二ノ幕
陽が西に傾き、空に美しい黄昏を映し出す。直に藍色を湛えた夜闇が音もなくやって来るのにも構わず、木山と大川の二人は桑場村の山中を歩いていた。人が二人どうにか通れる幅の細い山道を大川が先導し、木山がそれに倣って付いて行く。夏の夕方であるにも関わらず薄暗い山中で、木山は大川が左手に持った小さなカンテラの灯りを頼りに歩を進めていた。
「おうい、もっと頑張って歩け。まだ若いのに、根性が無えなあ」
後方の青年に向けて、大川が右手に持った鍬を大きく振りながら叫ぶ。山一帯に響かんばかりの声を耳にした木山は、急な登り坂を歩きつつ、先を進む男の顔を見上げた。そして、木山は少し掠れた声で応じる。
「すみませんね。僕は大丈夫ですから、先へ進んで下さい」
どうにか聞こえる程度の弱々しい声を前に、大川は小さく溜息を吐いて見せた。
「何だ、最近の東京の若いのは。口だけ達者になって、身体は大した事ねえな、全く」
大川はそう言うと、左手に持ったカンテラが左右に揺れた。それに合わせて、円柱状のカンテラの中に灯る橙色の炎も小さく揺れる。硝子越しに映る小さな灯をはっきりと瞳に捉えながら、木山は徐々に大川との距離を縮めていく。革靴の底が細い木の枝を踏み潰し、一瞬だけ乾いた悲鳴を上げる。そして、木山が軟らかい腐葉土の坂をようやく登り切った所で、大川は彼の顔を繁々と見詰めた。
「そういや木山さん、さっきは聞かなかったが。アンタどうしてこの村へやって来たんだ。東京者がこうしてわざわざ来るからには、余程の事情があるんだろうが」
大川の問い掛けに木山は二、三度瞬きを繰り返す。やがて、彼はゆっくりと口を動かしながらも再び歩を進めた。カンテラで照らし出された青年の長い影が、山の木々のそれと歪に交差する。
「実はですね、僕の知人が中村製糸所に勤めていまして。時たま連絡を取り合う仲だったんですが、今年の三月でしたか、彼からの手紙がはたと来なくなりました。最初は養蚕の繁忙期だから来ない物だと思ってましたが、二月三月と経っても来ない上、別の知人から中村製糸所の女工の離職がここ数箇月間で誰も居ないと聞いたもので。これは只事では無いと思って、この桑場村を訪ねた次第です」
カンテラの灯りが山道を妖しく照らす中、木山が淡々と述べる。やがて、落葉が疎らに落ちている道を歩いていた大川が、小さく首を傾げた。
「ちょっと待て、木山さん。女工の離職が居ない、と言うのが如何して只事では無いと言うんだ。それが普通って物じゃないのかい」
大川が尋ねると、遠くで蝉の声が小さくそして長く響いた。鳴き声は二人が歩を進める程に遠ざかっていく。やがて殆ど聞こえなくなった蝉の声を僅かに耳に挟みながら、木山が応じる。
「製糸所の仕事と言ってもそう楽な物じゃ無いって事ですよ、大川さん。三井の富岡製糸所を初めとした大手ならいざ知らず、地方の製糸所は色々と目まぐるしい物でして。製糸所同士での女工の引き抜きやら、嫁入りに伴う里帰りやら。酷い所じゃ、労働環境の劣悪さを前に逃げ出す者もいるらしいですよ。それ故、女工の多くが二、三年の内に製糸所を辞めるんです。それでも唯一、中村製糸所だけはそんな悪い噂も無く、女工の離職も無い。外から見れば全てが順風満帆、理想の職場だ。だが僕に言わせりゃ、あまりに綺麗過ぎて、却って気味が悪いってモンですよ。そういう所に限って何か在るんです。悍ましい何かが」
眉根を顰めながらそう語る木山の声は、話を進めるに従って徐々に低くなっていく。そんな彼の様子を側で見ていた大川も思わず息を呑んだ。こめかみを伝う一筋の汗が厭に冷たい。顎まで流れたその滴を着物の袖で思い切り拭うと、大川は木山の左肩を大きく叩いた。大川の思わぬ行動に、木山は声にならない声を上げながら上半身を前後に揺らし、どうにか転ばないように体勢を保つ。
「神妙な顔して辛気臭い事言ってんじゃねえよ、若いのに。議員ならこう、もっと御国の将来について明るく語ったらどうなんだ」
木山が自らの左肩を右手で何度も摩りながら、大川へ向き直る。彼の瞳には微かに涙が浮かんでいた。
「そんな、大川さんが最初に話を振って来たんでしょ。イテテッ。それに、わざわざ大川さんに言われるまでもありません。僕は何時だってこの大日本帝国の事を、そして国民の事を大真面目に考えてますよ。皆が幸せに暮らせる世の中を作るのが僕の夢ですから。その為なら、僕は何だってやる覚悟です」
「おう、なかなか威勢の良い事を言うねえ。流石は御国を背負って立つ人間の言う事は違う。こりゃあ俺達の暮らしも」
そこまで言い掛けた矢先、大川の視界の端にある物が現れた。大川は思わず木山を追い抜き、小走りでその先へと進む。木山もまた、彼の後を必死で追い掛ける。痩せ細った木々の隙間を掻き分けていくと、二人の視界に開けた土地が現れた。四方を高い塀で囲われ、夕闇を背に建っているその建物を前に木山は口内の唾を一気に飲み込んだ。彼の隣に立っている大川も、右手に持った鍬を力強く握り締めながら口元を歪める。
「此処だぜ、木山さん。これが中村製糸所だ」
―――――
高さ十米突にも及ぶ中村製糸所の建物を、それより一回り低い石造りの塀が四方同じ長さで囲む。その塀の一角に、二対の細長い石柱を構えた門が小ぢんまりと立っていた。門を通して垣間見える赤い煉瓦造りの建物の屋根付近にある窓からは、白熱電球による山吹色の光が微かに漏れ出し、時折光の中を薄暗い影が行き交う。門の近くにある大樹の陰越しに木山と大川が中の様子を窺っていると、大川がぽつりと言葉を漏らす。
「どうやら、作業の真っ只中のようだな」
大川が鍬を握ったままの右手で拳を作る。それと同時に、彼の左手にあるカンテラの灯も大きく揺れた。
「分かりませんよ。それが真かどうか、直接確かめない事には」
製糸所へ鋭い目線を向けたまま、木山は吐息交じりに漏らす。既に夕陽は西の空に隠れ、空は鮮やかな桃色と藍色の薄い宵闇で二分されている。その中で照らし出される巨大な建物は、何処か神々しくもあり、何処かこの世為らざる神秘の姿を映し出していた。
「あの中にセツが居る事は間違いないんだ。何時も外で見張っている役人も、夜が近いからか流石に居ないな。乗り込むなら、今しかないぜ」
興奮した様子でそう漏らす大川を、木山が自らの左腕で制する。これを受け、多少冷静さを取り戻した大川が木山へ顔を向けると、彼は小さく頭を振っていた。
「待って下さい大川さん。それは幾ら何でも早計過ぎます。行き成りそうした所で、直ぐに追い返されるが落ちですよ。それに、これから先は僕の仕事です。大川さんは関わらない方が良い。此処まで案内してくれた事への謝礼については、また後程」
「勘違いしないで下さいよ木山さん。俺は自分の娘の安否を確かめに来たんだ。此処まで来てノコノコ帰るたァ、親として情けねえってもんだろ」
言うが早いか、大川は木山の腕を振り払うと門に向かって一直線に走り出す。木山は大川の後ろ姿を振り返ると共に、素早く身を翻し彼の後を追い掛けて行った。そして、大川は未だ開かれたままの門を潜り抜ける。だが、一歩製糸所の敷地内に足を踏み入れるや否や、彼は直ぐ様門の脇にある繁みの中へと身を隠す。続いて門を潜った木山もまた、そんな大川に倣って繁みにやって来る。青年が隣で膝立ちになっている中年の男の顔をつと見詰めると、彼の顔色は先程俄かに血気立っていたそれとは打って変わって、すっかり青褪めていた。
「き、木山さん」
側にやって来た木山に気付いた大川は、震えた指先で中村製糸所の入り口を指し示す。そして、唇を微かに震わせながらも言葉を重ねた。
「お、俺、見たんだ。たった今あの製糸所の入り口の所で、異様に肌の白い女工が歩いて行ったのを。だがそれだけじゃねえ。そいつ、身体全体が豪くズングリしてて、腰から上を異様にくねらせてよ。どういう訳だか前後左右に。そう、あの動きはまるで芋虫みたいだった。あとこれは俺の見間違いだったかもしれねえが、その女工の貌、俺達と同じ人間の物じゃ無かった。目も鼻も口も無え。細かい黒い点が幾つも在って、それが胴体と一緒になっていた」
大川が小声で喋るのを聞きながら、木山は黙って相槌を打つ。あいつ、化け物だ。大川がぽつりと漏らすのを聞くと、木山は中村製糸所の外観を眺めた。すると、繁みの近くに小窓があるのが目に入る。自身の背より僅かに高い場所に据えられていたそれを前に、木山は迷い無く足を進めた。足音を殆ど立てずに窓の前の壁までやって来ると、その場で爪先立ちになって中の様子を覗う。小さな窓越しに、製糸所の広い作業場が映る。その中で拡がる異様な光景に、木山は思わず目を瞠った。
西洋の様式で建てられたコの字型の建物。製糸所として造られた建物の中で最も広いその部屋には、大量の桑が混凝土の上に散乱していた。更に、そこにはフランス式の繰糸機が凡そ三十台置かれていたのだが、それ等総てに数百匹もの蚕の幼虫が群がっていた。長方形の繰糸台を初め、小さな鍋や滑車、混凝土の床に至るまで、余す事無く完全に白一色に覆われている。彼等は小さくも細い身体をくねらせ、部屋中で蠢いていた。
更にそんな大量の蚕を監視するかのように、十数人程の男女が桑と蚕を踏みながら部屋の方々で見回りをしていた。ゆっくりと歩を進めている彼等は皆、女物の和服や洋服を纏っていたが、全員揃って肌が白く、中には醜い瘡蓋を貌に浮かべる者もいた。人間の赤子よりも短い手足を震わせながら、黒い点だけで出来た貌を妖しくくねらせていく。首が無く、身体と頭とが一体化していたそれ等は恰も人が息を吸って吐き出すかの如く、常に半身を足元の蚕達と同じように蠢かせていた。
中の様子を一通り窺った木山は、先程と同じく足音を立てないように気を付けながら、大川の元へ戻って行く。そんな木山の顔色は俄かに紅潮し、何処か興奮しているようだった。
「大川さん。大川さんが今仰っていた事、僕もこの目で確かめました。間違い無い、夢じゃありませんぜ」
木山が小声で淡々と告げる。それを聞いた大川もまた、確かに存在する恐怖に目を大きく見開いた。そんな彼を前に、木山は声を潜めながら更に続ける。
「連中の名前は『蠶人』と言って、この世為らざる者。怪異の一つです。野蚕を大勢従え、人間を襲う質の悪い輩だ。そいつ等は始末しないといけません。大川さん、後は僕にお任せ下さい。貴方は今のうちに此処から逃げ」
そこまで木山が言い掛けた所で、不意に大川がひい、と甲高い悲鳴を上げた。震えたままの大川の右手が、ある一点を指し示す。木山がその方向へと顔を向けると、そこは中村製糸所の赤煉瓦の壁だった。先程まで西洋建築の美しい外壁を保っていたそれは、大量の黒い虫によってすっかり覆い隠されていた。彼等は全身を前後に蠢かせながら、徐々にその身体を大きくさせ、黒い皮を次々に脱いでいく。黒い壁は忽ち白一色に代わり、木山達の元へ迫る。
「蠶人の手先だっ」
眼前の光景を前に、木山は舌打ち交じりに呟く。やがて、大量の蚕の幼虫が二人のいる繁みを完全に取り囲んだ。直ぐ手を伸ばせばその身に触れんばかりの所まで、蚕の幼虫が近づく。数分前までの威勢をすっかり無くした大川は、恐怖のあまり身を竦ませた。その際、左手に持っていたカンテラが地面へと落ちる。鈍い音を立てて落ちたそれは、大勢の蚕の幼虫によってすぐに埋め尽くされ、中の灯りも消えた。辺りが完全な夜闇に包まれる。だが、目の前の蟲達の白い体は藍色の闇にあっても厭に目立って見えた。そんな中、木山はすっくとその場で立ち上がると、自らの右腕を蚕の幼虫達へ向け真っ直ぐ伸ばした。右手には拳が固く握られ、掌は赤く染まり始めていた。
「僕の前で醜い姿を晒すな、怪異共。失せろ」
木山はそう言って、右の拳を開いた。すると、彼の右手が黄金に光り輝き始める。突如現れた眩い光に、大川は思わず目を伏せた。一方、木山は右手を一瞬だけ見詰めると、己の右腕を左から右へ扇状に払う。刹那、二人の目の前にいた蚕の幼虫達は残らず蒸発し、跡形も無く消え去った。それから数秒程置いて、大川が両の瞼をゆっくりと開いていく。そして、彼の瞳は未だ黄金の光を放つ木山の右手に向けられた。つい今しがた目を伏せていた時に見えた光景を思い返しながら、大川は青年に向けてゆっくりと口を開く。
「木山さん、あんた。本当は、一体何者なんだ」
大川の問いに、木山は小さく息を吸って吐き出してから答えた。
「申し訳ありませんが、大川さん。先程の僕の『異能』について、詳しい事は言えません。他言も出来ないのです。ですが、これだけは申し上げます。僕はこれから、中に居る蠶人を全て屠らねばなりません」
そう力強く答える木山の瞳は、何処か力強い輝きを放っているように、大川には感じられた。