非もない人を傷つけるのはコミュニケーションだろうか。
他人からどう見えるか考えて、普段仲が良かった人間を傷つけたあたしたちはそんなによい人間だろうか。
何より、七竃納の人生で自分が優等生であると感じた場面があっただろうか。
一学期の段階での彼の生き方や、それまで歩んできた道のりは、むしろ彼には自分は劣った存在だと感じさせてきたのではないか。
なのに、なぜ、艱難辛苦の道をわざわざいく。
「どうしたの遊子? 全然食べてないじゃん」
はっとする。
取り繕う。取り繕う。取り繕う。
「わかる?」
わざと暗い声を出す。
「お月様。今回は食欲すらないくらいにキツイ」
あーと納得の声。
「それでさっきからずっと黙ってたんだー」
「だって男子もいるじゃん……」
「あれ? 半月くらい前に来たって言ってなかった」
「うん……来た。なのになんでまた来るのかわかんない。しかも超キツイのが」
慰めの言葉の数々。耳障り。
「ちょっと外の空気吸ってくるね……」
「えー、大丈夫?」
「授業に間に合わなかったら気分が悪くなったって先生に言っといて……ごめん」
ポーチを手に教室を出る。
舌打ち。
「めんどくせえんだよ」
速足で廊下をずかずか歩く。
めんどくさい、めんどくさい、めんどくさい!
講堂の裏に入る。
ポーチを乱暴にあさる。
メビウスと書かれた箱を取り出す。
紙巻を引っ張り出す。
ライター。火。煙。
バスケ部のレギュラーから外された時から、ちょくちょくここで吸っている。
転校生の新入部員に元全国大会のメンバー? 右手の故障で指がほぼ動かないから全国は無理? だけど、バスケは大好きだからこの学校で楽しみたい?
『なんとかドリブルできるように頑張ったんですけど、それ以上は無理らしくってー。ウチ協調性ない方なんで、ビシビシきつく言ってくださいねー」
右手の故障が転校理由かと問えば。
『あ、それはおまけみたいなもんで。これ故障って言ってるけど交通事故が原因で。親父も死んじゃったんで、オカンの実家がこっちだから引っ越してきてん。あ、関西弁戻ってしもた。実は一年入院でダブってまーす』
あたしたちの必死でみんなで浸かれる温度を保ち続けてるぬるま湯を、努力と強さで冷や水にしてんじゃないわよあいつら!
煙草を強く噛む。
「あの……」
上からした声に顔を上げる。
「七竃君!?」
煙草が落ちる。
地べたに座っているあたしを上から見下ろしている彼は、あ、どうしよう、という顔をして。
「誰かに言うつもりはありませんから、先輩……の方も彼氏さんや彼氏さんのお友達などに口封じなどをお願いなさらないで……」
「いや、同じクラスなんだけど」
ああああああ、どうしようという顔になる。
「覚えてない?」
「名前の読み方が難しい人……?」
キラキラネームしか覚えてないのか。まだ! まだ!
「あ、あの、でも、彼氏さんとか彼氏さんのお友達とかに」
「いないから。大丈夫」
大丈夫でないのはこちらの心臓である。
「こんなとこで何してんの?」
「図書室前からここを通っていくと、教室まで近道なんだけど……。司書先生が生徒が来るたび教えてるって言ってたよ」
「えっ! で、でも、図書室ってあんた以外使ってないよね!?」
「そうでもないよ。わりとよくカップルっぽい人が来る」
うちの生徒、静かで人が来ないのをいいことにデートスポットにしてたの!?
「しょっちゅう……ここで……?」
「う……うん……」
「見つからなくて良かったねぇ」
「そうね……」
いや、しょっちゅうじゃなかったから見つからなかったとか、色々な言い訳が浮かび、口を開うとした瞬間。
「プール使ってない時はプールサイドで吸うといいよ。吸い殻を水に投げ込めば灰皿にもなるし」
「えッ!」
本気の驚愕。
「煙草吸うの!?」
「吸ってるとこ見つかった人がそんなにびっくりしなくても……」
今までの行動から全く想像できません! むしろ「煙きらい」とか言われた方がわかる! それがなんかあたしより常習犯らしきことをアドバイスしたよ!?
「あ、いや、イメージと違うなあ、と……」
と、いうのが口に出すとこんなにしょぼくれた表現になる。
「イメージ通りだったら見るからに不良だから困るよ」
「ああ……そうなんだけど……そうよね……」
「お腹すいた時助かるよね」
スニッカーズみたいなこと言い出した。
「……そう?」
「吸うとお腹すいたのがマシになるから吸ってるんだけど……。あ、ダイエット……?」
「いや、そういうのじゃないから気を使わないで」
そんな空腹の経験、したことない。
「あ、授業始まるから、もう行くね」
「待って!」
「何?」
「普段、お昼どこで食べてるの?」
「食べてない」
うっすらと感じていたこと。
「みんなのお昼ごはん見るとほしくなるから、図書室行ってる」
感じていたこと。そのまんま。完璧に予想通り。なのに、なんで何も言えないの。
「もう行っていい?」
「あ、ごめん……」
まだ時間に余裕あるのに。
文字盤に雫が落ちる。
時計、持ってないんだ、あの人。
あれはきっと化け物なんだ。
十一月。
七竃納の身長は途中休憩らしい。いや、十分高いんだけど。なんとなくまだ伸びそうなのは、いかにも成長途中ですという雰囲気だからか。
あたしの方は進路を考えだした。この考えるというのは絶対成長が追い付かない大学を捨てるということを表す。
世間一般から見て、都内の三流よりちょっと下の大学と呼ばれる大学はふさわしいらしい。
「もうちょっとがんばらないの?」という母親の意見をよそに、担任は進路を二つ削る。「この二校、単位を取るのが厳しいから入っても卒業できないよ」あたしはもう、成長を諦められているらしい。
昼休みが終わる前に、ウォーキングに行くと称してプールのまわりをウロウロするのはそろそろ日課。
グループのみんなの「だから部活やめると太るって言ったじゃん」も日課。
あんたたちはレギュラーを必死で目指したことなんてないじゃない。
あたしもない。
だから、取り返しがつかないほどの圧倒的な努力の結果の差を、見せつけられるのに耐えきれない。
毎日コツコツ努力するなんて死ぬほど嫌いなくせに、そうやって実力を手に入れた努力家が妬ましい。
スタート地点では差は大してなかった。ただ、重ねた努力の差。
あのスポーツ選手よりもスポーツ関連の教育方面に進みたい、と言える彼女はあたしが努力を積み重ねたルート。
そんなの、同じ空間にいられない。
あたしが今、コツコツやっているのは七竃納を嫌いな人々を増やすこと。
もう高校生だもの。少年法でも少年院送りになる年齢だもの。
ただの変わり者では、いじめにまでなんてなかなか進まない。
だってみんな将来があるもの。そんなことにかまけていて、自分の人生どうでもいいの? って。
あたしがそんな風に成長でない変化をしたのは、十月の半ばのことだった。
例のコーラン事件の後、ブタ子は15日学校を休んだ。
世界史教師の顔の青さは頂点に達し、15日目には先生が急病のために、と英語教師がやってきて字幕なしの白雪姫を観て英語に親しもう! をやった。ディズニー映画を視聴覚室のスクリーンで! 世界で一番美しくありたい魔女が、白雪姫よりまぶしく見えた。
16日目、ブタ子は元気よくジャージで登校してきた。
真っ黒に日焼けして、担任に制服のサイズが合わなくなって着れなくなったので、仕方なく私物のジャージで来たと謝っていた。
そう。ブタ子はミニブタ子くらいに痩せていたのだ。
「自転車一人旅ってのやってきたんだ。超楽しかった!」
ダイエット? の質問にブタ子はげらげら笑った。
「まっさかー! 家出に決まってんじゃん!」
昼休み、焼き肉入りの爆弾おにぎりを「やっぱごちゃごちゃしたお弁当とかめんどくさいわ。これなら肉炒めて具にするだけだから洗い物超少ない」ともりもり頬張る。
「うちのパパがさー。モラハラっての? 本人的には普通の会話感覚で悪口ぶっこんでくるヤツでさ。あたしもママもガンガンメンタル削られてたんだよね。でさー似たようなしょうもないおっさん先公がなめたこと言った日さー。出来合いのエビチリが美味しかったんだよね。で、これ美味しいって言ったら言うんだよあのクソダディ「こんな手抜き料理で満足しているから、そんなにみっともない肥満なんだ」って、いやーキレちゃった」
トマトジュースを飲み干す。
「カゴメの果汁ヤベ―。で、「自分が何言ったか自覚ある? それこのエビチリ作った調理人に失礼だし調理器具作った職人にも失礼だし売った店員にも失礼だし企画した社員にも失礼だしオーケーだした管理職にも失礼だし買ってきたママにも失礼だし食われたエビにも失礼だしうまいって言ったあたしにも失礼だよね?」なんか屁理屈こねまわして自分が正しいことにしようとするんだけど、「失礼なこと言ったらごめんなさいだろーがよ! ここは義務教育終えた人間しかいない家で、幼稚園じゃねーんだよ!」って怒鳴ったら逆ギレ発狂。まーこっちも伊達にデブじゃないからね。体当たり一発で沈めてやったよ。で、家出」
東北に入ったら寒さがシャレになんなくなって帰ってきた、とまたげらげら笑う。
「で、帰ったら離婚が決まってたから転校するんだ。後三日くらいしかこっち登校しない。今朝、ママから名言出たよ「ビックマックとポテトとナゲットはおいしかったけど、胃がお味噌汁を作れと命じてる」うおお、加齢だってなった」
三日後、昼休みに入った途端、図書室に行こうとする七竃納の襟首を捕まえて、ブタ子は言った。
「今から告るからちょっと待って」
彼の今まで見た中で最大級の展開についていけてない顔をした。ブタ子帰還の時の昼休み、彼だけいなかったのだから仕方ない。仕方なくないか。みんな展開がわかってたのに、誰も教えてないってどうよ。
もともと身長が高くないので、教室の真ん中の机に七竃納を座らせる。目線が合う。
「七竃君、あんたはあたしを発射させた。安全なようで全然安全じゃないとこに岩みたいに座り込んでいたあたしを発射させた。だから、あたしはあんたが好き」
彼は一所懸命考えながら返事をした。
「あ、あのね、僕はその好きはよくわからないから、たぶん……そういう好きじゃないんだと思う、あっ、えっとでも、僕はまだ岩かもしれなくて、いや、ずっと岩かもしれないんだけど、でもあなたのことを人間として尊敬してる。好きじゃないけど尊敬してる」
ブタ子はブタの女王様みたいに大笑いした。
「うん。知ってた。だから、あたしは発射できた。目的はもう一つあるんだ。このクラスの連中、男限定か女もいるかは知らないけど、全員一生かけてもあたしくらいの最高級品質保証の黒豚に出逢うことはできない。自分たちがビビリだったせいであんたに一生かなわないんだ。意味わかんないよね。だってあんたが恋愛を知ってるわけないじゃん。わかるじゃん。知ってたらあんなわけわかんないジェンダー論持ってないじゃん。容姿に構わず下心皆無で女を救う男とか、それ最終的に変態仮面じゃん。彼女ができたらきっとそういうのが現実に即した形になるよ。ありがとう。さよなら」
「ありがとう、さよなら」
そのままバックを掴んで、ブタ子は教室を出て行った。翌日転校したと担任が言った。
あたしは背筋が凍った。
ブタ子はいい女に成長した。
たぶん、七竃納より成長した。
彼の中ではブタ子はただのかっこいい女性。
でも、彼が成長していく内に、どれだけいい女をフったか気付くだろう。
だけど、わかるんだ。他のクラスの男子はあれが生涯最高の女だけど、彼は同じくらいかもっといい女に出逢える。
そして、きっと好きになる。
そういう好きがどういうものかを理解する。
その時に、あたしは比較対象にもならない。
いや、彼は比較すらしないかもしれない。
そのいい女は愛する人、他の女は優しい人、憧れる人、守りたい人、楽しい人という『他の女』というカテゴリにくくられる。
あたしは、きっと『クラスがいっしょだった人』。少年時代の背景の一部。それも美しくもなんともない、空白を埋めるためだけのもの。
十一月、あたしはプールのフェンスを覗く。
周囲が高めの壁で隔てられたプールサイドに入ろうとすると、かなり固いフェンスの扉で封鎖されていた。
からかわれたのか、まさかこれをよじ登れというアドバイスか。と混乱しつつ、翌日行くと。
正解はよじ登れだったと判明。
中で一服していた。
腹の虫をなだめているだけの実質と伴わない、そういうお商売で覚えましたという雰囲気。
これから高い男になりますので、買いたい人はお早めに。
無茶言わないでよ! もっとラクして彼女にしてよ。自棄になってよ。無駄に傷つけてよ。弱くなってよ。子どもでいてよ。大人になろうとがんばらないで。
わかってしまう。
あなたの身振り手振りが意味がわかるものになってきてる。
幼女みたいな口調を男っぽくしようと意識してる。
勉強どうやってついてってるの。予備校通って塾通って、そういう人達と同じ成績。常に学年二十位~三十位。
最近倒れる回数が増えてるよね。もう体が耐え切れないよね。いつまで栄養失調を煙草でごまかすの。
フェンス越しに長い体が見える。
死んでるか倒れたかと思ったら、眼鏡をちゃんと外していたので眠っているだけらしい。
疲れちゃったんだ。
もう教室はいるだけで疲れる空間なんだ。
早くくじけて縋ってよ。
いじめないでと泣いて縋ってよ。
そしたらあたしは優しくなれる。
世界で一番優しくなれる。
あれはきっと白雪姫なんだ。
冬は終わりに近づく二月。
悪意の種は満ちていく。
クラス替えがあったら、学年中に広がらないと意味がないじゃない。
あたしの最低の才能。
悪意の種を増やして茨にして、また種を増やしていく。
茨の檻に彼を閉じ込めていく。
嘘を決して吐かず、真実を隠すだけで、彼がいる場所が不当に高いと周囲に思わせる。
朝から晩まで生活保護と不正のキーワードで検索して、SNSで回しまくる。
『一家に収入が入ると生活保護の受給額が減るから、わざと誰も働かないんだって』
わざとも何も、あたしが一番知っている。
あんなに寒い真冬のプールサイドで、煙草を吸って眠っている。
コートの類を何も与えられていないのに、凍える方が世界は彼にとって優しい。
疲れ果てて、誰も優しい人がいなくて、一人で勉強している彼が、働けるはずないじゃない。
働けるなら働くでしょ? アルバイトしたら、生活保護と違ってお金は彼が受け取るんだよ? 本物のおやつが買える。コートや手袋だって買える。
それもできないくらい消耗しきった生活。
不思議の国のアリスに憧れるヤツはいても、茨姫を夢見るバカがどこにいるの。絵本よりずっと残酷な、むき出しの茨に締め付けられたいバカがどこにいるの。
お父さんは優しくないんだろう。
お父さんの名前を検索すると、あちこちの反差別を掲げる人権団体や政治団体に所属してる。
自分のことを世界で一番優しいと思っているひとかけらも優しくないお父さん。
いつか優しくしてくれると信じて何年経った?
そういう人は絶対に優しくならないの。
だって学校の人、みんなそうでしょ。
最初から近づいてもいなかったのに。それで何の問題も起きなかったのに。いきなり近づいてきて、傷つけきっている自分たちがヒーロー気取り。
ざっと背筋が凍る。
「あたしが優しくする。あたしが優しくなる。ちゃんと優しくする。あの人がきれいじゃなくなったら、あたしが優しくしてあげる」
ぱちりと目を覚ます。
「ヘンな声がしたような……」
様子をうかがう声。慌てて逃げ去る。
ヘンな声。
眠っていたからわからなかったんだと自分に言い聞かせる。
まさか、あたしの声すらろくに覚えていないなんて、そんなはずない。
いや、でも、あたし自身が記憶に残るようなことはしていないかもしれない。
あたしが扇動しているとしらなければ、あたしはそこら辺の人かもしれない。
教室に戻って来た彼に言う。
「この教室の暖房代、税金から税金で完全にマッチポンプだよね」
優しくなるから倒れてしまって。
あれはきっと茨姫なんだ。
四月。地獄の季節。
担任が変わった。
私たちはまた同じクラスで、それは喜ばしいかもしれないけれど。
担任の中年女の唇の、汚いローズがあの人を汚す。
白雪姫を上映した英語教師。
西洋人にでもなったつもりでスーツを選んでる。
崖から落ちて顔面を強打したような平べったい顔して、よくそんな。
聖母みたいなツラしてあの人を騙す。
優しい先生だとあの人に信じさせる。
真っ先にあの人を覆う茨に気が付いたくせに。
あの人に黙って、クラスのみんなに教えた。
「七竃君、発達障害っていって、ちょっと人とのコミュニケーションがとりづらかったり、相手の気持ちを察したりできないの。みんなが嫌な気持ちになるのはわかるけど、我慢してあげて。みんなは優しいから、ダメな子にでも優しくできるでしょ」
ふざけるな!
あの人は素直で飾れなくて、それなのに他人を優先させてばかりで、それでどんどん追い詰められていった。
あいつらにできるの? どれほど自分が悪く思われても、正しさを貫くことが。
あの人は嫌な空気になったらちゃんとわかる。私が誰だか覚えていなかった時に、ちゃんと困っていた。
だけど、目の前で人を傷つけた教師に牙を剥いた。
理解できない好意を衆人環視の中でぶつけられても、誠実に対応した。
居心地なんて悪かったに決まってるのに。
本当に何も思わなかったら、衣食住もろくに与えない父親を元に、どんどん悪意を広げられたあの空間でも傷つかなかったはずじゃない!
傷ついて、傷ついて、それでもまだ倒れてくれないから、縋ってくれないから、泣いてくれないから、だから愛しくて狂いそうなのに!
あいつらの誰が気持ちを察せるというのよ!
あたしがあの人のことが好きなのに、誰一人気付かないじゃない!
あいつらは嫌な気持ちになんかなっていない!
嫌な気持ちにずっとなっていたのはあの人だ!
きれいなあの人は私が抱き留めるために穢れるだけ、私がきれいだと言えば、あの人はきれいであるか否かの決定権を私に譲る!
いや、譲ったかどうかもわからない。あの人が理解していないのはそちらなのだから。自分の存在のありとあらゆるものが、この世で一等素晴らしいものであることを知らないのだから。
稚いままでいるのもしょうがないの。知らない人だらけの学校で、老いぼれに近いような担任の裾を引いて、艶めかしい声になったことを喜ぶような、そんな稚さがそう簡単に消せるわけない!
聖書のそらんじているのが、法悦の喘ぎと同じものなんだから。あいつらがそれに気付くのに、私は何より怯えていたのに。
また背が伸びた。
186センチ。
美しく成長していくのに、もうあの人は誰の裾も引かなくなってしまった。稚い心に恐怖を植え込まれた。
あの人が唯一見られるのを恐れたものを、なんの権利があって貴様が暴く!
言われなくてもわかっていたわよ。
あたしだってわかっていたわよ。
名前も理屈もわからなくても、スタート地点でハンディがあるから、あんなに必死にがんばっているんだってわかっていたわよ!
だから打ちのめされたのよ。マイナスの位置からスタートして、歩みを止めないあの人に打ちのめされたのよ。
教室の扉が開く。
誰だったか忘れたけど、同じグループだった気がする女が、あの人が隠し続けたことを揶揄する。
怯えた顔。
「ごめんね。迷惑かけないように、がんばってちゃんとする」
何を謝るの。あなたは扉を開けただけでしょ。あいつらが何をされたの。
まさか、あなたは、あなたが、この世に存在することを、謝罪せねばならないことだと思っているの。
そんないらない罪を背負って、今まで独りで生きてきたの。
誰があなたを捨てたの。誰があなたを貶めたの。誰があなたをさげずんだの。
誰があの女の欺瞞を、優しさと見誤るほどにあなたを追い込んだの。
「あなたがちゃんと普通にしていれば、お父さんは優しくなるわ」
ならない!
飢えた我が子をその金が救うのに、縁もゆかりもない他人を救うお布施に使ってしまう男が! 何があろうと優しくなるものか! その男が思考するちゃんと普通にしている状態は、慈悲しか持たぬ神が己に隷属している状態!
「みんな本当は優しいの。あなたがあまりに甘やかされた環境にいるから心配なの」
心配じゃない!
あの人は甘やかされたりしていない! 世界が冷たくなるたびに、己を律して乗り切ってきた! だから優しくないあいつらではなく! あたしが甘やかしてあげるはずだったのに! ゆりかごのぬくもりはあたしからしか得られないと、縋りついてくるはずだったのに!
ああ、理解した。
あの女はこれが目的だったのだ。
だからあいつらが狂喜するような、あの人の弱みを暴いたのだ。
あの人が己の教師という地位を揺らがせる現状を理解できないように。
”優しい人”が言うとおりに、全ての傷を落ち度の罰だと思うように。
後は”罰せられた”と信じたときに、あの人は勝手に自分の落ち度と認識し。
それでも罰が続くので、ただひたすらに努力を重ねて。
罰に耐え切れなくなったなら、”優しい人”が言ってくれる。
『落ち度や失態がなくなれば、みんなは優しくできるのよ』
そしてあの人が壊れたら、あの女は言うのだ。
「普通の子になりたくて、無理をしすぎてしまった事故でしょう」
面倒なこと、厄介なこと、それらから逃れられるのだ。
ぞっとするほどまぶしい夕焼けの教室で、あたしと穢れた女は対峙する。
「お前があの人を凌辱した! 汚い汚い汚い女! ヘドロの女! 膿の女! 失せろ! この世から消え失せろ!」
あの女は嗤う。
「先生に不当に奪われたみたいな言い方だけど、先生、別にあんな子欲しくないのよ。片親、貧困、虐待、障害、いじめ、問題しかないもの。あの子、生まれて来なきゃ誰もが助かったのに。困るなあ。ああいう子。マトモに育たないとわかった段階で、間引きしてくれないと社会は成り立たないじゃない」
嗤う。
「そもそも、あなたが余計なことしなきゃ、先生助かったのに」
「!」
「元々孤立してたんだから、どうせどっかで自殺するし。あたしの担任の間にされたらちょっと困るけど、勝手に自らのハンディに悩み抜いてだったら騒ぎにならないでしょ。それをさあ。いじめなんかされちゃったらあたしが責任者みたいになっちゃうじゃない。どうせ勝手に死んだのに。まあ、今学年だけ生きてくれればちょっと聞き取りされるだけで済むから安心だけど。何が不満なの。そっちだって悪口言って楽しかったんでしょ。じゃあいいじゃない」
「あの人が……死ぬ前に、私の元に、私の手に、私の腕の中に、飛び込んでくれるために、そのためだけに! 私はあの人を傷つけ抜いた! お前なんかが出てくる幕じゃない!」
馬鹿にしきって嗤いすらせずに言う。
「何? 七竃君が好きなの? 苦労するよーあれ。だって、あれなんにもできないもの」
吠える。
「お前が決めるな。あれはあたしが愛してるんだ。あたし以外のヤツが何の評価も下すんじゃない。あの男はあたしの鷹。あたしは、あの男の女神! あの男の母! あの男の妹! あの男のたった一人の拠り所!」
「あんたの頭がおかしいことはわかったし、その対象があれで良かったわ。何? 格下しか愛せないの? あんたより低スペックってなると確かにあれぐらいしかいないよねー。この高校別に底辺校じゃないんだから、人生ドブに捨てなくていいのに」
「格下なもんか……格下だったらこんなに苦労するもんか……引きずりおろそうとしても、穢そうとしても、全然だめだったのに……。お前のニセモノの優しさで壊させるもんか!」
「別にそうでもないんじゃないのー?」
汚いローズが動く。
「あんたがその凌辱? すごい言葉を選択するね。それを言ったらいいじゃない。あたしから鞍替えしてくれたら助かるのよねー正直。頭がおかしいの同士で纏まってくれたら助かるー」
ふふふ、あたしは思わず笑ってしまった。
「なら、見ていればいい。あの人は耐えてしまうから。だけど言ったな。あの人をあたしに渡すという意味の言語を言ったな」
「言った言った」
高笑い。
あたしの笑い声だろうけど、自分ではよく聞こえない。
翌朝。
教室。
ノイズ。
訂正。
グループの誰かがうんたらかんたら。
訂正。
ノイズ。
愛しい人。
また痩せてしまっている。
せっかくの長い指がもったいない。
指が引っ張り出す教科書。
ラクガキ。
ノイズ。
あたしが前の席に移動していることに気付くあの人。
久しぶりに見た、こてんと首を傾げる仕草。
「ナマポでアスぺでさあ、なんで生きてんの?」
あたしの声。
口元に手を当てて思考するあの人。
約20秒の思考。
「生きたいから」
回答終了。
端的になりがちな説明。
予想通り。
ノイズ。
ノイズに問い返すあの人。
ノイズ。
納得している表情。
何か疑問がわいた?
また口元に手を当てている。
あたしの声。
「死んだらいいのに」
自らの声すら邪魔に思える。
「死にたくない」
抑揚のない回答。
思考。
何か自分を律しようという思考?
愛しい。
愛しい。
愛しい。
教室に入る穢れた女。
見ていたな。
七竃納はあたしのものだ。
授業中に倒れた愛しい人。
春の嵐。ゲルトルート。
夕方までずっと目を覚まさない。
茨姫。
茨たちが不安そうに穢れた女を見る。
無意味。
その女に所有権はもうない。
続く春の嵐。
誰かが愛しい人の傘を持って行った。
帰宅時間。
穢れた女に傘の盗難を訴える愛しい人。
あたしはどこ?
現在位置を把握。
教室の窓の外。
金属製の梯子に上っているあたし。
カレンダーの隙間から見える愛しい人。
10分経過。
あの人が雨の中を走り出す。
雷鳴。
僅かな視線の移動。
雨粒の壁の向こう。
空中。
あの女は誰?
黒いゴシックドレス。
シルクハットの。
黒髪。
瑠璃色の瞳。
あの女は誰?
女の唇。
ベージュピンクのルージュ。
唇が動く。
そして記憶は暗転する。
気が付くと、自室にいた。
目の前で怒鳴る母に問う。
「あたし、いつ帰ったっけ?」
「何訳の分かんないこと言ってるの! もうずっと前にずぶぬれで帰ってきて自分で着替えてお風呂にも入ったじゃないの! 傘持ってたのにどんだけずぶぬれになるのよ! ちゃんと話聞きなさい! 今回はシャレにならないんだからね!」
母が目の前に勢いよく置くメビウスの箱。
「なんなのこれ」
上映される記憶。
どこにあったのか分からなくなっていた、記憶のテープ
「講堂の裏。あの人が覗き込む。困惑した顔。再びの忘却。曖昧な記憶。会話」
テープ巻き戻し。
自分で言わなければ、誰が彼の喫煙に気付いた?
テープ巻き戻し。
あたしだって驚いた。
テープ巻き戻し。
あの時、あたしは今では興味がなくなったバスケのこともあってむしゃくしゃしてた。
テープ巻き戻し。
最初にあの人が話しかけてきた。
「あの人の表情に影が無い。プールサイド。あれは、あれは、あれは! あの人は問うていた!」
あの人のナイショの場所。
秘密基地の一種。
幼い問い。
まだ男女というものを理解できぬが故の
まだ恋情と言うものが理解できぬが故の
まだあたしの醜さを知らなかった頃の
まだイイ女というものを知らなかった頃の
まだ教室がただの教室だった頃の
『お友達になってくれる?』
「ゆずちゃん……?」
母親に掴みかかる。
「返して! やり直さなきゃいけないの! それがないといけないの! 一緒にフェンスをよじ登らないといけないの! あたしがあたしがあたしが貪欲に捨て去ったものを、取り戻さないといけないの!」
必死に煙草の箱に手を伸ばす。
「何わけのわからないこと言ってるの! 子どもが吸っていいものじゃないでしょこんなの!」
「そうよ! そうよ! なんであたしは気付かなかったの! あの人は煙草に頼っていいような大人じゃなかったのに! 独りぼっちで煙草を吸っていてさびしかっただけなのに! なんで! なんで! 太陽が照らしている内に!」
絶叫。
「あたしは気付かなかったのッ!」
母が叫ぶ。
「いったいどうしたっていうのよ! なんかあったの!? っていうかよく見なさい!」
空っぽの煙草の箱。
「中身なんて捨てたに決まってるでしょ! なんだかわかんないけど、興味本位でこんなもんに手を出すんじゃ」
金属音みたいなあたしの悲鳴。
「ママのバカ! あたしもう死んでやる!」
五階のベランダに足をかける。
雨が止んでも残った風。
春の嵐。
「うるさい! どうせ死にもしないくせに!」
母親の金切り声。
「ホントに死ぬもん! 死んでやる!」
ベランダの縁に跨る。
下を見下ろす。
こちらを見上げる不審そうな瞳。
知らない人を見る瞳。
冷える頭。
「七竃君……っ」
発声できたかわからない名前。
ぐらりと傾ぐ体。
とっさに駆け寄る七竃君。
「たすけてっ」
あたしが助けるはずだったのに。
「メフィストっ!」
助けを乞うたのはあたしで、七竃君は知らない女の名前を呼んだ。
目を覚ます。
真っ赤な目をした母親。
「ゆずちゃん!」
「ママ……」
暫く声も出ず。
「バカっこのバカ娘っ!」
無理矢理力を引っ張り出したような平手打ち。
「ごめんなさいママ……」
「バカ……」
暫く響く嗚咽。
「あの、七竃君が……」
あたしには見えていた。
七竃君が呼んだ知らない女。
嵐の中空中に浮いていた女。
あの女の目ははっきりとあたしに非難を向けていた。
「時よ止まれ」
はっきり聞こえた彼女の声。
七竃君は気付く様子もなかったけれど。
その瞬間彼の左胸に青白い光が走るように、666の文字が浮かんだ。
あの知らない女は人ではないし。
七竃君もきっと、何らかの人間の世界とどこかの境界を越えて行ってしまったのだろう。
「あ、あんたは覚えてたの?」
母の言葉で全てを悟った。
「七竃って珍しい名字だから、聞いてみたらやっぱり一年の時同じクラスだったって。今年はって聞いたら、言い難そうに今年はまだクラスに誰がいるか覚えてないって。正直ないい子ね」
七竃君がなかなかあたしが誰だか覚えられなかったころ。あたしは『同じクラスの人』という海綿のような集合体の生き物の一部にしか見えてなくて、あの細胞の一個一個を見分けられないように、誰だか見分けがつかなかったのだろう。
あのプールサイドに誘ってくれた時、やっと彼の中では『桐岡遊子』という個というあたしが存在するようになったのに。
いじめと呼ばれる暴力的な時間を過ごす内に、『桐岡遊子』という個はまた集合体に戻っていき。
そして今夜、『知らない女の人』を助けるために、彼は境界を踏み越えて人の世界から放り出されてしまった。
そして現在、彼は一年生の頃に同じクラスだった『桐岡遊子』は思い出せても、今の私は『同じクラスの人』という集合体の一部でしかなく。海綿の細胞を一個取り出して、「この子の名前はね」などと説明されても元の海綿の一部としか思えず。
あたしという存在は、イマイチピンとこなかった。
そういうことだろう。
せっかく個となったのに、彼をあまりに強く大きい存在に見すぎて。
引きずり下ろすことに必死になって、彼が人間であることに気付けず。
本当の怪物に変えてしまった。
「明日ちゃんとお礼を言うのよ」
「うん、ママ。後、先生にも報告しなきゃね」
「先生にはママが間違って報告したけど、本当は七竃君があたしを五階から突き落としたのよ」
大喜びで殺人未遂とはやしたてるクラスの人間たち。
愚かしい。
あなたたちは楽しく遊んでいたつもりだろうけど、あたしに利用し尽くされただけ。
「みんな、静かにしなさい。七竃君は確かに間違いをしましたが、間違いは誰にでもある事です」
愚かしい。
母親からきちんと報告を受けているのに、問題を小さくすることと自分が責任を取らずに済む方法しか考えていない。
あなたにだけは一ミリの燐憫も抱かない。あなたは確かにあたしが起こした問題の責任から逃れたくて必死だったのだろう。だけど、そこじゃない。あなたは七竃君に失礼なことを言った。
「これで警察が、真実を調べてくれるよ」
愚かしい。
七竃君。警察が真実を調べても、あなたの不名誉が一つ解消されるだけ。根元から断たねばならないの。他人を傷つけて自分の欲求を満たすような人間は、根の部分からもうダメなの。腐っているの。
あなたはもう人間ではないのだから。
「今なら、七竃君一人が死ねば、いじめなんてなかった事にできるよ……?」
あなたにはあたしは数多の理解不能な罵言雑言を浴びせたけれど、この言葉だけは撤回しない。
「七竃君をさ、窓から突き落としちゃおうよ。全員でやれば簡単だよ……。こんなヤツの為にさあ、みんな人生棒にふりたくないでしょ? いじめがばれたら、大学にも行けなくなっちゃうし、大学に行けなかったら人生終わりだよ? ……そんなの嫌でしょ? 今なら、嘘の通報をした七竃君が、本当に警察が来るというショックで自殺したことにできるよ……」
汚い女。
ふらふら七竃君を掴むクラスの人間たち。
愚かしい。
彼は怪物。愛しい怪物。成長の途中の怪物。根の部分が腐っている人間では太刀打ちできない。
「ごめんなさい」
愚かしい。あたしは謝ったところで何を償えるの。なんで涙が止まらないの。
「あたし、ほんとは七竃君のこと、ずっと好きだったの! でも、クラスのみんなに馬鹿にされるのが嫌で、それで、ごめんなさい、あたしを赦して!」
お願い。
「赦すものか」
ありがとう。
「メフィストッ!」
知らない女。きっととても強い力を持った化け物。
「時よ止まれ」
空間の一瞬の硬直。
クラスの人間たちの血が噴水のようにかかる。
悲鳴。生き残った汚い女の恐怖の悲鳴。私は何の悲鳴。
「ちがう……」
知らない女の隣の七竃君は、濃暗の目を怒らせている。悲鳴じゃない。代わりの産声。おはよう、怪物。あなたの目の前にいるのは女神でも母でも妹でも拠り所でもない。
あなたの隣の化け物の女が、本当にあなたに必要だった人。
共に歩いて行ける人。
もういじわるな人間を赦しちゃダメよ。
短刀を握りしめている。それを放しちゃダメよ。
その化け物の女がいくら強くても、一方的に守られる関係はいずれ破たんする。
ちゃんと、無礼には流血でもって当たるのよ。
「あたし……本当に七竃君が好きなの……」
抜かれる短刀。
「本当に好きなら、相手の嫌がる事なんかできるもんか!」
七竃君の声。
変わらない声。
色っぽい声質とアンバランスな、単純明快な当たり前の常識。
回される刃。傷口から入る空気。
あれはただの、幼くて愛しい怪物。




